上野散歩その2 ~穴稲荷から不忍池+岩崎邸へ

2007-01-31 23:58:30 | 日常&時間の旅


子供に帰るトンネル、鳥居の輪をくぐる


 上野公園内の「戦士乃墓」(その1参照)は、埋葬も許されずに野ざらしにされている彰義隊士の遺体を、見るに見かねた円通寺(南千住にある)の住職=仏麿和尚と寛永寺の御用商人達が火葬した場所に建てられてました。墓標を書いたのは旧幕臣の山岡鉄舟。明治政府にはばかって「彰義隊」の文字はなく、「戦士乃墓」とだけ書かれています。

 お昼を食べてから、大仏山に上りました(「戦士乃墓」は帰り際に寄った)。関東大震災で被災するまで、ここに上野大仏殿が鎮座していました。今では仏頭だけが、大仏山の丘に飾られています。
それから、私が一番好きな場所、花園稲荷神社の「穴稲荷」に向かいました。

 現在の「花園稲荷」に気をとられていると、見落としがちな「穴稲荷」の入口。提灯が燈された暗い路地を左に入る。

                   

 正式名称は「忍岡稲荷」。旧花園稲荷大社。寛永寺を建立する際の「開発」で、住処を失った上野の狐(名前=弥佐衛門狐)のために祠を作った。昼間も暗く、雰囲気満点(高感度で撮影)。蝋燭立てがお洒落なので、明かりを燈してあげて~

 住処をなくした弥佐衛門狐たちが暮らした祠。お供え物を頂いて余生を過ごしたそうな・・・のどかなお話ですが、ここ花園稲荷は彰義隊が最後の戦い(穴稲荷門の戦)を挑んだ場所でした。上野の山で斃れた二百六十余名・・・梶井基次郎の短編『桜の樹の下には』のお話は、あながち空想ではないかもしれません。花咲か爺さんが枯れ木に撒いた「灰」は、火葬された人の骨を細かく砕いたものとも言われています・・・


稲荷神社を下って、五条天神社に出る。温暖化のせいで、1月だというのに紅梅の大木が七分咲き。香りはいいし、綺麗だけど、困ったものです・・・


                   

冬の不忍池は水鳥たちの楽園です。ポカポカ陽気を満喫して・・・


餌をあげるのは駄目とはいいませんが、スナック菓子やパンをあげているのが気になりました。健康のため、鳥用の餌をあげて欲しいデス・・・


                   



(上)白鳥ボートの後を追う鳥たちと、(下)一糸乱れぬユリカモメの艦隊




                   

(上)カモメの編隊、ぐるぐる舞う。(下)トシ子と並んでよちよち歩いた。

 
 弁天様にお参りしてから、不忍池をぐるっと回って岩崎邸へ向かいました。
岩崎邸を設計したのは、ジョサイア・コンドル。ニコライ堂や鹿鳴館も彼の作品です。 木造2階建て・地下室付きの洋館は、17世紀の英国ジャコビアン様式を基調に、ルネサンスやイスラム風の意匠が採り入れられていて、洋館の南側のベランダ列柱は、1階がトスカーナ式、2階がイオニア式の装飾が施され、床にはペルシャ風デザインのタイルが敷かれています。洋館南側はペンシルヴァニア州のカントリーハウスをモデルにしていると言われていますが、要するに和洋折衷、それも「ごった煮」。洋館と隣り合わせた和館は書院造りを基調にしています。私のお師匠さんはここで「お茶」を召し上がったりします。 →ここをクリック



                    

(上)ヒッチコックの『レベッカ』に出てくるマンダレーの大邸宅(あちらは石造りだけど)みたいなゴシックな洋館。表と裏で全然別の顔に。右に傾いているのは撮影者のせい・・・
(下)ペンシルヴァニアというか、『テキサス・チェーンソー』に出てくる常軌を逸した家族が住んでた家に見えなくもない・・・(ごめんなさい。すごい例えで。でもあの映画、ジェシカ・ビールが実によかったよね?)




                     

(上)午後の日差しを浴びて影を落とす階段。窓の格子(写真には写っていない)も素敵!
(下)下から見上げるとこんな感じ。装飾が素晴らしいです。これがジャコビアン様式。


           

 2階から屋上へ。階段好きにはたまらない光景。地下室への階段も見たかった・・・他のお部屋や意匠などは、↑お師匠さんのところでご覧下さい。

 本日の上野散策はここでおしまい。その3は来週? それではなさい・・・


上野散歩その1 ~江戸を護る最重要地

2007-01-30 23:58:50 | 日常&時間の旅


 東京都美術館まで来たら、そこでUターンしないで、「旧東京音楽大学奏楽堂」まで足を延ばしましょう。おや?奏楽堂のはす向かいの交差点にミニ国会議事堂が・・・

 京成電鉄「博物館動物園前」駅跡です。10年前まで現役でした。
 昭和8年、京成電鉄は地下を走って日暮里から上野へ乗り入れます。それに伴い、日暮里~京成上野間に、「博物館動物園前」と「寛永寺坂」のニ駅が開設されましたが、「寛永寺坂」駅は戦時中の昭和18年、駅統合により廃止(交通博物館になった「万世橋」駅と同じ運命をたどる)、戦後復活したものの一年で休止、昭和28年(1953年)に廃駅となりました。生き残った「博物館動物園前」駅も、ホームが短くて4両編成の車両しか停まれないため、廃駅もやむなしと言われますが、そのたびに反対運動が起こり、駅職員1名・営業時間7~18時に短縮されながらも、1997年3月まで存続していました。私はスカイライナー以外京成線に乗ったことがなく、2004年に完全に廃駅となるまで存在すら知りませんでした・・・
 日暮里~京成上野間は、動物園・美術館・御領地の地下を通るため、ルートを確保するのが非常に難しく、なんでも40パーミル(多分4%の勾配ということでは?)の急勾配と、R120メートルの曲線区間(急カーブ)があるんだって・・・今度、京成線に乗ることがあったら、地下走行中に「急坂&急カーブ」をイメージしてみよう~と。


                   



 『純情きらり』でも、達彦&桜子が見上げていました。二人が受験会場の奏楽堂を下見に来るシーンは横浜で撮影されたそうなので、実際にこの建物を見上げていたわけではないのですが、気が早い私は、GWに早速「奏楽堂」内部を見学に行きました。近代音楽史の貴重な資料の数々、音楽学校の全体図(奏楽堂は左右を殆ど切りつめてしまっている)、解体時の遺構、当時のままのホールを見て、「このホールで、二人は演奏するのだろうか?」とか、「教室の授業風景はどこで撮るんだろう」とか、先走って考えていました。
(妄想が無駄に終わったことは、皆さんご存知ですね・・・)




                   

 引き返して「上野東照宮」に向かいます。上野は江戸城の鬼門にあたる場所なので、徳川家を護る菩提寺「寛永寺」を築き、境内に初代家康を祀る「東照宮」を建てました。当時は、上野の山全体が寛永寺でした。
 幕末の上野戦争(1868)により主要伽藍を焼失してしまうのですが、上野東照宮、動物園内の五重塔、公園内の清水観音堂、不忍池の弁天堂などは、今も健在です。
 上の写真は東照宮の唐門(左甚五郎作「五本指の龍」)。唐獅子の頭の上で何か動いている・・・雀でした。どうやらお宿にしているようです。「重要文化財なのに、いいのだろうか」と思いましたが、「ネットを張る無粋より、雀に遊ばせてやれ」という方が江戸っ子らしくていいかも。



                   

