桃井章の待ち待ち日記

店に訪れる珍客、賓客、酔客…の人物描写を
桃井章の身辺雑記と共にアップします。

2007・11・21

2007年11月22日 | Weblog
その人は7時前に店に来て、10時過ぎに次のお客さんが来るまで一人きりで飲んでいた。最初は共通の知り合いの話で場を持たせていたが、それもすぐ尽きる。何を話そうか困っていたら、その内、結婚とか家族の話になって、その人の奥さんが痴呆症に罹って入院中であることを話し始めた。困った話題になったと思った。どう慰めの言葉をかけていいか分からない。早くその話題が終って欲しいと願った。処が、話を聞く内、その人の苦しみが普通の闘病患者を抱えている家族とは比べ物にならない程、深い物だと思い始める。奥さんが最初に痴呆症だと分かって入院したのは、44歳の時だと云う。高校生の娘さんと中学生の息子さんのいい母親であり、その人にとっても最高の妻だったそうだ。それが、段々と夫のことが誰だか分からなくなり、娘や息子さんのことも識別出来なくなる。原因が分からないから治療の方法もない。治る見込みもない。死期が迫っているなら、分かっているなら、それまでの限られた時間に愛情を深めることも出来るだろう。でも、その人の妻は生きている。自分が誰だか分からず、家族が誰だか分からず、精神病院の一室でただ生物学的に生存しているだけの存在だ。そんな妻に生きながらの別れを告げなくてはならないその人の気持ちはどれほど辛かったことだろう。その人はカウンターの隅で淡々と妻の病状を語り続ける。俺はカウンターの中にいるMを見ながらその人の話を聞き続ける。俺の目はいつしか涙で潤み始めていた。