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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

圧倒される縄文後期のストーンサークル・・・金生遺跡その1

2011年02月03日 | 遺跡
金生遺跡は、山梨県北杜市(旧北巨摩郡大泉村谷戸寺金生)にある遺跡であり、国指定の史跡である。
そもそも八ヶ岳一帯には石の文明跡が多数点在するのである。

環状列石と思われる配石が山の中にも点在する。
誰も関心持たないような山の斜面や、あるいは又林の中に石が並んでいたりするのである。



遺跡への入口階段である。
狭い遺跡公園である。



これは全体像である。
右手に竪穴住居跡3棟、その前に環状列石が所狭しと犇(ひし)めいているのである。



遺跡の後方には八ヶ岳。その対面に南アルプスの山並みが連なっている。
八ヶ岳に向かって右手には富士山も聳える。

この遺跡は、実に素敵なロケーションにあるのである。













こうした列石が犇めいているのである。
これは、レプリカではない。
してみると、やはりこの広場で祭祀が行われたのであろうと考えるしかないのである。



この配石の中に、男のシンボルが屹立した石がある。
縄文の時代、例えば土偶が女性をシンボルするのと同じように、シンボルの石を配置することで種の繁栄を願ったのであろうか。





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                     荒野人

初冬の加曾利貝塚を歩く

2010年12月21日 | 遺跡
冬枯れの加曾利貝塚一帯を歩いたのである。
広大な広さを持っているのである。



この貝塚は、千葉県千葉市若葉区にある。
全国に、貝塚は約2,300か所あるけれど、この加曾利貝塚は最大規模を誇るのである。



E地点の植生である。
ブナ、ナラなど木の実の多い木々が茂っている。



これは竪穴式住居跡である。
重層的に跡が残っている。

先方に白く見えるのは貝殻の層である。
ここは、建物の中に保存されている。
風雨から遺跡を守っているのである。



復元もされている。



貝塚自体はこのように切り取られて、その断面を見せてくれる。
うまい工夫である。

ここもまた建物の中で、しっかりと温度・湿度が管理されている。
保存管理の思想が伺えて、見学していても楽しいのである。



密度の濃い貝殻の残骸である。
深く厚く層をなしていて、縄文時代の人々の食欲を彷彿とさせる。



ここは舟着き場である。
少しばかり高いマウンドになっている。

向こうを歩いている人の足元には、川が流れている。
往時は、豊かな水量であったと推測されている。



加曾利貝塚は、歩いていると至る所に貝殻が地中から浮いてきている。
モグラが土を掘る・・・雨が土を洗う・・・貝殻が浮いてくる。

そんな感じであろうか。



公園内の至る場所に、貝殻を取るな!という立て看板が立っているのである。



因みに、貝殻を拾って現地で写真を撮ってみた。
約5000年前の貝殻である。

この加曾利貝塚は、約5,200年前から1,000年の長い時間をかけて容(かたち)作られたのである
たったこれだけの小さな貝殻であるけれど、悠久のロマンを感じるではないか。




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                     荒野人

岩宿遺跡の歴史的価値は減殺されないのだが

2010年12月12日 | 遺跡
人類の起源は遡ること約300万年前とされている。
世界史的には、その1万年前頃から人類が石器を使い、大型動物を狩りして暮らしていた時代があって「旧石器時代」と称されるのである。



