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MFCAはなぜ中小企業に普及しないか―すね者から見た経営手法

先々週のことで、少々古い話題になってしまって恐縮だが、私が所属する環境マネジメント・システム審査登録機関の審査員研修会があり、そこで外部講師によるMFCAをテーマにした講演があった。そこで抱いた感想を述べたいと思う。 ということで、環境マネジメントの手法に関わる環境会計MFCAをテーマとしていて、本来狙っているISOマネジメントそのものに関わることではない。しかし、MFCAもISO化されているので、かろうじて許される範囲ではないだろうか。しかもこれは、日本人が始めてISO14051として編集・作成したという。MFCAはドイツで生まれて日本で育ったと言われる由縁である。 だが、日本のMFCA関係者は それが普及しないことに困惑しているということである。つまり、これで一旗あげようと手ぐすね引いていた向きにはあてが外れた格好になっているのが冷厳な現実ということのようなのだ。 さて、MFCAとは何か。マテリアル・フロー・会計(Material Flow Cost Accounting)の略で、環境会計の一種と言われている。要するに、生産工程でのマテリアル・フローに着目して物質収支を厳密に観測し、工程中のロス(廃棄物)の内容を詳細に分析し、生産工程での問題点を摘出し、改善に役立てようという手法のことである。 下図は経産省の資料の図を借用したものであるが、このマテリアル・フローの分析のあり方の典型を示している。つまり、従来の会計手法では、廃棄物には加工費を乗せずに、製品の原材料費にコストとして乗せてしまっているが、MFCAでは廃棄物にも加工費を乗せて評価するということである。 . . . 本文を読む
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反省ということ―日本社会における“再発防止”意識

世間で起きている事件に思いを致すと、日本で不毛の失敗の繰り返しが無反省に行なわれる傾向に 無力感を抱いてしまうのは私ばかりだろうか。失敗を繰り返さない反省は、突き詰めれば再発防止、ISO的には是正処置となるが、そういう思考態度が日本社会にしっかり根付いているようには見えない。ひいては、そのことがここ20年にわたる停滞となっているように思う。 . . . 本文を読む
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オーケストラ指揮者のリーダーシップ―朝比奈隆、藤野栄介の著書を読んで

先日、と言っても1ヶ月以上前だったと思うが、ある音大の指揮科の学生の実習の様子を放映していた。実際に指揮をさせ、そのパフォーマンスを見て、卒業が決まるものだったように記憶しているが、学生に対する評価が 全人格的な視点であったため、その指導の迫力に驚倒したのだった。そこで、はじめて オーケストラ指揮者こそ、強烈なリーダー・シップが要求されるものだということに気付いた次第であった。同時に、自らの不明に何たることかと恥ずかしさも感じたものだった。 そしてその後 指揮者として著名な人の著書を色々物色した。しかし、それらの著書は殆どが それぞれの著名指揮者達が時々に感じた四方山話や音楽に関する話題に終始しているような本ばかりのようで、困惑してしまったのだった。さりとて 音楽の専門知識もないので、いわゆる“指揮法”などといった本を読んで悩まされる訳にはいかない。 . . . 本文を読む
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シンポジウム“エネルギー政策の大転換”を聴講

先週の日曜日の午後、関西学院大学梅田キャンパスにて、環境三学会合同シンポジウム2012が開催され、講演を聴きに赴いたので概要を報告する。環境三学会というのは、環境法政策学会、環境経済・政策学会、環境社会学会とのこと。関学が梅田にキャンパスを開設していることは知ってはいたが、具体的な存在場所までは知らなかった。従って、実際に中に入ったのは今回が始めてであった。阪急梅田駅の北側の阪急茶屋町ビルディング(アプローズ・タワー)にあって、10階と14階の2フロアを占有している。ホテル阪急インタナショナルとフロアは異なるが同居していることになる。今回はその10階の で開催された。このように比較的高層階にあり、梅雨のさなかであったが快適であった。 . . . 本文を読む
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“なぜ日本人は落合博満が嫌いか?”を読んで

先週に引き続き、今週も落合氏をテーマにしたい。標掲のテリー伊藤著“なぜ日本人は落合博満が嫌いか?”を読んでいたからだ。本来は、先週の“采配”の読後感想のなかで、取上げるつもりであったが、先週も言ったように何故だか思わず長くなって記載余地が無くなってしまったので、ここで別に取上げることにした。 まず何故、私がリーダー・シップ論を考えるにあたって落合氏を取上げたのか。それは、プロ野球の監督として目を見張る業績を残したからの一言に尽きる。そればかりではない。名選手、必ずしも名監督ならず、と言うが、この人にそれは当てはまらない。さらに落合氏には選手時代から、インタビューへの受け答えに自信に満ちたブレない姿勢を感じていた。その自信の塊のような人が、監督をした中日が何とか優勝を果たしたとき泣いたことがあった。それを見て、自分に厳しく、他人にも厳しいはずの人にも涙があるのだと感動したものだった。 こういう人の信条はどういうものだろうか、それを知りたいと思うのは当然ではないかと思う。 そのことのついでに、こういう実力者に人気があまりないのは、どういうことなのだろうか。それに明確に答えているのがテリー伊藤氏ではないかと思われたのだ。要するに“日本人は落合氏が嫌い”なのだ。なぜなのか。 . . . 本文を読む
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