命の重さ

2009-06-19 23:58:35 | 自然&いきもの+ゾウのはな子


 観音崎からとんでもないものを連れてきてしまいました。「子供じゃあるまいし!」と、大ひんしゅくを買っています。父の拒絶反応は予想を遥かに上回っていて、「もう生きものが死ぬのを見たくないと、あれほど言っているのに・・・絶対認めない!」
 確かに、4頭の犬が死んでいます。生きものは好きだけど、もう飼うことはないだろうと、自分も思っていました。でも、どうしても、この子をほっておけず・・・。

 今週&来週は金曜日がお休みです。雨だったら、小梅線に乗って棚田を歩くつもりでしたが、好い天気になるとのことだったので、「毘沙門湾」の猫たちと遊ぶことにしました。4時に目覚ましをかけ、5時前に出発したので、6時半には横須賀に着いていました。牛丼を食べて腹ごなしもばっちりですが、いくらなんでも早過ぎる・・・毘沙門湾には9~10時頃に着きたかったので、食後の運動も兼ねて、前回見損ねた観音崎の三か所の砲台跡を訪ねることにしました。
 二つ目の砲台跡を訪ねるために坂道をひーこら言いながら登っていると、助けを求めるような声が・・・声の方向に足を向けると、子猫がコンクリートの手すりの上で鳴いていました。親を呼んでいるような感じの短い鳴き声をしきりにあげていますが、親の姿は一向に見当たりません。野良猫の子供が迷子になったのか、ここに捨てられたのかは定かではないけれど、このままでは子猫は生きられない・・・ということだけは何となくわかりました。とはいっても、自分はバイクだし、子猫を運ぶ術はありません。本当に後ろ髪を引かれる思いで別れました。「帰りに、ここに寄る。そのとき、ここにいたら、連れて帰ってあげるよ」

 残りの砲台跡を回って、毘沙門湾に着いたのは10時ちょうど。猫たちは日向ぼっこをしていました。「やせっぽち」は少し太って背中の傷も良くなっていましたが、また顔ぶれが変わったようです。30分ほど過ごして、観音崎と同じように要塞化されていた城ヶ島公園に向かいました。
 城ヶ島公園では、観音崎と違って砲台跡を確認することはできなかったのですが、その代わりに?かっぷくのいい野良猫(全部捨て猫らしい)がたくさんいて驚かされました。おまけに(というか、こっちがメインだけど)、すっかり忘れていた安房埼灯台と秘密基地&秘密の渚を数十年ぶりに再確認して、記憶も甦ってきました。小学生が遠足に来ていましたが、自分は旅で来たんだぞ~、なんて威張ったりして・・・。

 朝から二万歩近く歩いたせいか、珍しく食欲がわかず、三崎まで行ったのにそのまま立ち去りかけたとき、「ミニねぎとろ丼&ミニまぐろづけ丼+かんぴょう巻き、マグロ佃煮、卵焼き、みそ汁、デザート(ごま豆腐)のランチ=1200円」の看板に目が止まり、看板を出していたお寿司屋さんに飛びこみました。この「ランチ」がとてもおいしかったので、試しに中トロと赤身を握ってもらったら、びっくり仰天! こんなにおいしいマグロがこの世にあるなんて・・・お代りください! おかげで、1200円が3倍になってしまいましたが、納得して観音崎に戻りました。

 坂道を上りながら、正直言って、「いないでくれ」と思っていました。今日は一眼レフを持ってきてなかったので、確かに子猫ならリュックに入れられるけど、観音崎から国立まで(100km少し)運べるとは到底思えず、浦賀の近くで見かけた動物病院に置いてもらって後から引き取りにいくか、ペットショップを見つけてキャリングケースに入れて運ぶしかないだろうと、手間やその後のことを考えて、すっかり気が重くなっていたからです。
 猫に会った場所に着くと、探すまでもなく、子猫がすり寄ってきました。
 「これはもう運命だ!」と思い、子猫を抱いて、話かけました。
「それでは、お家に帰るけど、しばらく我慢できるかな?」
 リュックの中で、子猫はおとなしくしてくれています。「これならいけるかも?」と思いながら、おそるおそる走り出しました。

 久しぶりにクタクタになりました。背中の子猫にショックを与えないように一定のスピードで走るのは容易ではありませんでした。でも、猫のおかげで皆が捕まっていた「鼠捕り」にひっかからずに済みました(往きは100km/h 以上で飛ばしていたので、一発免停です・・・)。背中があまりに静かなので逆に気になりましたが、静かなうちに距離を稼ごうと、休まず走り続けました。市ヶ尾付近まで戻ってきたとき、左手に公園が見えたので、猫をリュックから出して休憩を取ることにしました。狭いところから解放された子猫は、さすがにもう一度リュックに入るのを嫌がり、万が一飛び出したら死んでしまうので、前からリュックごと抱きかかえる形で運びました。

