暑中お見舞い申し上げます

2012-07-24 23:42:32 | 音楽の森


 夕方帰宅しましたが、さすがにきつかったです。でも、スタッフやGHの利用者も気づかって色々助けてくれたので乗り切ることができました。今後に繋がるいい体験ができました。事業所も気づかってくれたのでしょう、明日はお休みにしてくれました。ありがたく、休ませていただきま~す。

 で、先日、麻丘めぐみさんを皮切りに70年代のアイドル歌手たちを【YouTube】で、懐かしく視聴してしまったのですが、しょせん小学生~中学生の審美眼だったんですね~。彼女たちの可愛さは半端じゃない!と、ひたすら感心させられました。
 アンヌ隊員=ひし美ゆり子が特別の人だった頃、子供心に憧れた歌手は、いしだあゆみ(「ブルー・ライト・ココハマ」)、由紀さおり(「夜明けのスキャット」「手紙」)、ちなみなおみ(「喝采」)の三人でした。小学生にしては渋すぎる気もしますが、【YouTube】で歌う姿は実に美しく(いしだあゆみさんは、『梅ちゃん先生』のあかねさんに雰囲気似てました)、曲や歌唱力だけで好きになったわけではなかったことがよくわかりました。
 「喝采」が日本レコード大賞に輝いた1972年、最優秀新人賞を獲得したのは「芽ばえ」の麻丘めぐみですか、彼女こそニワトリさんが最初に好きになったアイドル歌手です。こんな可愛い人が世の中にいたのか、と夢中になりました。以下歌手編では、岩崎宏美、太田宏美、キャンディーズという具合に続いていきます。
(日本の女優になると、大原麗子、中野良子、酒井和歌子という按配)
 大好きだった彼女たちや、個人的にはそれほど惹かれてはいなかったけれど、その当時人気のあった歌手を【YouTube】で拝見したところ、あまりにの可愛さに見惚れて(聴き惚れて)しまいました。
 客観的に見ても、当時の評価以上に評価されるべきだと思います。天地真理&桜田淳子さんなんか、タイムマシンで遡って追いかけたい・・・可愛い、美しいだけじゃなく、曲もいいじゃん! この調子だと、当分70年代の再発見を楽しめそう・・・。いやはや、なんとも、凄い時代でした。

 以前私は、「キャンディーズの夏・・・といえば、『暑中お見舞い申し上げます』よりも、自転車旅行に出かけた夏休みに聴いた『夏が来た』が好きだ」とブログに書きましたが、プロが舌を巻くほど見事に編集された「暑中お見舞い申し上げます」と「夏が来た」のミュージック・クリップが新たに【YouTube】にUPされていて、クリックしたら眼が釘付けになってしまいました。投稿したのは「Vellfire22」という方なのですが、大ファンなのかな? よくも作ってくれました! この場を借りて、感謝いたします。キャンディーズ、やっぱりいいなあ~♪

 ランちゃんの「ウ~ゥフン」がたまらなく可愛い「暑中お舞い申し上げます」は、 → ここをクリック
 キャンディーズの曲の中で、一、二を争う名曲「夏が来た」の見事な動画は、 → ここをクリック


誰かが風の中で ~木枯らし紋次朗のテーマ

2012-07-22 22:33:23 | 音楽の森

 エリリンさんがくれたコメントの返事で書いたのですが、怪我して一週間音なしの生活の中で(なぜ音楽を聴かなかったのだろう?)、ひたすら頭の中でリフレインされていたのが、テレビドラマ『木枯らし紋次朗』の主題歌「だれかが風の中で」から、「血は流れ 皮は裂ける 痛みは生きている印だ」という部分でした。

 痛みは生きている印・・・痛みをこらえるのではなくて痛みを感じながら生きる(ちょっと大げさですね)。いつどこで思い出したのか、お経か呪文のように唱えてたのですが、木枯らし紋次朗と言えば、(毛色は異なるけど自分の中では綺麗に繋がる)孤高の旅人スナフキンの次に出現したヒーローでした。
 昔から時代劇が大好きでしたが(今は『薄桜紀』がいいね)、リアルさを追求した市川昆(監修と場合によっては監督も務めた)の殺陣が斬新でした。ニワトリさんは、しばらく後に登場する「破れ傘刀舟」先生の啖呵と剣さばき(萬屋錦之介)にしびれまくるのですが、紋次朗さん(中村敦夫)の泥臭く格好悪いチャンバラも大好きだったのです。時代劇と言うよりも西部劇ですね。ちゃんばらウエスタン。それも雨がじとじと降る・・・。
 間抜けな話ですが、中村敦夫さんの真似をして、爪楊枝や竹串をプッと飛ばしたりしました。全然飛ばなかったけど・・・。あんな恰好良い大人になりたいと、どれほど憧れたことでしょう!
(この番組は、『プレイガール』同様、時と場合によって隠れて見る必要があった)

 主題歌「だれかが風の中で」も格好良かった! 録音マイク片手に、息をひそめながらテレビから流れる主題歌を録音している最中に名前を呼ばれて、ついうっかり返事をしたものだから、自分の「ハ~イ」という声まで一緒に録音されてしまった・・・そんな思い出もあります。
 「だれかが風の中で」は、「小さな恋のメロディ メロディフェア/若葉の頃」、「さらば涙と言おう」の次に買ったドーナツ盤EPです(その間に麻丘めぐみの「芽ばえ」があったかもしれない)。
 先ほど、僅かに残ったEP盤を探ってみたのですが、「小さな恋のメロディ」と「さらば涙と言おう」だけ残っていました。う~ん、100枚はあった筈なのに・・・全部買い直したい! ちなみに、これらのレコードを買った「アポロ」と「国立楽器」は、今も国立にあります(「国立楽器」はソフトの販売をやめてしまいましたが・・・)。
 
 作曲=小室等、歌=上条恒彦と言えば、「だれかが風の中で」より前になると思うけれど、自分はこの後「出発の歌」のEPレコードも買って、文字どおり擦り切れるまで聴きました。
 なんか、色々なことが数珠つながり、芋づる式に思い出されましたが、スナフキン(にもテーマソングがあったんですよ!)と紋次朗(「だれかが風の中で」)に憧れた少年が、少年時代の最後に口ずさんだ歌は、杉田二郎の「人力ヒコーキのバラード」でした。
 それにしても、すごいですね、これらの曲は全て【YouTube】にUPされてました。リンクさせちゃおうかな?
 まずは 「だれかが風の中で」から・・・。

 どこかで 誰かが きっと待っていてくれる
 雲は焼け 道は乾き 陽はいつまでも沈まない
 心は 昔 死んだ
 微笑みには 会ったこともない 昨日なんか知らない
 今日は 旅を 一人
 けれども お前は きっと待っていてくれる
 きっと お前は 風の中で 待っている

 どこかで 誰かが きっと待っていてくれる
 血は流れ 皮は裂ける 痛みは生きている印だ
 幾つ 峠を 越えた
 どこにも 故郷はない 泣く奴は誰だ
 このうえ 何が欲しい
 けれども お前は きっと待って いてくれる
 きっと お前は 風の中で 待っている

 「木枯らし紋次朗のテーマ」 ←こちらはテレビからなので1番のみ。紋次朗さんが忘れ物をして、あわてて取りにいくとことか、懐かしい~~。DVD買っちゃう?


