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この1週間で感じたこと181216―最近のグチぶっちゃけ

携帯電話機器メーカ・ファーウェイが、日々のニュースの話題になっている。ところでこの会社英語表記でHuawei Technologies Co. Ltdなのに何故日本語でファーウェイとFの発音を想起させる表記になるのだろうか。H発音ならばフアウェイかハーウェイ表記ではないのだろうか。中国表記では華為技術有限公司となり、華はfa発音となるような気もするので英語表記が違うように思うが、中国語には詳しくないので、良くわからない。
ファーウェイは中国の国策会社。彼等の機器を使えば、当然その情報は中国政府の情報分析に使われることは分かった上でのことだ、と思っていた。それを了解してなお、そのコスト・パフォーマンスに魅かれて買ったのではないか、と思っていたが、どうやらその疑念を解説されて、驚いている人を見て、逆に私は驚くのだ。自分のスマフォがどのメーカのものか興味なく、まじまじと見てファーウェイ製だったと、驚いている人もいるようだ。
さらに驚くべきことだが、昔政府の現業部門だった電電公社の後身・NTTがこのファーウェイ製の機器のテレビCMをつい最近までやっていた。実に無警戒、無節操なのに私は違和感を覚えていたものだった。米国政府の指摘によってようやく、政府はファーウェイ製品の政府調達品からの排除を表明したのだ。
自分でモノを考え、見定める習慣がこの国の人々にはないように見受ける。乏しい自主性、それで良いのだろうか。貧しい自主性の中に個性は育たない。そんな人々は烏合の衆でしかない。そんなところに、民主主義の成熟はあり得ないと思うがどうだろうか。

このところ公的な障害者施設や私的機関の障害者授産機関への環境マネジメント・システムの審査が続いている。ここで聞いた話だが、特に精神障害者は数が増えている、ということだった。何故か。精神障害を起こす機会が増えているというより、精神疾患に関する科学の発達により、これまで健常者と思われていた人々が、実は精神疾患罹病者だったことが判明し、増加しているという要因が大きいということだった。そういえば、最近、発達障害という概念が確立・解明されて、対象者が増えている、ということもマスコミを通して聞いているが、そういうことも関係があるのかも知れない。
これまで、明らかになっていなかった精神障害者は今まで社会でどのように扱われてきたのだろうか、とふと思った。これがイジメの対象になっていたのではないかと思われ、少々暗い気分になったのだ。特に精神障害者は見た目は健常者と何ら変わりないので、差別の対象になりやすい傾向がある、というのはこういった施設職員の指摘だった。
それに精神疾患は生活環境が悪化すれば、誰もが発症する可能性がある“病気”であるという視点も大事なのかも知れない。そう考えれば、病気の人を差別するというのは正常な人間のすることではない、ということが分かる。

軽い精神疾患であれば通常の社会で職を得て普通の生活を送ることができるが、重度の精神障害者となるとそうはいかない。そこで授産機関は、軽い農作業や、喫茶カフェの運営に参加するなどそういう場を設けて従事してもらう等を企画して実施していた。こういったことならば、それほど抵抗感は生じないのだが、一団の障害者を廃棄物のリサイクルセンターに送り込んで、完全な廃品とリサイクル資源に振り分ける作業に従事させていたことには良く考えると少し問題があると気付く。この社会に彼らにしてもらう仕事はこんなことしか残っていないのだ、ということ。残念の一言。
それは静かに動くベルトコンベアの上を流れる廃棄物を仕分ける作業だが、PETボトル選別では本体に付着しているラベルを異物として取り外しながら純PET樹脂の原料としてリサイクル再生させるのだ。事前に機械で荒く選別されているはずだが、それにもかかわらず様々な異物が混入している。たまに入っているアルミ缶ならばあまり問題ないのだが、中には様々な刃物や針特に注射針が混入しているという。それを普通の軍手でリジェクトするのだが、危険極まりない。何故そんなものが混入しているのか不思議だが、それが現実なのだという。彼らにそういう仕事をしてもらっているのだ。明らかにまともな人間がやりたがらない作業だ。何だか少し悲しい社会の現実なのだ。
こういう作業こそAIによるコントロールでロボット化するべきだ。顔認証が可能な技術があるならば、ゴミの選別は容易だろう。選別さえできれば、機械による対応は何とかなるはずだが、多分こんな開発に地道をあげる企業は未だいないのだろう。
だがロボット化すれば、折角の彼らの職を無くすことになるのも事実なのだろう。現代日本にはこうした寂しい現実があるのだ。そういうところに外国人労働者の需要もあるのだろう。現代の“徴用工”の現実ではないのか。

どうやら日本の最低賃金は韓国のそれを下回っていると聞く。それにハイテク日本は、いつのまにやら低賃金に依存したローテク・ジャパンに停滞して、世界から相対的に退歩して置き去りにされている。しかし、そういう現実の懸念を現代日本人は抱いていない。それこそが最大の日本の危機ではないか。
事実、ファーウェイを軸とする米中の対立が、大半の日本人にとって“何のコッチャ”でしかないのではないか。

何度も言うが“日本の景気が良い”は明らかにウソだ。日銀の金利が上げられないのに景気が良いとは言えない。米国は中央銀行に相当するFOMCが2%台にしているが、日本はほぼ0のまま。従い米国は明らかに景気は良いが、日本はダメのまま。良い方向に行っている方向性の問題と、“景気が良い”のとは別の話だ。アホノミクスに忖度してウソを言うのは止めるべきだ。
しかしこのところ世界の景気は、米中対立を懸念して貿易量、物流量も縮小し始めている。そこで景気は悪い方向に向かっているという見方が大半となりつつある。そのさなか“景気が良い”からと言い張って来年消費税増税をすれば、その途端、不況になるのは火を見るより明らかだ。その上にややこしい軽減税制で混乱を招いては何をしているのか分からない。アホにアホを重ねる愚行を行うのか。