 無事に家に着いたのですが、それからが大変でした。猛反対され私も傷つきましたが、だからといって、このままにしておくわけにはいきません。とりあえず、子猫には風呂場にいてもらい、ホームセンターで必要なものを買ってきました。体を洗われたのは相当ショックだったらしく、シャンプーを洗い流すときは本気で逃げ場所を探していました。ドライヤーも嫌だったみたいですが、じきに観念したのか、ブルブル震えながらも腕の中でじっとしていました。

 「里親を探す」とは言ったものの、腕枕や胸の上で安らかな寝息をたてている子猫を手放すことができるでしょうか? ブログを書き出す前にそんなことを考えていました。
 子猫が落ち着いたところで、一番困ったのがトイレの問題でした。実は、リュックに入れてから一度もトイレに行っていません(お漏らしもしなかった)。「ここでするんだよ」と話しかけながら、買ってきたトイレに何度か入れてみたのですが、10秒持たずに出てきてしまいます。もしかすると、まだ自分ですることができないのか?とも思い、濡れたティッシュで刺激しても効果なし。お腹が膨れている感じもするし、全然しないようなら、明日病院に連れていくしかない・・・そしたらですよ、23時過ぎに自分からトイレの中に入ったので、そっと様子を見ていたら、おしっこをしました。終わった後は、一生懸命砂をかけています。
 「偉い、よくできた! もう出ておいで」と言って外に出したら、またトイレの中に入って、今度は立派なウンチをしました。「これでひと安心。何て、偉いんだ!」
 今は座布団の上で丸まっています。(


 明日明後日は終日研修だし、月曜日からは夜勤が待っている・・・週によっては三日間グループホームの夜勤があるので、子猫がその間ひとりぼっちで部屋にいるのはちょっと心配ですが、まあ、やってみるしかない!


東京の橋 ~勝鬨橋(その2)【かちどき 橋の資料館】

2009-06-18 22:35:35 | 日常&時間の旅


歩道と車道を仕切るガードレール(手すり)に施された意匠


 ヘルメット姿で橋脚から出てきた人々の後をつけていく感じで?勝鬨橋を渡ると、左手に【かちどき 橋の資料館】という小さな建物が見えてきたので、中を見学することにしました。この建物は、橋を可動させるための変電所を隅田川に架かる橋の資料館として改造したものでした。そのため、当時のままの発電設備と電気設備を見学することができます。勝鬨橋のミニチュア模型もあり、橋が開閉する様子もわかります。開館日は「火・木・金」の三日間ですが、スーツ姿の人々も結構訪れたりして、都会のちょっとしたオアシスになっていました。


(左)橋の資料館(旧変電所)から見た勝鬨橋。ここだけ切り取るとヨーロッパ?
(右)資料館内部。電気設備のあるロフトから見おろす直流発電機。交流3300Vを直流に変えて(物理はパープリンなので交流と直流の違いも忘れた。乾電池を並べて実験したっけ)橋脚内のモーターに送電した。


勝鬨橋の模型。スイッチを押すと橋が眺開して船が通航してゆく。


船が通り過ぎると、橋が閉じて今度は都電が橋を渡ってゆく・・・。


別角度から。面白くて何度もスイッチを押してしまった・・・。


本物の眺開部。ここがハの字にせり上がってゆくところを見たい!


(左上)築地側から見た勝鬨橋。月島側は「かちどきばし」と、平仮名で書かれていたけど、こちらは「どき」以外は漢字で書かれていた。
(右中)この橋脚の下に橋を動かす巨大な機械(歯車とモーター)が仕込まれている。橋脚上の四つの小屋は管理棟で、運転室、見張室、宿直室などからなる。橋の重さは片側900トン+1100トンのカウンターウエイト(シーソーを思い浮かべました)。こんなに重いものを直流モーターと歯車で動かす。すごいギミックだね!
橋脚秘密基地の様子は、 ⇒ ここをクリック
(左下)築地市場でお昼を食べた。「井上」のラーメンをよく食べに来たが、今日は思い切って、マグロほほ肉ステーキ丼(1000円)を食べてみた(ステーキ丼にするか、海鮮丼にするか、すごく悩んだ)。


東京の橋 ~勝鬨橋(その1)