Kiyoshiro Imawano '98 Natural  3&4&5回

2011-05-09 10:32:30 | 音楽の森

多摩欄坂の信号が赤に変わりました・・・


第三回「国立楽器前にて」 ←クリックすると画像が出ます

 「国立楽器」店頭で「デイ・ドリーム・ビリーバー」を歌う清志郎さん! でも、その「国立楽器」は、北口にあった「本店?」共々大学通りに移転してしまいました。より正確に言えば、今の国立楽器は音楽ソフトを扱っていないので、清志郎さんの思い出の「レコード店としての国立楽器」は、もうどこにもありません。「国立楽器」のはす向かいに「アポロ」というレコードショップがあって、ニワトリさんが小学生のとき、「アポロ」で映画『小さな恋のメロディ』から「メロディ・フェア」と「若葉の頃」がカップリングされたシングル盤を、「国立楽器」で映画のサントラLPを買いました。KISSもランナウェイズも買っていたのですが、レンタルレコード店が出来た頃から足が遠のき、都内に就職するようになると、よほどのことがない限り「国立楽器」を利用することがなくなりました。最後に買ったのはレーザーディスクかなあ? いえいえ、私の「のだめ」ちゃんとアンサンブルするために購入したクラシックギターの弦を買ったのが最後。一階がレコード&CDショップで、二階にはピアノが所狭しと置かれていました。
 個人的には、サンゴーやウォータラインなどのプラモデルや、同じプラモデルでもラジコンカーの「6輪タイレル(ティレルとは呼びたくない)」とか、『ダーティ・ハリー』のイーストウッドが使っていたS&W M29のモデルガンを買うなど、中学から高校にかけてよく通っていた「(オモチャの)フレンドトーイ」に、ロシアン・ティーをよく飲んだ名曲喫茶の「ジュピター」(ここで、ルビンシュタイン演奏のチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」をリクエストしたが、実は高倉健さんの映画『冬の華』の受け売りだった。ドビュッシーの「月の光」や「亜麻色の髪の乙女」もよく聴いた)、反対側の旭通りにある「谷川書店」で買った古本の束を抱えて入ったコーヒー専門店の「書簡集」も、思い出深いお店です(「ジュピター」以外は今も健在。「ジュピター」は2006年に閉店したとか・・・)。
 さて、「国立楽器」の懐かしい店内で、ナビゲーター役の女の子から「国立にちなんだ曲の中でベスト3を挙げてください」と言われた清志郎さんは、3位=「国立市中3-1」、2位=「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」、1位=「国立楽器」と答えます。1位の「国立楽器」は、あまりに内容が個人的なので未発表だそうです。コンサートとかで聴いたことのある人いませんか? 全部聴きたい~♪ 


第四回「名曲 多摩欄坂 を歌う ←クリックすると画像が出ます

 【You Tube】で最初に見たとき、この場所が本物の多摩欄坂だとは信じられませんでした。現在の姿とあまりにも違っていたからです。十年ひと昔と言いますが、こんなに変わってしまったなんて・・・石垣はほんの少ししか残っていないし、前の空地には立派なマンションが建っています。あの頃は「コープ」もなく、空も今よりずっと広かったんだね~。「多摩欄坂」、しみじみ名曲です・・・。そのあと、清志郎さんはどこかの児童遊園地でブランコを漕ぎながらインタビューを受けるのですが、「好きな男は?」の質問に「自分」、「好きな動物は?」の質問に「(娘の)ももちゃん」と答える姿が印象的でした。


第五回「国立駅前ゲリラライブ 懐かしの森田屋」 
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 国立駅前(それも大学通りのある南口ではなく、北口で歌うところがいい!)で「サンシャイン・ラブ」を弾き語る清志郎さん、ニワトリさんは背景に注目したのですが、ゴルフの練習場が映りました! そうなんです、国立駅北口と言えば、正面に雑木林(林の中は自転車置き場になっている)、左手に第1回に登場した「白十字」(北口店。ファミレス並みに大きかった)と、ゴルフの打ちっぱなし練習場が鎮座する「何とも不思議な風景」を醸し出していました(住んでる我々には普通の景色だったけど)。1998年の時点では、雑木林はマンションに変わっていましたが、ゴルフの練習場&「白十字」はまだあったんですね。かなり前に、ここもマンションになったと思っていたのですが・・・。
 そして最後に登場したのが「森田屋」さん! これには思わず、「あっ」と声を上げてしまいました。私も小学校時代、どれほどこのお店に通ったことか・・・その頃は、ビデオに出演された森田さんのお父さん(「森田屋のおじいちゃん」と呼んでいた)もご健在でした。自分の記憶の中では、森田屋さんはずっと昔に閉店されたような気がしていたのですが、たった12年前まで営業していたんですね~。現在は、並びにあった小さなスーパー(確か、肉屋さんと魚屋さんと八百屋さんと乾物屋さんが入っていた)共々マンション2棟に変わってしまいましたが、懐かしい森田屋さんのお顔と店内を拝見しているうちに、肉屋さんのコロッケ&メンチカツがおいしかったこと、幼稚園(国立の「小百合幼稚園」)に通っていたときから声をかけてくれていたオトコマエな八百屋さんのことなど、
色々なことが思い出されてきました。
 そして・・・そう、そうなんです。森田屋さんの向かいは武蔵野の雑木林で、自分も沢山のクワガタ(清志郎さんと違って、カブトムシはメスしか捕まえられなかった)を捕まえたものです。夏休みの夜にスイカの食べ残しなどをセットして朝早く捕りに行くのですが、ワナ?にかかることもあったけれど、クヌギの樹を思い切り蹴飛ばし、そのショックでぼたぼたと落ちてきた甲虫を捕まえる方が手っ取り早かったような・・・たくさんいたんですね(仲良しのY君は蹴って落とすのが上手かった~)。初めて生きている玉虫を見たとき、その美しさに息を呑んだことを思い出します。友達と一緒に木の上の「秘密基地」を造ったっけ・・・。犬もここで散歩させました。
 雑木林は25年前ぐらいに宅地造成されてしまいました。その後、
この近辺にマンションが建つたび、日照権の問題も絡んでここに住む人々を中心に建設反対の運動が起きたのですが、環境破壊の横断幕には違和感を覚えたものです(あなたたちには直接関係ないけれど、貴重な雑木林と子供たちの遊び場が消えました・・・)。
 清志郎さんとは10歳年が離れているので、リアルタイムに「森田屋」さんですれ違っていたとは思えないのですが、それでもやはり、彼のことがより身近になりました(国分寺三中の先輩でもあったんですよ~)。番組の題名どおり「Natural」な清志郎さんに会えて良かったです。投稿者の方、本当にありがとうございました。

