エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

甲斐源氏のルーツを訪ねて

2011年08月29日 | 日記
甲斐源氏発祥の地、が寺院として残っている。
清光寺である。
所在地は北杜市・長坂町である。



甲斐源氏・・・戦国末期に武田信玄の後継者・勝頼が天目山で自刃して滅びた一族である。
中央高速道路を走っていると大月の手前に岩殿トンネルがあるけれど、その頂上に武田の悲哀が語られている。



岩殿山の頂上には、岩殿城の遺跡が残っている。
天正10年(1582年)に織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる武田勝頼を拒否、進退に窮した勝頼は天目山で自害したのである。

天目山に死す。
武運尽き果てた戦国の雄・武田は、かくて滅びたのであった。



清光寺の鐘楼である。
鬼瓦に武田菱がくっきりと刻印されているのである。



境内に入ってすぐ迎えてくれる観音像である。



山門の武田菱である。
誇らしげに金箔が押してある。



寺は深い森に包まれている。
一般道から、一つ奥に入った場所である。



自然の中に佇むといった按配である。



参道から望む景色である。



武田氏の祖は、清和天皇皇孫の流れをくむ鎮守府将軍・八幡太郎義家の弟新羅三郎義光である。
義家、義光兄弟は陸奥国で豪族の阿部一族などと「後三年の役」を戦った。
義光は乱を平定した後、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守(かいのかみ)を歴任し、常陸、甲斐で子孫を扶植し、それぞれ佐竹源氏、甲斐源氏の基となったといわれる。



武田家は名門中の名門なのである。



新羅三郎義光の孫である源清光も甲斐を支配した。北杜市長坂町の清光寺は、清光が菩提寺として創建し、その近くに居城として谷戸城(国指定の城址)を築いたことでも知られる。



この城跡は、北杜市に残されている。
改めてこの城跡は紹介する予定である。

清光の長子光長は逸見筋(北杜市)を領し、逸見太郎と名乗った。その双生児である信義は、甲斐源氏の統領を継ぎ、武田太郎信義を名乗る。これが甲斐武田氏の始祖とされる。

従って、清光の墓は多くの親族の石碑に囲まれているのである。



これが清光の墓である。



武田信義をはじめ甲斐源氏一族は、世に有名な源平合戦のきっかけとなる「以仁王の令旨」に呼応して、谷戸城において平家追討を決議。富士川の合戦での圧倒的な勝利を皮切りとして、源頼朝や義経とともに華々しい戦果をあげ、鎌倉幕府創設の原動力となり、天下に名をとどろかしたのであった。
ついには甲斐源氏は甲斐、駿河、遠江の三国を領有した。
しかし信義らは、権力独占を目指す頼朝の謀略により憤死し、歴史の舞台から消えた。

源平の時代から武田の軍団は関東平野を疾駆していたのである。



甲斐は京都から遠く、宿命のライバルである上杉謙信との12年間、5度に及ぶ信濃・川中島合戦は、信玄絶頂期の貴重な時間を奪ってしまった。
川中島合戦に区切りをつけ、1572年京都に向けて進軍し、織田信長の包囲網を構築しつつ三方ヶ原合戦において織田・川家康連合軍を完膚無きまでに撃破するが、まもなく病魔に倒れ、翌年4月12日に死去。甲斐源氏の天下取りは見果てぬ夢となった。



武田信義をはじめ甲斐源氏一族は、世に有名な源平合戦のきっかけとなる「以仁王の令旨」に呼応して、谷戸城において平家追討を決議。富士川の合戦での圧倒的な勝利を皮切りとして、源頼朝や義経とともに華々しい戦果をあげ、鎌倉幕府創設の原動力となり、天下に名をとどろかした。ついには甲斐源氏は甲斐、駿河、遠江の三国を領有した。しかし信義らは、権力独占を目指す頼朝の謀略により憤死し、歴史の舞台から消えた。



苔むした石塔が、昔を今に語っているであるのである。

勝頼の妻の辞世の句である。

  「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」

女性の美しい黒髪が乱れるように、世も乱れきっていて、いま主人を思う私の心も、露のように流れ落ちて消えようとしています。



ぼくもまた甲斐源氏の末裔の一人である。



戦国の習いの虚しさが伝わってくるではないか。




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 荒野人


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1 コメント

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Unknown (Bunbunbun)
2011-08-29 05:54:07
そうですか、甲斐源氏の末・・・。
最後の壊された石仏は、時の風化なせる業ではなく、明治前後の廃仏毀釈の結果ではないでしょうか。
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