(上)東照宮へ続く石灯籠と寛永寺の五重塔。葉のない季節だから五重塔がよく見える。
(中)待望のランチタイム。四つの味が楽しめるピザは直径18センチ。
(下)大勢の子供たちで賑わう遊具施設。三人乗りミニ回転木馬の昼間の表情。




                   

 先ほど、上野の山は江戸城の鬼門だと書きましたが、京都がそうだったように、江戸もまた「風水思想」が織り込まれています。鬼門の地に建てられた寛永寺は、京都の延暦寺のように、江戸の町を護る役割を帯びていました。
 1868年、徳川慶喜は大政奉還をしますが、これを不服とした幕府軍が鳥羽・伏見で薩長連合軍(新政府軍)と衝突し、戊辰戦争が起きました。西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸の無血開城が決まりましたが、これに反発した彰義隊が寛永寺に立てこもり、政府軍と戦闘になりました。彰義隊は約二百数十名が戦死して壊滅、政府軍は遺体の回収を禁じる厳しい処置を取りますが、その後、供養の墓が建てられました。本当のお墓は円通寺にあって、戦闘が行われた黒門も、円通寺に移設されています。
 彰義隊の墓(戦士乃墓)は西郷隆盛像の近くにあります。西郷隆盛は上野戦争で最後まで攻撃に反対したと言われていますが、最終的には大村益次郎と共に戦闘に参加しました。
 ところで、なぜ西郷さんの銅像が上野にあるのでしょう?
 西郷が後に西南の役を起こして官軍から賊軍になったからだ、と言われています。
賊軍の大将に彰義隊の霊を慰めさせる・・・と同時に、西郷から賊軍の汚名をそそいであげ、逆にその人徳を称える。恨みをのんで死んだ者に対する日本特有の鎮魂の方法です。
「彰義隊の霊も西郷の言うことなら聞くだろうし、名誉を回復された西郷が彰義隊を引き連れて、日本国に報復するようなことはないだろう」というわけです。
 さらに、念には念を入れて、(政府軍の大将だった)大村益次郎像が、靖国神社から上野方面を監視しながら、不測の事態に備えています。
(その2へ続く)


オルセー美術館展 ~ゴッホの寝室で・・・

2007-01-29 23:55:21 | 美術館&博物館など



 土曜日は、7時~10時まで仕事をした後、先週の敵をとろうと上野へ向かいました。あのときは気温6℃と真冬の寒さでしたが、今日は4月並みのポカポカ陽気。でも、太腿の痛みはさらに激しく、ストレート歩行はカクンカクン、階段歩行は半歩ずつと、ボロボロの足回り・・・
 よせばいいのに、美術展を観てから上野の山と不忍池を一周し、岩崎邸まで足を延ばしたので、最後は股関節まで「きて」しまいました・・・
 〈オルセー美術館展〉は今日が初日。当初の予定には入っていなかったのですが、意外と空いている感じだったので、寄ってみました。今まで初日は混むに違いないと考えていたのですが、開催末期に出かけるよりGooだった?




バロットン 『ボール』

 〈オルセー美術館展〉は今回が3回目、96年の「モデルニテ~近代の誕生」、98年の「19世紀の夢と現実」、今回の「芸術家達の楽園」で、結果的にトリロジーが完成することになりました。個人的には98年の展覧会の記憶が希薄・・・というか、完全に忘れていたのですが、図版を見ると、「生々しい」現実が描かれていました。同じ印象派でも、社会派と呼んだ方がいいのではないかと思うくらい・・・工芸品では、第2回もアール・ヌーボーが中心でした。
 3回目の〈オルセー美術館展〉は、本家帰りというか、第1回同様、美術館が所蔵する代表的な絵画を中心に、日本の影響を受けた陶芸と、新しい芸術である写真と、オルセーが新たに収集した作品が展示されています。エッフェル塔やパリ万博、ジャポニズムやアール・ヌーボーに言及した第1回に対して、第3回は(新しい芸術「写真」も含めて)正攻法で作品を味わってもらおうと考えているのかもしれません。ボールを追いかける少女と遠景に婦人を配したフェリックス・バロットンの『ボール』は、今回の隠し球?


左から第1~3回(1&3の表絵になったベルト嬢)


 図版の表紙になったマネの『スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ』、マネの弟子(そして義妹にもなる)のベルト嬢は、第1回展覧会の図版の表紙になった『バルコニー』にも姿を見せている。彼女をマネに紹介したアンリ・ファンタン=ラトゥールは、今回肖像画の『シャルロット・デュブール』が展示されているが、第1回では『デュブール家の人々』の中の一人として描かれていた。どこかで見た人だなあと思ったら、彼女だったんだ・・・二人の女性が1&3回に登場したのは偶然? それとも軽いジョーク?


     マネ 『ブーローニュ港の月光』  

                       

                          モネ 『ベリールの岩、打ちよせる波』

 
 『スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ』は確かに素晴らしかったけれど、同じマネだと、『ブーローニュ港の月光』や、『アンリ・ロシュフォールの逃亡』を個人的に気に入りました。でも、絵葉書がなくて残念。人気のクロード・モネは3点ほど来てましたが、『ベリールの岩、打ちよせる波』が凄かった。でも、この絵も絵葉書はなし・・・なんで~




スーラ 『ポール=ダン・ベッサンの外港、満潮』

 点描といえば、ジョルジュ・スーラ。液晶テレビのCMで有名になりましたが、『ポール=ダン・ベッサンの外港、満潮』は、「午後のまどろみ」といった風情。額縁まで点描されていました。感激です。点々の細かさでいったら断トツ世界一?


                     モロー 『ガラテア』

 私の好きなオディ・ルドンも何枚か来てくれましたが、ギュスターブ・モローの『ガラテア』を見ることができて感激。海の精ガラテアの周りに配してある海藻や海生動物のが宝石のように精微に描かれている。モローの絵の周りだけ別空間といった感じ・・・パリの「モロー美術館」に行きたい。どこでもドアが欲しい~


 圧巻は、やはりフィンセント・ヴァン・ゴッホの『アルルのゴッホの寝室』。異常に思えるくらい圧倒的なエネルギーを発している。この絵はいったい何なんだ!こってり盛り上がった絵の具、色が過剰なくらい溢れているのに見事な配色。特に床。そして歪んだ空間と壁に掛けられた自画像。同じ名前の作品が三点あるが、生で見ているせいか、オルセー美術館所蔵の作品は鬼気迫る感じがする。この絵の前に立つと、誰よりも幸福を希求しながら永遠の孤独を抱えた心、つまりゴッホの魂にじかに触れてるような気持ちになる。弟に宛てた手紙でゴッホは、「穏やかな静けさを表現したかった」と書いているが、こんなに悲しい絵を見るのは初めてだと思った。


                        

 そんな印象を受けてしまったのは、ゴッホの絵の隣にポール・セザンヌの『サント=ヴィクトワール山』が展示されていたからかもしれない。この山は、セザンヌが愛してやまない故郷の山だそうだ。セザンヌは何度もこの山を描いた。なるほど郷愁という名の幸福感に包まれた「幸せな絵」だ。見ている自分も幸福感に包まれる。そして隣のゴッホを見ると・・・

 オルセー美術館展公式HPは、 →こちらをクリック
 『ゴッホの寝室』他の2点は、 →こちらをクリック


「西高~~ファイト!!」 ~対面(トイメン)に勝て!