2009-06-17 10:10:00 | 日常&時間の旅

勝鬨橋遠景。両端部はアーチ橋で、中央部がハの字に眺開する。


 「勝鬨橋」は1933(昭和7)年に着工され、1940年に完成しました。当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3000トン級の船が航行できるように中央部が左右に跳ね上がる可動橋(眺開橋)を採用しました。高架橋とする案もあったらしいのですが、建設費が安上がりだということで可動橋が選ばれました。完成後は「東洋随一の可動橋」と呼ばれ、築地のシンボルとして今日まで親しまれています。


 勝鬨橋の可動(眺開)部。1953年ごろまでは、一日に5回眺開していた(一回の眺開時間は20分ほど)。以後、眺開回数が減ってゆき、上流に大型船の通航できない佃大橋が建設されたことから利用が限定され、眺開回数が年間100回を下回るようになり、交通渋滞の原因になっているとして、都電同様廃止に追い込まれる。1967年を最後に通航のための眺開は行われなくなったが、しばらくはメンテナンスのために年に一回眺開されていた。最後の眺開は1970年11月29日。1980年に電力供給もストップされ、今日に至る。2007年、永代橋&清洲橋と共に国の重要文化財に指定され、橋の再眺開を望む声も上がっているが(技術的には問題ないとされた)、復旧費用が10億円ほどかかることから、実現性は限りなく低い。


(右)勝鬨橋を月島側から見る。竣工当時から路面電車の軌道が敷設されていた。かつての東京には、路面電車の軌道が網の目のように張り巡らされていた。今も残されていれば、東京は世界屈指のエコ都市になっていただろう。
(左)アーチの部分も美しい。勝鬨橋の由来は日露戦争から。旅順攻略を祝って「勝ちどき」の渡しが造られたことによる。


     

(左)勝鬨橋の眺開部。ここがハの字形に開いていった。眺開角度は70度。眺開に要する時間は約70秒。門司港で眺開橋が稼働するのを見たが、ただそれだけで胸が躍った。
(右)橋を渡っていると、建物みたいになっているところからヘルメットをかぶった人が次々出てきた。これって?・・・実は毎週木曜日に勝鬨橋の見学会が開かれていて、往復はがきで事前に申し込むと橋脚内部を見学することができる! 今回は残念だったけど、機会があったら申し込んでみるつもり。


東京の橋 ~相生橋&春海橋

2009-06-16 23:52:00 | 日常&時間の旅




 隅田川は佃島を挟んで左右に分かれますが、「勝鬨橋」が架かっている左側(地図を見たとき)が隅田川本流になり、「相生橋&春海橋」が架かる右側は隅田川支流になります。
 水上バスは隅田川の本流を遡ります。品川の日の出桟橋を出航すると、最初に有名な「勝鬨橋」をくぐり、続いて東京で一番無粋な橋と陰口を叩かれている(東京オリンピックに合わせて突貫工事で架けられた)「佃大橋」、バブル絶頂期に造られたゴージャスな(フランスのデザイン会社の設計)「中央大橋」、「永代橋」という具合に遡っていきます。
 にわか「【橋】熱中人」に過ぎないニワトリさんは、相生橋の存在すら知らなかったのですが、「勝鬨橋」を目指して「永代橋」から隅田川沿いを下っている(つもりだった・・・)その途中に偶然!「相生橋」の前に出て、ひと目で気に入ってしまいました。
 位置関係が気になったので、たった今、地図を確認したところ、「相生橋」を渡る前に「中央大橋」も渡っていました。なるほど、思い返せば確かに、高層マンションが立ち並ぶ新しい道を走り、きれいな橋を渡ったような気がしますが、「兜」を意識した主塔と欄干の意匠に気づきもせず、単に通過してしまった模様・・・。
 ニワトリさんはその後も「迷走」を続け、「勝鬨橋」からどんどん離れていったのですが、そのおかげで、(名前だけ素晴らしい?)「春海橋」の横に架かっていた素敵な鉄道廃橋にも巡り合えたのだから、方向音痴様々といったところでしょうか? 世の中、何が幸いするか、わからないものですね。




(左)野バラと相生橋。全幅36.8mの「相生橋」は「永代橋」の25mより広く、交通量の多い清澄通りに仮橋を架けながらの工事だったので、上下7車線の全線が開通するまで11年の年月を要した。
(右)春海橋から眺めた相生橋。全長149.1m。現在の「相生橋」は四代目になる。昭和末期に計画され1999年に完成した。バブル期に計画された「中央大橋」と並んで、個性的なデザインを誇る。フランス人がデザインした斬新&ゴージャス(ライトアップも!)な「中央大橋」に対して、「相生橋」は関東大震災で焼失してしまった二代目相生橋にならって、隅田川では珍しいトラス橋とされた。


