皆、ゲ・ン・キ♪♪ ~雨の日の動物園2

2008-11-30 23:00:00 | 自然&いきもの+ゾウのはな子


 親子で同じポーズ! 咲子は1才になりました。


 昨日は眠くて眠くて(インフルエンザの予防注射を受けたせいもあるかのな?)、『0系ラストラン関連ニュース』『篤姫』『NHKスペシャル~雨の物語』までは何とかがんばったのですが、フィギュアスケートのエキシビジョンを見ている間に限界が訪れ、布団にもぐりこみました(テレビ番組だと、『プロ魂 ~王監督のメッセージ』について書きたいのですが・・・)。
 あっという間に、今年も残り一ヶ月になってしまいました。この調子だと、12月もあっという間に終わってしまうのだろうな~。なんてたって、師走ですから、「ニワトリ走り」もますます加速する?
(*記事は1日の朝に書きましたが、日付は11月になっています)

 11月27日、家を出たところで冷たい雨が一粒二粒落ちてきて、多摩動物公園に着いたときには、本格的な雨になってしまいました。仕方なく、リュックから折りたたみ傘を出しました。
 時刻は9時40分。今日は夜勤なので、12時までには戻らねばなりません。暇さえあれば出かけていますが(数年前までは暇さえあれば映画を見ていたので、年間400本ぐらいになった)、こんな天気の日まで出かける必要はなかったのに・・・ほぞをかみました。でも、この日を逃すと、毎月続けてきた「月間動物スタンプラリー」が11月で途切れてしまうことになってしまい、それが悔しくてやってきたわけです。言うなれば、5月に配られたスタンプ帳にハンコを押すために多摩動物公園を訪ねたのですが、二度目の「雨の動物園」は思った以上に素敵でした。
 まずは景色。雨が降ったら紅葉は台無しかと思っていたのですが、晴天の日とは別の種類の風情があって、決して悪くないと思いました。それから人がおらず(幼稚園や小学校の団体さんを始め、いないことはなかったが、敷地が非常に広いため殆どバッティングしなかった。巨大な望遠レンズを持った人もいない)、貸切状態で動物と向き合えたので、「うだうだ言ってないで、来ればよかったんだ~」と反省しました。いつもと違ってカメラを意識することもなく(気が向いたときにR6で撮った写真は、パソコンのモニターで確認したら「手ぶれ」写真ばかり・・・)、120%の満足度を味わうことができました。雨の日の動物園、意外とお勧めかもしれません。


 アップに耐えられない手ぶれ写真ばかりになってしまいましたが、それは撮影者が悪いのであって、久しぶりにコンデジを使ってみて、圧倒的な軽さと、気軽にサクサク写真を撮れる点を見直しました(上野の写真もR6で撮影)。ほぼ二か月ぶりに会ったフルールだけど、ずいぶん大きくなりましたね!


 ユキヒョウの子供は公開中止になったけど、何度も何度も目の前に来てくれました(最初の写真はウ○チしてるところ)。大迫力の感動をひとり占め!


      

シズカちゃんとユズは、定位置?にいました。


(左)珍しく狼たちが一列に並んでいました。食事の時間かな?
(右)アヌーラも二階の出入口の近くで遊んでいました(ここにいることも多いけど)。


      

雨の日もなかなかいいものです。

それじゃ、また・・・


ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情 ~窓枠と扉、うなじの誘惑

2008-11-29 23:58:50 | 美術館&博物館など


 上野の国立西洋美術館で、9月30日~12月7日まで開催されている「ヴィルヘルム・ハンマースホイ展」に行ってきました。
 百聞は一見にしかず(ましてや、ニワトリさんのごたくなんぞ・・・)、まずは、公式HP「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」をお訪ねください。0系新幹線も明日が見納めですが(しつこいなあ・・・)、こちらのハンマースホイ展覧会も会期終了まであと日・・・(この文章を書いている間に日に減りました)。
 展覧会の余韻が静かに残っている今(この余韻は相当続きそう)、HPをクリックして最初に飛びこんできたひと言は、非常に説得力があると思いました。書き写すと、
 「日本でこれだけ一度にハンマースホイの作品を見れるのは今だけかもしれません。お急ぎください!!」

 コロー展に続いて国立西洋美術館がまたまたやってくれました! 
 日本では殆ど知られていない19世紀末のデンマークを代表する画家=ヴィルヘルム・ハンマースホイは、その一貫したスタイルによりヨーロッパでは生前から高い評価を得ていたのですが、死後急速に忘れられてしまい美術史に埋没してしまったそうです(だから、日本で知られていないのも当然?)。
 ですが、リルケはハンマースホイについてこう語りました。
 「ハンマースホイは、急いで語らねばならないような芸術家ではない。彼の作品は長くゆっくりと語るべきであり、そして理解したいと思った時はいつでも、芸術の重要で本質的な事項について話す充分な機会となるであろう」
 