2007-01-28 23:50:25 | 独り言&拾いもの


 土曜日の夕方、立川で、高校時代に所属していたラグビー部の同窓会があり、武蔵小金井行きの上り最終電車で帰宅しました。その日はとても長い一日だったのですが、これから三つに分けて記事を書くつもりです。最初の記事は極めて個人的な内容で、三度『風が強く吹いている』の話が出てきたりして、「またかよ?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、よろしかったら、しばしおつきあい下さい。

 「アオタケ」の寛政大学陸上部員(だったとは誰も自覚していなかったけど)は、十人全員がめっぽう酒に強かったけれど、運動部の人間はおおむね酒飲みなのかもしれません。
 その日は、二期生ラグビー部員19人+二期生マネージャー2名、ほぼ全員が集合しました。さらに、3期~12期の後輩も参加してくれました。
(今年はラグビー部創立30周年、後輩たちが大規模な同窓会を企画しているとのこと)
 高校卒業以来、今日初めて再会を祝う仲間もいて、ボルテージがどんどん上がっていったのですが、いつも冷静な俺(今日は俺で行きます)がざっと見渡したところ、なるほど全員非常に酒が強い。飲めないのは当時痩せっぽちで(今もスリム!)アイドルみたいな可愛い顔をしていたK君と、自分ぐらい・・・(三次会で熟睡モードに入ったU君もいましたが)

 今も!現役競輪選手のS君は、頭を修行僧のように丸めていたせいか、当時の顔を思い出せなかったけれど、彼以外の人物は、髪の毛が後退していようが、顎が無くなっていようが、見間違えることがなかったのは、さすが同期の桜だから? ナンバー8のM君なんか、あの頃と全く変わらないほど若々しかったよ~(当時が老けていたからだとの声もあり)。
 皆が口々に言ったのは、「あの頃、今の体重があったらなあ~」
 現役の頃、「体重を増やせ」と、よく言われたものです。当時、国学院久我山FWの平均体重が80kgぐらいだったから、15人のアベレージだと、15kg以上劣っていたと思う。
「でも、今だったら、3分も走れないぜ」
 自分でも意外だったのですが、ビール一杯で顔が真っ赤になってしまい、会社では全く飲まずに「食い専門」に徹している人(=俺)が、飲んだ飲んだ~
(ここでもやはり食べたけど)
 皆は飲んで強くなったのかもしれませんが(高校生の頃から強い人もいましたけどね)、自分の場合は「気持ち」でしょう。

 初めて会った六期の後輩と駅まで一緒に帰りながら、いろいろなことを考えました。『風が強く吹いている』つながりだと、その日、立川に向かう電車の中で、神童以後の襷リレーを目を潤ませながら読んだのですが、「それほど物語に惹かれてしまった理由や、自分が彼らのどの部分にシンクロしたのか、そして彼らが走りながら何を感じたのか」を、今晩はっきり実感できたと思いました。何でこのことを今日の今日まで忘れていたのだろう? それどころか、ずっと背を向けていたのだろう? それを思い出した今なら、物怖じすることなく、昔のように勇気を振り絞って、ぶつかっていけるのではないか?
こ こ数年、眠りが浅く目覚めも悪かったのですが、昨晩は本当に久し振りに熟睡したようです。今朝目覚めたとき、気持ちがいいくらい、頭がきいんと痺れていました。

 高三の春季大会。一回戦で敗退した。それも45-0という大差のスコアで。
試合は雨の中で行われた。敵味方を判別できないくらい、顔もユニフォームも泥にまみれた。泥濘に足を取られ、いつも以上に体力を消耗した。FWはスクラム、モール、ラックで相手に圧倒された。BKもパスが通らずゲインラインを突破できなかった。ボールはスクラムハーフの自分が出さなければ始まらないのだが、いつもの距離の半分もパスが届かない。我々は水を吸って重くなったボールを何度も落として、ノックオンの反則を取られた。
 試合開始早々、顔面を強打して鼻血を出してしまった。鼻血が出ると呼吸がスムーズにいかなくなる。走ると息が上がって非常に苦しい。手鼻を切りつばを吐くと、真っ黒な血の塊が出てきた。それで楽になるが、すぐに鼻と口がつまってしまう。運動量には自信があったのだが、全然動けなくなってしまった。悪いことはさらに続く。雨に濡れて筋肉が冷えたのか、全力疾走すると足がつるようになってしまった。足がつったぐらいではゲームは中断しない。それどころか、試合中に足がつるなんて、こんなに恥ずかしいことはなかった。その程度の練習しかしてこなかったということだった。

 こんな大雨の中で試合をするのは初めてなので実力を出し切れなかった、と言えなくもない。だが、条件は相手も一緒だ。完敗だった。
 ノーサイドの笛を聞いたとき、悲しいとか悔しいとかじゃなく、情けなくて涙が流れた。あれだけ一生懸命練習してきたのにこの有様か・・・いや、練習がまだまだ足りなかったのだ。もっともっと走りこむべきだった。それともこれがお前の全力なのか? いろいろな思いが頭を駆け巡り、ただただ涙がこぼれた。このときばかりは降り止まぬ雨に感謝した。

 叩きのめされたのはこのときが初めてではなかったのに、なぜか、これで全てが終わってしまったと思った。終わってなんかいなかった。まだ春なのに。また一から始めれば良い。三年生は春の大会後に引退する者が多いが、自分は受験勉強なんてさらさらする気はなかったので、ラグビーをやめる理由は何もない。なのに、ユニフォームを脱いでしまった。
 今でいう「燃え尽き症候群」になってしまっていたのかもしれない。真面目で思いつめるタイプだったから。いや単に、投了するのが常に早い人間だったのかもしれない。
 『風が強く吹いている』では、箱根の山を熱のある体で走る〈神童〉に、監督が「碁はどのタイミングで投了するかが難しいんだ」と言って、リタリアする勇気を説くが、10人が走り終わって初めて完成する試合に投了はあり得ないと、〈神童〉は走り続ける。ラグビーもまた、駅伝と同じ団体競技だった。

 昨日初めて気づいたことがある。自分は燃え尽きてユニフォームを脱いだと思い込んでいたが、実はそれだけでなく、補欠になることが嫌だったのではないかと・・・
 四期生、つまり自分が三年生になったときに入部してきた一年生に、優れた素質を持つ者が数名いた。二代目のSH(スクラムハーフ)は、のちに早稲田に進学することになる逸材だったのだが、自分が一年かけて覚えたことをたったの一ヶ月でクリアしてしまった。それどころか、練習でスクラムサイドを突破してくる彼を一度も止められなかった。それまで自分は、そこそこ行けてるとうぬぼれていたが、本物を見て「とてもかなわない」と思った。そして、試合に出られないなら辛い練習に耐える意味はないと、尻尾を巻いて退散したのかもしれない。そうだとしたら、情けない男だ。

 三年生は五人しか残らなかった。後悔はすぐにやってきた。「自分は主将に最後までやると言っていたのに、裏切ってしまったのだなあ」と思った。もしかしたら、彼は僕がそう言っていたことを覚えていないかもしれない。でも、そのことが後々まで尾を引いてしまった。後悔するぐらいだったら、もう一度頭を下げて一緒に練習するべきだった。Y君のように。
 ラグビー部をやめて、文系の生活が戻ってきた。僕は映画と本の世界に逃亡した。大学では、高校でスポーツをやっていたことを誰にも語らなかった。クラス別のソフトボール&サッカー大会で、意外な活躍をする自分に、クラスメートが不思議そうな顔をしたくらいだ。

 ラグビー部を立ち上げた頃は連戦連敗だったのに、四期生が三年生になる頃には、「都立高のくせにラグビーが強い」と評判になり、私立の名門校とも互角に渡り合うほど成長した。六期生からは、大東文化大にスカウトされた者も出た。大東文化大は、トンガ勢の活躍もあって大学日本一になったが、彼もまた全日本のメンバーに選ばれる選手になり、今では全日本のコーチを務めている。そうした雲の上の人が、昨日は顔も知らない二期生の「後輩」に過ぎなかった。こちらが強制したのでない、後輩は何年経とうと後輩ということで、敬意を払ってくれていたのだった。