話は変わるが、今、英国政権はブレグジットをめぐって、大いなる困難の中にいて、果たして上手く行くのかと非常に危ぶまれる状態にある。しかし、この件を巡って、先日金融関係者から驚くべきことを聞いた。
イギリスと言えばロンドン、ロンドンと言えばシティ。シティとは世界の金融の中心なのだ。例えば、ライボーという言葉を御存知か。“ロンドン銀行間取引金利London InterBank Offered Rate”の略で、一般的に“LIBOR:ライボー”と呼ばれている。ロンドン金融市場で銀行同士が資金の貸し借りをする際に、資金の出し手(offered)が示す金利のこと。金利は時々刻々変化し、銀行によっても異なる。そこで、毎日午前11時、イギリス銀行協会が複数の有力銀行からの報告を集計して発表しており、世界の短期金利の基準となっている。
そうしたロンドンでの金融を支える様々な金融機関が、ブレグジッドによってロンドンを離れるのではないか、とその決定当初は言われていた。その後どうなったかは、寡聞にして聞かなかったのだが、知己の金融関係者はそういうことはないと断言していたのだ。要は、シティはブレグジットによっても微動だにしない、ということのようだ。英国以外のヨーロッパにはシティの受け皿はないのだ。
この政治的背景に何があるのかは、浅学にして知らない。しかし改めて大英帝国の築いた国家戦略的仕組に驚かされるのだ。日本にはかつて大日本帝国と名乗ってはいたが、そのような歴史的遺産や国家戦略は遺さなかった。したがって、アホノミクスのようなマヌケなことをしていれば、いずれ世界中の肉食獣の餌食にされるのは間違いない。そのことに気付かない日本人は先の戦争後と同様再び塗炭の辛酸を舐めることになるのではないか。
日本のマスコミはこうした重要な情報を何故か流さない。江戸期からの伝統“(庶民は)由らしむべし知らしむべからず”を実践しているのであろうか。“知らしむべからず”ならば、正に報道の本文を果たしていない。このため多くの日本人は愚民のままなのではないか。

さて、重い話から少し軽い苦言へ。
先日、NHKローカル・テレビを見ていて、冬場のイルミネーション紹介の番組だったと思うが、女性MCが対話相手に、“拝見しましたぁ~?”と言っていたので飛び上がって驚いた。ここで“拝見しました。”なら許せる台詞なのだが、残念ながら語尾はあがっていたので、疑問形であり、“拝見する”の主語は会話の相手となる。しかもその相手はその問いかけを受け取って会話を続けていたのだ。そもそも“拝見する”とは敬語の謙譲語。つまりその女性MCは“丁寧語”として使ったつもりのようだが、それは明らかな間違いで対話の相手に“謙譲”を要求しているのだ。つまりこの言葉遣いは奇妙な話し方なのだ。
子供の頃、私は“敬語が正確に使えないのは教養がないか、育ちが悪い”と言われたものだ。あのMCはアナウンサーだったのか、タレントだったのかは私には不明だ。しかしNHKは以前言葉づかいが厳密で緊張感があったはずだが、最近このようないい加減さが目立つ。
例えば、週刊誌等が使い始めて、民放でも盛んに使うことばで“潜入取材”と言うのがある。明らかに取材先の許諾を得て放映していても、“潜入”と称しているのだ。こういう言葉をNHKも平気で使っている。どうも最近日本人全体が“教養がないか、育ちが悪い”人々になって来たように感じるが、どうだろうか。

敬語の言葉づかいで気になる話で元プロ野球選手で大リーガーにもなった超有名選手のM氏が、これも超有名なN監督に指導を受けたことを“N監督に教えてもらった”とインタビューに応えていたことに驚いたことがあった。
それ以降ではないかと感じるのだが、アマチュアの選手が大会後のインタビューで見に来た人々に向かって“応援に来てくれてありがとう。”と平気で言うようになったのではないだろうか。それまでは大抵、“応援に来ていただいてありがとうございます。”だったように思うのだ。“来てくれてありがとう。”はかつての東京オリンピック開会式で昭和天皇が来場者に向かって述べられた言葉だったと記憶している。天皇は少なくとも日本では自分以外の人々は全て目下だから当然の御言葉なのだ。
私もこのブログで正確な日本語を使っているという自信はないが、平均値以上である自信はあるので、最低限気懸りなことを言わせてもらった。

逐一、こんなことばかりが気になって、今年も過ぎて行ってしまうのか。
私が言うのも何だが、最近高齢者が“最近の若い者は・・・”とは言わなくなったような気がする。それは高齢者自身の劣化を示しているためではないか、と思うのだがいかがだろうか。高齢者自身が“若い者は・・・”とは言えないような振る舞いをしているような気がするのだが・・・。されば日本人全体が劣化しているのだろうか。

頭の中はヒッチャカメッチャカ。これを読んで私が何をいいたいのか読み手には伝わりにくいという自覚は十分ある。しかし、思うこと全てをぶちまけた。御蔭で、とうとう日本のあらゆる人々を敵に回してしまったのかもしれない。思い上がりもいい加減にした方が良いのだろう。

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