 リルケの預言どおり、近年になって、パリのオルセー美術館や、NYのゲッテンハイム美術館などで回顧展が開催され、ハンブルグ美術館での展覧会では、開館以来最多の入場者数を記録したそうです。今回の「ハンマースホイ展」は、ロンドンのRAA(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)で先行開催され、大好評を博したそうですが、国立西洋美術館では、ロンドン展の出品作品に加えて計86点もの作品を集めており、その宣伝文句どおり、これ以上の作品を一度に見られる機会はもう二度とないでしょう。
 ようやく作品を鑑賞することができ、先日の「コロー展」とは違った意味で「事件」となった「ハンマースホイ展」を、少しでも多くの人に知っていただけたら幸いです。
 今、なぜ、コローやハンマースホイが琴線に触れるのか、これから来る冬の長い長い夜に考えたいと思います(来年の卓上カレンダーは、ハンマースホイ!にしました)。


《室内、ストランゲーゼ30番地》


 ハンマースホイは、その作風から、北欧のフェルメール、神経症の画家、モノトーンの芸術家、静寂な人・・・と呼ばれています。彼の住まいだったストランゲーゼ30番地の部屋などは繰り返し繰り返し描かれていますが、写真を撮る際カメラのレンズを交換するように画角を変えて同じ部屋を描いています。あるときは広角レンズで引き、またあるときは中望遠レンズで対象を切り取る、さらに仰角と俯瞰を組み合わせ、完全に同じ構図になっても、差し込んでくる光の角度や強さ(季節によっても異なる)を変えるなど、写真を撮っているかのように、この部屋だけで実に多くの作品を描いています。
 その一方で、決定的に写真と異なるのは、代表作の『室内ストランテーゼ30番地』(上写真)を見てもわかるのですが、中央のテーブルの脚の影がありえない方向に伸びている、モデルの女性(妻のイーダ)の黒いスカートが椅子と一体化している、右隅のピアノに後脚がないなど、フェルメールを思わせる写実的で静かな室内画を「あるようでありえない」不思議な空間に変えてしまっている点で、静かに想像力に訴えかけてきます。
 数少ない肖像画の中には、写真を凌ぐほど写実的な絵(『イーダ・ハンマースホイの肖像』)もありますが、こうした例外的な絵を除けば、視線が一致しない、人物が背景と溶け込んでいる、大胆な省略があるなど、やはりどこか現実離れしていて、やがて絵の中の人物は鑑賞者から背を向けるようになっていきます。
 室内画以外に好んで描いた景色も、殆どモノトーンで描かれているのですが、ここでも意図的な省略があったり、ロンドンの街のようにいつも霧に包まれているかの如く描かれています(ハンマースホイはパリやイタリアの街よりロンドンを好んだ)。ここでは人の姿が徹底的に排除されており、ついには室内からも?人が消えてしまいました。


《白い窓、あるいは開いた扉》
(扉が歪んでいるのはカンバスを伸ばした際に出来た皺)


 ハンマースホイは、パースペクティブを変えながら同じモチーフを何度も描いている。微妙に異なる絵のどれもに惹きつけられてしまう。公式HPの【ハンマースホイの鍵穴】をクリックすれば、ストランテーゼ30番地の部屋を訪ねることができる(今も現地に残っています)。


  

 《陽光習作》(左)と、《ゲントフテ湖、天気雨》(右)。モノトーンのグラデーション、光の描き方・・・写真を志す人や映画を撮りたい人は必見だと思う。

 
 朝一で上野に行ったので、比較的空いている時間帯に鑑賞することができました。「音のない世界に包まれる心地よさ」を味わうには、雨の日の朝一番とか、とても寒い日の朝一番とかが狙い目ですが(昼頃になったらイモ洗い状態に・・・)、残り一週間ではそんなことも言っていられません。お隣の東京都美術館では「フェルメール展」が開催されていて、50分待ちの列ができていましたが、7点のフェルメールを長時間待たされた上で押すな押すなの人ごみから鑑賞するより、86点のハンマースホイを見た方がお得な気がします。ハンマースホイはフェルメールに通じる画家なので、フェルメールを好きな方の期待を裏切らないでしょう。
 個人的には、窓枠・合わない視線、後姿から見たうなじ・・・といったモチーフや厳格な構図から、映画監督の小津安二郎との共通点が多く感じられました。小津的なうなじの美しさでは、西洋美術館の入口にかかっていた看板=《背を向けた若い女性のいる室内》が一押しでしょう。
 扉の代わりに階段が出てきたら、いよいよ小津の映画に近づいていくところでしたが、扉への関心はヒッチコックがたびたび寄せています(他にも「扉」に並々ならぬ関心を寄せていた映画監督がいましたが、具体的に何の映画だったが、思い出せません)。
 絵画と映画を比較するなんて、もっての他かもしれませんが、最後に、後ろ髪を引かれる想いで展示場を後にしたとき、アレクサンドル・ソクーロフの『静かなる一頁』を見たくなりました。
(二度見て、二度とも見事に寝てしまった思い出が・・・)


