さよなら、リンリン・・・

2008-04-30 22:50:00 | 自然&いきもの+ゾウのはな子


 在りし日のリンリン。世界で一番飛行機に乗ったパンダ・・・


 皆さんすでにご存知かと思いますが、上野動物園のジャイアントパンダ「リンリン」が4月30日未明に死亡しました。その日の朝、大好きだったプール(水は入れていない)の中であおむけに横たわっているところを飼育係が発見、ビデオで「リンリン」が午前1時56分に動かなくなったことを確認しました。
 「リンリン」は去年の夏頃から体調が悪化していたそうです。今日までよく頑張ってくれました。ご冥福を祈ります。ゆっくりお休みください。


      

 気立てが優しく、人なつっこいパンダだった・・・


 「リンリン」に最後に会ったのは、去年の12月24日。私は、「リンリン」がオスのジャイアントパンダとしては世界で5番目に高齢で、かなり衰弱しているといったことを全く知らなかったのですが、パンダの展示室が入口近くにあることも手伝って、ゲートをくぐると、真っ先に「リンリン」を見に行きました。
 「リンリン」は野外展示場の片隅の竹やぶで寝ていました。はた目には「すやすや」と、あるいは「ぐうぐう」昼寝しているように見えたのですが(「動物の寝姿」のコーナー?で、そのときの写真をUPしようと思っていました)、もしかすると、体が辛くて寝ていたのかもしれません。
 帰り際に展示室を覗くと、「リンリン」が元気に動き回っていました。それから床にペタンとお座りして食事を始めました。動いているジャイアントパンダをじかに見るのも初めてなのに、食事風景まで見られるなんて・・・感激しました。
 結果的に、このときが最後のお別れになってしまいました。でも、あの日のことは忘れません。リンリン、どうもありがとう~♪


 大好きなニンジンを食べる。このあと、お芋も食べた!


『わが愛しのキャンディーズ』 ~30年ぶりの再会・・・

2008-04-29 23:54:10 | 音楽の森

 
 今さら何を言っておるのか!とお叱りを受けそうですが、18時過ぎに仕事から帰ってきて、シャワーを浴び夕食を食べ、「そう言えば今日の『瞳』を見ていないなあ」と、7時のニュースをBS2に切り替え「朝ドラ」を見て、「明日は早番だから、早めにブログ書いて寝よう(春眠暁を覚えずクラスの眠気は去ったけど、昨日も4時間しか寝ていない)」と席を立ったら、おもむろにキャンディーズが『微笑みがえし』を歌いだしたではありませんか!

「この番組、何?」
 新聞を手に取ると、『わが愛しのキャンディーズ』(再放送)と記されていました。
「番組終了は9時15分か。最後まで見てしまったら、眠くてブログの続き(いい加減に飛鳥を終わらなければ・・・)を書けなくなるかも?」
 とりあえず洗濯物を干しながら続きを見ていると、キャンディーズが紅白歌合戦に初めて出たときの映像が流れてきました。曲はもちろん『年下の男の子』です。
「確か、途中で感極まって、ランちゃんが歌えなくなったんじゃないかな?」
 固唾を呑んで見守っていたのですが、三人とも笑顔で歌い終わりました。どこかで記憶が変換されてしまったようです(三人と一緒に踊っていた着ぐるみの一人が岩崎宏美だったので、「あっ!」と声を上げてしまいました。デビュー当時からずっと好きで、彼女が私の最初のアイドルでした)。

 キャンディーズの三人が、NHKの歌番組『レッツゴー・ヤング』などで歌手と共に踊っていたその他大勢のダンサー「スクールメイツ」出身だったことを(「スクールメイツ」の一員として踊る「秘蔵映像」が出てくる)この番組で初めて知ったぐらいですから、私は熱烈なキャンディーズ・ファンではありません。番組自体が二年前に制作&放送されたものだし、それを今頃見ているなんて、ファンの名に値しないと思いますが、それでも、キャンディーズのシングル曲は全て知っていたし、三人が作詞&作曲した曲の幾つかも思い出しました。
 キャンディーズの場合、熱烈なファンであろうとなかろうと、「三人の中で誰が好きか?」という話になって、熱い議論に発展していきました。強いて一人を選べと言われたら「スーちゃん」と答えますが、三人三様の魅力があり、「今日はランちゃん明日はミキちゃん」という具合に日替わりでトップが交代したものです。秘蔵映像や懐かしい映像(それもフルコーラスで!)を、それこそ30年ぶりに目の当たりにして、何ともいえない甘酸っい気持ちがこみ上げてくると同時に、彼女たちの「ど根性」に心底恐れ入りました。テレビの歌番組に出演して歌うだけでなく、ドリフや伊東四郎とコントを演じたり、長いコンサートツアーをこなすなど、六年間がむしゃらに駆け抜けてきたからこそ、1978年4月4日の解散コンサートも見事に成功させることができたのでしょう。
 キャンディーズのように、後楽園球場に集まった5万5千人のファンの前で歌うなんて芸当は、私にはできっこありません。びびって夜も眠れなくなるに決まっています。彼女たちにしてみても、不断の努力があったからこそ、あの日を迎えることができたのでしょうが、それにしてもこの時代の女の子はすごい、すごすぎる!