巨大なトラスが格好いい! アオガエル君と記念撮影。





 「相生橋」を後にすると、すぐに「春海橋」の案内表示が現れました。「晴海にひっかけてつけた名前だと思うけど、春の海っていいなあ。どんな橋だろう?」
 俄然興味が湧いてきたので、表示に従って左折しました。800mほどでT字路に突き当たり、左に平凡な青い橋が架かっています。「これが春海橋か。予想どおりの普通の橋だ・・・」
 そのときです。青い橋の向こう側、街路樹の梢の間から、朝錆びた古い鉄橋が見え隠れしているではありませんか! 歩道に乗り上げ、バイクから降りました。


 もう一つの「春海橋」は、東京都港湾局臨港線の鉄橋だった。消えた都電同様、今では想像することも難しいが、かつて東京都港湾局は、旧国鉄の越中島貨物駅と豊洲&晴海地区を結ぶ深川・晴海線(20.3km)と、日の出桟橋と芝浦を結ぶ日の出線(5.8km)という二つの貨物線を持っていて、一日20本近くの貨物列車(ディーゼル機関車)を運行させていた。晴海線の廃止は1989年。バブル経済が始まった頃だ。この頃に覚醒していれば、色々面白いものを見ることができたのに・・・浅草の仁丹塔、同潤会アパート、汐留や飯田橋の貨物ヤードなど、バブル期に失われたものがたくさんある。


    

静かに待っていると、幻の機関車が走ってくるかもしれない。


 春海橋のツーショット。春海橋は中央部がバイパスの高架に分かれている複雑な橋だった。このあたりは、まだまだ面白いものが出てきそうだ。


東京の橋 ~永代橋

2009-06-15 12:15:15 | 日常&時間の旅


 6月4日の木曜日、急遽休みをもらったニワトリさんは、堀切菖蒲園に菖蒲の花を見に行きました。菖蒲だから雨でも良かったのですが、雨は降らないとのことだったので、アオガエル君を出動させました。
 バイクで都内を走るのも実に久しぶりでしたが、機動力を生かして隅田川に架かる永代橋、相生橋、春海橋、勝鬨橋を眺めて(渡って)来ました。堀切菖蒲園の帰りは言問橋を通り、初詣で訪れた「牛嶋神社」に参拝して、しっかり「撫で牛」してきました(19時から懇親会があり、帰宅は午前2時に・・・)。
 東京を西から東に横断したのに、100kmそこそこしか距離を稼ぐことができませんでした。時間が押して来て、帰りに上野から高井戸まで首都高を使わなければ、もっと少なかったでしょう。東京都って意外と狭いんですね!


 永代橋の歴史は江戸時代に遡る。初代永代橋は1698年、5代将軍徳川綱吉の50歳を祝って、現在の位置よりやや北側に架けられた。隅田川に架けられた4番目の橋で、当時は一番下流にあった。全長200mもあり、今の永代橋より約15m長く、舟が通行できるように橋桁の高さが3m以上あったため、橋の上からの眺望が素晴らしく、「西に富士、北に筑波、東に上総、南に箱根」と詠われた。
 1807年、初代永代橋は祭りに訪れた人々の重みに耐えきれず、1500人が死亡する大惨事を引き起こしてしまう。事故後は新しい橋が架けられたが、1897(明治30)年に日本初の鋼鉄橋となる三代目の永代橋が、現在の位置に架けられた。7年後には路面電車も敷設されたが関東大震災で被災し、四代目となる現在の橋が、1926(大正15)年に完成した。
 永代橋は、ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋(全長325m)をモデルにしている。第二次大戦中、この橋をめぐってドイツ軍とアメリカ軍との間で大規模な攻防戦が行われた(映画『レマゲン鉄橋』でも有名)。ルーデンドルフ橋はドイツ軍の猛攻でも落ちなかったが、橋を確保したアメリカ軍の工兵隊が補強工事を行っている最中に自然落橋してしまい、残った橋桁を平和博物館として保存&公開している。永代橋を眺めてルーテンドルフ鉄道橋の在りし日の姿を思い浮かべるのも、歴史の妙かもしれない。