 


Kiyoshiro Imawano '98 Natural  1&2回

2011-05-08 22:23:24 | 音楽の森

2011.5.02 多摩欄坂にて


 忌野清志郎さんが名曲「多摩欄坂」を現地で歌っている映像が【You Tube】に投稿されていましたが、この映像の元になる映像が同じ【You Tube】にUPされていました。《スペース・シャワーTV》というテレビ局が制作した『Natural』という番組です。1998年10月のマンスリー・ゲストとして、フォークギターと沢山の万歩計(自転車に凝る前は歩くのが好きだったんですね)を持って清志郎さんが登場。待ち合わせ場所の「ロージナ茶房」を出発点に、幼年~青春時代を過ごした思い出の場所を巡りながら路上ライブをするという素晴らしい番組で、5回に分けて放送された模様。
 初めてこの映像を見たのは5月2日。多摩欄坂から戻ってきたあとでした。明日のために寝るべきなのに繰り返し見てしまい、寝不足でGHの旅行に出かけるハメになりました。でも、元気はたくさん注入されたみたいで、その日の朝も、そして4日の帰りも多摩欄坂を横切りました。帰ってきたときはさすがにヘロヘロでしたが、翌5日も朝から『Natural』を見てしまいました。


第一回「喫茶ロージナにて」 ←クリックすると画像が出ます。

 「ロージナ茶房」は今もあります。基本は喫茶店なのですが、スパゲティやピラフなどの食べ物関係が普通盛りなのに超大盛りなため、ニワトリさんも食べ盛りの頃によく行きました。今も特大サイズだそうです。お腹がいっぱいになると、やや離れたところにあった「マギーメイ」に移動したものです。清志郎さんも言ってましたが、お隣の「邪宗門」がこれまた名物喫茶店で、アンティークショップとしか思えない骨董品の数々に囲まれて、小さなアルテックのスピーカーから流れるシャンソンを聴きつつ飲むウインナーコーヒーは格別でした。ニワトリさんがイメージするパリへのタイムトンネルみたいな存在でした。「でした」と過去形になってしまったのは、去年でしたか植草甚一さんを彷彿させるオーナーが亡くなり、その意向を踏んで閉店されてしまったからです・・・。
 話を戻すと、新曲「サンシャイン・ラブ」をBGMに語る清志郎さんが番組の題名どおり「NATURAL」で素敵です。スカイダイビングをしたときの感想を聞かれて、「うん子がもれそうになった」と少し照れながら答えるのがイイネ! 「夏はクーラーが入ってたので、(ここに)涼みにきた」と答えてましたが、70年代前半はそういう時代でした。10年後輩になる我々の高校時代でも、家庭におけるエアコンの普及率は20%ぐらいだったのではないでしょうか? でも、それで何の不自由も感じていませんでした。


第二回「清志郎 大学通りを行く」 ←クリックすると画像が出ます。

 ロックンローラーにならなかったら画家になっていた?清志郎さんは、「画材を買っていた」金文堂(老舗の文具店。ニワトリさんはその後できた向かいの「ヨシミヤ」さんで大学四年間バイトする)から、「あんまり入ったことない」白十字(ケーキ&喫茶。当時、国立のケーキ屋さんは「白十字」か「マロニエ」しかなかった。ニワトリさんは「マロニエ」党で、「白十字」はデート?で行ったのみ)、「教科書を扱っている」増田書店(本の選び方がかなり個性的)と大学通りを歩き、、その次のブロックにある高級スーパーの紀伊国屋は飛ばして、一橋大学の正門前で「雨あがりの朝に」と「天使のハンマー」(「天使のハンマー」の映像は最後に流れる)を歌います。それから、かなりテレながら「Chieriちゃん、“ぼくの自転車のうしろに乗りなよ”」と台詞を棒読みして、どデカイ車載カメラを搭載したママチャリの後ろにナビゲーター役の女の子を乗せて、二十年ぶりに国立の町中(碁盤の目のように広がる裏通り)を走ります。BGMはもちろん、先ほど棒読みしたあの名曲! 「国立といえば自転車でしょう」と言い切る清志郎さん、そのとおりです~♪


「多摩欄坂」 ~清志郎さんの命日に・・・

2011-05-02 22:57:00 | 音楽の森

 たった今、「多摩欄坂」に行ってきた。
 「多摩欄坂」は何百万年の時間を刻む国分寺崖線にある坂の一つだ(と思う)。崖線から滲み出た地下水が集まって野川となり三鷹の先で多摩川に合流する。だから、このあたりは、それこそ国分寺があった奈良時代から人が住んでいたのだけれど、大学通りをはさんだ国立の中心街からは少し外れたところにある。多摩欄坂を上って道なりに行けば、旧鎌倉街道と府中街道を横切って、JR国分寺駅南口に至る。

 自宅は坂の上(国分寺崖線の上)にあるけれど、多摩欄坂を上り下りはしなかった。このあたりは、どの坂も「たまらん」と言いたくなるほど結構急なのだが、国立駅から帰るときは、その中でも一番急な坂道を「はあはあ」言いながらいつも上っている(下りは緩い坂道を使う)。
 でも、自宅から自転車で3分もかからないところにある「多摩欄坂」を、自分は何度行き来したことだろう・・・高校時代までは自転車で、以後はオートバイで。ルート20や鎌倉街道、そして生意気に中央高速から戻ってきたときは必ず、この坂を横切って自宅に戻ってきた。自分が使っていたのはいわゆる裏道だが、幹線道路のない国立(今現在、駅のロータリー周辺を大改造して大きな道路で南北を結ぶ計画が進んでいる。普通の町になりたくないのだが・・・)では生活道路の一つであり、旅の終わりに必ず通る道だった。
 「多摩欄坂」を初めて聴いたときは、郷土愛など感じたことのない自分が何とも言えない誇らしさを覚えたし、彼のことがよりいっそう身近になった。

