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五木寛之・著“はじめての親鸞”を読んで

今回も親鸞についての本の紹介としたい。但し、著者はひろさちや氏から抜け出して五木寛之氏に替えてみたのだ。五木氏は小説家として著名であるが、“1990年代以降は特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い”。とりわけ親鸞についてはその生涯を小説にしていて、大変造詣が深いことでつとに有名である。そして本編はその親鸞について新潮社から依頼された講演を新書本にして発行されたものなので、五木氏の抱く概括的な親鸞像を余すところなく語っているものとして欠くべからざるものとして読んでみた。 この本の紹介として、何をどのように紹介しようかと思いつものように、本書の中でのキィ・ワードを取り出して、それを切り口にして少しばかりの私なりの感想を添えて、終わろうとするのだが、この作家の講演はあたかもどれもがキィ・ワードばかりでそれが連綿と続くかのような印象である。そのせいか、読み始めて引き込まれてしまい、気付くと読み終えてしまっていたような気さえする。著者は“雑談が好きである”と語っているがなるほどそうか、と思える。なのでフンワリ・ボンヤリとした感想を抱いて読み終えてしまっている。 取り分けてのキィ・ワードを取り出そうとしても上手くやれそうにもないのだが、それを言ってしまうと投稿できないので何とかしなければならない。そんな気分で実は読み直している。だから“書く”のにいつおより倍以上時間がかかっている。 . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“親鸞を読む”を読んで

今回は空海から進み出て、親鸞へと仏教理解を深めていこうと読んだのが、おなじみ“ひろさちや”氏の『親鸞を読む』である。いわば“空海”を一旦“卒業”してみようとの試みだ。 空海の“密教では、「身・口・意の三密」”というが、“鎌倉時代の高僧たちは、身・口・意の三密をバラバラにしてしまった。バラバラの一密にして、各自がめいめいの一密に専心した”とあった。そして、“親鸞は意密を採った”ことになるが、その“意密”が三密の中でも高度で容易に実行できそうな気がする。そしてその高度の“意密”を理解できればしめたもの、との下衆の思いから、“親鸞”に飛びついた訳である。そして、身密の道元、口密の法然との違いも知ることが出来て良かった。 親鸞の徹底した“他力”は結局、“あるがまま”となる。それは“人のはからいではない。それは如来の誓いなので、法爾という”。――自然法爾――“もうあるがまま、そのままでいいんだ。そこにはすべての人間のはからいが消えてしまっている”。 . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“空海入門”を読んで

これまで、空海に関する本は、面白半分で読んだ島田裕巳著“空海と最澄はどっちが偉いのか?―日本仏教史7つの謎を解く”をはじめいろいろ読んできた。だが、残念ながら“空海”、特にその“密教”についての理解はさっぱりのままなのだ。ここらで、決定版を読んでみようと、或いは読み落としも含めてもう一度“ひろさちや”氏の著作で確認するべくこの本を読んでみた。この本の内容に非常に近いのは同じ著者の“空海と密教”(黄金文庫)である。目次・章立てもよく似通っている。 だが、私にはこの本の“第6章 鎌倉仏教の高僧たちは、なぜ最澄の門下から生まれたか”に書かれていることが、著者の独創であり、私の日本仏教への理解を決定的にした。これは“ひろさちや”氏による見事な整理だといってよい。座禅も、念仏も「南無妙法蓮華経」も『歎異抄』も現代に活きている。空海の否、弘法大師の“三密”はこういうかたちで現代に活きているのだ。何だか、日本仏教の本質が解き明かされたような気がした。だから本書は“ひろさちや”氏による“空海入門”決定版であると言えるのではないだろうか。 . . . 本文を読む
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田岡俊次・著“台湾有事 日本の選択”を読んで

近所の書店でブログに紹介するべき本を探していたら、田岡俊次氏の本が目に入った。田岡氏は64年早大政経卒、朝日新聞記者でまた相当な家系の出身。湾岸戦争時に再び朝日新聞編集委員も兼ねるようになり、テレビ朝日の“朝まで生テレビ”に登場し、米軍の配置を掌を指すように詳しく説明し、居並ぶ出席者を驚かせた。その後CS放送 朝日ニュースターにおいても解説委員、看板番組であったパックインジャーナルのレギュラー・コメンテーターなどを務めていて、的確な解説でこの放送が終わるまで当時は必ず見て当時の軍事知識を仕入れていた。現在はフリーの軍事ジャーナリスト。ネットでは“田岡元帥”というあだ名があったと言われている。 そんな田岡氏の近著なので、しかも要警戒の要警戒事項“台湾有事”にコメントしているとあれば、大いに気懸り、ということで読むことにした。だが、多少の期待外れ・・・ . . . 本文を読む
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ひろさちや・著“ひろさちやの「最澄」を読む” を読んで

今回は“ひろさちや氏”に戻って最澄に関する本を読んだので紹介したい。これも書店の宗教セクションで見つけて、空海のライバル最澄を知るべく読むことにして、買った次第だ。申し訳ないが、空海を知るために読もうとした訳だ。読んでみてやっぱり、最澄はただものではない偉人であると理解できた。但し、教理は結構ややこしくて錯綜して理解が部分的に不十分なままではある。 最澄が空海の密教に飛び込め、との誘いに応じていれば、日本の仏教はどうなったのか、興味は尽きない。 . . . 本文を読む
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頼富 本宏・著“空海と密教―「情報」と「癒し」の扉をひらく”を読んで

