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三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

初金ミサと初金の祈りの集い

2013年10月07日 | ミサ聖祭
初金ミサ当日の聖イグナチオ教会
(住所:東京都千代田区麹町6-5-1)

アシジの聖フランシスコの記念日である10月4日(金)、聖イグナチオ教会で初金ミサに与った。この日、アシジを司牧訪問された教皇フランシスコは、「(聖フランシスコが脱衣した故事に倣って)教会が脱ぎ捨てるべきものは『世俗的な虚飾』。十字架もイエスもなく、脱ぎ捨てるものもない、安穏なキリスト教を望むなら、私たちはお菓子のような飾りだけのキリスト教徒になってしまう」と話されたという(バチカン放送局サイトより)。この聖人の名を戴く教皇様ならではの警句と思う。

午後6時、ミサ開祭。福音朗読は、イエスが悔い改めない町を叱責された場面(ルカ10・13-16)。司式の瀬本正之神父は、「イエス様は『あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者』と言われた。だから、私たちはイエス様に人々を出会わせるために相応しい者であるかを真剣に考える必要があります」と話された。聖体拝領時、私はエルナンデス修道士から祝福を授かった。「善良のかたまり」のようなブラザーは、続けてこう言われた。「洗礼受けたら、(御聖体を)あげるからネ!」。

ミサ後、「初金の祈りの集い」に参加した。聖イグナチオ教会では、偶数月の第1金曜日の午後7時に、聖体賛美式と黙想が行われている。これは聖書のみ言葉と「初金聖歌隊」が歌う聖歌の余韻に浸りながら、通算20分間を沈黙のうちに祈るもの。一昨年の12月以来、私にとっては2回目。この日はまた、カトリック信徒だった私の祖父の命日でもあった。黙想の本来の趣旨から逸れてしまったが、祭壇上の聖体顕示台にましますイエスのみ前で、祖父の永遠の安息を祈った。


聖イグナチオ教会、地下聖堂の聖母子像
“ His yoke is easy(彼の軛は負いやすく)... ”

◆「初金ミサ」の主な歌:
ミサ曲は読誦。入祭:カトリック聖歌267「もろびとこぞりて」、奉納:カトリック聖歌64「きよくとうとき」、拝領:オルガン奏楽、閉祭:カトリック聖歌12「われ神をほめ(テ・デウム)」。

◆「初金の祈りの集い」の主な歌:
開会:カトリック聖歌414「まずしきをもとめて」、黙想中の祈りの歌:「荷をば主にゆだねよ」(メンデルスゾーン:オラトリオ「エリヤ」より)、聖体賛美:カトリック聖歌561「タントゥム・エルゴ」、閉会:「彼の軛(くびき)は負いやすく」(ヘンデル:オラトリオ「メサイア」より)。
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年間第24主日のミサ

2013年09月17日 | ミサ聖祭
ある晴れた日のカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

「福島から250キロも離れているから安心・安全」な東京五輪が決定した。メディアは半狂乱になって、「ニッポンを元気に!」「被災地に勇気を!」と絶叫している。増長したニッポンは死刑執行を再開し、消費税率を引き上げ、さらに嫌韓デモが復活した。「汚染水は完全にブロック」の妄言を受け入れたIOCの責任も重く、私のスポーツに対する嫌悪は増すばかりだ。結局、今回の五輪は“ Pour oublier Fukushima(福島を忘れるため) ”という仏紙「ル・モンド」の批判が正鵠を得ている。

9月15日(日)、カトリック八王子教会で年間第24主日のミサに与った。昨年6月以来、私にとって1年3ヶ月ぶりの八王子でのミサとなる。前主任司祭の稲川圭三神父が麻布教会に異動されてから、その後の典礼の変化に戸惑い、また八王子は自宅から近くはないこともあって(自転車で通える最寄りの教会は、高幡多摩)、何となく縁遠くなってしまった。思い起こせば、私が八王子で初めての主日ミサに与ってから、今秋で3年目を迎える。あの御聖堂の雰囲気が懐かしくなってきた。

午前7時、ミサ開祭。この日は台風18号が接近中で、外は雨が強く降っていた。福音朗読は「見失った羊」のたとえ話(ルカ15・1-10)。今年の3月から助任司祭として八王子に赴任された森一幸神父は、「今日の福音は99匹と1匹のお話ではなく、もともと100匹は一緒なのです。見失った羊が戻ってきた時、その喜びを皆で素直に受け止めることができますように」と話された。森神父が神学生だった時、この八王子教会で司牧研修されていた姿が思い出され、何となく感慨無量となった。