 RCサクセションは大好きなバンドだった。ニワトリさんは吉田拓郎の信者だったが、「雨上がりの夜空に」を聴いたとき、その彼よりも格好良い奴を見つけたと思った。「スローバラード」には痺れたし、「トランジスタラジオ」を聴いたときは、何だか知らないけど涙が出た。
 拓郎と清志郎そして浜田省吾から佐野元春へ。伊藤銀次とYMOの三人を除けば、後にも先にも夢中になった日本人シンガーはこの四人だけだ(RCはバンドだが。ギターだと、Charと渡辺香津美。それから、ちょっと僕には難しすぎたのだけど井上陽水と・・・)。
 そんな彼らが、時が経つにつれて「物分りの良いおじさん」になってしまったような気がして(サノモトは教育テレビに出ているし・・・)、いつの間にか彼らから距離を置くようになってしまった。残ったのは今でもアダルトキッズな伊藤銀次と彼が80年代に残した曲だけ・・・。

 だが、「物分りの良い大人」になっていたのは、実はニワトリさんの方だった。清志郎は変わってなんかいなかった。最高にカッコよかった。
 テレビやラジオでは絶対流れないこともあって、ニワトリさんは「サマータイム・ブルース」も「ラブ・ミー・テンダー」も知らなかった。正直に告白すれば、90年代以降から彼が亡くなる2009年まで、まるで知らなかった。訃報を聞いたとき、こっそり多摩欄坂を訪ねたけれど(雨が降っていて涙を隠すことができた)、数多くの追悼番組を自分は一つも見なかった。見る資格がないような気がしたのである。

 RCサクセションが1988年に発表したアルバム『カバーズ』に収録された「サマータイム・ブルース」で、「37コも建っている」と歌われた日本の原子力発電所の数は、現在54コ。23年間に17コも増えてしまった。さらに14コが計画中だ。今日は彼の命日だけれど、生きていたら何をしているだろうか? もうコンサートには二度と行けない。一緒に歌を歌えたらそれ以上の幸福はないのに・・・。

 多摩欄坂には数分いただけなのに、花束を持った四十代のカップル(多分夫婦だろう)と、三十代の男性がやってきて、無言の会釈をした。改めて、恥ずかしくないニンゲンになろうと思った。

 「サマータイム・ブルース ~ ラブ・ミー・テンダー」のライブ映像は、 → ここをクリック
     「多摩欄坂」のギター1本によるアンプラグド演奏は(投稿者に感謝!) → ここをクリック


AKIRA MEETS AKIRA ~MEG LIVE APRIL 8

2011-04-09 22:07:00 | 音楽の森

 

 年末の打ち上げか忘年会みたいに盛り上がったMAYAさんのMEGライブ。去年の12月30日のことです。このときが初めてのMAYA&MEG体験だったのですが、以来すっかりはまってしまい、月に一度の割合でMEG(全部MAYAさんのライブだけど)に通ってます。
 あの日、飛び入りで参加してくれたトランペッターの谷殿明良さんの演奏に「ひと聴き惚れ」してしまいました。昨日8日の【MEG LIVE】は、その谷殿さんと松尾明(Ds)トリオのセッションだったのです(ベースは嶌田憲二さん、そしてピアノは寺村容子さん)。アルバム『GREEN CHIMNEYS』を録音したメンバーなのだけれど、一緒にやるのは殆ど一年ぶりとのことで、谷殿さんも久しぶりのセッションを心から楽しみにしているようでした。
 オープニングから意気込みのほどが伝わってきましたが、最後の曲で今日のテーマ?を明かしてくれました。題して『AKIRA MEETS AKIRA』!! そのとおりの濃密でHAPPYな時間でした。ほんと、楽しかった~♪
(あと二人、AKIRAを入れて新しいユニットを作ろうかと、松尾さんが冗談言ってました・・・)

 前日の11時の会議から始まって、当日17時30分に解放されたニワトリさんでしたが、夜勤の疲れも殆どなく、ウキウキしながら吉祥寺へ向かいました。その甲斐があって余りあると言うか、変な言い方だけれど、最後に会計したらお釣りが払った金額の倍返ってきたような気分でした。こればっかりは行った人じゃないとわからないと思いますが、生演奏は最高です。
 ステージの合間に、私より10以上年配のご夫婦と話す機会もありました。挨拶をを交わす人も段々増えてきました。このようにして自分も常連さんになっていくのでしょうか? その方たちも、自分とそう遠くない時期にMAYAさんのライブに通うようになったそうです。お住まいが横浜で、【横浜BarBarBar】にもよく行かれるとか・・・。初心者同士?気軽に話すことができました。
 映画ならともかく、音楽に関しては偉そうなことを言えないのですが、初めて谷殿さんのトランペットを聴いたとき、とても繊細な感じがして、そんなところに惹かれました。この日は二曲目に「I'll Be Seeing YouI」をしっとり吹いてくれ、「これは、自分がの好きな音だなあ~」と、しみじみ思いました。恐れ多いことを言ってしまうと、自分はどちらかというと、トランペットよりトロンボーン&サックス、サックスよりクラリネットそしてオーボエが何より好きなのですが(オーボエ吹きのJAZZ音楽家はいるのでしょうか?)、谷殿さんのトランペットは大変気に入りました。押しつけがましいところも全くなくて・・・。松尾さんたちも久しぶりの共演を楽しんでいたのでしょう、息もぴったり合っていたし、ソロの聴かせどころでは夫々たっぷり聴かせてくれました。
 アルバム二枚を軸に新曲を加えて2ステージ演奏してくれたのですが、どの曲も家に帰って聴いたアルバムの音とは違うアレンジで、生演奏の良さを改めて実感しました。松尾さんも寺村さんも素敵でしたが、今回は嶌田さんがいつも以上に凄かったです。2ステージ約2時間がとても短く感じられましたが、振り返れば何とも贅沢な時間でした。

