竹下景子さんには何の罪もないのだけれど、今日も、最後に、思い切り、白けました。「お願い、言わないで!」
このナレーション、「朝ドラ」には必ずついてまわる代物だけど、とにかく邪魔で仕方がない。前回ドラマの「由布岳」クンも結構耳ざわりなときがあったと思うが、前々回の「ファイト」になると、ナレーションに関する記憶が全くない(ニワトリ頭のせいもあるが)。時間が経つにつれて忘れてしまうなら、やっぱり最初から必要ないのでは?
副音声なら「消せる」し、それに副音声は(ハードボイルド小説のように)画面に映っていることだけを描き「心理描写」なんてしないからな。ドラマの内容をスポイルすることはない。「がんばって!桜子」は、母親の気持ちとして「いいなあ」と思ったけれど、「予言」と「心の中の解説」には気持ちが萎えるだけ。思えば、人気「純きら」ブログで最初にコメントしたのが、このナレーションのことだった。「ナレーションに耳を塞いで、15分間に仕方なく省略されてしまう部分を脳内で補い、演じている俳優の表情から行間を読んで、この世界をより豊かにしたい・・・」そんな書き出しだったと思う。
鈴村と杏子&幸を皆で祝っている最中、それこそナレーションによれば、「本当の幸福に包まれた幸せなとき」に、必ず不幸がやってくる。これを「きらりの法則」と呼ぶ。「第2週~ピアノが来た」→源一郎の死。「第9週~今宵君と踊ろう」→拓司の死。「第12週~絆が試されるとき」→音楽学校入学を断念する。「第20週~来ぬ春を待ちわびて」→山長の女将になることを諦める。これまで何度も何度も繰り返されてきた。今回の不幸は「八州治に来た召集令状」。戦争末期になると、17~45歳までの男子は「根こそぎ動員」されているので、「赤紙」が来ること自体は不思議ではないのだが、ささやかな幸福を感じている最中の不幸な知らせだけに、八州治のキャラクターに準じたプチ「きらりの法則」ということになる。
昨日、怒りに任せて口走った人々は、最初から不在を約束されているマサ以外は「きらりの法則」にしたがって、都合よく殺された人々だ。
①物語は、ある人物の死を契機に新たな展開を迎える。
②ある関係を描くために、都合の悪い人間は排除される。
③いずれの場合も、「幸福感」がピークに達した後に不意に訪れる。
源一郎、斉藤先生(実家の破産)、拓司、かね、達彦(②のために死んだことに)、鈴村の父、鈴村の妻子、幸の両親、冬吾が救えなかった子供、和之の母、皆こうして物語から排除された。ここで以下の問題が生じる。
④視聴者は、「違和感」や「後味の悪さ」が先に立って、その結果生じた新たな関係や展開を素直に受け入れられず、否定的な感情を抱く。
⑤新たな関係ができる以前の、「排除された人々を巡る」ドラマに感動した自分が馬鹿馬鹿しくなる。
私は、これから磯がどんなに和之を愛そうと、磯が和之の頼みを断わったとき以上の感動は覚えないし、そのエピソードすら今では汚されてしまったことを悲しく思う。登場人物たちが不憫でならないが、一番の被害者はやはり桜子さんだ。せっかく音楽学校に合格したのに入学できないし、山長の女将にもなれない、恋する想いも最後まで遂げられず、唐突に婚約者の死を信じさせられ、無理矢理気がつかされた「一番大事な人」への想いとやらに日々揺れている・・・
ここからはドラマの中だけの感想です。
桜子さんは昨日、「一緒にいると苦しい」と言ってましたね。そこまで深刻なら「純情きらり」でなくて、トリュフォーの「隣の女」ですよ。桜子さん!
冬吾もまた、今日の「あのとき死んでも良かった」発言は、駄目ですね。魂がどうしたこうしたって、抽象的な表現を使ってますが、「愛の告白」も同然!