 運動部の絶対的な上下関係が嫌いな人がいる。かくいう自分もその中の一人で、先輩風は決して吹かさなかったし、それ以前にユニフォームを脱いでいた。昨日は十二期まで主要メンバーが集まってくれたが、自分よりはるかに立派な後輩たちに、どの顔下げて会ったらいいのだろうか? ずっとそう思っていた。
 でも、そうではなかったのだ。世の中には努力だけでは超えられないものが存在するが、言い方を変えれば、努力だけは公平にできるということだ。それが一番尊い。だから例えば六期生は、同じ目標をもって厳しい練習を重ねてきたという一点で全員が平等なのだ。一人が頂点を極めたが、その意味では六期生全員で勝ち取ったものだ。同じことは世代間にもいえる。自分が一緒に汗を流したのは四期生までだが、我々は皆同じ夢を追い、同じような練習をして、同じ汗と涙を流した。だから、何期生だろうと、同じ釜の飯を食った仲間なのだ。あの夜、六期生と駅まで歩きながら、このことを初めて理解した。

 レベルは全然違うけれど(何しろ僕は二回しか勝った覚えがない)、僕らは僕らなりに結構頑張っていたと思う。指導してくれる人がいなかったので、教則本などを読んでラグビーを研究した(笑わないで下さいね)。BKは主将を中心に、一人飛ばしやブラインド攻撃、フルバックのライン参加やセンターのクロス攻撃、それから足を使った攻撃など、様々な戦法を練習した。FWは、モールやラックからの連続攻撃、スクラムサイドの突破、ラインアウトといった具合に練習を重ねた。「気合を入れろ」「低く当たれ」「勇気を出せ」と声を掛けあいながら、スクラムにタックルにセービングに励んだ。だから、そんなにひけめを感じることはなかったんだ。普通に引退してしまったことについては今でも悔いが残るけれど、60分間走り続けられるように、トレーニングを重ね、ボールに食らいついていった。

 そして今、俺(また俺になりました)は、二期のキャプテンを務めたTのことを、昔のように憧れと尊敬の念で見つめている。彼がいなかったら、ラグビー部の歴史もここまで重ねることができただろうか? 彼を信じてついて行き、彼をサポートした人々にも心から感謝したい。これって、『風が強く吹いている』の最終章と全く同じだ。無名の高校から全日本クラスのラガーマンが出たなんて、全く同じ話じゃないか?
 この日、キャプテンは懐かしい言葉を口にした。
 「対面(トイメン)に勝て!」
FWの第一列は敵の第一列に、第二列は第二列に、ナンバー8はナンバー8に・・・「同じポジションの相手に、自分の目の前にいる選手に、決して当たり負けるな」
ことあるごとに、彼は言っていた。今も同じだ。
 「皆いろいろあるだろうが、自分の対面は誰だ? そいつに勝て。それが西高魂だ」
 この先、Tに声をかけられて、断わることは一度もないだろう。彼は〈ハイジ〉なのだから。
 そして、俺は府中西高ラグビー部(実名書いちゃった)を誇りに思う。ほんの少しだけどそこにいて、本当によかった・・・また会おうぜ、皆。


ムサの入浴と・・・

2007-01-26 23:45:30 | 独り言&拾いもの


 昨日は飲み会で午前様になってしまいました。昼間の作業で腿がパンパンに張ってしまい、今日は寝不足&筋肉痛の辛い一日でした。足をカクカクさせながら帰宅途中、ケータイに目をやると、メールが入っていました。何かと思ったら、2次会の精算のお知らせでした。私、水しか飲んでいないのですが・・・2500円って・・・?



 小説『風が強く吹いている』の留学生ムサ(体育留学ではない)は、電気をつけずに風呂に入る。
「暗い場所で水に入ることは、私たちに大きな不安をもたらします。しかし私は、あえてそうすることによって、自分を見つめようと心がけています。走もチャレンジしてみてはどうですか」
 竹青荘(通称アオタケ)には風呂がない。そのかわり、大家が住んでいる母屋の風呂を夜8時から11時まで自由に使うことができる。ひょんなことから、走はアオタケで暮らすことになったのだが、ハイジに連れてこられた最初の晩に、「大家さんに挨拶がてら風呂に入るか?」と言われ、脱衣所で風呂上りの先輩ムサに出くわす。

 「ここにもまた変人がいた」と思いながらも、走はムサの言うように電気を消して風呂に入ってみた。何となく心もとない気分になる行為だと思いつつ、薄暗い浴室の窓から向かいの竹青荘に目をやり、明かりのついた窓の光が闇に沈んだ庭に、柔らかく窓の輪郭を落としている光景を眺めながら、「ムサさんは、もしかしたらこの光景を見ながら風呂に入るのが好きなのかもしれない」と思う。
 その後、二人が浴槽の水面に浮かんだ月を両掌でそっとすくいとる美しい描写が出てくると、矢もたまらず自分も彼らの真似をしたくなってしまいました。

 明かりをつけないで体を洗うことには抵抗があったので、洗髪も全て終えた後で、浴室の電気を消しました。家族がこの光景を見たら、「また、変なことを始めたな」と思うだろうが、まあ変なのはいつものことなので、気にしない気にしない。
 走が言っているように、暗闇の中でお湯に浸かっていると、最初はどこか落ち着かない気持ちになる。見えない分、聴覚や触覚が研ぎ澄まされるのか、浴槽の中で体を動かすと、水の波打つ音がいつも以上によく聞こえ、肌や手足に水の重さまで感じる。しばらくすると、目が暗さに慣れてくるというか、窓の外が意外と明るいことに気づいた。窓から差し込んでくる明かりで浴室全体を十分見渡せるのだ。先ほどの不安は消え、物足りなさを覚えたくらい・・・
 窓を開けると、外の冷気がどっと流れこんできた。きりりと身が引き締まる冬の空気が、火照った頬に当たって気持ちが良い。
空気には匂いがついている。夜だからなおさら感じるのだろうか。冷えきった土の匂い、夕餉の匂い、かすかに自動車の排気ガスの匂い。そうしたものが混じりあって鼻から肺の中へ入っていく。香りを胸に吸いこむように、思い切り深呼吸をした。遠くの方で、中央線が線路を駆けていく音がする。もうしばらくすると、沈丁花の香りがどこからともなく庭先に運ばれてくるだろう。
 濡れた髪の毛がたちまち冷たく凍えてしまったので、頭からお湯をかぶった。窓から外の景色を眺めると、針金のように細い三日月が、西の夜空に浮かんでいた。不意に、昔のことが思い出された。

 前に勤めていた会社の社員旅行で、二度目にハワイに行ったときのことだ。早朝ハワイに着いて市内観光をしてからホテルにチェックインというパターンではなく、深夜ホノルルに着く便を選んだ。空港からホテルに直行し、宿泊手続きを済ませて部屋に向かった。荷物を解いてクローゼットに丁寧にしまうA、パンツ一丁でベットの上に大の字になってテレビをつけたB、無料だと勘違いして「ウェルカム・フルーツ」を早速食べてしまったC、お気に入りの女の子の部屋に確認電話を入れたDなど、各々やるべきことをしているのを横目で眺めながら、自分もまた、非常に開放的な気分になっていた。眠気は全く感じない。実は、空港に着いたときからすでに気分が高揚していた。到着ロビーに降り立った瞬間、生暖かい風が頬を撫で、南国独特の甘い香りが鼻孔に飛びこんできた。一年ぶりに味わう本物のハワイの空気だ。懐かしさに、胸がいっぱいになった。