 フレッド・アステアのミュージカル映画に出てくる曲が大好きです。そういえば「Let's Face The Music And Dance」もどこかで流れていましたが、どの映画だったか覚えていません。ジンジャー・ロジャースとコンビを組んでいたRKO時代とMGMに移籍してからの全作を持っていることだし、デビュー作から見直してみようかしら? 相変わらずやりたいことが多くて全然時間が足りないから、いつになるかわからないけど・・・(ブログをやめてしまえばもう少し時間が取れるかな?)。
 「A Nightingale Sang In Berkeley Square」(彼はボストンのバークリー音大卒。松尾さんの後輩です。「バークレイのナイチンゲール」のように唄ってくださいね!)、「Short Story」(谷殿さんはケニー・ドーハムのファンだそうです)「Everything  I Have Is Yours」「絶体絶命」など、どれも素晴らしかったのですが、圧巻は、今夜【MEG】に来る前にできたばかりだという「AKIRA Meets AKIRA」。 ラストをオリジナルで見事に決めてくれました! これがスタンダードの名曲に劣らず良くて、大いに驚かされました。オリジナル曲はアルバムにも(浮くことなく)自然に収録されていますが、「AKIRA Meets AKIRA」も是非! オリジナルのみのアルバムも期待します。親子ほど年の違う?二人のAKIRAと、嶌田&寺村さんに乾杯~♪ 
 来週はMAYAさんと、寺村さん参加の『十五夜』ライブです。楽しいなあ~♪

 

アルバム『GREEN CHIMNEYS』の四人が揃うのは久しぶり・・・というわけで、サインを戴いてきました!
谷殿さんのサインは(右下)小学生のときから考えていたんだって・・・寺村さんのはウサギのイラスト付き!


『ランナウェイズ』 ~プラス『EDGEPLAY』

2011-04-02 10:00:00 | 音楽の森

ジャッキーが抜け、ヴィッキー・ブルー加入後の珍しい写真。ほどなくして、シェリーも脱退。
サンディのストレートなロック志向に対して、ジョーンはパンク、リタはヘビメタに傾斜していく。


 映画『ランナウェイズ』の記事を改めて書く前に、2004年に製作されたドキュメンタリー『EDGEPLAY』を見直したのだけれど、英語字幕も出ないこともあり、ニワトリさんの英語力では「お手上げ」だった。こちらのドキュメンタリーには、2年後に亡くなるサンディの元気な姿も(いよいよマッチョに!)、リタも(ヘビメタ姉御の貫禄)、ジャッキーも(当時と同じようにキュート!)、ジャッキー退団後に加入したヴィッキー・ブルーも(ごめんなさい、初めてです)、そしてシェリー(相変わらず綺麗だけどかなり人工っぽい)とキム・フォーリー(病的に痩せてます)とスージ・クアトロ(懐かしい~)も登場する。ただ1人、ジョーン・ジェットを除いて・・・。
 ジョーンが著作権を持っている音源&映像が使用できなかったために、ランナウェイズの演奏が見られるのは1977年の日本公演に限られてしまうのが何とも残念だ。それでも、後期ランナウェイズの演奏シーンやヨーロッパ公演の様子に、プロモーション・ビデオ&プライベート映像なども、ときどき挿入される。半分以上が元メンバーへのインタビューになってしまい、聞き取れないニワトリさんにはかなり退屈な時間になってしまったが、何しろビデオカメラも一般的ではなかった時代だ。残っていただけありがたいと思った方がいいかもしれない。NHKの歌番組(だと思う)に出演したメンバーに、都倉俊一(最近活動再開したピンクレディーの一連のヒット曲などで一世を風靡したハンサム作曲家です)が流暢な英語でインタビューしていて、妙に感心してしまった。日本公演の映像を見ると、映画『ランナウェイズ』で描かれていた日本公演の様子が誇張ではないことがよくわかる。本当に熱狂的な人気を博していたのだ。


この写真はいつ頃? ジョーンが赤を着ていないので日本公演のときではないかもね?
THE RUNAWAYSの動画は、 → こちらをクリック(たくさん見られますので、探してみてね)
ジョーン・ジェットの格好良すぎる「チェリー・ボム」の動画は、 → ここをクリック(やっぱり彼女は凄い!)
リタ・フォード(とオジー・オズボーン)のクールな動画は、 → ここをクリック(12弦ギターだよ!)


 それ故、動画サイトに投稿されているランナウェイズの演奏の多くは日本公演のときのものだ。コルセット姿で熱唱するシェリーにどうしても注目が集まるが、ジャッキー&シェリーが退団後の演奏(名曲「スクール・デイズ」)とかもぼちぼち投稿されていて、本格的なロックバンドとしての成長が伺える(その頃、シェリーもソロでいい活動をしていた。幻のソロアルバムは必聴)。二人が抜けたダメージを感じさせないどころか、芯が一本通ったストレートなロックを聴かせてくれているじゃないの! もっともっとランナウェイズの演奏を聴きたい、という想いが強くなる。リアルタイムだと、ニワトリさんは彼女たちへの興味を完全に失っていた。バカだね~。
 だがこの頃から、サンディ、リタ、ジョーンの三人が目指している音楽の方向性の違いが浮き彫りになり、結成から5年後の1979年にランナウェイズは解散してしまった。短すぎたといえないこともないが、16~20歳までのもっとも多感な青春期を刺激的なショービジネス界で過ごしたことで、良くも悪くも普通の人の一生分以上の経験をたった5年でしてしまったと考えることもでき、決して短い時間ではなかったし、栄養分もたくさん取り込み、以後の人生を生きる力になったのではないだろうか? 三人のその後の活躍を見れば、彼女たちがどれほどの才能と信念を持っていたかもよくわかる。シェリーは音楽活動をやめてしまったけれど、チェーンソー・アーティストとして活躍していて、オフィシャルサイトを訪問すると驚き桃の木~! 
 ニワトリさんが『EDGEPLAY』を忘れてしまったのは、英語力不足に加えてジョーン・ジェットが登場しなかったことに尽きるが、映画『ランナウェイズ』には不在のジャッキーと、まともな台詞は一つしかなかったリタをたっぷり見ることができ、その意味でも貴重な作品だった。ちなみに『ランナウェイズ』に、シェリーの「激写」写真が掲載された雑誌をリタが彼女に投げつけ「You bitch!」となじるシーンがあったが、『EDGEPLAY』のインタビューを聞くと全くそのとおりだったことがわかる(その後すぐ、シェリーが「でも、あの雑誌は日本のペントハウスではなかったのに・・・」と弁解している映像が入る。彼女は下着コスチュームを思いついた経緯や、ドラッグなどについても赤裸々に語っていた)。