      

 小春日和の不忍池と陽だまりにいた猫。鼻の傷がちょっと痛々しかったけど、元気に生きておくれ~!(上野には多くのノラが暮らしています)


ブログパーツ

2008-11-28 23:58:30 | 独り言&拾いもの


 あと二日で!ラストラン(営業運転)を迎える0系新幹線のブログパーツ=「0系新幹線時計」を貼り付けてから、宣伝にひと役買っていると意識しながらも、面白いブログパーツはないだろうかと、【goo ブログ】に貼り付けられるブログパーツの一覧を眺めていたら 「MAZDA ロータリー」に目が止まりました。

 ニワトリさんは、「(おにぎり)」の愛称で呼ばれる唯一無二のロータリーエンジンの大ファンで、 この時代が描いた未来的なフォルム(0系新幹線もそうですね~)も魅力的だった「コスモスポーツ」から、羊の皮を被った狼とも称された「ファミリア・ロータリークーペ」に、初代サバンナ「RX-3」、排ガス規制時代に生まれた等身大のスーパーカー「サバンナRX-7」、CMモデル(宇佐美恵子さん)にも惹かれた「コスモAP」、現行車では最も好きな「RX-8」(映画『X-MEN 2』で殆ど素のまま登場して、ロータリーサウンドを聴かせてくれた)まで、(ここでは全車に触れませんでしたが)歴代ロータリーエンジン搭載車の登場に心ときめかせ、「これは、これは~♪」と思い、早速ブログパーツを貼り付けてみたのですが、ブログパーツの中では4車種しか登場してくれなかったので、ちょっとがっかり!
 「オレンジページ」の「今日の料理」ブログパーツも、いいなあ~と思ったのですが、「goo」対応の筈なのに不完全な変換しかできず、肝心の料理が出てきません。残念ながら、削除しました。

 「じゃらん」のブログパーツ=「日本全国にゃらんまかせの旅」は、目的地(都道府県別。目的地を定めなくてもOK)を決めると、三毛猫が勝手気ままに旅をして、旅先から絵葉書やお土産をくれる・・・ブログパーツで、「旅&猫」といった、ニワトリさんのヨワイところをくすぐられ、貼り付けることにしたのですが、このにゃらん君、ニワトリさんもたじろぐ「旅力」の持ち主で、ふらりふらりと全国行脚しながら、毎日「絵葉書」を届けてくれ、わずか7日間で最初の目的地だった北海道に着いて、絵葉書と「お土産」を送ってくれました。
 続いて、沖縄に向かって旅をしていますが、この先どんな絵葉書が届くか、メールボックスを覗くのが、ちょっぴり楽しみな今日この頃です。

吾輩がくれた絵葉書その1  吾輩がくれた絵葉書その2
吾輩がくれた絵葉書その3  吾輩がくれた絵葉書その4
吾輩がくれた絵葉書その5  吾輩がくれた絵葉書その6 

 吾輩からもらったお土産


「カウパレード2008」全牛紹介(32~35)

2008-11-27 23:55:00 | 美術館&博物館など



 気分転換?に「カウパレード2008」の牛たちを・・・(来年は年だし?)
 丸ビルの正面には、32番=ショコタンの「牡牛座ギザ11次元」がデ~ンと控えていました。


(左上)こちらは、33番=赤十字&藤原紀香の「レッドクロスカウ」。背後の「丸キューブ」に見えるのは・・・?
(右中)スクエアピアノに代わって、巨大な山車が展示されていました。こちらの髭男は、『三国志』でも人気の高い関羽公(オイラは曹操が好きだけど)。
(左下)ニワトリさんの立派な山車もありました~♪


34番「ねむりにも、つけない」。何だか知らないけど、いつの間にかお気に入りに!


35番「がんばれ、丸の牛 2008」。ニワトリさんも2kg減量に成功!