(左)永代橋は仕事でよく渡ったが、歩いて渡ったのはこの日が初めてだった。
(右)下流の相生橋から眺めた永代橋。夜はブルーにライトアップされる。


鋼鉄のアーチが素敵! バイクを押して歩道を渡った。



 今週から仕事がハードになり、合間を見ながら記事を書いてます。いよいよ細切れになっていくかもしれませんが、ご容赦のほどを・・・。


最強の二本立て ~『路上のソリスト』と『レスラー』

2009-06-14 23:50:35 | 映画&ドラマ


 日曜日は、日比谷シャンテで『路上のソリスト』(09)と『レスラー』(08)を観てきました。これ以上はない最強の二本立てです。当初の予定では、初回(9時50分)の『レスラー』を観て、1時間のランチタイムを挟んで13時05分の『路上のソリスト』へ「はしご」するつもりだったのですが、9時40分にシャンテに着くと、映画館を巻くように人の列が・・・(最近の映画館は皆同じだと思うが、インターネットで座席予約をした人以外は、前売券を持っていても窓口に並んで座席を予約しなければならない。シャンテでは初回のみ全席自由席)
 並んでいる間に『レスラー』の上映時間になってしまい、窓口にたどり着いたときは本編が始まっていました。幸い、『路上のソリスト』の初回(10時30分)がまだ定員に達していなかったので、先に『路上のソリスト』を観ることにして、14時55分の『レスラー』の座席を確保しました。2時間ほど空き時間ができてしまうのですが、その間に久しぶりだから日比谷公園でも散歩することにしました(転んでもただでは起きないのが?ニワトリさんの特徴だったりして・・・)。

 『路上のソリスト』=ロバート・ダウニーJr にジェイミー・フォックス。『レスラー』=ミッキー・ロークにマリサ・トメイ。最高に素晴らしかった~。『路上のソリスト』では、社会から見捨てられた人々にベートーヴェンの音楽が被さってゆく場面に鳥肌が立ちました。『レスラー』も音楽をうまく使っていましたが、エンドクレジットに流れてくるブルース・スプリングスティーンの「レスラー」(映画のための書き下ろし)に、何度も何度もうなずきました。ベートーヴェンの音楽が魂を揺さぶるという点で、『路上のソリスト』は『敬愛なるベートーヴェン』(06)と重なり、不器用な生き方しかできないミッキー・ロークの『レスラー』は、ウォーレン・オーツの最高傑作『コックファイター』(74)と同じ高みに到達しました(詳しいレビューはのちほど・・・)。


    

(左)お台場に等身大ガンダムがお目見えしたらしいが、日比谷にも等身大ゴジラが出現?
(右)というのは真っ赤な嘘で、実物は子供より小さい・・・


でも、こうすると本物のゴジラが出現したように見えなくもない・・・


センチメンタル・ジャーニー ~油壺・葉山・逗子・鎌倉・・・

2009-06-13 21:57:30 | オートバイ春夏秋冬




 遊び疲れた?ニワトリさんは、文庫本を読んだりしながら小一時間ほど由比ヶ浜でくつろぐことにしました。ここに来たのも数十年ぶりだけど、海の印象は昔のままでした。ウィンドサーフィンの三角の帆と、上空を舞うトビ(この日は10羽以上いた)は、以前より増えましたが・・・。
 これは蛇足だけど、Ninja250Rの燃料タンクのエア抜き口からエアが抜けるときに発する「クゥ~」とか「ピィ~~」という情けない音は、Ninja乗りの間で「妖精の鳴き声」と呼ばれていますが、トビの鳴き声に近いと思いました。というのも、駐車場から発進するとき鳴きまくって、近くにいた人々が上空を見やったから。確かにトビも「ピィ~ヒョロ」鳴いていたのですが、私はちょっと恥ずかしかった・・・。


(左)油壺の入口(出口と言った方がいいか?)。城ヶ島~油壺の連絡船がなくなった時点でセンチメンタル・ジャーニーは、終わったも同然だった。機動力を生かして周辺を走り回ったが、「思い出」の景色には巡り会えなかった。連絡船はどこに接岸したのだろう?
(右)湾から奥に入ると、油壺マリーナがある。ニワトリさんには縁のない世界だ。最初の予定では油壺マリンパークに寄るつもりだったが、結構混んでいたのと、入口で入場料1700円に駐車料金200円が加算されることを告げられ、気持ちが萎えてしまった。空いてるときに来ようと思う。その後、かつてバスに揺られた道を走って葉山・逗子へ向かったが、三崎口から(多分)茅ヶ崎まで休日の134号線は常に渋滞していて、全く面白くない(空いていれば良い道だけど・・・)。逗子銀座や長者ヶ崎を通過したときに、ほんの少しだけノスタルジックな気持ちになった。時間のあるうちに鎌倉まで足を伸ばして、「江ノ電」の写真を撮りに行くことした。


     

(右)鎌倉は、葉山&逗子以上に混んでいて、鶴岡八幡宮は渋谷&原宿並みの混雑?
(左)弁天池に架かる橋も混雑していて歩けない・・・。


(左)JR鎌倉駅東口。現在の駅舎は1984年に建てられ、2007年にリニューアルされた。自分が最後に鎌倉駅に降りたのが82年だから、覚えがないのも当然?
(右)西口にある「江ノ電」鎌倉駅ホーム。このあと、「江ノ電」を追いかけに行ったが、国道134号線を車が埋め尽くしていたので中止した。鎌倉へは電車で来ることにしよう(ないしは、バイクを駐車場に入れて)。この後、都筑に住んでいる妹の家に寄って、道路が空いてから帰宅した。スムーズに走っていた時間が長かったせいか、30.3km/ℓ の好燃費を記録! この日だけだったら、もっと走っていた?