「自分が生きていくために貴方が必要なんだ」ということを相手に告げてしまったら・・・
竹下さんの「予告」どおりにはいかなくて、二人が他の人たちと(場合によっては永遠に)お別れするのが普通だと思います。
夏目漱石は、「それから」が起こした顛末を「門」できちんと描いていますよね。竹下さんの「予告」どおり、物語が進んでいくことが明らかである以上、二人は心情を吐露することなく、静かに離れていくべきだったのですが・・・
このナレーション、「朝ドラ」には必ずついてまわる代物だけど、とにかく邪魔で仕方がない。前回ドラマの「由布岳」クンも結構耳ざわりなときがあったと思うが、前々回の「ファイト」になると、ナレーションに関する記憶が全くない(ニワトリ頭のせいもあるが)。時間が経つにつれて忘れてしまうなら、やっぱり最初から必要ないのでは?
副音声なら「消せる」し、それに副音声は(ハードボイルド小説のように)画面に映っていることだけを描き「心理描写」なんてしないからな。ドラマの内容をスポイルすることはない。「がんばって!桜子」は、母親の気持ちとして「いいなあ」と思ったけれど、「予言」と「心の中の解説」には気持ちが萎えるだけ。思えば、人気「純きら」ブログで最初にコメントしたのが、このナレーションのことだった。「ナレーションに耳を塞いで、15分間に仕方なく省略されてしまう部分を脳内で補い、演じている俳優の表情から行間を読んで、この世界をより豊かにしたい・・・」そんな書き出しだったと思う。
鈴村と杏子&幸を皆で祝っている最中、それこそナレーションによれば、「本当の幸福に包まれた幸せなとき」に、必ず不幸がやってくる。これを「きらりの法則」と呼ぶ。「第2週~ピアノが来た」→源一郎の死。「第9週~今宵君と踊ろう」→拓司の死。「第12週~絆が試されるとき」→音楽学校入学を断念する。「第20週~来ぬ春を待ちわびて」→山長の女将になることを諦める。これまで何度も何度も繰り返されてきた。今回の不幸は「八州治に来た召集令状」。戦争末期になると、17~45歳までの男子は「根こそぎ動員」されているので、「赤紙」が来ること自体は不思議ではないのだが、ささやかな幸福を感じている最中の不幸な知らせだけに、八州治のキャラクターに準じたプチ「きらりの法則」ということになる。
昨日、怒りに任せて口走った人々は、最初から不在を約束されているマサ以外は「きらりの法則」にしたがって、都合よく殺された人々だ。
①物語は、ある人物の死を契機に新たな展開を迎える。
②ある関係を描くために、都合の悪い人間は排除される。
③いずれの場合も、「幸福感」がピークに達した後に不意に訪れる。
源一郎、斉藤先生(実家の破産)、拓司、かね、達彦(②のために死んだことに)、鈴村の父、鈴村の妻子、幸の両親、冬吾が救えなかった子供、和之の母、皆こうして物語から排除された。ここで以下の問題が生じる。
④視聴者は、「違和感」や「後味の悪さ」が先に立って、その結果生じた新たな関係や展開を素直に受け入れられず、否定的な感情を抱く。
⑤新たな関係ができる以前の、「排除された人々を巡る」ドラマに感動した自分が馬鹿馬鹿しくなる。
私は、これから磯がどんなに和之を愛そうと、磯が和之の頼みを断わったとき以上の感動は覚えないし、そのエピソードすら今では汚されてしまったことを悲しく思う。登場人物たちが不憫でならないが、一番の被害者はやはり桜子さんだ。せっかく音楽学校に合格したのに入学できないし、山長の女将にもなれない、恋する想いも最後まで遂げられず、唐突に婚約者の死を信じさせられ、無理矢理気がつかされた「一番大事な人」への想いとやらに日々揺れている・・・
ここからはドラマの中だけの感想です。
桜子さんは昨日、「一緒にいると苦しい」と言ってましたね。そこまで深刻なら「純情きらり」でなくて、トリュフォーの「隣の女」ですよ。桜子さん!
冬吾もまた、今日の「あのとき死んでも良かった」発言は、駄目ですね。魂がどうしたこうしたって、抽象的な表現を使ってますが、「愛の告白」も同然!
「自分が生きていくために貴方が必要なんだ」ということを相手に告げてしまったら・・・
竹下さんの「予告」どおりにはいかなくて、二人が他の人たちと(場合によっては永遠に)お別れするのが普通だと思います。
夏目漱石は、「それから」が起こした顛末を「門」できちんと描いていますよね。竹下さんの「予告」どおり、物語が進んでいくことが明らかである以上、二人は心情を吐露することなく、静かに離れていくべきだったのですが・・・