ここはA地点と言われる場所である。
石器が多数発掘された場所である。

幟が何本か立っているのである。
ここで石器が出た場所であると知らせているだけである。



こうした雰囲気である。

日本における人類の歴史は「縄文時代」からであるとされていた歴史観うぃ一変させたのが、ここ岩宿遺跡であった。
ただ数十万年前から人類が住んでいたとされていた。

外国の石器時代とは違う「日本独特の石器時代」を形成していったのであった。
その時代を「岩宿時代」と称するのである。

岩宿博物館もあって、発掘当時の写真や石器が陳列されている。
石器の数々は、素晴らしいのであるけれど…何か物足りないのである。



マンモスの実物大の骨格標本もある。



ナウマン象の臼歯もある。

実物も手に触れられるけれど・・・何だか寂しいのである。



これに触れる。
自分で日付印を押して「MAMMMOTH TOUCH 証明書」をゲット出来るのである・・・けれど。

岩宿博物館の周辺には「古代蓮池」もある。
「岩宿人の広場」もあるけれど・・・。

歴史的価値の高い地域としては寂しいのである。

はっきり言おう「がっかり」である。
数時間かけて出かけるところではないと思ってしまうのである。

その理由はただ一点。
石器時代を偲ばせる工夫がされていないし、復元もされていないのである。

ただ一つだけである。



「礫群」である。
これも石ころを集めただけという印象がある。

誤解されると困るので正確に記しておくけれど。こうした礫群が多数掘り起こされている。
狩りで得た動物の「石蒸し」の跡とされている場所である。

遺跡を訪ねてがっかりすることもママあるけれど、ここまでがっかりはかつて無かった。

遺跡の三大がっかりを決めようかな・・・と思い始めている。

因みに観光の三大がっかりは・・・。

日本三大がっかり名所とは、札幌の時計台・高知のはりまや橋は共通の意見だけれど、3つ目には沖縄の守礼門・長崎のオランダ坂など、幾つかの説があるのである。



これはシンガポールのマーライオンである。

世界的に有名な割には、素朴・簡素で、観光客の過剰な期待を裏切るとされる三大がっかりとは、シンガポールのマーライオン、コペンハーゲンの人魚姫の像、ブリュッセルの小便小僧のことである。
小便小僧は三大がっかりに含めず、他の観光名所を替わりに数える場合もある。



これがそのブラッセルの小便小僧である。

まずは「日本の遺跡三大がっかり」の候補として岩宿遺跡をノミネートしておこう。
ただし、その歴史的価値は減殺されないことを付記しておく。





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群馬・上毛野の王が眠る・・・保渡田古墳群その2

2010年12月11日 | 遺跡
保渡田古墳群(ほとだこふんぐん)その2である。
前に紹介した八幡塚古墳は、石葺きで周囲を埴輪が取り巻いていたけれど、今日は二子山古墳を紹介しよう。

古墳全体は、なだらかに芝生や笹で覆われている。



残念なことにこの古墳は盗掘・破壊されていた。



二子山古墳の主体部は、後円部頂部のほぼ中央にあり、川原石積み竪穴式石室であり、舟形石棺を置いているが破壊されており、鉄鏃片などの出土が知られているにすぎない。

言いかえれば、埋蔵品は殆どなかったのである。



しかしながら、芝生や笹で覆われた古墳の形は美しい。



この古墳も八幡塚古墳と同じく、四つの島が作られているのである。



やはり、祭事が行われた場所である。



埴輪であるとか古墳の修復は現地で加工・修理されたのである。



古墳時代の人々のエネルギーが横溢している。
こうした古墳を造営する情熱に脱帽する思いである。






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群馬・上毛野の王が眠る・・・保渡田古墳群その1

2010年11月30日 | 遺跡
「かみつけの里博物館」がある。
高崎市井手町1514番地である。

そこは保渡田古墳群のど真ん中である。

この古墳群には3つの大きな前方後円墳がある。
周囲は田園地帯である。



この古墳は、八幡塚古墳である。
1500年前の前方後円墳である。



発掘調査のデータを基に、建設当時の姿に復元されている。

全面が石葺きで埴輪で囲まれている。
遠目からでも白く輝いて見えたのである。

埴輪は彼岸との結界であるし、聖域を現している。



埴輪(はにわ)は、日本の古墳時代に特有の素焼の焼き物なのである。
古墳上に並べ立てられ、あの世とこの世の境目を示しているのである。



それは聖域であるのだ。



埴輪は写実的で種類も豊富なため、まだ文字がほとんど使われていない古墳時代の歴史や風俗、習慣を知る大きなてがかりとなるのである。



円筒形あり、人型もある。
髪の結い方や、化粧方法も偲ぶ事が出来るのだ。



また、帽子や服装などのファッションも偲ぶ事が出来る。



埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。



謎に満ちた焼き物である。



この古墳には4つの円い島が作られている。
この場所は死者への祭祀に使用したと考えられているのである。

榛名山を望む位置にある古墳である。






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