 このあと登場する丸ビル内の牛たちには、残念ながら対面できませんでした・・・


「SLやまぐち号」(C57-1)の歴史

2008-11-26 23:57:57 | 鉄道紀行&乗り物



 SLやまぐち号のHPを訪ねると、「SLやまぐち号」復活の歴史が記載されている。
 それを読むと、昭和40年代まで蒸気機関車が走っていたことに驚かされるが、(巨額の累積赤字を抱えた)旧国鉄は、この時代に近代化と合理化を余儀なくされ、全国の蒸気機関車を引退させることになったらしい。山口線では、昭和48(1973)年9月30日に、蒸気機関車の「さよなら運転」が取り行われた。
 かくして蒸気機関車は線路から消えていったのだが、と同時に、「蒸気機関車復活運転」の気運が全国に広がっていき、当時の国鉄総裁だった高木氏の英断により、6年後の昭和54(1979)年5月22日から蒸気機関車を山口線で復活運転させることが決定した。栄えある蒸気機関車には、京都府の梅小路蒸気機関車記念館に動態保存されていたC57-1号機が抜擢され、「SLやまぐち号」と命名された。
 
 C57-1号機もまた、劇的な鉄道人生を送っている。竣工後は水戸機関区に所属し、二年後に宇都宮機関区へ転属、戦時中は機銃掃射を受けて損傷した。戦後は東北本線で使用され、1949年に千葉機関区、1954年に新津機関区に転属、羽越本線などで使用された。1961年2月9日、同線を走行中に土砂崩壊現場に突入してしまい脱線転覆、2か月以上現場に放置されたが、運び出されて長野工場で修復工事を受け5ヶ月後に復帰、その後一度も車籍を抹消されることなく現在に至っている。
 C57-1号機は、1958年にボイラーを乗せ換えており、1972年に全般検査を受けてから動態保存された。現役復帰後の1985年、鷹取工場で解体修理が行われ、在庫がなかったり新造できない部品に関しては、全国の旧国鉄工場と全国に静態保存されている車両から探し出したそうだ。
 1995年、鷹取工場で検査中に阪神・淡路大震災に被災してジャッキから転落、大きなダメージを負ったが、このときも人々の努力の甲斐あって、元どおりに修復された。10年後の2005年には、山口線を運転中に自力走行ができなくなってしまうが、このときも不具合を起こした部品を全て修繕した上、今後25年間走行するための延命工事が施された。
 C57-1号機の動態保存に関しては、同じ川崎車輌により同時期に造られた5号機が良好な状態を保ちながら姫路で静態保存されていたことが非常に大きかったらしい。新品調達が困難な部品の一部は5号機から借りたものだ。
 以上の経緯からわかるように、C57-1はもはや単なる1号機ではない。蒸気機関車に関わった無数の人々の想いと、全国を走り続けてきた全ての蒸気機関車の姿が背後に見えるような感じがする。
 C57-1の全身に漂っていたオーラは、正しくこれだったのだ!


 5両のレトロ客車(展望車風、欧風、明治風、大正風、昭和風)を牽引して、バックで1番ホームに入線する「C571」。 国立駅の「みどりの窓口」で指定席券を購入したとき、ニワトリさんも窓口の駅員さんも、客車がこのように分かれていることを全く知らずに団体さんのいない3号車を選んだのだが、なぜ3号車が空いていたのか、乗って初めてわかった次第。また「行きも帰りも同じ席に座れば、右と左の両側の車窓を楽しめる」と考えたに至っては、お恥ずかしい限り・・・蒸気機関車は転車台で向きを変えるけど、客車が向きを変えることはできません。車じゃないんだから~!


SLやまぐち号に乗る前に ~「小郡」(新山口)駅について

2008-11-25 23:57:20 | 鉄道紀行&乗り物


 山口線のレトロ時刻表。終点の益田行は一日四便。それ以外に、益田から山陰本線に乗り入れ、米子(2本)や鳥取(1本)まで行く特急も走っている。


 新山口で、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年生まれの0系新幹線(今回乗車した0系は昭和58年製造)から、1937(昭和12)年生まれのC57-1に乗り換える。
 昭和12年というと、盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発している。政府の「不拡大方針」に反して戦闘は収束せずに長期化し、戦線は中国全土に広がり、ついには太平洋全域へとエスカレートしてしまう。その結果、未曽有の命が失われてしまうのだが(戦後も命は奪われたし、被爆者に至っては今も奪われている)、この時点でそれを予想できた人はいないだろう。
 「歴史」は当事者には見えにくい。だからこそ、「過去の歴史」を学ぶ必要がある。昭和12年を「終わりの始まり」だとすると、前年に起きた「二.二六事件」は不吉な予兆ともいえる。
 「終わりの始まり」は、満州事変が起きた1931(昭和6)年まで遡れるが、本当の始まりは「征韓論」だったのかもしれない。征韓論を唱えた人々は西南戦争で滅んだ筈なのに、日本は朝鮮半島に進出してゆく。これも歴史の不思議だろうか?

 のっけから堅苦しい書き出しになってしまいましたが、「SLやまぐち号」の主力機関車C57-1は、その名が示すようにC57蒸気機関車の記念すべき1号機です。昭和12年から昭和22年まで、201両も製造されました。「貴婦人」とも呼ばれていますが、鉄道ファンは普通に「シゴナナ」と呼んでいます。去年乗った「SLばんえつ物語号」のC57は、昭和21年8月生まれの180号車でした。
 「SLやまぐち号」にはもう一台、「ポニー」と呼ばれる(ファンは「シゴロク」と呼ぶ)小型のC56-160号機がいます。昭和10年から14年にかけて160両が製造されました。こちらの方は、同形の最終機ということになります。C57が年間105日、C56が年間24日走りますが、それ以外に11日間、C57とC56の重連運転を行っています。これは、凄~い!