 前にも書いたが、映画『ランナウェイズ』はシェリー・カーリーの書いた自伝『ネオン・エンジェル』をジョーン・ジェットが監修する形で映画化された。監督のフローリア・シジスモンディは言う。「基本的にランナウェイズは解散を目的としたバンドだった。ステレオタイプからの解散、平凡な郊外での生活からの解散、そして産業ロックとラジオを支配していたディスコ・サウンドからの解散。もちろん、1970年代のロック・シーンは過剰で違法な薬物使用と無縁ではなったし、ランナウェイズもそれから無縁ではいられなかった」
 ジョーンを演じたクリステン・スチュワートが本人かと思うほど素晴らしく、当時のジョーンの気持ちを全身で体現していて、ギターもボーカルも完璧にコピーしているのには驚かされた。『トワイライト』シリーズはノーチェックだったけれど、これ一本で大ファンになったよん。シェリーを演じたダコタ・ファニングも頑張っていたけれど、生まれの良さは隠せず「ビッチ」度が足りない。演出上わざとそうしたのかもしれないが、映画の終わりの方では双子の姉の方が彼女っぽかったので、彼女の方をシェリーに起用した方がよかったのでは?とまで思ってしまった。
 のちほど、その双子の姉マリー・カリーを演じたライリー・キーオがリサ・マリー・プレスリーの娘だったことを知った。ということは、ライリーのグランパはあのエルヴィス!である。血は争えないというか・・・ダコちゃんがシェリーを演じるから映画化の話も順調に進んだのかもしれないが、彼女がシェリーを演じていたらどんな映画になっていたか?惜しい気もする。 
 映画『ランナウェイズ』は、実質上の主役のジョーン・ジェットとシェリーの物語として見るのだったらこれで充分だが(ラストシーンがいいです~)、ランナウェイズについての映画としてはやはり不完全で、『EDGEPLAY』を見て補完する必要がある。個人的には、二人に絞らず五人全員にライトを当ててくれたら、バイブルに近い青春映画になっていたかもしれない。ついでに、篠山紀信役の日本人カメラマンは、カーリーヘア!で登場して欲しかった?




『THE RUNAWAYS』の公式HPは、→ ここをクリック(ここから映画のオフィシャルサイトへも行けます)


    

シェリー・カーリーの驚くべき?転身。彼女のオフィシャルサイトは → ここをクリック 
ここから【チェーン・ソー】をクリックすると、素敵な作品が・・・!


『ランナウェイズ』 ~ I LOVE ROCK&ROLL

2011-03-28 02:07:20 | 音楽の森

左から、サンディ・ウェスト(Ds)、ジャッキー・フォックス(B)、シェリー・カーリー(Vo)、
リタ・フォード(G)、ジョーン・ジェット(G&Vo)。ガールズバンドの草分けだった。
「THE RUNAWAYS」のこのポスター(だったと思う)、自分も貼ってました・・・


 ランナウェイズの映画ができる(あのダコちゃんがシェリー・カーリーに化けられるの?という一抹の不安があったけど・・・)という話を耳にしてから、この日が来るのを待っていました~♪
(この記事は、デビューアルバムの『THE RUNAWAYS』を聴きながら書いてます)

 1981年、元ランナウェイズのジョーン・ジェット率いるブラックハーツが「アイ・ラヴ・ロックンロール」で全米ナンバー1の座に着いたとき、ランナウェイズの元ファン(ニワトリさん)はそれを我が事のように喜んだかというと、どうもそうではなく(ジョーン自身は「ランナウェイズにいたことを誇りに思っている」とインタビューに答えている)、「へぇ~、まだ彼女、活動していたんだ」程度の反応だった。日本で人気のあったベイ・シティ・ローラーズやノーランズがあっさり姿を消したように、ランナウェイズもすっかり忘れられてしまっていた。
 だが、本当に彼女たちはその程度の存在でしかなかったのか? ジョーンの作曲力はかなりのものだったし、サンディのドラムもしっかりしていた。リタのギターは今で言えばオリアンティ級ではなかったか? そしてシェリーのボーカルも・・・。

 ランナウェイズが色物扱いされてしまったのは、篠山紀信さんの「激写」によるところなんだろうけど、映画公開で火が再燃したのか、彼女(自分はよく覚えていないが、「激写」されたのはシェリーだけではなかったと思う)が写っている別冊GORO(当時はエロ本扱いだった。懐かしい~!)の取引価格がうなぎのぼりに上がっているらしい。確かに今一度確認してみたい気もする・・・。
 結論から言えば、本当のロックをやりたいという女の子(ジョーン・ジェットがドラムのサンディ・ウェストとクループを結成したのは15歳のときだ)を、プロデューサーのキム・フォーリーを始めとする大人たちが金儲けに利用した。もちろん、彼らのプロデュースがなければデビューはおぼつかなかっただろうし、彼女たちもまた単なる操り人形ではなかった。ジョーンは「音楽(ロック)がなかったら、死ぬか刑務所に行っていた」と映画でも語っている。イコール生きることだった。
 
 今も昔も、日本はこの手の商売にはうってつけの国で(エアロミスにクィーンに、KISSやチープトリック、そしてポリスなど、日本で人気爆発したミュージシャンが結構いる)、ランナウェイズは来日する前から不動の人気グループになっていた(今も、AKB48、KARA、少女時代といったアイドルグループが同じ手法でつくられる)。
 1977年に待望の来日を果たすと、彼女たちはテレビに出まくった。今も残るランナウェイズの映像は殆どが日本で撮られたものだ。夜のヒットスタジオ、銀座NOW、そしてNHKのレッツゴー・ヤング(レッツゴー・ミュージック?)にも出演した。さすがにNHKはシェリーの下半身こそ映さなかったが、コルセット姿が公共の電波で流れたのだから・・・(快挙でしょう)。音楽専門誌よりも『明星』『平凡』といったアイドル芸能誌の取材を受けるのは気が進まなかったかもしれないが、全米ツアーの辛さ(チープトリックやラモーンズの前座を務めながら腕を磨いていった)と比べれば、日本ツアーは天国同然だったに違いない(今もジョーン・ジェットはロック・フェスなどで来日してくれる)。


ランナウェイズはサンディとジョーン(左の二人)が作ったバンドだ。中央のリタが17歳で他の4人は16歳!

