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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

関東の環状列石・・・デジタル・ブックで音楽とともに

2011年03月09日 | 遺跡
関東のストーン・サークルで著名な二か所をデジ・ブックにしてみた。
縄文の昔に思いをはせることで自分のルーツを確認する。

楽しい作業である。



ここは町田市にある田端遺跡である。



ここは山梨県北杜市にある金生遺跡である。



デジブック 『日本の環状列石』





時間があるときにでもご覧いただければ幸いである。




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                     荒野人

縄文からの谺・・・縄文海進の軌跡

2011年02月15日 | 遺跡
今朝は雪かきから始まった。
久しぶりの積雪である。
雪国は、もっと大変なのだろうと思いを馳せたのである。

今日は「縄文海進」について少し触れてみたいのである。
縄文時代を語るのに避けて通れない現象であるし、地球環境の変化である。



縄文時代からの谺が東海道には轟いているのである。



これは現在の東海道のベルト地帯である。



海進3メートルでここまで海が入り込んで来ていたのである。
大阪湾も深く海水に抉(えぐ)られている。



7メートルだとここまで海が入り込んでいるのである。
とりわけ東京湾は関東地域にまで海が入り込み、霞ヶ浦は海に没している。

霞ヶ浦などは、ノルウェイのフィヨルドのようである。
もちろん、ノルウェイの海岸線の入り組んだフィヨルドは縄文海進の産物である。

極寒期には東京湾が陸地になり、利根川・荒川・多摩川を合わせた大河が深い谷を刻みながら流れてたのであるけれど、縄文海進によって東京湾が復活し、さらに谷に沿って現在の栃木県まで海が進入している。

従って、栃木県や埼玉県にまで貝塚が点在しているのである。



これは埼玉県富士見市の水子貝塚公園の入口である。

縄文海進とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。
海面が今より3~5メートル高かったと言われ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされているのだ。
日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1~2℃気温が高かった。
海面は、約19000年前から上昇し始めた。
世界的には海面は年間1-2cm上昇し、場所によっては100m上昇したのであった。

霞ヶ浦のシュミレーションは目を見張るものがある。



これが現状である。



海進7メートルの霞ヶ浦一帯である。
「入り江」が入り込み、台地は激しく抉られているのである。

縄文海進は、貝塚の存在から提唱されたものである。
海岸線付近に多数あるはずの貝塚が、内陸部でのみ発見されたことから海進説が唱えられた。
当初は、日本で活発に起きている火山噴火や地震による沈降説も唱えられたが、その後、海水面の上昇が世界的に発生していたことが確認され裏付けられたのである。



水子貝塚に設置してある説明図である。
良く出来ている。

縄文草創期は約1万3000年前である。
この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。
晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。
温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきたのである。



この竪穴式住居の入口から眺めていたのは、どんな景色だったのだろうか。

その後、解けた氷河で増えた海水はゆっくりと海底を沈降させ、見かけ上で海が後退した。
「海退」というのである。








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                     荒野人


東京のストーン・サークル・・・町田市「田端環状積石遺構」

2011年02月11日 | 遺跡
田端環状積石遺構は、東京都町田市「小山白山公園」の横にあって、縄文時代後期から晩期にかけて作られた遺構とされている。
大小約900個の石を東西に集積した9メートル南北に7メートルの楕円形のストーンサークルである。



ここは田端遺跡の中でも、墓地とされる場所の一画である。



小山白山公園は、京王相模原線多摩境駅の隣に位置するのである。
この遺跡は駅から歩いて5分、公園を突っ切って行けば、爽やかな気分で辿り着くのである。
駅は公園の真上に位置する。



遺跡は民家と農地の挟間に在って、実に目立たないのである。
看板は道路に面しているので、通り過ぎてしまう。
加えて、遺跡は数段上にあるので目視(もくし)確認は出来ない。

だがしかし、町田市の生涯学習係は丁寧に場所を教えてくれた。
でも、遺跡は泣いているのであった。

この配石遺構の手前は、それなりに広い芝生広場になっている。
ベンチも4基据えられている。
高台であって、陽だまりになっていて風が無ければ暖かい。



小鳥たちも戯れているのであった。
この日は暖かく、梅の赤が鮮やかに瞳孔に飛び込んできた。



この遺跡の石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向いている。



ここから見るとちょうど冬至の日に太陽が蛭ヶ岳山頂に沈むというので、ストーンサークルと、冬至夏至春分秋分の関係を説いた、縄文ランドスケープ論のモデルケースの一つにもされているのである。