 私がもう少し前に生まれていれば、みうらじゅんさんと同じように、池玲子や杉本美樹に夢中になったかもしれません。彼の場合は池&杉本じゃくなくて池&谷(ナオミ)だけど・・・。同じ時代に生まれていれば、片桐夕子さんが私の(同時代的な)アイドルになっていたような気がします。
 「脱ぐ、脱がない」の違いこそありますが、70年代という時代を動かしていたのは、「~アイドル」と呼ばれた二十歳そこそこの女性たちでした。もちろん、アイドルを創る「仕掛け人」がいたのですが、彼女たちは明確な意思と度胸を持ち合わせていて、キャンディーズを始め「仕掛け人」たちに公然と異議を唱え叛旗を翻した点でも尊敬に値します。キャンディーズが解散した頃、私のアイドルは音楽的には「KISS」と「ABBA」で、吉田拓郎を慕い、映画や小説に狂っていたのですが、久しぶりにキャンディーズの音楽と映像に触れて、熱い想いが甦ると同時に、彼女たちが当時以上に愛しい存在になっていきました。

PS.キャンディーズの歌の中で一番好きなのは、『夏が来た!』。『春一番』のアンサーソングでしたが、『春一番』ほどのインパクトがなく、一年後の『暑中お見舞い申し上げます』の大ヒットで、すっかり忘れられた曲になってしまいましたが、キャンディーズといえば、やっぱり穂口雄右さんでしょ。彼の作詞&作曲で、彼女たちにしては珍しくオトコノコが歌の主人公なんだよね。間違いなく、私の青春でした。それからミキちゃん作詞&作曲の『あこがれ』。ランちゃんが作詞した『つばさ』の影に隠れているけど、実に素晴らしい曲です。


(手塚治虫も描いた)石舞台古墳&酒船石遺跡

2008-04-28 23:58:18 | 鹿男あをによし=奈良


 亀の歩みで書き綴っている(馬)鹿男の奈良旅行記ですが・・・ようやく石舞台古墳の登場です。『鹿男あをによし』のドラマの中でも、主演の二人が自転車漕いでたあの道を、飛鳥川に沿って走ります。一滴の水も流れていないこともある飛鳥川ですが(和歌に詠まれた頃とはずいぶん様変わりした)、今回は小さな渓流程度に水が流れていました。坂道で苦労すると覚悟を決めていたのですが、すいすい走ることができ、短時間で「石舞台地区」に到着しました。意外と近かったんだね~♪


 蘇我馬子の墓とも言われている「石舞台古墳」。小高い丘にあって、飛鳥を見下ろし、二上山を望むことができる。確かに、このような一等地に巨大な墳墓を築けるのは、その当時の最高権力者=馬子しかいなかったかもしれない。封土の一部が剥がされ玄室が露わになっているのは、蘇我氏に対する懲罰だったとする説が有力だが、個人的には手塚治虫の『火の鳥~大和篇』に出てきた「石舞台古墳」のエピソードを真っ先に思い出す。


      

 玄室(石室内部)の大きさは、D 7.7.×W 3.5×H 4.7m。羨道(石室に至る道)はD 11×W 2.5m。約30の石(花崗岩)が積まれ、総重量は2300t に達するとか・・・(ちょっと想像できない重さだけど、排水量に例えると駆逐艦並み)。外から見ると、でたらめに岩を積んだように見えるけれど、内部はこのとおり隙間なく積まれていて、排水設備も備えている。天井石の重さだけでも77t もあり、現在の技術を駆使しても、同じように石を積むことは難しく、この時代の優れた土木&運搬技術が伺える。
 狐が美女に化けてこの上で踊ったことから「石舞台」と呼ばれるようになったという言い伝えがあって、ジャズ・ヴォーカリストの酒井俊さんは、ここでライブを行っている。伝説の再現? そのときの模様をあるとき話してくれたけど、石舞台で月を見ながら「満月の夕」を聴けたらさぞかし素敵だろうな~♪
(最近、なかなか俊さんのライブに行けなくて・・・ご無沙汰してます)


      

 「石舞台古墳」を見学した時点で、時刻は14時35分。急いで次の目的地「酒船石」に行かなくては・・・ペダルを漕ぐ足も速くなった。もはや、道に迷うことも許されない?
 奇妙な形で有名な「酒船石」は竹林の中に唐突に置いてあって、D 5.5×W 2.3×H 1.0 m の石造物。この石の上で酒を造った&薬を作ったとか、水を引くための庭園施設だったなどの諸説がある。この不思議な石も、手塚治虫の『三つ目がとおる』に登場する(本格的なSFで、怖かった~)。


       

 1992年、酒船石の北側に石垣が出土し、斉明天皇時代の遺構と推定された(日本書紀に「(飛鳥板葺)宮の東に石を累ねて垣とす」との記述がある)。2000年に大規模な発掘調査が行われ、写真のような亀形建造物と石垣などが発見された(以後まとめて酒船石遺跡と呼ぶようになった)。ここで「水を使った」何らかの祭祀が行われていたらしい。写真右上の亀形建造物が導水に使われていたことは確実で、そうなると写真左上の酒船石も何らかの儀式や水遊びに使われていた可能性が高く、これらの遺構を斉明天皇の「両槻宮」だと考えている人もいる。
 飛鳥時代、「人」と「水」は、水道のようなインフラから神事まで、現代以上に深く係わっていたと思われる。施政者のもっとも重要な仕事は、水道や治水などのインフラ整備から、水を使った娯楽施設(最後に訪れる水落遺跡など)や神事(酒船石遺跡)に至るまで、水を司ることだったのかもしれない。


 酒船石遺跡側から見ると、西にある「伝承飛鳥板葺宮跡」。藤原京ができるまで、天皇の代が変わるごとに新しい「宮」を建設していた。飛鳥板葺宮は斉明天皇の時代のもの。時間に押されて、ここまで駆け足で巡る羽目になったが、気持ちは結構「飛んで」いた。全速力でペダルを漕いでいるので、そろそろお尻が痛くなってきた?

