エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

美貌というベクトルについて

2010年04月21日 | 日記
今日は、美貌というベクトルについて語るのである。



例えば、マリリン・モンローである。
B・Bもそうかもしれない。



ブリジッド・バルドーである。



ソフィア・ローレンもそうである。

彼女たちに捧げる単語としては「美貌」は的確である。
彼女たちに捧げられると「美貌」という単語は俄然輝く。
一つ一つのパーツは不釣合いなサイズであっても、それが一体化されると俄然妙なる調和を奏でる。
それが美貌の美貌たる所以(ゆえん)である。



イングリット・バーグマンの場合は、これは美貌では無く知的な美であって、美人である。
知性、あるいは理性に裏打ちされた美しさは「美貌」とは言わないのである。

ぼくは、その意味では美貌の人には憧れないのである。

M・MやB・Bより、イングリット・バーグマンが好きである。

彼女は美人であって、魅力的である。

すべてが完璧である人など存在しないはずなのである。

例えば顔の造作など、どこかに破綻があった方が美は引き立つのである。
アンバランスだとか、容姿の破綻である。

その意味では最近、日本の銀幕に美貌の人は存在しなくなった。
知性や理性に裏打ちされた美人も存在しなくなったのである。
これは寂しい限りである。

山本富士子などは美貌の分類である。
八千草薫などは美人であろう。
浜木綿子も美人である。



故人となった夏目雅子は美貌と美人の二つの要素を兼ね備えた女優であったと思う。

美貌には、チャーミングさは無いのである。



京マチ子である。
彼女は美貌の持ち主である。

吉永小百合という女優はそのどちらにも属さない。
アイドル、あるいはタレントの走りである。
サユリストの世代に産まれたぼくは不幸にして、吉永小百合のファンだったことがない。

女優という職業の女性は日本にいないのかもしれない。
女優は異次元の存在でなくてはならず、異空間の生物であってほしいのである。

近頃のテレビは、いつでもどのチャンネルでも「お笑い芸人」や「タレント」の独壇場である。
そういう時代なのであろうか。
貧相な文化であると言わざるをえない。

映画の完成発表の場で「別に!」と言い放った女性がいたけれど、彼女はエリカ様とか奉られ、その資質ゆえに疎まれた。
彼女は美貌の持ち主になる可能性があったかもしれない?



もう一人、アイドル上がりだけれど「永作博美」は美人になるかもしれない。
彼女が美しく老いていけば美人女優になるに違いないのである。

藤原紀香なる女性がいるけれど、彼女は美人でも美貌でもない。
少なくとも彼女は、美しさの輝きに欠ける。

フッとした瞬間、汚い。

美貌とか美人のカテゴリーは、存在のどこを切り取っても美しくなければならないのである。
それは知性とか理性の所産としての美でなければならないのである。



彼女は高峰秀子である。
チャーミングで美しい女優であった。

要するに、教養とかの陳腐(ちんぷ)なカテゴリーではないのだ。

ぼくは写真が好きだけれど、とりわけ写真に写されると人格が見事が写し出されるのである。
写真は正直である。





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