今回紹介したい本は頼富 本宏・著“空海と密教―「情報」と「癒し」の扉をひらく”である。書店の仏教セクションで見つけた本書、未だに空海についてすっきり理解できていないので、私の注意を惹いた。そして、著者の経歴を見てこれは間違いない方、とすぐに思った。そして買った。そういう本だった。 著者は空海を総括して次のように言う。“歴史上の人間空海の中に、聖俗の垂直構造と俗俗の水平構造をあわせ持っており、その有効な調和が空海の思想と行動の顕著な特徴であるのみならず、インドと中国という二種の性格の異なる密教を統合止揚した日本密教の体現であるといってよかろう。そして最後に歴史的空海をより哲学的、宗教的にレヴェル・アップさせたのが「弘法大師」という存在である。” だが、この本では歴史的文献や空海の著作物の名称の説明で終わっていて、その内容についての解説は無くさっぱり理解不能なのだ。まぁ結局この本だけでは、結局空海の人生は分かったが、密教は分かったようで良く分からない。これで表題にある“癒し”となったか?体よくはぐらかされているのではないか。残念・無念と言わざるを得ない。 . . . 本文を読む
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中石和良・著“サーキュラー・エコノミー―企業がやるべきSDGs実践の書”を読んで

ここで、“サーキュラー・エコノミー”の紹介本の紹介としたい。これまでRoHS指令やREACH規則で日本の電器メーカーが規制され、さらには車ではHVよりもEV車だなどとヨーロッパが動いて、日本メーカーを競争の土俵から外そうとしてきたが、今度は“サーキュラー・エコノミー”で製品規格を策定して日本製品に規制をかけようとしているという話が聞こえてきているので、それが一体どういう内容になるのか、気になり読んでみた次第だ。とにかく欧米の白人どもは実は日本を外しにかかってきているのだ。 サーキュラー・エコノミーにはどうやら業界毎の規格・協定の乱立が予想される気配は感じたが、それが統一的動きになってEU一円からグローバルなものになるかどうかは、これからのように感じた。オールラウンドな規定であるSDGsとの関連で業界ごとの規格を作るのには矛盾に遭遇しているようにも見受けられる。しかし今後の動向には要注意であろう。過度にまじめにならず、さりとて不真面目にもならず真摯に対応することが肝要のようだ。 . . . 本文を読む
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本郷和人・著“日本史を疑え”を読んで

今回は本郷和人氏の“日本史を疑え”を読んだので紹介したい。日本史の何を疑うのか?何故、“日本史”に限るのか、若干不思議を感じながら読み始めた。まぁ日本史に限るのは、一般人には馴染みが深いからだろう・・・その程度の興味であった。だが、結果的には「出版社内容情報」の宣伝文句には見事にはまったのだ。 「出版社内容情報」曰く、“日本史は何の役に立つのか?丸暗記を脱却し、「時代の変化はなぜ起きたのか?」を考えることで、歴史は何倍も面白くなる。人気の歴史学者が明快に語る「史料」の読み方、「史実」の確かめ方、そして「定説」「最新学説」の疑い方。自分の頭で歴史を考えたい人への絶好の水先案内。” . . . 本文を読む
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本郷和人・著“「失敗」の日本史”を読んで

今回は本郷和人・著“「失敗」の日本史”の読後感想としたい。誰が失敗したのか、それはどういう影響を後世に与えたのかなど、あまり詮索せず当事者の身になって考えるというよりも思って、見るのも面白いではないか。というのと、本郷先生は何を日本史上の失敗と見ているのかを見てみるのも面白い、てな訳で取り上げて読んでみた訳だ。 “はじめに”で、“戦後の歴史学は唯物史観の影響を受けていた。そのため「歴史にもしもはない」というのが常識であり、歴史学はそうしたことを考える必要はないのだ”、つまり“(時代ごとの)生産構造は人間一人の判断や努力では簡単に変えられないものであるから、生産構造を基礎とする上部の変遷は「もしも」では本質的には変化しない”という考え方が主流だったが、歴史の大枠ではそうでも“上部構造内部での置換”あるいは小さな変化はありうるのではないか、と著者は書いている。 当然のことだが日本史上様々な失敗があるのだが、歴史上重要で大きな失敗は、私は元寇と、豊臣政権の簒奪の芽を摘まなかったことではあるまいか、と思っている。だからここでは、この2点に限って取り上げたい。 . . . 本文を読む
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宮城谷昌光・著“長城のかげ”(文庫本)を読んで

このブログへの投稿ネタが無い!読後感想しかない!何を読むか?お気楽に小説でも?そうだ、久々に宮城谷昌光氏を取り上げようと、読んだのがこの本。短編集だったとは知らなかったが、劉邦という古代の雄大な人物の“影”の周辺の英雄譚だった。 その内の『逃げる』は、項羽の忠良なる将・季布の敗残から逃亡の果ての話。捕らえられた季布に劉邦は、最期に項羽は何と言っていたか尋ねた。季布はそれをいなして“江水がみたい、と仰せになりました。”と誤魔化した。ところが劉邦は“汝は旧主おもいよな。逃げるといったのであろう。”とズバリ言い当ててみせた。そして劉邦は続けて項羽を鮮やかに総括してみせている。劉邦の性格や人となり、全人格をここまで作家は読み切って、このような台詞を吐かせるのか・・・・。この作家の想像力・表現力は凄い。この感動で、さらにもっと読み繋ぎたくなったのだ。面目躍如である。 実は、この作家には『劉邦』という長編がある。残念ながら長編は手に負えぬと怯えて、私はこれを未だ読んでいない。この書評によれば、作家はこれら短編を書きあげてから、この長編を著作したという。それを知ってホッと一安心した。それならば、この長編『劉邦』をゆっくりと今後の楽しみとしたい。 . . . 本文を読む
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