(左)高架の新幹線ホームを降りる。天井まで届くステンドグラスが綺麗だった。
(右)新山口駅は1900(明治33)年に開業された。最も古い駅の一つで、2003(平成15)年まで「小郡(おごおり)」と呼んでいた。なぜ、味も素っ気もない「新山口」に改名したのだろう?


 山口線の0&1番ホームには、このように「小郡」の旧駅標が置かれている。そこで、先ほどの改名の話に戻ると、明治時代に山陽鉄道が今の山陽本線を敷設する際に、大内氏の城下町だった旧山口市に話を持ちかけたが、旧山口市は鉄道誘致に反対で、代わりに旧小郡町が選ばれた歴史を後ほど知った。機関区も置かれた小郡は大いに栄え、間違いに気づいた山口市は山口線を誘致したが、支線の一駅に過ぎない「山口」駅に対して、本線の「小郡」駅は新幹線も停車する駅になってしまった。かくなる上は、「小郡」を「新山口」に改名させようと目論んだが、そうは問屋が卸さない。近年になって山口市は市町村の合併計画を提案し、「のぞみ」の小郡停車を足がかりに、「小郡」駅を「新山口」駅へ改名させることに成功した。
 旧駅標の下にはこう書かれている。
「小郡駅は明治33年12月3日に開業以来、103年にわたり数多くのお客様にご利用いただき、親しまれてまいりました。平成15年10月1日より、「新山口駅」と名を改めましたが、小郡駅としての歴史を後世に引き継ぎ、その記憶をとどめるべく、旧駅名表示板をここに保存いたします」
 これを読んだとき、(小郡駅と山口市の確執を知らなかったのに)何となく違和感を覚えた。未練がましいことは一切書かれていないけれど、「望んで改名したのではない」と言っているような気がしたからだ。


 話がいよいよ横道に逸れましたが、「小郡」駅に着いて、「さて、蒸気機関車はどこにいるのだろう?」と、あたりを見回したら、呼びかけに答えるように、遠くで蒸気が噴き上がった~~!


蒸気が風にたなびき流れてゆく。ここまで来て良かった~♪


超特急旅行 ~夢の終わり

2008-11-24 13:33:00 | 鉄道紀行&乗り物


 8時44分に広島を出発した「こだま629」号は、次駅の新岩国でもしばらくホームに停車した。時刻は9時03分、刻々と別れの時間が近づいてくる。通過列車を待っていると、上りホームに100系「こだま」が入線してきた。もう少し前に出てきて欲しかったが、100系「こだま」は0系の6両よりさらに短い4両編成なので致し方ない。長大なホームの中央にちょこっと停まる感じだ。今後、東海道&山陽新幹線では、殆ど全ての車両をN700系に置き換える予定だが、100系の引退はもうしばらく先になるそうだ(次の「さよなら」は500系)。

  ラストランまで一週間を切ってしまいました。今週は大変なフィーバーだと思います。人より早い「さよなら」になりましたが、人でごった返す前の0系に乗車できて、本当に良かったと思っています。ゆったり、ぬくぬくとシートに身を沈め、ひょこひょこ車内を歩き回り、おまけに新幹線コーヒーも飲めました!(話変わって、ワゴンが回ってきた)
 ひとり静かにお別れすることができたことにも、(大勢でワイワイ見送るのもいいでしょうが)至極満足しています。でも、今となって振り返ると、下り3時間半+上り1時間=合計4時間半も0系新幹線に乗ったことが信じられません。夢の中の出来事だったのではないかと思うくらいで、写真を見れば「妄想」ではないことははっきりしているのですが、写真を撮るために一番肝心なことが抜け落ちてしまったかもしれず、そのあたりが非常に悔やまれるところです。
 新山口駅で0系を見送った後、蒸気機関車のC57-1に乗り、超高速の魅力とはひと味もふた味も違う世界を堪能しました。そのときは蒸気の「乗り味」に夢中だったせいか、あまり深く考えることはなかったのですが、絶滅寸前の蒸気機関車でもまだ乗ることができるのに、同じように歴史的車両である筈の0系新幹線に乗ることができなくなって本当にいいのでしょうか? 16両フル編成の0系新幹線を予備も含めて数編成残して、イベント列車でも何でもいいから未来永劫走らせるべきだったのでは?
 JR東海は、名古屋に新幹線博物館を建設するそうですが、東海道新幹線の0系は1999年9月に引退しており、同社は0系新幹線を1両も保有していないと聞いています。新幹線博物館が0系なしで成り立つとは思えないのですが・・・。

