4島返還論の無理
日本政府は、1955年に始まった日ソ国交正常化交渉のなかで、突然それまでの立場を変え、「国後、択捉は千島列島ではないから返還せよ」と主張し、歯舞、色丹とあわせて「四島返還」を要求しはじめた。そのために、ソ連との領土交渉は、「千島問題」ではなく、「北方領土」問題となった。しかしこれまで、3回にわたって歴史的経過を追跡してきたように、「北方領土」は、日本独特の概念であり、国際交渉に使える概念ではない。多くの日本人は、自民党の詐術につき合わされ、マスコミもそのことを問題にしない。だから、日ロ領土交渉は不毛となるのだ。
どこまで意識していたか定かではないが、鈴木宗男氏らの活動は、4島一括返還論の弱点に気付いていたようにも見える。歯舞、色丹という、もともと北海道の一部である二島と、それより以北の「千島列島」は、歴史的経過を考えた場合、分けて考えなければならない。しかし、二島返還論と誤解され、鈴木氏は激しいバッシングにあった。あの頃は、すべてが宗男批判に収斂し、領土問題をどう動かすかという問題は、脇に追いやられた。鈴木氏は、受託収賄などの罪で実刑が確定しており、近く収監される身である(食道がんの手術で遅れていたが)。
領土交渉の対象を国後、択捉、歯舞、色丹の「4島」に限定することは、「千島問題」の核心を外してしまう。国後、択捉は、「日魯通好条約」(1855年)で日本の領土となり、「樺太・千島交換条約」(1875年)で、得撫以北の北千島も日本の領土となり、サンフランシスコ講和条約で南千島も北千島も合わせて「千島放棄条項」で日本の領土でなくなった。日ソ間の2つの条約は、戦争と無関係に平和的な外交交渉で合意したものであり、日露戦争で日本は樺太南部を奪ったが、全千島(国後から占守島まで)が日本の領土であることは、第2次世界大戦の時期まで国際的に問題になったことはなかった。
全千島から、南2島を切り離し、歯舞、色丹を加えて4島一括というのは、なんら条約上の根拠を持たないのだ。
条約上の根拠を持たない4島返還論には、つぎのような重大な問題点が含まれることになる。
――領土交渉の対象を国後、択捉、歯舞、色丹の「4島」に限定したため、北千島の返還要求は最初から放棄されたままとなる。
――全千島列島が返還されるべき正当な根拠をもった日本の領土であり、北千島と南千島を区別する条約上の根拠はまったくないにもかかわらず、その一部分である北千島を最初から領土返還交渉の枠外に置いたために、残りの部分である南千島(国後、択捉)についても返還を要求する正当な根拠を失うことになる。
――千島の一部である国後、択捉と北海道の一部である歯舞、色丹という性格の異なる4島を同列に並べ、一括返還の立場をとることによって、歯舞、色丹の早期返還への道を閉ざす結果になった。歯舞、色丹は、放棄した千島列島には含まれない北海道の一部であり、平和条約締結を待たずとも早期に返還されるべきである。
冷戦が始まりソ連と対立していたはずのアメリカが主導した講和条約に千島放棄条項が入ったのは、スターリンが、ヤルタ会談(1945年2月)で、ソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認めた協定があったからである。それは、ソ連が講和条約の締結も待たずに、千島列島を自国の領土に一方的に編入したことでも明らかである。その際ソ連は、北海道の一部である歯舞群島、色丹島までも編入してしまった。千島、歯舞、色丹の奪取は、「領土不拡大」という第二次大戦での連合国の基本方針に反している。スターリンの大国主義的領土拡張の誤りだが、ソ連が取得することについては、その連合国であるアメリカ、イギリスが容認したわけだから、国後、択捉の返還は容易でない。ロシアが現状固定化をめざして、新たな強硬措置に出ようとするならば、国際世論にも訴えて粘り強く交渉するほかないであろう。
国際的正義に反する条件や条項にたいしては、歴史的事実と国際的道理に立って説得するほかない。そして、この説得が国際的に支持されるためには、日本がどれだけ歴史的事実と国際的道理に忠実であるかが問われるだろう。アメリカの庇護のもとに締結したサンフランシスコ講和条約の片面性はいまや問わないとしても、明治以来の侵略戦争と植民地支配の犠牲となったすべての人々に対し日本政府は、どれだけ真摯に向き合ってきただろうか。尖閣諸島のように日本の領有がより明らかな問題でもこじれる背景には、侵略を正当化するような相手の言い分を誰が認めかという中国人民の根強い抵抗感があることを忘れてはならないだろう。