 28日は、NHKスペシャル『日光月光菩薩 初めての二人旅』を見てから記事を書き出したのですが、途中で獏睡(爆睡じゃなくて)。目が覚めたら朝だった・・・


飛鳥のアイドル「亀石」から古代史散歩

2008-04-27 23:59:30 | 鹿男あをによし=奈良


 国営飛鳥歴史公園高松塚地区の遊歩道を道なりに走ると(北上してゆくと)、天武・持統陵の前に出ます。13年前の秋にここを訪ねたとき、陵へと上ってゆく石畳の階段の途中にある柿の木で(今は葉が落ちていますが)たわわに実っていた柿を無断失敬してしまいました。渋柿だったら「バチがあたる」オチになったのですが、これが実においしい柿でして、2~3個余分にもらってしまいました(その後、陵の前で手を合わせて非礼を詫びました・・・)。
 今回、自転車の網かごには100円で購入した飛鳥ミカンがたくさん入っていますが、13年前は、どんぐりに松ぼっくり、大きな栗も幾つか拾ったし、まだ緑色のミカンを買って、柿と共におやつ&夜食にしたことなどを思い出しました。


 飛鳥には、ユニークな石の建造物(彫刻)がたくさんあることをご存知でしょうか?(一番有名なのが、石舞台古墳ですね)
 天武・持統陵に出たら左に曲がって、鬼がニンゲンを調理したといわれている「鬼の俎板」と、そのあと鬼が用を足したという「鬼の雪隠」(実際は、俎板が石室の床石で雪隠が石室。故意か事故&天災などの理由で石室が転がり落ちた)を見て、その先にある吉備姫王墓から出土した奇妙な「猿石」たちを見学するのですが(飛鳥駅がスタート地点なら、最初に「猿石」から見学する)、先のことを考えると時間が足りなくなってきたので、「鬼」と「猿」をあきらめて、「亀」に向かいました。


     

(左)「亀石」は体長4m、体重は4t。民家の軒先を占領するような形で、申し訳なさそうにうずくまっています(人によっては、図々しく座りこんでいるように見える?)。
(右)正面の畑から撮影した「亀石」。大きさがわかると思います。向かって左に見えるのはガレージみたいなつくりの休憩所。飲物の販売機が3台置かれていました。

 飛鳥にある石造物はどれもこれもユニークですが、私が一番好きなのがこの「亀石」です。今は南西の方角を向いていますが、昔は東を向いていたそうで、亀石が完全に西を向いたら、大洪水に見舞われるという伝説があります。
 亀石の「5W1H」は、よくわかっていません。このあたりの沼が干上がってたくさん亀が死んだので供養のために造った、(この後訪ねる)橘寺の鎮護のために造られた、(同じくこの後訪ねる)川原寺跡の境界石だった、などなど諸説がありますが、干ばつや大雨による洪水に苦しめられてきた人々が、こうした災害から守ってくれる水神様として亀を選んで、鎮めの石を刻んだのかもしれませんね。


                   



(右)聖徳太子生誕の地に建立された寺として知られる橘寺。こちらからも入場できるけれど、正門は反対側になります。静かに佇み、悠久の時間を刻んでいる趣がありました。法隆寺の夢殿で思惟にふけるより、こちらで暮らした方が楽しいかも?
(左)橘寺境内。創建当時は四天王寺式の伽藍配置の壮大な寺院だったことが発掘調査で判明されました。正面の本堂(太子堂)に、本尊の聖徳太子坐像が安置されています。


     

 橘寺の境内にもユニークな石像「二面石」があります。人間の二面性を現わす「善顔と悪顔」が彫られていますが、「笑い顔と怒り顔」といったほうがわかりやすいかもしれません。どちらがどちらだかわかります?


