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三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

ブルトン司教と聖母訪問会<後編>

2012年05月27日 | 神奈川のカトリック教会
聖テレジア病院 鎌倉福祉の丘聖堂
(住所:神奈川県鎌倉市腰越1-2-1)

前編の続き>。聖母訪問会の本部聖堂を巡礼した後、私は相模湾に臨む聖テレジア病院を訪れた。ここは、1929年にブルトン司教が結核患者のために開いた聖テレジア七里ガ浜療養所が前身。敷地内には高齢者や重症心身障害児の福祉施設もあり、聖母訪問会の七里ガ浜修道院が隣接している。病院の裏手に回ると、聖テレジア会鎌倉福祉の丘聖堂があった。1998年に献堂された瀟洒なチャペルで、毎月第一水曜日にミサが捧げられている。

七里ガ浜修道院にあるブルトン司教の墓を訪ねようとしたが、場所が分からない。玄関前を徘徊していると(挙動不審)、親切なシスターが声を掛けてくださった。来意をお伝えすると、「ブルトン司教のお墓参り?まァ、うれしい」と大喜びされ、何と院長シスターもお越しになった。ブルトン司教の墓は修道院の一角、相模湾の絶景を望む崖上にあった。 両脇にはパリ外国宣教会司祭、そして聖母訪問会創立時のシスターたちの墓が寄り添うように並んでいる。

先ほど、この怪しい男に声を掛けられたシスターは、とてもお元気な88歳(米寿)。生前のブルトン司教をご存じだった。お話しを伺うと、チマッティ神父にもお会いしたことがあるという。まさにカトリック昭和史の語り部である。この日、私は修道院内の聖堂を拝観する恩恵にも浴した。窓からは相模湾が一望のもとに。今回の墓参を通して、私は多くのお恵みをいただいた。改めて、訪問会シスターの皆さんに御礼申し上げたい。そして、聖母のお導きに感謝。


異国の地に眠るブルトン司教の墓
<聖母訪問会七里ガ浜修道院内>


<ブルトン司教の墓前は相模湾の大海原!>

◆主な参考文献など:
「マリアとともに急ぎ山道を 聖母訪問会の歩み・1915年-2001年」 早船洋美編著(聖母訪問会・2002年)

<付記>
聖母訪問会の名称は、ルカ福音書の「聖母のエリサベト訪問」(ルカ1・39-45)に由来。訪問会の会憲によれば、その使徒活動は「マリアのように、わたしたちもイエス・キリストと共に、必要に応じて人々を訪れ、その愛を分かち合う」とあります。なお、教会暦の5月31日(木)は、聖母の訪問の祝日です。
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ブルトン司教と聖母訪問会<前編>

2012年05月25日 | 神奈川のカトリック教会
聖母訪問会本部聖堂
(住所:神奈川県鎌倉市津550)

私はカトリック教会巡礼のかたわら、来日した外国人宣教師たちの足跡をたどるのが好きで、その蒔かれた「からし種」の現在も訪ねている。全世界に福音を宣べ伝えるため、宣教地の言葉や文化の障壁を乗り越えて、教会を献堂し、病院や学校を建て、社会的・経済的弱者を救済した情熱に強く惹かれる。パリ外国宣教会のテストヴィド神父、フロジャク神父、サレジオ修道会のチマッティ神父らは「一粒の麦」となり、首都圏にも福音の種を蒔かれていた。

パリ外国宣教会のアルベルト・ブルトン司教(Albert Breton:1882-1954年)もその一人。フランスで司祭叙階された1905年、ブルトン神父は仙台教区に赴任。その後、米国の日本人移民への宣教活動を経て、日本初の邦人女子修道会である聖母訪問会を創立。大森教会を献堂する一方、病院や学校などの福祉・教育施設を建てた。戦後も横須賀に聖ヨゼフ病院を開いたが、持病の心筋梗塞が悪化し、鎌倉の聖母訪問会本部の司祭館で亡くなった。

江ノ電の鎌倉高校前駅で下車。目の前は相模湾の絶景である。その崖上に聳える聖テレジア病院は、ブルトン司教が創立した結核療養所が前身。そこを過ぎてから、徒歩数分で新緑の木々に包まれた聖母訪問会の本部に到着。山麓の敷地内には修道院、ブルトン司教の終の棲家となった旧司祭館などがある。美しい本部聖堂の設計は東京の上野毛教会聖堂成城教会聖堂、長崎の日本二十六聖人記念聖堂などを手掛けた今井兼次氏。 <後編に続く>


現聖堂献堂:1965年

◆主な参考文献など:
「マリアとともに急ぎ山道を 聖母訪問会の歩み・1915年-2001年」 早船洋美編著(聖母訪問会・2002年)
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カトリック溝ノ口教会

2012年05月23日 | 神奈川のカトリック教会
カトリック溝ノ口教会(教会堂名:使徒聖ヨハネ)
創立:1961年 ◇ 住所:神奈川県川崎市高津区二子5-15-7

JR南武線の武蔵溝ノ口(みぞのくち)駅で東急田園都市線に乗り換えて、高津駅で下車。南武線は「溝ノ口」、田園都市線は「溝の口」と表記するが、溝ノ口教会の最寄り駅は田園都市線の「高津駅」である。なお、溝の口駅発の東急大井町線は、高津駅を通過する列車が含まれるので、注意が必要だ。さて、府中街道を歩くこと数分、溝ノ口教会に着いた。屋上の十字架が無ければ、公民館や研修所のように見える白亜の聖堂は、2005年に新築されたばかり。