 古くなったから新しいものと交換する。モノだけでなく建物も同じ運命を辿ります。それを当たり前だと考えている私たちは、(0系に限らず)ある時代を生き、ある時代を代表してきたものたちが消えてゆくことにについて、あまりにも鈍感になっているような気がしてなりません。 
 消えゆくものや景色に対する想いは個人の感傷に過ぎない、という意見もあるでしょうが、「温故知新」という言葉があるように、それだけではないことも確かです。それどころか、人は過去の歴史や営みからしか学ぶことができず、過去を学ぶことで初めて未来を考えることができるのではないか、と思うようになりました。
 乗るだけで楽しかった「鉄道」だけど、鉄道と密接に関わっている近現代史を考えるようになって、より一層楽しくなりました。そして「鉄道は誰のものだろう?」という思いが、常に頭によぎるようになりました。
 芸術は言うに及ばず、建物とか橋といった建築物がデザインした者や施工した人々や所有者一人のものではないように、「鉄道」も皆のものであり、多くの人を乗せて走ってきた車両もまた、持主である「鉄道会社」の都合で勝手にスクラップにできるものではなくなってしまっている、と考えます。未来の子供たちのために「過去」を残していくのが我々大人の責任ではないか、と強く感じる今日この頃です。


(左)広島を過ぎると、トンネルだらけになる。最後尾(1号車)の運転台を覗きに行った。ガラガラだった自由席も、岡山でほぼ満員に。でも、車内は0系ファンばかりではなかった。
(右)9時06分、新岩国駅。ホームに誰もいなくなったが、もう少しで乗り遅れるところだった・・・。


(左)9時21分、徳山でも通過待ち。ホームから瀬戸内海が見えた。のんびりした朝の風景だけど・・・。
(右)市街地の向うには巨大なコンビナートが広がる。新幹線が徳山駅に近づくと、コンビナート群が見えてきて、工場ウォッチャーにはたまらない光景かも!


(左)9時41分、新山口駅を出発する0系を見送った。新岩国駅で記念写真を撮っていた五人家族もここで降りて一緒に0系を見送る。この後、C57-1にも乗ったのかな?
(右)向かいに停まっていたレールスターも発車したので、ついでに撮った。


泣いても笑っても、その日(12月14日)はやって来る・・・


最後の力走を続ける0系新幹線を瞳に焼きつけておきたかった・・・


超特急旅行 ~新大阪から広島まで

2008-11-23 23:51:10 | 鉄道紀行&乗り物


 姫路に到着前、西の空に浮かんでいた朝の満月。大きなRを描きながら新幹線とクロスしていった道路は、国道2号の姫路バイパスだと思う。


 新大阪~新山口間を、「のぞみ」(新神戸、岡山、広島に停車)は1時間52分、「ひかりレールスター」(新神戸、姫路、岡山、福山、広島、徳山に停車)は2時間11分で駆け抜ける。両者における約20分の差は、大半が停車駅の有無による。新幹線が途中駅に停車すると、そのたびごとに約5分間、時間をロスするそうだ。
(「のぞみ」が運行を始めた頃、制限速度の関係で新大阪~東京間を2時間30分で走れない時間帯が生じ、苦肉の策として京都&名古屋を通過させたところ、「名古屋飛ばし!」だと猛烈な抗議を受けた)
 「ひかりレールスター」が「のぞみ」と同じように新大阪~新山口間を走ったとすると、5分×3駅=15分短縮でき、1時間56分になる。残る4分間が、N700系「のぞみ」の最高速度=時速300kmと、700系「ひかりレールスター」の最高速度=時速285kmの差から生じた時間である。
 算数ができないので、「のぞみ」と「ひかりレールスター」が300kmの距離を最高速度を保ったままスタートからゴールまで駆け抜けた場合を考えると、「のぞみ」がゴールした時点で「ひかりレールスター」は15kmも後方を走行中だが、それでも約3分後にはゴールインしてしまう。時速285kmはそれほど速い。カップラーメンを待つ時間を長いと考えるか、短いと考えるか、それが問題だ?