 道路を挟んで橘寺の向かいに、川原寺跡(弘福寺)があります。創建当時は一塔二金堂という独特の伽藍配置をした大寺院で、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられていました。他の三寺は平城京に遷都された際に、本寺を新たに奈良の都に建立しましたが、川原寺は移転せず、長い時間をかけて忘れられた存在になってゆき、平安末期に焼失してしまいます。中金堂があった場所に、川原寺の法灯を継ぐ弘福寺(ぐふくじ。写真に写っているお寺)が建っています。

 川原寺は、「日本書記」に創建の記述がなく、移転しなかった理由など謎に包まれた大寺です。川原寺の代わりに奈良の四大寺の一角を占めたのが興福寺で(東大寺は別格)、蘇我氏の菩提寺だった飛鳥寺(法興寺)は移転の際に寺名を元興寺に改めています。読み比べると、格付けが下がったような気がしません?(ちなみに興福寺は、藤原氏の菩提寺)
 日本書紀という謎の多い歴史書の記述を鵜呑みにしなければ、戦国時代や幕末に匹敵するほどダイナミックな飛鳥&奈良時代の「生きた歴史」が見えてくるような気がします。前半の山場は聖徳太子の登場と太子一族の滅亡、後半の山場は「大化の改新」(政治クーデター)「壬申の乱」(大規模な内戦)でしょう。聖徳太子も謎の多い人物ですが、天智天皇と天武天皇の関係も謎だらけで、「壬申の乱」は日本が経験した最初で最後の易姓革命だったのかもしれません。

 飛鳥マップは、 →ここをクリック

 続いて、石舞台古墳へと自転車を漕いでゆきます~♪


キトラ&高松塚古墳

2008-04-26 23:58:30 | 鹿男あをによし=奈良


                   


 坂道をウンウン言いながら自転車のペダルを漕ぎ、ひと汗かいてたどり着いたキトラ古墳は、このような変わり果てた姿になっていました。現場事務所といった方がいいかもしれません。13年前に訪れたときも、石室壁面の四神図(1983年に「玄武」が確認されたが・・・)や、天井の天文図がまだ発見されておらず、訪れる人のいない荒れ果てた小山に過ぎませんでした。
 その下の写真は、覆屋建設工事の写真だと思います。発掘調査が平行して行われ、墓道が発見されました。キトラ古墳の壁画は保存&修復のため、高松塚古墳に先立ってはぎとられました。現在、「国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区」の基本計画が発表されています。それによると、古墳も復元され、鑑賞だけでなく体験学習もできる大規模な公園を作ろうとしている模様・・・。


 苦労したわりに報われなかったキトラ古墳を後にして高松塚古墳に戻ったのですが、その前にお隣の(というくらい近い)文武天皇陵に寄ることにしました。文武天皇陵は高松塚から簡単に行けるので、正面やや遠方に見える巨大な(高松塚古墳の)仮囲いを目ざして脇道に入ったのですが、これがまずかった・・・道なりに走ってゆくと、目印がどんどん遠ざかってしまい、修正すべくさらに脇道に入ると行き止まり、といった具合で、走れども走れども高松塚にたどり着けません。見えるのに着かないなんて・・・まるで『鏡の国のアリス』の世界みたいだけど、悪夢そのもの。
 キトラに向かった道を素直に戻れば自然に高松塚に着くのですが、今さら国道になんか戻れるかと、年甲斐もなくむきになってしまいました。アップダウンを繰り返す曲がりくねった道を右往左往してようやく高松塚にたどり着き、さらに走って文武天皇陵に着いたという次第。噴き出した汗が北風に冷やされて・・・これでは昨日と同じではありませんか!


                   

(左)発掘当時の高松塚古墳の石室を忠実に再現したレプリカ(原寸大模型)や、壁画を忠実に模写したレプリカ(発見当時の壁画と、より復元された壁画の二種類が描かれている)が展示されている高松塚壁画館。
(右)石室のレプリカの覗き込むと、こんな感じ。とても複製とは思えない。石室内部は、D265×W103×H113cmと、非常に狭い。高松塚古墳にはいくつもの謎があり、被葬者もわからない。現実の世界では「大王」になれなかった皇子が埋葬されているような気がする・・・前に来たときもそうだったが、壁画館に来ると時間を忘れてしまう。この時点でお昼を回ってしまった。


 石室の解体作業が行われている現在の高松塚古墳。石室への入り口付近に貼られている写真は、往年の高松塚古墳。竹に覆われた小山だった。周辺には多くの古墳がある(陵も含めて)。


      

 高松塚古墳の石室入口は真南にあり、南北を結んだ線を空へ延ばしてゆくと、北極星と重なるようになっている。右の図は、古墳の南に位置する星宿の広場から見上げた星空の図で、左の写真は星宿の広場から高松塚を撮影したもの。真北には藤原京がある。藤原京の中心線を南へ延ばしてゆくと、菖蒲池古墳、天武&持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵、キトラ古墳の順序で、ほぼ一直線に並んでいる。何のために? 埋葬者は誰?


                   

(左)壁画館から周遊歩道を歩いてゆくと、花壇に四神が現れた。左から青龍、朱雀、玄武、白虎。なかなかリアルに作られていた。
(右)かなり寒いけれど、12時半を回ったところだし、途中の休憩所でお弁当を広げる。柿の葉寿司はなかなか美味だった。飛鳥みかんは、文武陵の脇の無人売店で一束100円で売られていた。


予定変更・・・飛鳥へ!

2008-04-25 23:48:00 | 鹿男あをによし=奈良


16時17分、甘樫丘に立つ。真下に飛鳥寺が見える。


 柿の葉寿司をGETしたニワトリさんは、近鉄奈良駅の4番バス乗り場で「岩船寺口」に停まる広岡行を待っていました。数台のバスが次々停まっては、数名のお客を乗せて発進してゆきます(近鉄奈良駅には16か所のバス乗り場があって、行き先は全部で50ほどある)。
 そうこうしているうちに、到着時刻の9時37分になりましたが、バスはやって来ません。交通渋滞もあって若干遅れているのだろう・・・と思いきや、10分近く過ぎても来る気配すらないので、念のためスケジュール表(一枚のルーズリーフ)をポケットから取り出しました。すると・・・
 乗らねばならないバスは9時37分ではなくて、9時27分でした。しかも「広岡」行は7時28分のバスで、9時27分のバスの行き先は「下狭川」行。今しがた見送ったバスではありませんか~~~!