「寝る前に、夜の海で泳ごうよ」と、先輩や後輩に声をかけた。目の前の海はホテルのプライベート・ビーチだったのだ。はしゃぎながら海に入った。
 夜の海は真っ黒で波だけが白い。非常に気持ちが良かった。暑くもなく寒くもなく穏やかに晴れた空。水も肌にちょうどいい冷たさだった。波間をあおむけになって浮かんでいると、雲の切れ間からかなりの星を数えることができた。
 沖からホテルを振り返ると、現地時間で深夜1時を越えているのに、ところどころの客室から、白や茶やオレンジ色の明かりが洩れている。色とりどりの四角い明かりが建物の影の中に点々と浮かび上がり、真っ黒な海面に輪郭を落としてゆらゆら揺れていた。とても美しい景色だった。真ん中上あたりのバルコニーから、幾分あきれた感じで手を振っている人がいる。同僚の女の子たちだった。

 翌朝、プライベートビーチに泳ぐに行くと、水はどんより濁っているし、あちらこちらにプラスチックなどのゴミがプカプカ浮いていて、ワイキキの海がそれほど綺麗ではないことがよくわかった。昨晩はあんなに魅力的なシルエットを見せてくれた建物が、太陽の下で見ると意外とチープで、しかもかなり老朽化していることも判明した。それでも、その日の晩になると、今度は一人で泳いだし、その次の日の晩は、今日が最後だからと、唇が紫になるまで(見えないけれど)泳いだ。
 真上には満天の星、右斜め上にダイヤモンドヘッドのシルエット、そこからワイキキ海岸に目をやれば、ハイアット・リージェンシーの一際高いツインタワーが点々と光を点している。背後には太平洋がどんと広がっていて、そして正面には幾つもの、平和そのものといった感じで部屋に明かりが灯り、カーテンを引いていない部屋では人の姿まで確認できる。東宝が誇る特撮映画の中の、精巧なミニチュア模型を見ているような気がした。

 薄暗い浴室で、思い出に浸りすぎると湯あたりするので、ご注意を!

二度目の『風が強く吹いている』もクライマックスにさしかかりました。賑やかな帰りの電車の中で(行きの電車は5時台なので空いている)人目も構わず、神童の走りに目頭が熱くなってしまいました。ムサの入浴は続けています。


『ダーウィンの悪夢』と『不都合な真実』

2007-01-24 23:42:20 | 映画&ドラマ


 正月早々、衝撃的なドキュメント映画を見ました。経済のグローバリゼーション(=世界規模に広がること)がもたらす「格差」についての映画『ダーウィンの悪夢』(04)と、地球温暖化の問題に警鐘を鳴らす映画『不都合な真実』(06)です。
「この先、人類がどうなろうと知ったことではない。むしろ人間なんていなくなってしまった方が、他の生き物のためになる」と考えている人以外は、必見の作品です。「映画を見たところで、有効な解決策が見つかるわけじゃないし、映画を見ただけでは何も変わらない」と、したり顔で発言する人がいますが、無知こそが最大の犯罪かもしれません。
 『ダーウィンの悪夢』の監督は、「生命にとって最も大きな危険は【無知】だと思います」と、静かに語っています。『不都合な真実』の中で、進行役のアル・ゴアは人類をカエルに例えます。「お湯の入ったビーカーにカエルを入れると、驚いたカエルは即座にジャンプして逃げるが、カエルを入れたビーカーをアルコールランプで熱していくと、逃げずに茹だってしまう」
 正に人類は、崖っぷちに立たされているのですが、茹る寸前のカエルと同じように、そこが崖っぷちであることに全く気づいていない・・・だからこそ、「知る」ことが一番重要なのだと思います。




 私が地理で習ったとき、タンザニアにあるヴィクトリア湖は、世界で二番目に大きい淡水湖(一番はバイカル湖)で、豊かな自然の中で多様な生物が見られることから「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていました。今は、外来種ナイルバーチの一大魚産業地になり、水揚げされ冷凍加工されたナイルバーチは、EUや日本に向けて大量に飛行機で運ばれていきます。

 始まりは半世紀ほど前に遡る。誰かがヴィクトリア湖に最大2mにも成長する肉食のナイルバーチを放したのだ。ナイルバーチはもともと棲息していた魚を駆逐しながらどんどん増えた。それと共に、ナイルバーチを獲って生活をする人々が現れた。湖畔の町に工場が建設され、ナイルバーチは往来までのタラなどに変わる安価な白身魚として市場に輸出されていく。ナイルバーチを消費する先進諸国からさらなる資本が投下され、工場は彼らの管理下におかれる。水揚げされたナイルバーチは、ベルトコンベアに乗って解体され、切り身となり箱詰めされて冷凍庫に運ばれたのち、しかるべき国へ出荷され、先進国の食卓に並ぶ。まるで、予定数に従って工場から製品が出荷されるように。

 ナイルバーチは非常に安い値段で工場に引取られる。ナイルバーチを加工する労働者の賃金も追ってしるべしだ。それでも仕事があるだけましだ。街には、仕事にあぶれた人々が溢れている。女たちは売春して生活していくしか方法がない。ナイルバーチを運ぶ航空機のパイロットの愛人になれば生活も楽になるが、暴行され命を落とす危険もある。エイズにかかって死ぬ者も後を絶たない。そのせいか、ストリート・チルドレンが非常に多い。なぜか、片足を失った子供の姿が目につく。女の子のストリート・チルドレンは、より深刻だ。仲間に守ってもらえなければ、さまざまな暴力が口を開けて待ちかまえている。弱肉強食の掟が支配する町で・・・子供たちの瞳も濁って充血し、暴力的になっている。ビニールを溶かしたドラッグで命を落とす子供もいる。頭と骨になったナイルバーチは、トラックでゴミ捨て場に運ばれる。それを待っている人々がいるのだ。無数のウジが湧いたナイルバーチの残骸を干し、釜で煮る人々。悪夢を通り越して地獄のような光景だ。

 ナイルバーチの一番の消費国はEU。その次が日本。私もまた、「のり弁」やコンビニ弁当、ファミレスで白身魚=ナイルバーチを消費しています。
「だから、この魚を食べないようにしよう」と、フランスなどでナイルバーチのボイコット運動が起きたそうだが、この映画の監督フーベルト・ザウパーは、「この映画は、魚についての映画ではなく、人間についての映画だ」と言っています。「東京のスーパーマーケットにおいてあるバナナや魚や肉などにも、この映画が描いたことと同じような、破壊的な出来事が裏にあり、ナイルバーチは特別な話ではありません」
表があれば裏がある。光が差せば影ができる。ポジティブな面は目につきやすく、その恩恵を多少なりとも受けているならなおさらだが、「安い魚を食べられる恩恵」の裏で飢餓やエイズで死んでいく子供の姿は、目に見えない・・・
 この文章を書いている自分ですら、実感として認識することができません。

 この映画が本当に訴えたいことは、実は言葉にされていない。でも、ヒントは映画の中にある。航空機は何も積まずに空港に着陸し、ナイルバーチを満載して飛び立っていく。なぜ「カラ」で飛んでくるのだろう? 人々があまりに貧しくて運ぶものがないから? いや、何かを積んでくるのだ。タンザニアの国際空港は、アフリカ諸国の中でも税関検査が一番甘いと評判だ。そして片足を失くした大勢の子供たち。答えは、映画を見て考えて欲しい。



 『ダーウィンの悪夢』は相当気が滅入る映画だったけれど、『不都合な真実』を見たら、人類の時代は長くないなと、いきなり預言者になってしまいました。石炭紀とジュラ紀白亜紀にできた天然資源を好き勝手に使ってきた人類が、それが尽きる前に二酸化炭素による地球温暖化と人口爆発で自滅するとはねえ・・・

 アル・ゴアの宣伝映画だと評した人がいましたが、そこで描かれていることは、打ち切りになったテレビ番組と違って、大筋として全て真実だと思います。二酸化炭素の排出量が増える一方で、それを酸素に変えてくれる森林が減少し、このまま温暖化が進めば、今やわずかばかりの『キリマンジャロの雪』は完全になくなり、北極とグリーンランドが消滅する前にシロクマが絶滅し、海面が上昇して広大な土地が海面下に水没するでしょう。海流の流れも変わり、エルニーニョが日常茶飯事になるでしょう。局地的な大雨や巨大台風が人的損害を与えるばかりか、農作物の被害も甚大で、同時に進行する大干ばつによって世界的な食糧危機がやってくるでしょう。そしてその頃、世界の人口は何と90億! 

