パンと珈琲日記~整形外科じゃなくて成形~

パン焼きと珈琲を趣味とするある整形外科医の日記

ブッシュドノエルとか、クリスマスに考えたこととか

2010-12-25 22:11:05 | パン
今日はクリスマス。昨日はイブで家に帰ったら妻と子供たちでブッシュドノエルを作っていた。写真を撮ってくれというので先週子供たちが作ったクリスマスリースと一緒にパチリ。ケーキに使ったチョコレートは濃厚なのにビター感が少なくカカオの香りもよかった。食べやすいチョコレートだった。使ったチョコレートは大東カカオのスペリオール・ヴェルジュというカカオ分66%の製品だった。多分、日本人はヨーロッパ人ほどビターなチョコレートを好まないためかヴァローナだと同じカカオ分でももう少しビターな味わいだと思う。70%のスペリオール・エクアトゥールもビター感が抑えられているし大東カカオの苦味を抑えて香りを引き出す技術はすばらしいと思う。



ところで西洋対日本といえば最近、MKさんのブログで日米のクラシック音楽をとりまく環境について議論していたが、クリスマスにあたり日米の「善」「正義」の感覚の違いについて思いをはせた。「正義」というとハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が昨今話題らしいが、残念ながらその番組を見ていないし、本も読んでいないのでわからない。

「善」の判断基準は個々によって違うし、日本、アメリカと一くくりにするのはいささか乱暴ではあるが、一定の傾向があるように感じる。日本の「善」という概念は相対する他者に対する「善」であるのに対してアメリカでの「善」は相対する他者に対するというよりも自らの原則、信念、あるいは神に対しての「善」であるように思える。これはアメリカでは基本的に基礎にユダヤ・キリスト教的な概念があるためではないかとも思ったが、それだけではないかもしれない。先日の日中の尖閣諸島における対立を見てみると日本政府は中国の事情を鑑みて「善」をなしたつもりでいたのに中国ばかりかロシアまで日本政府の相手に対する「善」につけこんで自国の利益を図ろうと画策した。日本人にとって相手国の事情をくんで行動するのが「善」と信じていたのかもしれないが、中国、ロシアにとって自国の利益を最大限に図ることが「善」であったと思われる。こう見ると日本の「善」という概念は世界標準から考えると特殊なのかもしれない。島国という事情もあるのかもしれない。

ついこの間、医療関係者向けのホームページで患者やその家族による医療関係者への暴力が某県で問題になっているというニュースとそれに関する医療関係者の意見を読んだ。医療機関ということから患者が相手の場合は警察の介入は適当でないとほとんどの医療機関で考えており暴力の犠牲者は泣き寝入りを強いられ、警察に連絡したり告訴したりする事例はきわめて少ないかほとんどないようだった。常識で考えれば相手が患者だろうと弱っていようと「暴力」は「不善・不正義」であろう。それでもその暴力に対して対抗しないのはたとえ暴力を振るうような人間でも相手の事情を考えてあげることが「善」と考えているからに違いない。きわめて日本的な「善」である。この5~6年、接遇教育と称して医療機関で講師を招いて言い回しやお辞儀の角度その他を医療従事者が学ぶのが流行している。診療技術が悪ければ接遇態度でごまかすしかないだろうし、例え技術があったとしても態度が良いほうがいいに決まっている。ただ、自分の基準となる「善」とは何かを考えず、頭を用いず、言われるがまま上辺だけを導入したのでは相手におもねる事がいいことだと思ってしまい、結果的に「不正義」が横行することになりかねないと思う。

ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義」に対する講義が話題であるということ、そして前述の2つの例を見てもわかるように日本的な「善」対する概念が揺らいでいて通せない時代が来ているのかもしれない。また自分なりの「善・正義」の概念と行動の原則を確立しないと飲み込まれてしまう時代が来ているのかもしれない。