風は冷たいけれど、眩しい日差しに恵まれ、
「飛鳥巡りには最高の日だね」と言われた。


 唖然呆然悄然とバス停に立ち尽くす間抜けなニワトリ1羽・・・「そんな馬鹿な」と頬をつねっても夢から醒めないし、時間は戻ってくれません。当尾をやめて、飛火野の「鹿寄せ」を見にいき、その足で白毫寺&新薬師寺と回りながら奈良町を散策する手もあると思ったのですが、「鹿寄せ」の始まる10時までに飛火野に着くのは無理で、それに当尾の岩船寺&浄瑠璃寺をあきらめろ、というのも酷な話です。どうしたものか考えているうちに、時間はどんどん過ぎてゆきます。
 「当尾を明日にして、今日は飛鳥に行くことにしたら? 予定では9時~9時33分の間に橿原神宮駅に着くことになっているけど、2時間遅れの11時スタートになっても、自転車で飛ばせば遅れを挽回できるかも?」
 考えても仕方がないので、切符を買って電車に乗ってしまいました。




ドラマにも登場した飛鳥の駅前。時刻は10時52分。イケるかも?


 橿原神宮から飛鳥まではわずか二駅だけど、電車を乗換えなくてはならないので、橿原神宮で自転車を借りることにしていました。10時39分と、思ったより早い時間に橿原神宮駅に到着(自転車を借りてこの時刻だから優秀~)、国道をガンガン飛ばし、10分足らずで飛鳥駅に着きました。すごいじゃないですか!
 早くも遅れを取り戻したような、大きな気持ちになってしまいました。せっかく飛鳥まで来たのだからキトラ古墳まで足を延ばそうと、ペダルを漕ぎ出したのですが、やめておけばよかった?


 キトラ古墳へ続くカントリーロード。平坦な道ばかりではないことをすっかり忘れていました。ひいひい言いながら坂道を登ると、肝心のキトラ古墳が・・・!


朝の散歩 ~鹿に話しかけられたい!

2008-04-24 23:57:22 | 鹿男あをによし=奈良



 翌朝は、6時に目が覚めました。朝湯を浴びて(自分の泊まった3Fに大浴場がある)シャキとした後は、朝食を待つばかり。7時になると同時に「朝食券」を握りしめて1Fの食堂に向かいました。
 朝食は和洋どちらも選べるバイキングで、おかずの数は大変豊富! 昨日は「大阪寿司」以外に白いご飯を食べていなかったせいか、無性にお米が食べたくなり、一膳目は納豆で、二膳目は海苔と鮭を中心にお腹いっぱい詰めこみました。
 食後のコーヒーを飲みながら周りを観察すると、このホテル、やはり市内から離れていることがネックになっているのか(いっそのこと、朱雀門の真ん前にあればいいのに・・・)、朝食を食べている人は、泊まりこみで仕事に来ているだろう職人さん達ばかり。もっとも、普通の観光客はまだ寝ているのかもしれません。部屋に戻る頃になって、観光客らしき人々もぼちぼち姿を現わしました。

 今日の予定は当尾。当尾行のバスは朝2便しかなく、7時28分と9時27分。最初の送迎バスがホテルを7時45分に出発するので、近鉄奈良駅まで送ってもらい、9時27分まで市内を散歩することにしました。本当は4時に起きて、昨日回りきれなかった古墳群を朝のうちに片付けてしまおうとも考えたのですが、寄る年波に勝てず、そこまで体力が回復しませんでした。
 7時40分にロビーに下りたのですが、送迎バスを利用しようという人は一人も現れません。50分まで他の乗客を待ちましたが誰も来ず、ニワトリさんの「貸切りバス」となりました。マイバスになったので?運転手さんも「行きたいところに降ろしてあげますよ」と言ってくれました。そこで、猿沢の池で降ろしてもらうことにしました。
 車中いろいろ話を伺ったのですが、飛火野で「鹿寄せ」(『鹿男あをによし』のエンディングをじかに見られる)が行われていること、3月1日から始まる東大寺二月堂の「お水取り」のこと、(小川先生&かりんとうのように)若草山に登るならバス便がないのでレンタカーを借りた方がいいことなど、耳より情報も教えてもらいました。『鹿男あをによし』については地元でも話題になっているらしく、あちこちに例のポスターが貼ってありますし、最近修学旅行で奈良を訪れる生徒が激減しているとのことで、「よくわからない(ドラマだ)けど、観光客が増えてくれればいいと思っているんだ」という、率直な感想を伺うことができました。


     

