平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

あしたのジョーと1970年代論~ホセ・メンドーサ戦でジョーは日の丸を背負って闘った

2015年10月28日 | 1970年代を考える
 70年代前半、大学生たちの間で言われていた言葉は、
「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」
 その頃、少年マガジンは学生たちが共感するシンボル的雑誌だったんですよね。

 そんなマガジンの中でも熱狂的に支持されたのが「あしたのジョー」~原作・高森朝雄(梶原一騎)、画・ちばてつや。

 日航機「よど号」をハイジャックした赤軍派の田宮高麿は言った。
「最後に確認しよう。我々はあしたのジョーである」
 劇団・天井桟敷の寺山修司は、主人公・矢吹ジョーとの激闘の末、命を落とした力石徹の葬儀を講談社の講堂でおこなった。

 この時代の「あしたのジョー」とは何だったのだろう?
 寺山修司は、力石徹について次のように語っている。
「力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラム街のゲリラだった矢吹丈の仮想的、幻想の体制権力だったのである」
 力石は体制権力。
 面白いとらえ方だ。
 確かに力石は、その背後に白木葉子・白木財閥がいて、体制権力側の人間だったと言える。
 そんな力石を叩きつぶすために闘うジョーは反権力・反体制。
 おそらくジョーが学生運動家たちの共感を得た理由は、このような所にあるのだろう。
 矢吹丈は闘いの象徴だったのだ。

 しかし、そんなジョーも時代の流れの中で、次第に牙を抜かれていく。
 橋の下にあった丹下段平ジムは立派な建物になり、ジョーは飢えや闘争心を忘れていく。
 世の中が落ちついていき、ジョーも大人になり、闘う意味をなくしていくのだ。
 この間、ジョーは東洋バンタム級チャンピオンの金竜飛や野生児ハリマオと闘うが、当初、彼らに圧倒され、こんなやつらには到底、勝てないと考えてしまう。
 金竜飛やハリマオは、ジョーがなくしてしまった<飢え>や<闘争心>そのものだからだ。
 そして、世界チャンピオン、ホセ・メンドーサ戦。
 ジョーは日の丸を背負い、警察の楽隊に国家を演奏させて、闘う。
 これこそが、ジョーが体制権力に飲み込まれた象徴的なシーンだ。
 かつて社会に牙をむいていた、ドヤ街、少年院出身の矢吹丈はもはやいない。

 矢吹丈の物語は、そのまま70年代の物語である。
 闘争の時代は終わり、小市民の生活へ。
 ホセ・メンドーサ戦の前、乾物屋の紀子はジョーに青春を楽しんで小市民の生活を送ればいい、と訴えるが、ジョーはそれを受け入れない。
 名セリフである「真っ白な灰」の話をして、メンドーサ戦に臨んでいく。
 小市民になれない、ジョーに唯一、残された道は、くすぶっている闘争心を最後に燃やして、真っ白な灰になることだった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沖縄基地問題~やりたい放題... | トップ | 相棒14 「死に神」~疑問点... »

コメントを投稿

1970年代を考える」カテゴリの最新記事