 今さら何をやっても駄目だと、あきらめてしまいたくなるのですが、それでは、未来の人々に申し訳がない・・・あなたたちが地球をこんなにしてしまったと、子供や孫から非難されるでしょうね。
 アル・ゴアは、まだあきらめていません。世界中で最も二酸化炭素を排出しているアメリカ合衆国が「京都議定書」を守るだけで、崩壊のカウントダウンを遅らせることができると、スライド公演をしながら世界中を回り、この映画を作って全世界の人々に見てもらうことにしたのです。「美しい国」がどうのこうの言ってる人は、「美しい国」を守るために、憲法改正&教育改革を進めるのではなく、いかに二酸化炭素を減らすか、地球温暖化問題に邁進していただきたいものです。
 例えば、満月の前後に「灯火管制」するだけで、かなりの省エネになるのではないでしょうか? 夜空にまたたく星の美しさを認識するだけでも、人の意識を変えるきっかけになってくれるかもしれません。やみくもに道路を作るのではなく、民営化で廃線になった鉄道や路面電車を復活させ、(健康食品大好きなのだから)健康のためにも、徒歩や自転車を奨励し、バリアフリーな歩道を充実させるとか。
(車を使わないことによる経済的損失は、交通渋滞による経済損失とやらよりも、少ないのでは?)
 とりあえず、私のできる一番簡単な温暖化防止の運動は、『不都合な真実』を紹介することだと思います。アカデミー賞にもノミネートされましたが、是非とも、ご覧くださいませ!

 『ダーウィンの悪夢』の公式HPは、 →ここをクリック
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『芋たこなんきん』第16週 ~禁じられても・・・

2007-01-23 23:57:18 | 連続テレビ小説




行くべきか、行かざるべきか・・・ハムレットの悩み

 
 『芋たこなんきん』第16週は、自分が体験している時代にやってきたせいか、懐かしいといえば懐かしいのですが、ひどく赤面してしまうような恥ずかしさも覚えます。

 まずは〈大阪万博〉。冒頭のアニメーションで「太陽の塔」が出てきますが、【人類の未来と調和】を高らかに歌い、77カ国と四つの国際機関が参加した博覧会は、東京オリンピックが高度成長の象徴であるように、万博以前と万博以後に人を振り分ける70年代の象徴といえるでしょう。
 オリンピックの記憶は全くありませんが、万博は少しだけ覚えています。アポロ宇宙船が持ち帰った「月の石」を始め、ここに展示された各種パビリオンや「動く歩道」はこの時代に生まれた子供たちの夢をかきたてました。でも大阪の万博会場は、新幹線ひかり号に乗っても(大阪まで確か・・・)3時間15分かかる遠方にあり、あれほど話題になったのに、近所の子供や同級生で万博へ行った人は殆どいなかったんじゃないかな? 私の場合、なにぶん低学年だったせいか、何が何でも行きたいと思っていたわけではなく、たまたま母の妹が日帰りで連れて行ってくれました。でも、お目当ての〈アメリカ館〉に展示された「月の石」や、アメリカ館以上に人気があった〈ソ連館〉も、見ることができませんでした。「太陽の塔」のある〈お祭広場〉の足の踏み場もないほどの混雑ぶりとか、想像ばかりふくらんでいた「動く歩道」の実物に落胆したこと、非常に疲れて帰ってきたこと、そんなことを思い出します。何でも、まだ独身時代の叔母がつきあっていた人が関西在住で、「私は彼に会うための《迷彩》だった」と、大人になって知りました。そういえば、男の人が案内してくれたっけ。もしかしたら、このとき以外にも、三人でどこかに遊びにいったような気もします。
 今、写真で振り返ると、人気のパビリオンで唯一行かれた〈カナダ館〉の、鏡を貼り付けた建物と、ぐるぐる回って万華鏡のように綺麗だった鏡の巨大な傘、並ばずに入れた〈ブリティッシュ・コロンビア館〉の木琴みたいなユニークな姿、一番目立っていた〈スイス館〉の「光の木」、壁に書かれた顔が怖かった〈ネパール館〉、豚の蚊取り線香みたいにユニークだった〈ガス・パビリオン〉、160色で彩られた外観と、中に設置された「アストロラマ」が人気の〈みどり館〉、真っ赤な宇宙船を思わせた〈日立グループ館〉、そして「七重塔」の〈古河パビリオン〉、これらの姿がおぼろげながら懐かしく思い出されます。叔母の彼氏が「オマケ」の僕に、熱心に見せてくれた大阪万博・・・いつの間にか、めがねッ子になった亜紀ちゃん、何度も万博に行かれて良かったね~

 もう一つはフォークソング。私が高校生になった頃は70年代の終わりだったので、フォーク=反戦ではなくなっていたけれど、反抗のシンボルだったことは間違いなく、YAMAHAのフォークギターを買って、吉田拓郎やかぐや姫(解散してソロになっていたので、南こうせつやショーヤンの「風」とか・・・)、ニューミュージックと呼ばれるようになった〈チューリップ〉を、近所迷惑も考えずに毎晩歌っていました。海外だとディープ・パープルやKISS、クイーンにイーグルスを、爆音で聴いては怒られることもしょっちゅう、ブロンディやパット・ベネターに惚れながら、ABBAやオリビア・N・ジョンも好きなミーハーで、やがてチープトリックやヴァン・ヘイレンに夢中になっていく・・・
 夢中といえば、ウェス・アンダーソンの名を知らしめた映画『天才マックスの世界』(原題『ラシュモア』はマックスが通っていた高校の名前)(97)で、十数のクラブをかけもちしていたマックス少年ほどではないけれど、ラグビー部と合唱部をかけもちし、下手な詩や演劇の脚本を書いてみたり、ラジオの深夜放送に夢中になって「青臭い」(今でもかなり青いですが)ことを口走ったり、マルクスを読んでみたり、恋をして自分を見失うなど、本当に彼のように生き急いでいたあの頃を、『風が強く吹いている』の走のように、何かに向けて走っていたあの頃を思い出します。だから、由利子ちゃんには、ハラハラするというか、当時の自分を重ねて思わず赤面してしまいました。
「フォークなんか、ダサイ。これからはロックだぜ!」
 同じことを言っちゃった・・・トシ子もまた青春まっさかりだったんですね。