 朝8時の興福寺五重塔と猿沢の池。猿沢の池に身を投げた采女を哀悼して、柿本人麻呂と平城天皇が和歌を捧げている。
 「我妹子が 寝たくれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞ悲しき」(人麻呂)
 「猿沢の 池もつらしな 我妹子が 玉藻かつかば 水もひなまし」(帝)
 五重塔に続く階段を制服姿の生徒たちがゆく。この日は、この時間帯から修学旅行の生徒を見かけたが、翌日の同じ時間帯には一人もいなかった。確かに数が減っていることを実感した。右のバンビちゃんは、この日最初の「マイシカ」。


                   



 「鹿せんべい、そんなにうまいか?」 東大寺南大門の前で「鹿せんべい」を売る屋台。修学旅行の生徒がいる日は早い時間から店を開けているのかもしれない(翌日は30分以上遅かった)。生徒たちと共に鹿たちも店の前に集まる。
 奈良公園の鹿たちは「せんべい」を食べなくてもエサに困ったりしないが、「鹿せんべい」は「奈良の鹿愛護会」の登録商標で、「鹿せんべい」の売り上げが減少したことで「愛護会」は予算不足に陥り、奈良の鹿の保護活動にも支障をきたし始めている。観光客の皆さん、募金運動だと思って「鹿せんべい」を買いましょう! 


 朝日を受ける東大寺南大門と鹿たち。当たり前のようにそこにいるのが嬉しい。それは兎も角、ここでも写真が右肩上がりになっている・・・


       

(左)佇む鹿。誰かを待っていたのかもしれない。お行儀良く待ち続けた。
(右)近鉄駅前の下り坂にもこの標識が! 安全地帯まで道路を渡って撮影した。


      

(左)近鉄駅前の案内標識。猿沢の池 0.4km、東大寺 1.5km、春日大社 1.6km。1時間弱の朝の散歩だった。
(右)昼食用の「柿の葉寿司」も買ったし、あとは指定されたバス停でバスを待つだけだったのですが・・・
 


朝ドラ『瞳』について

2008-04-23 23:55:50 | 連続テレビ小説


 『ちりとてちん』の後に始まった朝ドラ『瞳』が、かなり苦戦しているようです。『ちりとてちん』は朝ドラ史上ワースト視聴率だったそうですが、その前の『どんど晴れ』(だっけ? 題名忘れた)は高視聴率を記録したらしく、視聴者が朝ドラを見なくなったというわけでもなさそう。『ちりとてちん』のファンは憤っていますが、ドラマ終了後もスピンオフ番組や落語関係の番組で盛り上がっているのだから、かなり溜飲を下げただろうし、個人的に一番買っている『芋たこなんきん』だって、限りなくワーストに近い低視聴率だったのだから・・・まあ、この手の数字は気にしないことですね。高視聴率番組や大ヒット作(ベストセラー)とかは、マニア以外の一般の人が見てくれる(読んでくれる)からこそ、そうした数字を計上できるわけだから。

 ここで抑えておきたいのは、映画でも文学でもいいのですが、「大ヒット作が数多く出ることがその世界を豊かにしてくれるのではない」ということでしょう。相乗効果や宣伝効果もあって、多少は全体的に底上げされるかもしれません。でも決して長続きしません。それどころか、ブームが去ったら殺伐とした荒野が残るだけ。近年のハリウッド映画しかり、最近の邦画しかり、ブロックバスターばかり作ってきた「つけ」が今になって回ってきて、にっちもさっちもいかない状態に陥ってしまいました。
 「その世界」を豊かにしてくれるのは、大ヒットはしないけれど少数の人々に高く支持される作品で、そうした作品を作ることのできる環境がなくなってしまえば、「その世界」は萎縮していくだけです。
(かつてのハリウッド映画は、ハリウッド映画自身の中にプログラムピクチャーという映画を活性化させる装置を持っていましたし、ヨーロッパ映画や邦画などハリウッド映画とは違うアプローチで映画に携わる人々がいて、互いに刺激し合いながら映画界全体を活性化させていたのですが・・・)
 早い話が、「利益至上主義」(視聴率にこだわるのもそれですね)だけでは、やがては行きづまるということです。極端な言い方をすれば、芸術家には採算を度外視したパトロンが必要なのです。個人でも企業でも国でも構いませんが、断固たる態度で作品を作らせてあげる人がいなくなったら、芸術はやがて死滅してしまうでしょう。
 「行政」の行うサービスも、同じではないでしょうか? 最近では予算が取れなくて、「オケ」を維持することもままならないようですが、伝統ある「オケ」を解散させていいのでしょうか? ローカル鉄道&バス路線の維持、医療&福祉、農政&エネルギー問題、環境問題、教育など、「民」がやらないこと&「民」ではできないことを行うために「行政」があって、そのために私達は税金を納めているのだから。

 『瞳』の話から甚だしく脱線してしまいましたが、「里親制度」という教育テレビの福祉番組で取り上げるような極めて真面目な問題を、(一般論として)非常に単純な人生観しか持ち合わせていない「朝ドラヒロイン」に演じさせるのは、やはり無理があるのでは? と思うようになりました。最初は、西田=池中玄太でしょ。『フルスイング』のような素晴らしいドラマになってくれることを期待したのですが・・・。