こうした配石遺構は、間違いなく男女の交わりをシンボルしている。
立った石を取り囲むなだらかな配石は、縄文人の美学を表していると言って間違いない。



女性は崇高であって、しかし社会を支えているのである。







この三枚の写真からそうした意思が伺われるのである。





この部分は墓地跡かもしれない。
きっと風化してしまったけれど、舟形石などもあったに違いないし石棺なども配置されていたに違いないのである。



ここは、通称「田端環状積石遺構」と言われているのである。



人が転がってみると、大分窮屈である。
しかし・・・縄文時代の谺が横溢する遺跡跡である。

残念ながら、オリジナルは埋め戻されてしまっているけれど、地上に復元された配石は忠実であって縄文の息吹を十分に伝えている。
レプリカとは思えないほど、古色に溢れている。

4.500~2.800年前の縄文中期から晩期の遺跡である。



民家との境目に水仙が花開いていた。
嬉しい色彩と香りであった。







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圧倒される縄文後期のストーンサークル・・・金生遺跡その3

2011年02月05日 | 遺跡
この遺跡の近くに「金精軒」という和菓子の老舗があるけれど、この金生遺跡に由来する命名なのであろうか?
金の精力である!とするのだと推測すると、なかなかに面白いのである。



金精軒も信玄餅を売り出している。
信玄餅は桔梗屋だけではないのである。
この本店は、かつての旅籠を改装したものであり、風情がある。

さて金生遺跡に戻ろう。
遺跡の位置関係をもう少し丁寧に、ぼくの写真で紹介したいと思うのである。

写真はすべて、同じ日の午前十一時のものである。



遺跡の背景には、八ヶ岳がある。



八ヶ岳の対面には南アルプスである。



そして、その二つの連峰を差配するように富士山が聳えているのである。
雄大な自然の懐に抱かれて生きた縄文人の美学は素晴らしい。

この金生遺跡が出来上がったころ、気候は寒冷に向かっていたというのであるけれど、逞しく生きていたのであろう。
ここで生殖し、食べ、狩った。



発掘した様々な状況を総合的に判断して、こうした集落であったされるのである。



「豊穣の祈りとくらし」と説明がある下の部分が残されているのである。



祈りとは、種の繁栄である。
男のシンボルが立ちあがっている。



これである。
階段を登りきった場所の両側に二本立ちあがっている。

同じ北杜市にある「井戸尻遺跡」にも同様のシンボルの石柱がある。



昨年の五月にこの井戸尻遺跡を訪問して確認したものである。
馬酔木(あしび)の花が満開の時期であった。



しかも、ここには「火陰」に似た石も置かれている。
なんともセクシュアルな刻み方である。



雨上がりの午後であったけれど、舟形石も置かれている。
水がたまっているけれど、これは間違いなく舟形石である。

環状列石には付き物である。
この八ヶ岳一帯の石の文明が深く広いのだと知れる。

とまれ、こうしたシンボル石は男として「面映ゆい」感じがするのである。
赤面してしまうのであるけれど、古今東西シンボル崇拝は存在し、性交を神聖なものとする精神は正に豊穣なのである。

ここへの行き方は簡単である。
中央高速道路の長坂インターで高速を下りる。
下りてすぐ一般道路に出るので、その道を左折。
高速のトンネルを過ぎて直ぐ左折して道なりに約500メートル進むと、金生遺跡へ左折する案内板がある。
この案内板は注意深く見ないと見過ごしてしまうので要注意!

高速を下りて、約4~5分で到着するのである。
駐車スペースは3台分である。

時間があったら是非行ってみてほしい場所である。

ぼくは時間を見つけて東京都町田市にある「田端遺跡」を訪ねてみたいと思っている。
ここにも、ストーン・サークルのレプリカがあるのである。

オリジナルは、そのレプリカの下に埋まっている。

町田市には、こうした遺跡の文書類はいま無いと言うのである。
町田市教育委員会には、広く紹介する努力をお願い致したいのである。
遺跡は、先人の記録であり生き様である。






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                     荒野人

圧倒される縄文後期のストーンサークル・・・金生遺跡その2

2011年02月04日 | 遺跡


復元された住居である。
ここは、金生遺跡(キンセイイセキ)である。



内部である。
真中に囲炉裏が切ってある。



上物を取り外すと、こうなっている。



金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減る縄文後晩期の遺跡である。
山梨県内でも同時期には集落跡と祭祀施設が複合した遺跡が出現している。



圧倒的な石の文明である。





ここは正に、縄文時代の集落跡や祭祀施設と中世の城館跡や集落跡が複合した遺跡であるのだ。







実に見事な配石であって、現在に生きるぼくたちを圧倒するのである。
そのエネルギーと生き様に対してである。



石の配置はこうした置き方となっている。
どんな現実と対置しつつ石を置いていったのであろうか。

不思議な宇宙観を感じるのである。
縄文人は、ぼくたちのルーツを確実に石組として残したの。

いや丹念に刻んで残したのである。






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