カトリック八王子教会聖堂
“ 主共に在(おわ)せば、乏しきを知らず・・・ ”

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲2(典礼聖歌207-210)、入祭:典礼聖歌174「わたしたちは神の民(2)」、奉納:カトリック聖歌282「まよえる小羊」、拝領:典礼聖歌156「めぐみのパン」、閉祭:典礼聖歌404「羊飼いがいて」。
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年間第22主日のミサ

2013年09月09日 | ミサ聖祭
ミサ当日のカトリック三河島教会
(住所:東京都荒川区荒川3-11-1)

このところ、チマッティ神父の『自叙伝』を興味深く読んでいる。戦前日本の最も困難な時代、チマッティ神父はカトリック三河島教会の創立に尽力し、戦時中はその主任司祭も務めた(1941-44年)。1943年、イタリアが連合国に降伏すると、チマッティ神父は「敵国人」とされ、三河島教会で約1ヶ月間の監禁生活を強いられた。もちろん、受難の日々だけではなかった。1936年、三河島教会のクリスマスはプレゼントが目的とはいえ、何と2,700人の子供たちが集まったという。

9月1日(日)、三河島教会で年間第22主日のミサに与った。ロザリオ一環を唱えた後、午前10時のミサ開祭。三河島の会衆は聖歌を大きな声で歌い、また「使徒信条」や「主の祈り」をハッキリと唱える。かくも「気合の入った御ミサ」は初めてだ。福音朗読は、「客と招待する者への教訓」(ルカ14・1、7-14)。主任司祭の並木豊勝神父は次のように話された。「今、『へりくだる者は高められる』という教えを聞きましたが、さらに聖書が『究極のへりくだり』に触れた箇所があるのです」。

「では、そこを朗読しましょう。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました』(フィリピ2・6-11)」(注)・・・。この日、私は福音の喜びに満たされながら、チマッティ神父の遺徳をしのんだ。


カトリック三河島教会聖堂
“ キリストは人間の姿であらわれ・・・(典礼聖歌317) ”

(注):記事内の聖書引用は「新共同訳」によったが、この時の並木神父は「バルバロ訳」を読まれたのではないかと思う。というのも、朗読中に「奴隷のすがたをとり」「その外貌は人間のようにみえ」「神はかれを称揚し」などの特徴的な訳文が聞こえてきたからだ。私も日頃から「バルバロ訳」を愛読している。この古い聖書はカトリック信徒だった祖父の遺品の一つ。

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲3(典礼聖歌211-214。栄光の賛歌のみ読誦)、入祭:典礼聖歌137「すべての人の救いを」、奉納:典礼聖歌77「神よ あなたの道をしめし」、拝領:典礼聖歌402「仕えられるためではなく」、閉祭:典礼聖歌317「キリストは人間の姿で」。

◆主な参考文献など:
・「チマッティ神父 本人が書かなかった自叙伝(上)」 ガエタノ・コンプリ編訳(ドン・ボスコ社・2011年)
・「新約聖書」 フェデリコ・バルバロ訳(ドン・ボスコ社・1957年)
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年間第20主日のミサ(フェルッチョ神父祝賀ミサ)

2013年08月22日 | ミサ聖祭
ある晴れた日のカトリック府中教会
(住所:東京都府中市府中町1-40-11)

先日の全国戦没者追悼式で、安倍晋三は「加害責任」と「不戦の誓い」に言及しなかった。ニッポンは「落ちぶれたチンピラ」のように、愚劣な挑発を重ねたのだ。過ちを認めない傲岸不遜な態度は、またもや世界のメディア(英紙「フィナンシャル・タイムズ」、米紙「ニューヨーク・タイムズ」、仏紙「ル・モンド」等)から批判された。安倍政権の「恥の上塗り」が止まらないのに、愚かなニッポン人はテレビにしがみつき、ただヘラヘラと笑っているだけ。「悟りのない民は滅びる」(ホセア4・14)。