 少なくても、「コクる」「~っす」「すっげ~」といった言葉使いだけでもやめて欲しいと切に願います。3月から福祉の世界で仕事をするようになったのですが、何に一番気を使うかというと、話し方と聴き方です。
 聴くことについても瞳は、相手の話を良く聴かず自分の意見を相手に押しつけてばかりいますが、まあそれは置いておいて話し方について述べると、これはよく言われるような単純な「言葉狩り」=使ってはいけない言葉のことではなくて、単純にものを言うのはとても難しいということです。言葉以外に重要な言語があることも知ったのですが、「言葉」の大切さと難しさを思い知らされる毎日で、毎日いろいろ発見があるという点では楽しくて仕方ありません。『瞳』の脚本家は言葉のプロの筈なのに、この有様ではNHKの福祉番組を見て、一から勉強した方が良さそうですね。


平城宮と朱雀門

2008-04-22 23:59:10 | 鹿男あをによし=奈良


夕暮れどき、小川先生を乗せた特急が朱雀門の前を横切った・・・


 14時30分には奈良に着く予定だったけれど、線路内に人が立ち入った関係でJR奈良線が極端な徐行運転をしたため、電車は30分遅れてJR奈良駅に到着しました。貴志川線の乗車予定も若干変わったし、ついていないといえばついていないのですが、この日は天気も猫の目のように変わり、晴れていたかと思ったら突然雪や雨が降り出す始末。でも、着いた先は不思議と雨上がりで、一度も傘を差さずに済んだのだから、やっぱりついていたんだねえ~。




歩くこと30数分? ようやくたどり着いた宿。


 奈良の駅前も、相当強い雨がたった今止んだ、といった感じに路面が濡れていて、排水溝めがけて幾筋も小さな川が流れていました。雲間から太陽が顔を覗かせ、路面がきらきら光っています。
 今回宿泊先に選んだ「ホテル アジール奈良アネックス」は、一泊5500円(朝食バイキング付)の激安価格も魅力ですが、平城宮の朱雀門まで徒歩10分に位置していることが決め手となりました。
 ドラマ『鹿男あをによし』でも、何度もお目見えした朱雀門。神無月の儀式がここで行われたし、主人公の勤務する奈良女学館も平城宮の目の前にあるという設定なので、絶対に抑えておきたいポイントなのですが、それ以前に大変思い入れのある場所だったのです。


平城宮から若草山を望む。二人は若草山から市内を見下ろした。


 13年前にバブリーな不動産会社(楽しい8年間でした!)を辞めた際、奈良&京都を一週間かけて旅したことを書きましたが、猿沢の池に続いて訪れたのが奈良の都「平城宮跡」でした。朱雀門はまだ復元されていなかったのですが、その次に奈良を訪ねたとき、真新しい朱雀門の下に立ち、夕日に赤く染まった広大な平城宮跡を古の人のように歩き、感慨を新たにしました。今回も「節目」ともいえる旅行なので、朱雀門と平城宮は絶対にはずせない場所だったのです。


遷都1300年の目玉・・・平城宮跡地に大極殿が姿を現わす!

 
 予備の上着を一枚だけ用意しましたが(結局着なかった)、それ以外の荷物は歯ブラシ1本と、下着&靴下2セットに一眼レフカメラ&コンデジ、ガイドブックと単行本1冊だけです。宿泊先で無線LANが使えるというので、一眼レフと同時に購入したノートパソコンを持っていくことにしました。旅先でブログを更新できたし、画像を取り込むなど重宝したのですが、これらの荷物を肩に下げて駅から2km歩くのは結構しんどかったかも。ホテルの送迎バスも出ているのですが、この時間帯は走っていません。
 タクシーを使ってもよかったのですが、一直線のわかりやすい道だし、「2kmなんて、約30分でしょ。大したことないさ~」と、一歩を踏み出しました。少し歩くと、「タイ焼き屋」さんの前に差しかかったので、おやつ代わりにさっそく買い食いをする(結局昼抜きになってしまった・・・)など、余裕しゃくしゃくだったのですが、しだいにたすき掛けにかけたショルダーバッグが肩に食いこんできて、息は上がり足取りも重くなりました。大量に汗が噴き出してきたのですが、汗で濡れた体を寒風がなぶってゆくため、暑いのか寒いのか何だかわからない状況になってきました。あちこち工事中で、道路は渋滞しており、排ガスをまともに浴びながら歩くのも愉快ではありません。いい加減腹が立ってきたのと、本当にこの道で間違っていないのか不安を覚えたとき、ホテルの姿が見えてきました。


                   



 身軽になって、早速「朱雀門」へ繰り出しました。10分で着くはずだったのに、20分以上かかってしまいました。道を間違えていなかったのに、間違えたと思い込んでホテルまでUターンしてしまったから・・・。やけくそで歩いていたら、唐突に(右上写真)の大路に出ました。この路をまっすぐ行くと、(左上写真)のように朱雀門の前に着きました。自転車に乗った人々と比較してみると、朱雀門の大きさがよくわかりますね。
(望遠レンズで圧縮されているため、ほぼ同じ縮尺になっている)


      

 平城宮の一番南にあった朱雀門。平城宮跡は、調査を終えた通路や広場に砂利が敷かれ、建物のあった場所には芝が張られていて、柱の跡にイヌツゲを植えています。朱雀門付近は、この前訪れたときより整備が進んだ感じ。青空になるほど雲がとれたが、雲を飛ばした強烈な北風のせいで震えが止まらない状態・・・。