 さて、ニワトリさんが乗った0系「こだま」の場合、新大阪~新山口間の所要時間は3時間28分。1分でも長く0系に乗っていたかったので、帰ってくるまで全く気にしていなかったが、N700「のぞみ」と比べると1時間17分も!遅い。
 そんなに遅いのか・・・それなら引退もやむを得ない、と一瞬思ったが、各駅停車の「こだま」は新山口まで実に10駅も余分に停車しているではないか。これらの駅を通過すれば、(最高速度の差が結構あるにしても)45分は時間を短縮できるだろう。さらに「こだま」は、相生、東広島、新岩国、徳山の4駅で「のぞみ」や「ひかりレールスター」を先に通したので(もちろんニワトリさんは、そのたびに喜び勇んでホームに降りたのだが・・・)、通過待ちで余分に停車した12分を引けば、最高速度=時速220kmの0系と、最高速度=時速300kmの500系やN700系との時間差は1時間17分ではなく、たったの20分ということになる。
 確かに時速300kmの世界は素晴らしく、20分の差は絶対に埋めることはできない。でも、ローカル線を乗るようになって「1時間待ち」を「ちょうどいい」と感じるようになった心と、各駅停車に何時間も普通に乗れるようになった体(高崎まで2時間半)に、0系やN700系の「速さ」は、「魔法の杖」を持ったに等しい「速さ」なのだ。実際の話、0系だって十分速いと思ったし、乗り心地も最新鋭のN700と遜色なかった。まだまだ捨てたものではないと思うのは、贔屓の引き倒しかしら?


 6時40分、車内をひと通り回ったので、移動した自由席で朝食を食べることにした。本当は、各駅で発売ている復刻記念弁当を食べるつもりだったのだが、新大阪駅で発売されているはずの「大阪弁VS博多弁」の0系バージョンが、朝早い時間だったせいか、見当たらない!
 大阪寿司でも食べて新山口駅で「さよなら0系幕の内弁当」を買うか、車内販売(新明石駅の「0系新幹線・夢の超特急弁当」は弁当の中身より陶器が欲しい~)に賭けるか思案していたら、6時12分発の「こだま」には車内販売がないという(=不親切極まりない)事実を教えてくれる親切な構内放送が流れた。
 「ここで駅弁を買うしかない。でも、どれにしようか?」
 決め兼ねていたら、20代と思しき美人が「じゅうじゅう弁当」に手を伸ばし、迷うことなくレジに向かった。朝から「肉」を食べるのはちょっと・・・と躊躇していたニワトリさんも、これで勇気百倍! 彼女に続いて「じゅうじゅう弁当」に手を伸ばした。ありがとう~♪
 ご覧のとおりのボリュームだが、大ぶりの肉が四段も積み重なっていたので、いよいよ感激した。程よい硬さの肉を噛みしめると、ニンニクを使わずワインとリンゴで和風に仕立てたソースがジワ~と染み出てきて、実に旨い! 850円という良心的な価格も素晴らしい!
(朝食に満足し過ぎた?のか、新山口で復刻弁当を買い忘れた・・・)


(左)6時57分、朝日がどんどん強くなってきた。今日はいい天気になりそうだ。雨垂れの跡が窓にこびりついているのも、長年走ってきたから?
(右)7時00分、相生に着いた。この駅で「ひかりレールスター」に抜かれる。


(左)朝日をうっすら浴びながら、レールスターの通過を待つ0系。6両全部写っている。
(右)猛スピードで通過していった「ひかりレールスター」。こちらは8両編成。


(左)8時28分、東広島駅ではN700系に抜かれた。この距離では、シャッター速度=1/100秒でも全然止められない。
(右)8時42分、広島駅に着く直前。工事中の新球場が見えた。写真を撮ったときは広島市民球場が解体されている!と思った。

 もう1回「0系」の記事が続きます。しつこくて、ゴメンナサイ・・・。


超特急旅行 ~0系車内を探検する

2008-11-22 23:58:31 | 鉄道紀行&乗り物



 発車の時刻が近づいてきた。最後に、時計を睨んでいる車掌さんも入れた正面顔を撮って、車内に飛び乗った(逆に、車内から飛び降りる人もいた)。なのに・・・どういうわけか、プログラムオートが露出を測り間違え、真っ暗写真になってしまった。ブライトネスの調整で、形だけは浮かんできた。何ともお粗末だけど、このカットが撮りたかったので・・・。

 0系新幹線に乗ってから、早くも一週間が過ぎてしまいました。「超特急旅行」と命名しながら、各駅停車よりも歩みの遅い今回の旅ですが、新幹線について調べていくと、いよいよ0系に惹かれてしまい、一週間前に戻りたくて仕方がありません。
 ところで、ひと口に0系と言っても、1964年の開業当時から1986年までの22年間に、38回ものマイナーチェンジを施されていました。詳細について調べ始めたら、それだけで一冊の本になってしまうでしょう。
 1999年に東京~新大阪間の営業運転を終了しており(引退時は「こだま」。0系が「ひかり」ではなくなったのはいつ?)、身近な存在ではなくなっていたのですが、2007年12月14日を最後に、もう二度と走る姿を見られなくなるのはとても残念です。本当にそれでいいの?
 0系新幹線を設計したのは旧日本海軍の技術将校だった三木忠直さん。当時、旅客機を思わせる先頭車両・・・と形容された新幹線ですが、それもその筈、旧日本海軍の双発爆撃機「銀河」をモチーフにデザインしたとか・・・。
 

