プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

第26次「銘心会南京」友好訪中団に参加して(その1)―戦争責任問題を巡るダブルスタンダード―

2011-08-23 22:14:05 | 政治経済

2011814日~21日、第26次「銘心会南京」友好訪中団に参加して中国南京、石家庄、保定、満城県、冉庄などを訪問した。アジア太平洋戦争の過程で、大日本帝国軍隊が中国大陸でどのような殺戮をやり、略奪、暴行を行ったか、その歴史の事実をフィールドワークで確かめること、そして、その歴史的事実がどのように記録・継承され、また、日本軍の蛮行のなかを生き抜いた幸存者(生存者)から直接話を伺い「感情の記憶」を共有することが目的であった。

私は、昨年10月、“韓国・東学農民軍 戦跡を訪ねる旅”に参加したが、日本軍が敗走する東学農民軍を珍島(チンド)まで追い詰め皆殺しにした歴史的事実を各地に残る戦跡を訪ねて確認した。“集団虐殺、略奪と放火そしてレイプ”は日清戦争以来の大日本帝国軍隊の“消すに消せない伝統”である。

 

日本国内では、南京大虐殺をいまだに「ウソ」「虚構」「まぼろし」とする本が本屋の店頭に平積みされている。しかし、それは日本政府の対外的な公式見解とは異なる。外務省のホームページ「歴史問題QA」を開いてみると政府の公式見解が記されている。

6.「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

  1. 日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
  2. しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
  3. 日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。」

日本政府としては南京大虐殺の歴史事実を認め、侵略行為の一つとして被害者に多大の損害と苦痛を与えたことを痛切に反省し、お詫びの気持ちを忘れない、という趣旨である。

 

ところが、日本社会においては、南京大虐殺の歴史事実は、国民の歴史認識として定着せず、「国民の記憶」となっていない。それどころか、日本社会では南京大虐殺否定説が広く流布され、大きな影響力をもっている

明らかに、対外と対内とのダブルスタンダードである。歴史事実が国民の歴史認識として定着せず、むしろそれが歪曲され、抹殺されるような社会は、民主主義国家として危機的状況ではないか。いくらグローバル資本主義を標榜しても、これでは世界で日本は、一人前の国家とは認めてもらえまい。

 

戦後の日本政府は、大日本日本帝国の侵略戦争や植民地支配の犠牲となったアジア諸国・国民との間で、歴史認識を巡る軋轢を繰り返してきた。戦争責任問題を巡るダブルスタンダードは、アメリカの対日政策の枠の中で成立した。アメリカは冷戦の論理を優先させ、当初の非軍事化・民主主義化政策を大きく転換させ、日本の戦争責任の追及よりも、目下の同盟国として日本を西側陣営に縛り付けることを優先した。サンフランシスコ講和会議で調印された講和条約は、日米安保とセットで締結され、アメリカへの従属を固定化するものであった。

日本の戦争責任については、講和条約11条に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」とあるだけであり、他には、戦争責任への明示的な言及は一切なかった。日本は、自国の戦争責任をこの条項でいわば間接的に認めただけで一切の戦争責任を追及されることはなかった(右翼・靖国派が東京裁判の意義を否定するのは、このためである)。

こうして、戦争責任問題を巡るダブルスタンダードが成立する。それは、対外的にはサンフランシスコ講和条約の11条で東京裁判の判決を受諾するという形で、最低限の戦争責任は認めるが、国内的には、戦争責任にかかわる議論を封印し、侵略・加害の歴史事実を記述した教科書、歴史書さらに教師や研究者まで「自虐史観」として排除、忌避するというものであった。

 

中国国民は、ただ無闇に怒っているのではない。日本のダブルスタンダードを問題にしているのである。<続く>


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
侵略の歴史の真実は、生きていた、そして生き続ける (平 純生)
2011-09-14 22:42:26
26次訪中団に参加した平純生です。
今回の参加は私の「つくる会」系教科書採択阻止の取り組みにとっても、大きな意義がありました。しかし、今夏、「つくる会」系教科書は、特に、育鵬社版がいくつかのところで採択されました。それは、ドイツのように侵略戦争や殺戮に真の反省をするのではなく、戦争とそこにおける大虐殺をはじめとする蛮行の居直りとして日本社会の姿を映し出し、日本人の恥をさらしています。
 私たちは、中国をはじめアジアの民衆に、再度の屈辱を与え、心の傷を広げるようなことを、止めさせられていない現実を直視し、反省と謝罪をしたいものです。
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良心の欠如 (たまりん)
2011-08-25 18:21:28
同じく銘心会南京に参加したたまりんです。いろいろとお話を聞かせてもらって楽しかったです。

日本国内で南京大虐殺を否定あるいは軽視する風潮があるのは、とても残念で悲しいことだと感じています。否定したい人たちには、被害者が見えていない、見えていても対等な人間扱いしなくてもよいという考えを持っているのだと、感じずにはいられません。
戦争の第一歩は、戦争する相手を人間として見ないようにするところから始まります。事実、戦争前・中にはそうした宣伝や教育がおこなわれてきました。他者、特にテリトリー外の人間に対する良心を捨てないことが、戦争を二度とおこさないためのストッパーだと思います。
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