成り切る映画の面々。クリステンはジョーンに激似。殆ど台詞のないリタも良く似ている。
サンディは線が細い。ダコちゃんは・・・子役時代の彼女のファンは唖然としたかも?
残念ながらジャッキーの協力を得られなかったらしく、彼女が登場しないのが残念。


 ところで、シェリー・カーリーはいつも下着姿(コルセットに黒のパンティそしてガーターベルト)で歌っていたわけではない。残っている映像が「チェリー・ボム(当時は「チェリー・ボンム」と表記され、ボーカルのシェリーも、チェリーと間違って呼ばれていた)ばかりなのでそのような印象を与えるが、下着コスチュームで歌うのは「チェリー・ボム」だけで、通常は銀のジャンプスーツで歌った。コンサート中に何回か衣装を変えていたらしい。
 確かに彼女の姿は悩ましかったけれど、彼女ばかり追いかけていたのはマスコミで、それぞれにファンがついていた。垂れ目が可愛いジャッキー・フォックスも人気があったし(彼女は来日中に突然帰国し、そのまま脱退してしまう)、個人的には胸の薄かったシェリーより、Vゾーンの大きく開いたジャケットで豊かな胸を強調していたリタ・フォード姐さん(といってもまだハタチ前だけど)のギターになりたい(シェリーの露骨なマイクの使い方にどうしても目が行くようだが、リタもかなり悩ましくギターを弾いてた)と思ったほど・・・。「チェリー・ボム」を歌うときのシェリーを除けば、リタはもっとも露出度が高く、巨乳&豊尻に加えて二の腕の逞しさに、ホットパンツからのぞく太ももなどかなりのインパクトがあった。
(リアルタイムでは見られなかったけれど、池玲子 vs 杉本美樹でも同じ理由で池派になる・・・)
 ジョーンといえば黒の革ジャンが定番だけど、ランナウェイズ時代の彼女のステージ衣装は、シェリーの銀に対して赤のジャンプスーツ。ジョーンとドラムのサンディ・ウェストは硬派な感じだったが、ストイックなジョーンに対してサンディは親しみやすかった。

 

『LIVE IN JAPAN』のアルバム


開くとこのとおり・・・全身が現れる。紙ジャケ仕様のCDも発売されたとか


 冒頭に戻って、ジョーンが全米1に輝いた頃、ニワトリさんはランナウェイズのことなど綺麗さっぱり忘れていて、ブロンディのデボラ・ハリーやパット・ベネターに夢中になっていたのだが、二十一世紀になってようやく、色物扱いされていた彼女たちの音楽が実はかなり良かったことに気づき(演奏自体は大したことがなくても)、CDを買い直し始めた(今となっては、処分してしまったLPを返して~と叫びたい)。
 ロックをやるのは男で女はグルーピーだった時代・・・ドラムのサンディ・ウェストがロジャー・テイラー、リードギターのリタ・フォードがリッチー・ブラックモア(一時はつきあっていたらしい)、ギター&ヴォーカルのジョーン・ジェットがスージー・クアトロ、ベースのジャッキー・フォックスがジーン・シモンズ、そしてヴォーカルのシェリー・カーリーがデヴィット・ボウイに憧れ、百鬼夜行の業界に10代のエネルギーで飛び込み、がむしゃらに駆け抜けていった・・・それが真実だろう(2006年、サンディが癌で他界した)。
 映画『ランナウェイズ』は、シェリー・カーリーの自伝をジョーン・ジェットが監修する形で完成された。次回で映画の内容について述べるけれど、映画の出来など自分にとってはどうでもいい話だ。作られただけで満足している。セックスもドラッグもロックンロールもない今の時代の、無菌室で培養された歌手&グループしか知らない人々には、違う意味でどうでもいいお話かもしれない。
 実をいうと、6年前の2004年に『EDGEPLAY』というセミドキュメンタリー映画が発表されている。発売と同時に視聴したのだが、英語がわからなかったこともあって内容を殆ど覚えていない。確か、映画のように昇華されていない生々しい話が多くて、だから忘れてしまいたかったのかもしれない。棚を見たら処分せずにちゃんと置いてあった・・・。映画を見たことだし、もう一度『EDGEPLAY』を見てみようと思う。(次回に続く)




持っていたことも忘れていた『EDGEPLAY』。近いうちに見直すつもり


MAYA+松尾明トリオ ~MEG LIVE 3.25

2011-03-26 22:50:00 | 音楽の森


 3月5日のホリー・コール(ブルーノート東京)はインフルエンザで行かれず、3月11日の『十五夜』LIVE(個人的には寺村容子さんのピアノがメイン。立川ハーフトーン)は地震により中止・・・。3月24日のMAYA+松尾明トリオもダメかなと思ったのですが、計画停電も回避され決行。大いに結構ということで、夜勤明けに一本仕事をしてから吉祥寺MEGに向かいました。
 18時近くに国立駅に着くと、駅が暗い! なるほど、こんな風に節電していたんだ・・・。個人的には(コンビニとか)蛍光灯が明るすぎる今までに違和感を感じていたので、正直遥かに好感持てます。吉祥寺に着くと、いつものようにネオンがキラキラしていたので、ちょっとがっかりしました。新聞にも紹介されていた銀座四丁目や渋谷ハチ公前のように明かりを絞って欲しいです。もともと国立の夜は暗いのですが、周りの人の顔が見えなくたっていいじゃない?
 まだ4回目の【MEG】なのに、急な階段を上って店の前に立つと何だかホッとします。自分が一番乗りでした。店内から洩れてくるリハーサルの音を聴きながら開店時間を待つのもいいものだと、持参した文庫本(鹿島茂『パリ時間旅行』)を開きました。





 今夜はどこに座ろうか・・・どこでも選べるとなると逆に迷ってしまうのですが、松尾(Ds)さんの隣に座ることにしました。音響的には今までのように中央(MAYAさんの目の前で)で聴いた方がバランスが良いのだけれど、今夜は松尾さんのドラムさばきが見たかったのと、この位置からだとピアニストの横顔と運指も見え、良い選択だったと納得。でも、今夜のピアノは寺村容子さんではありません(三木成能さん、上手かったですよ~)。
 MAYAさんは、本人曰く「真っ赤なアバンギャルドのスピーカーに溶け込むように、アルバム『Kiss of fire』以来の」勝負服ならぬ真っ赤な勝負ルージュをひいて、今夜の心情を表してくれました。ルージュだけではありません。黒いドレスの胸元に咲いた鮮やかな大輪に真っ赤なハイヒールの赤三本立て!
 松尾さんはいつも変わらぬ優しい笑顔でお客さんを迎えてくれました。ベースの嶌田さんは(声が裏返ってしまうほど)ノリノリでした。
 