 驚いたのが、夜行列車に乗って広島のフォーク・コンサートに行きたい、と由利子が言ったときの健次郎と町子の対応。最初は頭ごなしに(と、当時は思った)反対しておいて、最後は本人に下駄を預けるやり方は、私の父親の取った態度と全く同じでした!
 いま考えると、相手に下駄を預けるのはかなりの高等戦術だと思います。徹頭徹尾反対されれば、反抗心で突っ走れるのに、最後は自分で決めなさいと言われると、途端に悩み出してしまい、ハムレットのごとく悩んだ末に、切符までもらいながら夜行列車に乗らなかった由利子と全く同じ行動を、何度も取ってしまいました。その後、「友達を裏切ってしまった」「自分の信念を貫けなかった」などと、うじうじ悩むはめになるのですが、『芋たこなんきん』では、親友の千春に置いていかれて焦る由利子をフォローする町子さんの台詞がとても暖かかったです。
「千春ちゃんはきっと、他の子よりちょっと、早よう大人にならな、あかんかったんやろね。誰にでもね、そんな時期は必ず来るの。せやから、あせらんでええのんよ」



親の心、子知らず・・・


 そして、報道写真家になったカンジ君との再会も、嬉しい週でした。
(長崎に引っ越した梅原さんとも再会して欲しいのですが・・・)
 明日また、戦場へと旅立つカンジが町子さんの仕事場に挨拶に訪れ、古い写真を手にとって言う台詞と、それに答える町子さんの台詞が印象的でした。
「考えたら、写真撮るの教えてもらったけど、お父さんの写真、一枚も持ってへんね、俺。ほんまのこと、俺、最近わからへんようになってたんや。何で俺、こんな怖い思いして戦地の写真撮ってんのかと思って・・・今、お父さん、俺の撮った写真見たら、何と言いはるやろね。もうお父さんの年、追い越してしもうたけどな、二人とも・・・」
「お父ちゃんきっとね、ええ写真やな~って、言うと思う。それにね、カンジ君、死んだらあかんぞ~って。ちゃんと帰って来いよ。待ってる人がいてるんやから」



もうお父さんの年、追い越してしもうたけどな、二人とも・・・


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『風が強く吹いている』 ~リーダーズ・ハイになった!

2007-01-22 23:58:15 | 書物の海


 

 先週末、〈あきざくら〉さんが教えてくださった『風が強く吹いている』(著者三浦しをん)を読みました。正月恒例の「箱根駅伝」を題材にした1200枚の大作ですが、夢中になって第九区まで一気に読んでしまい、後はベッドに持ち込んで、読み明かすつもりだったのですが、横になった数十秒後に意識を失ってしまいました。日曜日の午後に仕切り直し、無事ゴールを切りました。あまりに速く駆け抜けてしまったので、最初からもう一度読み返しています。もしもお読みになるのでしたら、週末の一気読み!をお奨めします~

ここで、「箱根駅伝」に挑む寛政大学の10人のランナーを紹介しましょう。彼らは全員、倒壊寸前?のボロアパート「竹青荘」に住んでいます。というか、本人達は何も知らないうちに、リーダーのハイジの遠謀により「竹青荘」に集められた?

 一区  204号室 文学部二年 柏崎茜 通称=王子
床から天井まで布団を敷くスペースもないほど大量の漫画を収集。運動経験ゼロだが、粘着質な性格をハイジに見込まれた?〈神童〉の実家からルームランナーを譲り受け、漫画を読みながら部屋で練習。意外と律儀。
王子のひと言、「鬼だよ、あんた」

 二区  203号室 理工学部三年 ムサ・カマラ 通称=ムサ
国費で日本にやってきた留学生。思慮深く穏やかな性格。非常に丁寧な日本語を話す。気の合う〈神童〉が日本語の先生を兼ねている。「自分を鍛える」ため、明かりをつけずに風呂に入る。身体能力もかなり高い。
ムサのひと言、「黒人が速いというのは偏見です」

 三区  201号室 ?学部一年 城太郎 通称=ジョータ
いつも一緒の双子の兄。適度にニブく、明るい性格。弟ジョージのことは保護者的に見つめていて、そろそろ別の道を行くころだと自覚する。自分の性格が弟と全く違うことも知っており、それが多少のコンプレックスに。
ジョータのひと言、「(箱根駅伝に出られると)モテるんだね?」

 四区  201号室 ?学部一年 城治郎 通称=ジョージ
いつも一緒の双子の弟。天真爛漫で裏表のないわかりやすい性格。高校時代は兄と一緒にサッカーをやっていたので、基礎は出来ていた。細かいことを考えることが苦手だが、〈走〉に憧れてその才能を伸ばしてゆく。
ジョージのひと言、「(箱根駅伝に出られると)モテるんでしょ?」

 五区  205号室 商学部三年 杉山高志 通称=神童
思慮深く慎重。穏やかな性格のせいか、ムサと気が合う。故郷の村では神童と呼ばれていた。生真面目で裏方も嫌がらずこなす。毎日山道を10キロ歩いて通学。上りのスペシャリストとして、栄えある難所の五区を任される。
神童のひと言、「親も喜ぶと思うんだ」

 六区  104号室 法学部四年 岩倉雪彦 通称=ユキ
三年生のときに司法試験に合格した秀才。大の音楽好き。理論派で完ぺき主義。剣道をやっていたので、無駄な筋肉がない。他人と争うのではなく、データをもとに傾向と対策を練り、目標を確実に達成していくのが好き。
ユキのひと言、「やるからには狙う」

 七区  102号室 理工学部三年 平田彰宏 通称=ニコチャン
高校時代は陸上をやっていたが、挫折。重度のニコチン中毒だが煙草を絶ち、「力石だ!」と漫画オタクの王子を感動させる。二浪の五年生で後がないが、アイデアが豊富で手先も器用。近い将来、起業するかも?
ニコチャンのひと言、「一人じゃ襷はつなげねえよ」

 八区  202号室 社会学部四年 坂口洋平 通称=キング
クイズが大好きで、テレビはクイズ番組しか見ない。クイズ王より物知りだが、大の上がり性で、番組出場はとても無理。高校時代はサッカーをやっていた。誰ともつきあうが、誰にも心を開けない。そんな自分が嫌いだった・・・
キングのひと言、「就職安泰って本当だな?」

 九区  103号室 社会学部一年  蔵原走(カケル) 通称=カケル
その名の通り、誰よりも速く、誰よりも遠くまで走るために生まれてきた。運動部特有の上下関係やスパルタオンリーの指導法が性に合わず、いつも一匹狼でいる。頭に血が上りやすいのが欠点。ハイジと出会って、何かが変わる?
走のひと言、「すぐに行きます。待ってて下さい」

 十区  101号室 文学部四年 清瀬灰ニ 通称=ハイジ
同じく走るために生まれてきた男だが、高校時代に長距離ランナーとしては致命的な故障をしてしまう。観察力+忍耐力=指導力に長け、〈竹青荘〉の9人を率いて「箱根駅伝」を目指す。誰よりも「走る」ことを極めたかった。
ハイジのひと言、「君たちに頂点を見せてやる」

 その他の関係者 
 監督=「竹青荘」の大家。謎の人物。なんでもない人かも?
 ニラ=茶色の雑種犬。拾われてきた。「竹青荘」のアイドル。
 勝田葉菜子=「八百勝」の娘。走る姿に魅せられて・・・マネージャー&マドンナ。
 榊=走の同級生。高校時代の事件で走を恨む。スネオ君?
 藤岡=大会四連覇を狙う人格者。もう一人のハイジ。完璧すぎて苦手?


 運命ともいえるハイジと走の出会いから一直線に綴られた1200枚。人はなぜ、走るのだろう? 何のために? 誰のために?
 ハイジは走に問いかける。
「走、走るの好きか?」「俺は知りたいんだ。走るってどういうことなのか」

 ランナーがランニング・ハイになるように、風を切って走る彼らと併走するかのごとく一気に読んでいるうちに、リーダーズ・ハイになりました!
 寝食を忘れるほど没頭、頭が痺れる「読書」をしたのは、友人が薦めてくれたサラ・ウォーターズの『半神』『荊の城』以来だから、数年ぶりの出来事です。
(このミステリーも本当に凄い!)
 そして、読了したその日の夜、ムサの真似して電気をつけずに湯船に浸かりました。外の光がうっすらと差し込んでくるため、予想と違って真っ暗にはならなかったけれど、なかなか面白い体験でした。歩くのも好きだけど、これからランニングと暗闇の入浴がクセになりそう?