猛暑の8月18日(日)、カトリック府中教会で年間第20主日のミサに与った。現在、府中小教区はミラノ外国宣教会が司牧している。その日本管区長のフェルッチョ・ブランビッラスカ神父が、ローマ本部の総長に選出された。そこで、この日の府中教会はフェルッチョ神父を迎えて、総長就任の祝賀ミサを兼ねていた。昨年、私は四旬節黙想会、及び年間第14主日ミサに与り、フェルッチョ神父の示唆に富む説教に深い感銘を受けた。従って、今回は「祝・御栄転」の思いで馳せ参じたのである。

午前10時、ミサ開祭。福音朗読は、イエスが「地上に分裂をもたらすために来た」と言われた場面(ルカ12・49-53)。フェルッチョ神父は、いつもの知的な口調で話された。「良い人間関係にも分裂がないわけではない。だが、マクロスミア(ギリシャ語)、すなわち『全ての欠点と共に生きること』によって奇跡が起きる。赦し合う社会を作りましょう。そうすれば、世界も変わります」。閉祭の歌「全世界に行って」を歌う。フェルッチョ神父の「霊的指導」に感謝しつつ、再びお会いする日まで「Arrivederci!」。


カトリック府中教会聖堂

<付記>
フェルッチョ神父のお別れの挨拶より。「遠く離れていても、私たちは同じ信仰で一つです。これからもお互いに祈りましょう。6年間の(総長の)任期が終了したら、また日本でお会いしましょう」。

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲1(典礼聖歌203-206)、入祭:典礼聖歌68「神よ あなたのいぶきを」、奉納:典礼聖歌94「心を尽くして神をたたえ」、拝領:典礼聖歌157「めぐみのパン」、閉祭:典礼聖歌140「全世界に行って」。
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聖母の被昇天の祭日ミサ

2013年08月19日 | ミサ聖祭
カトリック府中教会の聖母子像
(住所:東京都府中市府中町1-40-11)

1981年、教皇ヨハネ・パウロ2世は『広島平和アピール』の中で、次の言葉を繰り返された。「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」。1985年、旧西ドイツのヴァイツゼッカー元大統領は戦後40周年の演説の中で、次のような警告を発した。「過去に対して眼を閉ざす者は、結局は現在に対しても盲目となります」。いまここに、過去から何も学ぼうとせず、薄汚い妄言と大量の放射能汚染水を全世界に垂れ流す、恥知らずな国がある。その名は、我らのニッポン。

8月15日(木)、カトリック府中教会で聖母の被昇天の祭日ミサに与った。この日は68回目の「終戦」記念日でもある。今なお、「敗戦」の事実を受け入れず、「大日本帝国の正義」を叫ぶ人々が勢い付いている。ところが、安倍晋三の歪んだ歴史認識、橋下徹の慰安婦発言、麻生太郎のナチス礼賛などによって、ニッポンは国際社会の中で完全に嫌悪の的となってしまった。これほどの異様な醜態をさらしても、愚かなニッポン人はテレビにしがみつき、ただヘラヘラと笑っているだけ。

午前10時、ミサ開祭。この日は主任司祭のマウリツィオ神父が一時帰国中のため(8/30迄)、代わりにピノ神父(82歳)が司式された。福音朗読は、マリアがエリサベトを訪ねた場面(ルカ1・39-56)。ピノ神父は「マリア様を通して、神の世界、永遠の命がこの世に入ってこられた。ロザリオはその“ Contact ”です」と話された。福音朗読の後半は、マリアの歌(マニフィカート)。多くの作曲家が手がけているが、この日は自宅でモーツァルトの作品を聴いた(「ヴェスペレ」K.339の終曲)。


カトリック府中教会の聖家族像
“ Magnificat anima mea Dominum... ”

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲1(典礼聖歌203-207。栄光の賛歌のみ読誦)、入祭:カトリック聖歌302「あまつみはは」、奉納:典礼聖歌48「神の名は」、拝領:典礼聖歌138「すべての人の救いを」、閉祭:カトリック聖歌305「みははマリア」。

◆主な参考文献・CDなど:
・「教皇ヨハネ・パウロ2世『広島平和アピール』1981」(カトリック中央協議会社会福音化推進部・2011年)
・「過去の克服・二つの戦後」 ヴァイツゼッカー著、山本務訳(日本放送出版協会・1994年)
・CD「モーツァルト:戴冠式ミサ」 ヨッフム指揮/バイエルン放送交響楽団ほか(EMI:CC28-3811)
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