 今夜のLIVEは、注文したバーボンのオン・ザ・ロックのように喉からすーっと沁みていきました。まだ胸のつかえが取れないせいか、(心に響くと言うのとは少し違う、でも腹式呼吸と同じくらい重要だと思う)腹で音楽を聴きました。
 5月25日に復刻発売される 1st&2nd アルバムを彼女自身が改めて聴いて感じたことや、このような状況でLIVEができることに対する想いが込められていて、スタート地点に立ち戻って積み上げてきた気持ちを検証するような選曲(久しぶりに歌う曲が多かったと言ってました)と構成で、全3ステージ歌い切りました。
 胸のつかえが取れないのは彼女も同じだったと思います。この日の彼女は、自分自身にも聴かせるように歌っていたような気がしました。松尾さんの超絶ドラムソロも聴けたし(汗をかいたのは久しぶりと照れてました)、三木(P)さんと嶌田(B)さんの踊るようなやりとりも楽しかったです。良いLIVEでした。

 今夜は、私の大好きなスタンダードの名曲ジョージ&アイラ・ガーシュインの「Our love is here to stay」を歌ってくれたのですが、となればもう一曲、このコンビの「誰にも奪えぬこの想い」も聴きたくなりました。自分は、フレッド・アステアのミュージカル映画でこれらの曲を知るようになった程度のジャズ・ファンなので、「誰のがいい」などのウンチクは全く言えないけれど、思い切って松尾さんにリクエストしてみようかな?
(松尾さんによれば、「岸壁の母」は無理だけど「泳げたいやきくん」まではやれるらしい)
 ニューアルバムの選曲が佳境に入ったMAYAさん、寺島靖国さんも1stステージから仁王立ち?で見守っていましたが、今度はジャズ色がかなり強くなるのでしょうか? その一方で、私からも寺島さんにお願いします。次の次ぐらいでいいけれど、MAYAさんにボサノヴァのアルバムを出させてあげて~♪

 土曜日は『ランナウェイズ』と『台北の朝、僕は恋をする』を観て、胸のつかえも完全に取れました。きっとそうなると思ったけれど『ヒアアフター』の公開中止や、全く関係ない筈の『原爆を視る』展の中止など、嫌な感じの自粛ムードが広がっています。「原発」の問題にしても、祈るだけでなく正面から見つめて、今後どうするのか態度を決める必要があるのでは? 非難を恐れて記事をさっさと削除してしまったけれど、今後は、自由にモノを言えない空気に呑まれないよう心がけます。


MAYA+松尾明カルテット ~月イチMEG LIVE

2011-02-25 23:58:50 | 音楽の森


 2月23日(水)、本当は休みをもらっていたのですが、15時半から時間ぎりぎりまで仕事していました。18時に上がるところを30分延長して18時半にGHを後にすると、国立駅まで自転車で猛ダッシュ。上手い具合に電車が来てくれ、快速→中央特快→快速と乗り継いで吉祥寺下車。(思ったより早く)19時10分頃に【MEG】に着いたのですが、すでに満席・・・。
 足がグラグラしている丸椅子を渡されましたが、「何のその、ソンナノカンケーナイ」と腰を下ろすと(実は一度こけそうになった)、バーボンのオン・ザ・ロックとナポリタン(テーブルもないのに)を注文しました。
 自分の後も、お客さんは次々やって来ます。補助席もなくなり、立ち見の満員電車状態になったところで、「ここ開いてますよ」との天(としか思えない)の声が! 店長さんが「先ほどの方、どうぞ」と声をかけてくれ、ニワトリさんはMAYAさんの目の前の特等席をGETしてしまいました。
「残り物には福がある」でも「棚から牡丹餅」でも「果報は寝て待て」でも、何でもいいのですが、感覚的には「ところてんが押し出される感じ」でしょうか、これ以上表面積が膨れ上がらないようにコートと鞄をギュッと抱え、へこへこ頭を上げ下げしつつ、背中にくっつくぐらいお腹をへこませて、テーブルとテーブルの僅かな隙間を通り抜け、特等席に着きました(前回の席も特等席だったが、今回は本当にドキドキするほど目の前だった)。

 19時30分過ぎからライブが始まりました。一曲目のトリオの演奏が非常に素晴らしく、瞬時に音楽の世界へ連れていってくれました。この幸福感!
 そして彼女が登場すると、今日吹いた「春一番」とは少し違うのだけれど、彼女が春を運んで来たというのか、半径10m以内が春の空気に包まれました。ボッティチェリの有名な絵画『春(ラ・プリマヴェーラ)』のような・・・目の前にいたニワトリさんは、その日の午後のぬくもりまではっきり思い出しました。
 そんな彼女は、(彼女のブログにもUPされていました!)「今日みたいに春を感じさせてくれる日は、ボサノヴァを歌いたくなる・・・」と言って、『Desafinado』『イパネマの娘』(暮れにも聴けました!)『黒いオルフェ』などボサノヴァを歌ってくれました。ラテン&ジャズもいいけれど、ニワトリさん的にはリクエストに答えてもらったような嬉しさを覚えました。『Desafinado』、良かったなあ~♪

 この日の彼女+松尾明(Ds)トリオは、ファーストステージからトップギアに入るほどの乗りでしたが、セカンドステージからはテナーサックスの高橋康廣さんが飛び入り参加して、春の陽気に真夏の汗と秋の哀愁まで味わえる贅沢極まりないステージへと広がっていきました。その場に立ち会える幸福と幸運を噛みしめながら、全身で音楽を楽しんでいうちに時間が過ぎてしまったのですが、もう最高でした。
『悲しき願い』も(『グッド・バッド・ウィアード』を思い出す~♪)、『リベルタンゴ』も(嶌田さんの弦もヨーヨー・マ級?)、『Quizas Quizas Quizas』も、『Girl talk』も、『アドロ』も、良かった~♪


(左)松尾さん(Ds)の仕事場。七つの楽器を自由自在に叩けば、千の音(風じゃないよ)が聴こえてくる。高橋さん(Ts)にも感動した。ジャズの本領発揮は即興演奏だとしても、何でこんなセッションができるのだろう。プロは本当に凄い!
(右)嶌田さん(Bs)と寺村さん(Pf)も最高のパフォーマンスを披露してくれた。寺村さんが参加している【十五夜】のニューアルバム『ALL FOR YOUR SMILE』、Amazonに注文したけれど、この日には間に合わなかった。3月11日までには届いてくれないと・・・。

 来月は、ホリー・コール(Vo)、寺村容子(Pf)、MAYA(Vo)+松尾明(Ds)トリオと、三回もLIVEに行く予定です・・・。