 夕暮れ迫る水上池。荒れ果てた感じが何ともいえない魅力を醸し出しています。前回は大極殿跡から天上人になれたのですが、復元工事の真っ最中なので立ち入ることができません。そのまま足を延ばして佐保路の古墳群を時間の許す限り訪ねることにしました。まずは平城天皇陵を訪ね、それからコナベ&ウワナベ古墳(共にかなり大きな前方後円墳だけど、埋葬者不明)、磐之姫命陵(仁徳天皇の后)へ向かって歩き始めました。


                   

 12年前はバイクだったので、易々と全ての古墳を回れたのですが、徒歩で全部回るのは時間&体力的に無理な相談でした。平城天皇陵の次にコナベ古墳(写真右)に向かったのですが、着いたときにはかなり日が暮れ、お隣のウワナベ古墳まで足を延ばすのは無理だと思い、磐之姫命陵(写真左)に向かいました。この段階で日が完全に暮れてしまったので、より魅力的な佐紀盾列古墳群に向かったところで、真っ暗闇では意味がありません(道に迷いそうだし)。寒さに震えながら休みなしに3時間も歩き回って、体力は限界に近づいていました。でも、夜の朱雀門を見ないで帰るのは癪なので、西大寺方面に歩かずに朱雀門に戻りました。


 そのとき撮影した写真の一部をすでにUPしましたが、どうやら自分はカメラを構えたとき右肩上がりになる癖があるらしく、水平が取れていないみっとない写真になってしまいました。それにしても恐ろしく寒く、鼻水と震えが止まりません。『鹿男あをによし』のクライマックスの場面でも、出演者の吐く息が真っ白で、この日と同じくらい寒い夜の撮影だったのだろうと、この日の夜のことを懐かしく思い出しました。
 このときは、これ以上無理をしたら本当に遭難してしまうかも?と思い、友達が薦めてくれた西大寺のお好み屋さんに向かうことを断念、近場で食事を済ませてホテルに戻ることにしました。息絶え絶えでホテルにたどり着いた哀れなニワトリでしたが、大浴場で息を吹き返し、ブログを書いたのち、テレビ(NHK特集をやっていた)を見ながら眠ってしまいました。


オトコマエ&女の道!

2008-04-21 23:59:00 | 連続テレビ小説


 土曜時代劇『オトコマエ!』、初回の硬さが解れたのか(肩に力が入っていたのは観ているニワトリさんの方なのでは?)、まだ第2回だけど、かなりいい感じになってきました。うんうん、確かに大した「オトコマエ」だぜ、福士の旦那!
 よくよく考えてみれば、初の主演ドラマですね。今までもかなり重要な役どころに出演して主役を食ってきました。陰に隠れてしまった感じの舞台=『ナツひとり 届かなかった手紙」』でも、良くやっていたと思います。ヒロインの視点でものを言えば、嫌われてしまう男というか、「いい人だと思っていたのにそんな秘密があったんだ」とか「やっぱりフツーの人だったんだね」となり兼ねないのに、彼が演じると根っから上品なせいか人物に嫌味が生じず、悪意を持てません。
 「それは、彼に演技力がないからでは?」と、こきおろす人もいるでしょうが、私は演技力を問う以前に資質を問題にします。当たり前の話だけど、彼は松田龍平ではありません。俳優としては全く違う資質の持ち主です。
 前にも書きましたが、俳優=福士誠治は、汗の匂いのしない男性、例えばゲイリー・クーパーやジェラール・フィリップのような「オトコマエ」を目指してほしい。同じ汗をかかない「オトコマエ」でも、ケイリー・グラントやマルチェロ・マストロヤンニとはちょっと違うんだな~。もちろん、クラーク・ゲイブルやショーン・コネリーのような、フェロモン全開「オトコマエ」じゃなくて・・・。
 例えが古くてニュアンスが伝わらなかったかもしれませんが、溌剌と演じていることが画面からビシバシ伝わってきて、実にいい感じです。13回終わったところで彼がどんな顔になっているか、非常に楽しみです。

 そして、これはこちらの欲目と思いますが、『篤姫』を演じているあおいさんも、福士=逸馬の頑張りを意気に感じているかのように、実に生き生きとしてきました。とうとう、あの徳川斉昭の心をもつかんでしまいましたが、これは決して彼女の「無鉄砲」や「無礼」が通ったのではなくて、慧眼な斉昭が斉彬と同じように篤姫の人間性を見抜いたからであり、知性の高さや洞察力の深さ、探究心の強さなどが彼らを魅了したからに他ありません。それを、あおいさんはちゃんと演じていました。というか、どうやら篤姫としてドラマを生きているみたいで、いよいよ面白くなってきました。皆が皆、歴史上の人物になることを大いに楽しんでいるように見受けられます。大ベテランの高橋&松坂両氏とも、互角に渡り合っているというか、呼吸もぴったりです。個人的には、久々の「大当たり」かもしれません。
 篤姫の今後の人生を知る我々としては、「こし入れ」までの今という時間を十二分に楽しんでください、と願うだけです。第16回はリアルタイムではなくて、たった今見終わったのですが、「波乱」という言葉とは裏腹に良いお話でした。来週はいよいよ尚五郎が江戸へやって来ます。土日の連弾(通じない人もいるかもしれません)が、今から待ち遠しい~♪