 ノスタルジックな旅は終わったけど、毘沙門湾の猫たちが気になって仕方がない。通いつめるには遠いし、連れて帰るわけにもいかないし・・・。


一ヶ月後・・・

2009-06-12 23:58:10 | オートバイ春夏秋冬

6月7日の城ヶ島。ひと月で緑が濃くなった。この日は珍しく?凪だった・・・


 一ヶ月後に続きを走りに行きました。この日は出かける直前まで行き先を迷っていましたが、4時半に出発したのは大正解でした。夏至が近づいてきましたが、7日の日の出が4時25分で、日の入りが19時ちょうどと、すでに日中時間が非常に長~くなっています。子供の頃、夏休みが来ると、言われなくてもに早起きをして、早朝から雑木林に出かけ、日が暮れるまで遊んでいたから、どうしても7~8月の方が昼の時間が長いと錯覚してしまうのですが、実は梅雨に差しかかるこの一ヶ月が一番「夜が短い」ので、前にも書いたけれど、6月は鉄道旅行向きの季節でもあります(「梅雨の18きっぷ」を出してほしい!)。
 何はともあれ、「早起きは三文の得」とはよく言ったもので、柿生経由で市ヶ尾の先からバイパスを通って金沢八景に出て、後は16号を走って横須賀から観音崎に向かったのですが、早朝の道路は非常に空いていて、空気もまだひんやりしており、爽快そのもの! アオガエル君も実に気持ち良く走り、「早出」はストレス発散にも最高だと思いました。もう「癖」になりそう。うん、早出に限る!


 朝食は三崎港の朝市で・・・一途な思いだけで三浦半島の先端までひた走り、いつもどおりの7時に朝食のテーブルに着きました。朝市には大勢の人々が来ていました。クーラーボックスを積んでくれば「三崎のマグロ」も、4尾200円!の新鮮なサバもGETできたのですが・・・。


(左)まだ7時前なのに売り切れ寸前だったマグロ丼は500円。マグロ汁は200円。マグロ丼は普通に旨く、マグロの味噌汁は最高! マグロのかき揚げ天ぷらうどん=350円も食べたかったけど、何とかこらえた。
(右)市場をひと回りしてから、モーニングコーヒー(100円)とクルミ入りのあんパン(150円)を頂く。コーヒーの隣のブースがパン屋だったから、こらえることができなかった・・・さすがにお腹がふくれたので、城ヶ島灯台を眺めながら(左奥の尖塔が見えるかな?)三崎港でひと休み。岸壁から釣り糸を垂らしている人も結構いる。のんびり釣りを楽しむ休日もいいかもしれない。



 朝食後は、気になっていた4匹の猫に会うため、ガソリンを5リットルだけ補充して三崎から毘沙門湾に戻った。オートフォーカスが中抜けしてしまい、後ろの岩に合焦してしまった・・・猫たちを訪ねる前に、旧日本軍の通信施設跡を探していたら、畑道の泥の上で立ちゴケしてしまい大ショック~~! 先ほどのスタンドで工具を借りて、外れたウインカーをつけ直し、泥汚れも綺麗に落とした。こんなに世話になるなら、ケチケチしないで満タンにすればよかった?(一番安い近所のスタンドが、リッターあたり113円。横須賀が一番高くて123~125円。ここは比較的安い118円だった。自分はガソリンに環境税を導入すべきだと考えているけど、1円でも安いスタンドを探してしまうのは、また別の話)


    

 「やせっぽち」は人なつこく、甘えながら鳴いた。背中の傷はまだ完治していなかった。ある程度の距離感を保つ「はにかみ屋」は、自分が帰ろうとすると、こんなところに寝そべってみせた。もう一匹の「クロ」はエサやりおじさんがいないせいか(近くで見かけましたが)、完全に無視された。


 

(左)いろいろあったが、それでも10時には城ヶ島灯台に着いた。短パン(濡れてもいいように水着を持ってきた)とスポーツサンダルに履き替えている。今日も空と海が青い!
(右)海上は穏やかで、風も殆どない。沖合に浮かんでいるのは伊豆大島。一か月前と違うのは、海食で生じた窪みに雨水がたまって小さな池が幾つもできていて、たくさんのオタマジャクシが泳いでいたこと。海が荒れればひとたまりもないはずだが、毎年繰り返されているのだろうから、この時期をうまく利用しているのだろう。ニワトリさんも池のほとりで朝寝をしたのだが、たった1時間で丸焦げになってしまった・・・。