1961年、溝ノ口教会はケベック外国宣教会によって献堂された。「1921年、カナダのケベック州の司教団によって創立されたケベック外国宣教会は、教皇ピオ12世の宣教の依頼によって1948年に来日しました」(赤堤教会サイトより)。神奈川県内では、川崎市麻生区の百合ヶ丘教会、横浜市青葉区の藤が丘教会などが、ケベック外国宣教会によって創立されている。なお、ケベック外国宣教会の日本管区本部は、今も東京都世田谷区の赤堤教会にある。

溝ノ口教会の主任司祭は、ミラノ外国宣教会のヴィンチェンツォ・パスカーレ神父。私は鹿島田教会を再訪したとき、偶然にもパスカーレ神父(ご本人は「パスクヮーレ」と発音)とお会いする機会に恵まれた。パスカーレ神父は中原教会に常駐され、溝ノ口教会、鹿島田教会の主任も兼務(!)。何れかの教会で、神父様司式のミサに与りたいと思う。さて、今回の溝ノ口教会を訪ねたことにより、私は横浜市を除く神奈川県内のカトリック教会の巡礼をすべて終えた。


現聖堂献堂:2005年

◆主な参考文献など:
・「カトリック溝ノ口教会 ご案内」第3版 (カトリック溝ノ口教会・2011年)

<付記>
次回の教会巡りの記事は、聖母月特集(?)「ブルトン司教と聖母訪問会<前・後編>」の予定です。聖母訪問会本部聖堂の巡礼、及び同会創立者のブルトン司教の墓参を兼ねて、鎌倉・七里ヶ浜を訪ねます。 来月は、「横浜のカトリック教会巡り」を不定期連載いたします。
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カトリック貝塚教会

2012年05月19日 | 神奈川のカトリック教会
カトリック貝塚教会(教会堂名:聖クララ)
創立:1950年 ◇ 住所:神奈川県川崎市川崎区貝塚1-8-9

JR南武線の川崎駅で下車。私は昭和の末期に川崎球場を訪れたことがある。プロ野球チーム(旧ロッテオリオンズ)のフランチャイズ球場とは思えない老朽施設だった。野球嫌いの私が、なぜここへ来たのかは思い出したくないが、木製スタンド席の支柱に自生していたキノコには衝撃を受けた。まさしく、球場の「窮状」だ。その後、ロッテは千葉へ移転し、川崎球場もアメフト用スタジアムに生まれ変わった。あれこれ考えているうちに、貝塚教会に着いた。

貝塚教会の沿革をおさらい。1950年、「アトンメント修道会によって川崎貝塚教会が設立され、最初に同会長として来日したホーバン師が主任となった。川崎の工業地帯のなかに建てられた同教会は、川崎市の発展に伴い大きな役割を果たすこととなる。その後川崎市には6教会(注)が設立されるが、それ迄の8年間は川崎地区唯一の教会」であった(「横浜教区設立50周年記念誌」より)。1971年には「鍵ッ子」を預かる留守家庭児ホールも併設された。

教会の正門付近の御像に「天使祝詞」を捧げようとしたら、それは聖クララであることに気づいた。道を隔てた向こうには、カトリック系の聖クララ幼稚園もある。貝塚教会の守護聖人である聖クララは、アシジの聖フランシスコの伝記映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」を通してご存じの方も多いと思う。クララはフランシスコの清貧に共鳴し、女子修道会(聖クララ会)を創立した。さて、私は聖クララの取次を祈願した後、次は溝ノ口教会を訪ねることにした。


現聖堂献堂:?年

(注):他の6教会は、浅田教会鹿島田教会鷺沼教会中原教会溝ノ口教会百合ヶ丘教会

◆主な参考文献など:
・「横浜教区設立50周年記念誌」 横浜教区設立50周年記念誌編集委員会編(カトリック横浜司教区・1988年)
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聖ヨゼフ病院

2012年05月13日 | 神奈川のカトリック教会
社会福祉法人聖テレジア会 聖ヨゼフ病院
(住所:神奈川県横須賀市緑が丘28)

私はカトリック横須賀三笠教会を訪ねた後、近くにあるカトリック系の聖ヨゼフ病院に寄った(通院目的ではない)。軍港の街・横須賀は旧海軍の施設が集中していたが、この聖ヨゼフ病院も戦前は「横須賀海仁会病院」という海軍軍人とその家族のための医療機関だった。1939年に設立され、120床の規模を誇っていたという。湾曲した特徴的な建物は、当時のものと思われる。敗戦とともに、海軍の威信も地に落ちて、この病院も売却されることになった。

「もはや病院は医療活動もできず、安い間貸し屋になって、浮浪者のたまり場だったという。いよいよ病院に買い手が現れ取り引きされる寸前、それを差し止めた人がいた。横須賀に進駐していた連合軍の米海軍、デッカー司令官だった。目的は一般市民の病院にするためである。司令官は接収後、病院の運営、指導を誰に頼むか、あちらこちら探した挙げ句、ブルトン司教を知り、聖母訪問会に託すことにしたのだった」(「マリアとともに急ぎ山道を」より)。

大森教会の記事で触れたが、アルベルト・ブルトン司教は邦人女子修道会の聖母訪問会を創立し、日本各地に社会福祉事業を興していた。ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀の復興と戦災者の救済に取り組んでいた。両者の「幸運な出会い」によって、聖ヨゼフ病院が誕生したと言えよう。別館の病院チャペルは、古いカトリック教会の面影が残っている。私は聖母像に小さな祈りを捧げた。「病人の快復 われらのために祈り給え」(聖マリアの連祷)。


現聖堂献堂:1952年


<聖ヨゼフ病院聖堂、脇祭壇の聖母像>

◆主な参考文献など:
「マリアとともに急ぎ山道を 聖母訪問会の歩み・1915年-2001年」 早船洋美編著(聖母訪問会・2002年)
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