だから、言ったじゃない? ~お後がよろしいようで・・・

2007-01-21 12:10:50 | 独り言&拾いもの




他人の庭だけど、思わず手を伸ばして触りたくなるネコヤナギ


よく晴れた日曜日の朝です。
(本当にこれから雨か雪になるのでしょうか?)
朝刊を読んでいたら、
〈読売〉じゃないので福士さんの連載エッセイ『白紙』を読むことができない・・・)
無理矢理?リンクさせた「不二家事件」と「納豆騒動」にオチがついて、思わず微笑んでしまいました。

 私は問題になった番組を一度も見たことがないのですが、実際は行っていない実験データを捏造したり、アメリカの学者の意見を思い切り「意訳」してたとか・・・
ドキュメント映像だろうと、そこに映っていることを100%真実だと思ったことはないので、こんなのは驚くに値することではないのですが、これで安心して!明日から納豆を食べることができるのではないかと、喜んでいます。
「グルメ番組で紹介されたお店に行ってみたら、全然おいしくなかった」なんていうのも「良くある話」で、自分の頭と体を使って勉強するよう、改めて自分に言い聞かせました。そもそも、グルメを気取るのとダイエットに血眼になるのが、個人的には賛成できないんだけどね・・・今後、未曾有の食糧難が予測されているのに、「飽食」と「減量」にうつつを抜かしていて大丈夫?

 日本コカ・コーラが、消費者から異物が混入しているとの指摘を受け、総計13万本の飲料を自主回収。〈おたべ〉が「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」などで期限切れの原料を使用したチョコレートなど三種類の商品を販売(17日までに約2万個が販売された)、謝罪と同製品の販売中止を発表。

「不二家の次はどこだろう?」と思っていた人も、結構いたのではないでしょうか? 隠ぺい工作さえしなければ、不二家のように窮地には追い込まれない?
デパートやホテルには「ネズミやゴキブリ」がたくさんいます。というか、いないわけがない。半分冗談で、「ネズミのいない料理店はまずい」と言われるくらいだから・・・工場にネズミが50匹しかいなかった(どうやって確認したのか?)不二家のお菓子は、あんまりおいしくないのかな?

 先の記事で述べたように「不二家」を擁護するつもりはないのですが、これだけ経済的打撃を受けたことだし、そろそろ商売させてあげては駄目なのでしょうか? ルックチョコレートやミルキーやカントリーマァム、桃のネクターにレモンスカッシュが恋しい今日この頃です。
 巻き添え被害を被った人の筆頭は、不二家飯田橋神楽坂店でしょうか?
昭和42年から始めた〈ペコちゃん焼き〉は、最初は20店舗くらいあったらしいのですが、数年後には神楽坂店のみに。今ではここでしか買えない人気商品として、一日2000個売れるとか・・・事件が発覚してからは材料の仕入先を変えて何とかやりくりしていたそうですが、15日から販売自粛を余儀なくされました。私は〈ペコちゃん焼き〉をまだ食べたことがないのですが(行列して買うのはちょっと・・・)、落ち着いたら一度訪ねてみようと思っています。
 不二家飯田橋神楽坂店のHPは、 →こちらをクリック

武漢雑技団 ~肉体の芸術に乾杯!

2007-01-20 23:50:50 | 自然&いきもの+ゾウのはな子

 1月19日(金)~28日(日)まで東京国際フォーラムAホールで開催されている、武漢雑技団の日本公演を見てきました。招待券をもらったので、せっかくだから行くことにしたのですが、たかをくくっていたんですよ。でも、見てびっくり。久し振りに手に汗握り、興奮しました!
(寝ぼけながら書いたので、翌朝、誤字・脱字等を訂正しました・・・)




不忍池&もみの木ビル


 慌しい一日でした。朝7時から10時まで仕事。11時、手違いが生じ一度国立に戻る。1時、上野不忍池で近く解体される〈もみの木〉ビルを見る。1時40分、有楽町マリオンでドキュメント映画『不都合な真実』を見る。4時、東京駅の八重洲ブックセッターに寄った後、お好み焼きを食べる。5時10分、東京国際フォーラムへ。9時30分、帰宅。公演の休憩時間に買い食いしたのに、お腹が空いてしまい、お餅を焼いて食べる。
(移動中と待機中は『風が強く吹いている』を読んでいたため、昨日の晩は数頁しか進んでいなかった物語が、一気にクライマックスに突入! 影響されたのでしょう。今日は、まるで走っているかのごとく、速足でよく歩きました。東京~有楽町間だけでも3回往復・・・)




不忍池のアイドル猫。写真を撮る前にスリスリしてきた。


                   
      
                           この杭がお気に入りの様子でした。




ヒッチコックの『鳥』じゃなくて、カモメのダンス?


冬の不忍池には、いろいろな鳥たちが集まっています。


 トシ子のお師匠さんも書いていますが、 →こちらをクリック
「不忍池の住人達」は、健気で慎ましい・・・
(同じ丸ぽちゃ猫を撮影していたりして)
 今日は中野付近で一瞬雪が舞うくらい寒かったけれど、彼らや彼らと適度に接している人々の体温のせいか、寒さも忘れてしまう・・・時間に追われ、未練たらたら立ち去ったので、近いうちにまた訪れよう~と!



常連さんによると、今日は珍しく人なつこいとか・・・


 武漢雑技団の見せてくれた驚異的なパフォーマンスの中でも、特に素晴らしかったのが、第1部三番目の演目『絹帯のアクロバット』。天井から降ろされた二枚の赤い帯を巧みに腕や足に巻きつけて、男女が空中を舞い踊る。バレエを見ているように優雅だけど、体操競技の「つり輪」よりきついのでは? 肉体を使った芸術に拍手喝采、しかも愛を交わしているかのように官能的で、その美しさにため息がこぼれました。



ワイヤーも特撮も使わないで、こんなことができるなんて・・・


 アクロバットといえば見世物的だけど、人間はここまでできるのかと感動しました。最初のアクロバット「竿登り」は感心しただけでしたが、次の「絹帯のアクロバット」で度肝を抜かれ、「帽子を使ったアクロバット」「皿回し」で手に力が思い切り入った! 皿回しは一人あたり小皿8枚。これを回しながらアクロバットするなんて、人間業とは思えません。これまたびっくり仰天の「輪くぐり」を披露したところで20分の休憩。後半は、「独楽回し」が思い切りはじけて楽しかった~。新体操の〈こん棒〉演技も真っ青になる投げ技と、一人の女性が天井から降ろされた綱に口と両手でぶる下がって独楽のように回転しながらポーズをとっていく演技にも驚かされました。「倒立技巧(超絶的組体操ですね)」「椅子のアクロバット」「碗のアクロバット」は、中国ならではの伝統的パフォーマンスでしょう。どうしてこんなことが可能なのか皆目わかりません。フィナーレを飾った「跳躍」は、手に汗握るスリル満点のウルトラ・パフォーマンス!
 万有引力の法則に逆らって身体表現の限界に挑む彼らの姿を、アクロバットという言葉でくくったらもったいない。〈雑技団〉のうまい日本語訳はないかしら? 演目ごとに変わる衣装も豪華絢爛、夢のような2時間でした!



帽子投げ&皿回し・・・


 武漢雑技団の公式HPは、 →ここをクリック