(左)潮だまりには実に多くの小さな生きものたちがいた。
(右)馬の背洞門の階段を上っていたら、可愛いナナホシテントウが飛んできて、手のひらに止まった。手塚治虫(オサムシ)にも、よくお目にかかった。


    

(左)岩に化けている小魚を探せ?
(右)多くの人が洞門の上を渡っていたけど、崩落の危険があるそうだ。


 馬の背洞門の尾根からウミウ生息地の断崖絶壁を覗きこむ。ウミウの姿は確認できなかった。秋になれば、繁殖のためにここに戻ってくる。


 右端の草地は「グライダー広場」と呼ばれているらしい。そういえば一か月前、ラジコン飛行機を飛ばしている音が終始聞えていた。この日もエンジン音が聞えてきたが、草刈り機の音だった。


 グライダー広場から馬の背洞門を振り返る。写真だと遠そうだけど、小一時間もあれば楽に行って帰ってこられる。景色が素晴らしく、誰もが楽しめる散歩道だ。


    

 ひまわりのように空に向かって花を咲かせているサボテンと、この日もたくさん見かけたトビ。城ヶ島はもう夏だったりして・・・


 海が穏やかだと南国にいるような気がする城ヶ島。早くも半日が過ぎてしまい、アジのたたきをかきこんで油壺に向かった。観光船が廃止されていなければ、海を往復できたのに・・・。


センチメンタル・ジャーニー ~城ヶ島灯台と城ヶ島YH

2009-06-11 21:51:25 | オートバイ春夏秋冬


 楽しかった時間があっと言う間に過ぎてゆき、そろそろ(記事を読んでくださっている方には「やっと・・・」)、立ち去る時刻が近づいて来ました。強風にさらされ西日を浴びている城ヶ島灯台に神々しさを覚えるほどだったのですが、風が受けているだけで体力を消耗する感じ・・・今でこそ無人ですが、灯台守の皆さんは、さぞかし苦労されたことと思います。


 新たに設けられた階段やウッドデッキで、行きやすくなった城ヶ島灯台。昔の姿を全く覚えていないので、天井裏の押し入れから古いアルバムを引っ張り出してくる必要があるかも? 城ヶ島灯台は5番目にできた西洋式灯台で、明治3(1870)年に初点灯した。初代灯台は関東大震災で倒壊し、1927年に現在の灯台が再建された。



(左)城ヶ島灯台近くの京急ホテル側の浜辺は、このようにのこぎり状になっていて、よほど印象的だったのか、鮮明に覚えていた。この付近は夕陽のスポットとしても有名で、自分が島を去る時間になって訪れるカメラマンや人々も多数見かけた。
(右)ウミウ生息地と城ヶ島YHを訪ねて島を去ることにしていたが、向かう途中の待避港から城ヶ島大橋を見上げてみた。記憶どおり、橋の中央部分が赤かったことが確認できた!


 太平洋岸の東側はこのような断崖絶壁になっていて、人が立ち寄ることはできない。その代わり、ウミウにとっては格好の繁殖地になった。


 繁殖のシーズン(11~4月)は終わったが、まだぼちぼちウミウの姿を見ることができた。最盛期には3000羽以上も集まるらしい。小・中学校時代は春休みを利用して旅行したので、この日よりずっと多くのウミウを見ることができた。猛烈な風のため、カメラが手ぶれしている。断崖に生えている木々も真っ直ぐ延びていくことができず、風下に傾いてしまった!





(右)城ケ島公園の入口。「ウミウ展望台まで200m」の表示が見える。城ヶ島というより、三浦半島全体が軍事的に重要と考えられ、城ヶ島にも軍の要塞が築かれた。城ケ島公園は要塞跡地に造られた。数少ない遺構も残っているらしいので、次回はそれも探してみたい。
(左)遊歩道入口のはす向かいに城ヶ島YHがあった筈だが、探してみたところ、YHの入口にフェンスが張られていた!