 半分近く乗客が座っていた指定席(左)と、ガラガラの自由席(右)。色違いになっているけれど、座り心地は同じ。6両中、指定席は1両しかなかった。16両編成だった頃と比べると寂しい気持ちもする。N700系の5列シート(3+2)に特に不満はなかったが、改装された4列シート(2+2)はより快適で、座り心地も非常に良かった(0系新幹線は、今と同じ5列シートだった)。


        

(左)デッキに小さな厨房があった。ビュッフェの名残? かつて新幹線&特急は、食堂車やビュッフェを備えていたのだが、いつの間にかこれらも姿を消してしまった。
(右)その向かいにトイレと電話ボックスがある。携帯電話が普及する前は、新幹線から電話がかけられること自体が「スゴイ」ことだった・・・。


       

(左)立派な洗面所。そうそう、昔は冷水器が置かれていて、喉が渇いているわけでもないのに、封筒形の紙コップに水を汲んで飲んだっけ・・・。
(右)さりげなく飾られていた0系のパネル。記念に欲しかったなあ~。


(左)車内案内図。記念に欲しい人がたくさんいるだろうな~。1号車は今では珍しい喫煙車だった。煙臭いので殆ど立ち寄らなかったが、灰皿の写真を撮っておけば良かったかな?
(右)1983(昭和58)年に製造された0系。1992(平成4)年 に改装された? 洋式トイレは車椅子対応! 全くもって「進みません」が、今夜はここまで・・・。


 またしても!間違えました。先日ニワトリさんは、「上越&東北新幹線200系の「流し目」タイプ(100系ベース)が今年の春に全車引退した」と書きましたが、「流し目」タイプは2005年に引退していました。今年の春に引退した200系は、0系初期型と同じ顔つきのF19編成でした。山陽新幹線から0系初期型(営業最高速度=時速220km)が姿を消した後は、上越&東北新幹線の200系K編成(時速240kmに対応。延命工事済)が、最後の0系ベースの車両になります(ニワトリさんが東京駅で目撃した車両だ!)。K編成の中には、オリジナル塗装に復元された車両もあり、イベント以外でも走っているそうなので、運が良ければそれに乗れるかも? 以上、クレームがついたわけではないのですが、ここにお詫び申し上げます。


超特急旅行 ~流線形1964!

2008-11-21 14:05:15 | 鉄道紀行&乗り物


 翌朝は、5時30分に目覚ましをかけたけれど、その前に目を覚ました。身支度を整え、ロビーの長椅子に身を沈めて、静かに再会の時間を待つ・・・。次々と宿泊客が1Fに降りてきて、スーツに着替えてはチェックアウトして行く。普通のホテルとは違って、カプセルホテルの朝はかなり早い。寝ている人を気遣いつつ、静かに粛々と時間が流れてゆく。


(左上)5時45分、ニワトリさんもチェックアウトした。エスカレーターを上れば新幹線乗り場に出る。6時12分発博多行「こだま629」号の行先表示を確かめた。
(右中)0系が入線してくるまでまだ時間があるので、隣のホームから西日本でしか見られない「ひかりレールスター」などを眺めて時間をつぶす。
(左下)6時近くなったので、20番ホームに移動して0系を待つ。一人二人と、カメラを持ったファンがホームに現れた。それを見て、ここから写真を撮るより隣のホームから撮った方が車体が多く写ることに気づき(編成写真は対面ホームから撮るのが基本だと、誰かが言っていなかったっけ・・・)、階段を駈け下り、隣のホームに向かった(冒頭の写真と、帰ってきて最初にブログに載せた0系写真が、隣のホームから撮ったものです)。


(左)昔と比べると、ずいぶん短くなってしまったけれど(15→6両編成に・・・)、数十年ぶりの再会だった。最後に0系に乗ったのは、高校の修学旅行ではないだろうか?
(右)たくさん写真を撮ったつもりだったが、車体の行先表示とか、色々なことを忘れていた。この写真は(しかもブレている)、ボディも撮っておこうとシャッターを切ったのだが、せっかく隣のホームから撮影しているのに、先頭車両がフレームに収まるところまで移動しなかったのは何ともお粗末・・・トホホです。


(左)猛ダッシュで20番ホームに戻り、こちら側からも写真を撮った。10人足らずの人でも、常に誰かが回りを徘徊しており、立ち止まっては写真を撮っているので、なかなか車体だけを撮ることができない。人のいない一瞬にシャッターを切る。
(右)1964年に登場した新幹線。それほど多くは乗ったわけではないけれど、新幹線と言えば、やっぱり0系しか考えられない。知らないうちに、瞳に馴染んでしまったのだろう。見ているだけで心が落ち着く横顔だ。

 さあ、仕事へ行こう~♪