 神奈川県観光組合が運営してきた城ヶ島YHは、2003年8月31日に閉館された。城ヶ島YHは1962年に開業され、昭和40年代(自分たちも利用した頃だ)には年間1万人以上が利用したが、最近では夏場以外の利用客がなく、4000人台まで客足が衰えたため、県が閉鎖を決めたとのことだ。建物はまだ残されていて、玄関前のロータリーから非常に懐かしかったが、廃墟となってしまった寂しさは拭えなかった。2007年には、自分たちも乗船した「城ヶ島~油壺」間の定期観光船(カモメが船の後を追いかけてくる)が廃止されてしまったが、それを知ったのもつい先日のことだ。ある意味では、センチメンタル・ジャーニーの最後に相応しいエピソードだが、残念で仕方がない。


センチメンタル・ジャーニー ~城ヶ島の歴史と自然

2009-06-10 23:59:59 | オートバイ春夏秋冬


城ケ島灯台へ向かう階段の上から眺めた北側の景色は地中海風だけど・・・


太平洋に面した南側は、手つかずの厳しい自然が広がる。


 (お恥ずかしい話だけど)城ヶ島が鎌倉時代から景勝地として有名だったことを、ここを訪ねてから数十年後に初めて知りました。鎌倉に幕府を開いた源頼朝も、城ケ島はお気に入りの場所だったのか、何度も遊びに来ています。7日の日曜日には、城ケ島から鎌倉まで走ったのですが、もしかすると、頼朝も通った道を通っていたかもしれません。島内には、埋め立てられてしまってかつての面影は全く残っていないそうですが(全く、どうしてそういうことをしてしまうのだろう?)、頼朝に因んで名付けられた「遊ヶ埼」「水っ垂れ」「酔女ヶ浜」といった地名が今も残っています。頼朝は単に訪れるだけでなく、城ヶ島と対岸(三崎)の宝蔵山に桜を数千株植え、瀬戸に舟を出して両岸の桜を眺める、といった豪快な花見もしていました。妻=政子の尻に敷かれている印象が強い頼朝ですが、なかなかやりますね~、それとも、政子に尻を叩かれて植樹したのかしら?


 赤羽崎の突端にある「馬の背洞門」。侵食によって岩がアーチ状にえぐりとられた。中央にも覗き穴風の侵食口があるけど、穴の向こうの海が見えるかな? 関東大震災以前はこの下を舟で潜れたらしいが、地震による隆起で陸化してしまった! 海食は長い年月を経て、磯だまりをたくさん作った。小さな生き物たちのオアシスになっている。


 奥の方にかすかに見える建物からスタートして、海岸線を歩き、馬の背洞門の尾根を登ったところ。ここから先は、高さ30mの切り立った台地を歩いてスタート地点まで戻る道と、ウミウの生息地を眺めながら東側の城ケ島公園まで歩く道が整備されている。海岸線や台地を行く人が点々と写っている・・・この景色をみたとき、『ムーミンパパ海へ行く』の舞台になった島を訪れたような気持ちになった。



(左)城ヶ島は、黒潮の影響で冬場も温暖だが、太平洋に直に面しているため、島の南側は海からの風に常にさらされており、暴風時には人を全く寄せつけなくなる。この日もよく晴れた暖かな一日だったが、強風が吹いていて、沖には白波が立っていた。海が荒れてくると、海食(風と波の激しさがわかる)によってできた岩場を超える高波が押し寄せる。島の南側が天然の防波堤になってくれるので、島の北側と対岸の三崎港は良質な漁港として古くから漁業が営まれてきた。
(右)太平洋岸の木々は全て傾いていて、自然の力の凄さを思い知らされるが、地面に這いつくばるように広がって咲く花を見ると、生命のたくましさにも驚かされる。


(左)磯だまりには無数の小さな生き物たちがいる。じっとして海底の砂に溶け込んでいる稚魚が見えるかな? 左端にも稚魚がたまたま写っているが、このタイプはスイスイ泳ぎ回っている。
(右)お洒落なデザインのクラゲもぷかぷかしていた。ヤドカリやカニ、エビのたぐいもたくさんいて、目の細かな網と小さいバケツがあればたくさんの生き物を観察できる。


 太平洋側の東半分は人を全く寄せ付けないが(断崖絶壁の台地はウミウの繁殖地になっている)、城ヶ島灯台のある西半分は気楽に歩ける。前述したように、海食でできた岩場を歩いて馬の背洞門まで行き、馬の背洞門から比較的緩やかな斜面を登り、30mの断崖の上を歩いて灯台下まで戻ってくる遊歩道が整備されていて、暴風時以外は城ヶ島の自然を満喫できる。


 この日のニワトリさんは、太平洋岸の半分を往復する感じに一筆書きで歩いてから、最後に灯台に向かいました。ダイナミックに景色が変わるので非常に楽しく、運動量もちょうどいい感じ! 実を言うと、城ヶ島にはもう一つの顔があるのだけれど、それにも今まで全く気付いていませんでした。やっぱりもう一度行かないと?

 帰宅して書き始めたのですが、眠気に勝てず・・・書き終わったので、また寝ます(2時33分。日付は前日に戻します)。お休みなさい~♪