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齋藤 孝・著“最強の人生指南書―佐藤一斎「言志四録」を読む”

何だか、国民の財産を私的利益に資するように使用可能な権益を売り払う法律が、強行採決された。これが安倍政権の本質だ。安倍氏は本当の民族派なのか。
そもそも官で上手く運営できないものが、民になると上手く儲けられるように運営できるようになるのか、不思議で仕方がない。当然のことながら、赤字を埋めるためには料金を大幅に値上げすれば、儲けられるようになる。しかも、独占企業としてであるから値上げは強行採決より容易だ。民営化する合理性は市場での競争原理に委ねる点にある。独占企業体が民営であれば、害悪のみが残存する結果になるのは、論理として当然の帰結であろう。利用者である一般国民、市民には何のメリットもあり得ない。
どうも怪しい。モリカケの再発ではないのか。アベ氏は民族派の皮を被った売国者ではないのか。政府機関にフランスの水メジャーの社員が深く関与しているという噂もある。何故、そのような人間が日本政府に食い込んでいるのだろうか。“美しい”日本を売り続けているような気がする。
そこはかとなくフレンチ・コネクション臭が感じられる。そう言えば東電福島原発事故でのフランス・アレバによる“支援”のコンサル料はやっぱり相当額支払ったのだろうか。そしてそのコンサルは役立ったのだろうか。日本の役人にはフランス行政学院に留学するものが結構いると聞く。日本は米国のみならず又フランスの好餌でもあるのか。
それにもかかわらず、このままアホに騙されたまま喜んで支持し続けているのは、そのアホよりさらに低能であることの証となる。

入管難民法案も具体的規定がないまま、政府に白紙委任する内容のものだったが、強行に可決成立された。これは最早独裁政権のやりざまと言わざるを得ない。財界要求鵜呑みの利権構造まみれの政権の正体なのだ。マスコミはこれを忖度するのか。
その財界人の前に“(国会を)ややこしい”存在と挨拶する首相を戴き、それを支持する一般国民は一体モノ何なのだろう。そもそも“ややこしい”答弁をしなければならないような法案を提出したのは政府ではなかったのか。外国人労働者の実情を審議の中で“初めて知ったので、答えようがない。”との首相答弁は明らかな責任回避ではないか。いわば職務放棄であり、生煮えの法案であることをいみじくも自白したような台詞ではないのか。
外国人労働者は従軍慰安婦や徴用工と全く同じ構造の中にあると言える。しかし首相はその実態を知らないらしい。本当か。その内、アジア人達から再び日本は嫌われる国になるのではないか。現に、ベトナム人は韓国に行きたいと言っているらしい。日本人は戦後本当に反省したのだろうか。
それに人出不足解消は日本人の低賃金化に資するだけで、日本経済の消費をさらに冷え込ませるだけである。それは少子高齢化をさらに促進すると言う議論もある。負のスパイラルが始まる。それに消費税を追加すればどうなるか、アホには経済学のイロハが分からない。それがド・アホノミクスの本質だ。

いわば反知性の極致を地で行っているのだ。この反知性主義は世界を覆い、良識は消滅しつつある。これはどういうところから来ているのか。ITによって普及したインター・ネットによって、様々なフェイク情報が氾濫し始め、情報を受け取る側が耳触りの良いものだけでも選択できるようになって、人々がその偽情報が受け入れ信じるようになり始めているからに他ならない。
逆に中国では情報が政府によってコントロールされた情報だけが大手を振って溢れていて、それらには政府の都合に合わせた偽情報を多数紛れ込んでいるのだろう。
日本では大手マスコミがほとんど政府に忖度した情報しか流さないと見える。従い、われら日本国民は真実情報を入手するのが非常に困難な状況にあると見て良い。我々はそういう自覚に基づいて、情報を取捨、或いは意識的に信頼できる情報源を選別しなければならない。
そういう自覚のない人々には、フェイク・ニュースしか届かない。しかし、残念ながらそういう人が殆どであることが現実なのだろう。アホアベ政権の支持率が特に若い人で高いのはそういうことなのだろう。若い人は特に偽情報に関する免疫は殆どないと考えられるので仕方ないのかもしれない。

そういう状況では、ポピュリズムがはびこるのは当然の帰結だ。そこに新たな“ヒトラー”が生まれる余地が大いにあるのだ。“ヒトラー”と言っても、特に日本では反ファシズム教育やリベラリズムの教育は普及しなかったため、ファシズムにアレルギーがないのが大いに懸念されるところだ。これは教育に政治色を持ち込むことを嫌ったため、近現代の歴史を全くカリキュラムに入れられなかったことから来ている。そして世の中の振り子が90年代に入って、左から右に大きく振れた。すると日本では何故かアベ氏のような似非民族派(利権派)が幅を利かせるようになったのだ。

そしてタイミングよくアホノミクスによって景気が良くなったかのような印象を与えてしまい、これが高い支持率の一因とされる。景気が良くなったように見えたのは、2012年末、円高と原油高による貿易赤字が為替トレーダを驚かし、円安に振れたことによる。その後、安倍氏が首相になり日銀の抵抗にもかかわらずその総裁をすげ替え、超低金利~マイナス金利にして、円安を維持したことだけが、アホノミクスなのだ。それ以外に景気を良くした実効ある政策は何もない。御蔭で今や地銀の大半はその存在を脅かされている。今後地銀のアホノミクス倒産となると、これが瞬時に各方面に連鎖して国際的な円通貨の信認は無くなり、暴落するだろう。貿易収支も経常収支も滅茶苦茶。そうなると巨額の財政赤字の中、手ぐすね引いている国際的な投機筋からの円売り浴びせが莫大になり、その途端日本経済は地獄に突き落とされることになる。実はこれが忖度するマスコミが報じない、ガケっぷちにある日本経済の実像なのだ。

そうなれば、政治は緊急事態と称して独裁化する余地がでてくるのではないだろうか。アホの政権、長期政権になる懸念は大で、憲法は改正され独裁政権樹立される可能性は大いにあるのだ。それが実現してからでは最早遅いのだ。独裁政権は倒すためには相当な犠牲を払わなければ倒れないものだ。今から、その覚悟が必要な気がする。

重ねて言っておくが、日本の景気は良くなっていない。日銀の政策金利が上げられないのが何よりの客観的証拠だ。いわば政権の一部が好景気だとは決して言えない状態なのだ。株価が一定水準にあるため、マスコミが好景気を装っているだけだ。株価は財界の大手企業の好調さを示しているだけなのだ。それが利権アホノミクスの実態だ。これは偏った見方ではなく、経済を知っている人は皆こういう見解なのだ。


思わず、マクラが長くなってしまった。本文が短くならないようにしたいが、保証の限りではない。
今回は、齋藤 孝・著“最強の人生指南書―佐藤一斎「言志四録」を読む”を紹介したい。明治維新の方向付けをした学者が2人いて、それは横井小楠と佐久間象山であり、その2人の共通の師匠は佐藤一斎という朱子学、陽明学を修めた儒学者だ、とこのブログの前々回に言ったが、その一斎の“言志四録”の中の箴言(“言志録”、“言志後録”、“言志晩録”、“言志耋(てつ)録”の四書の総称)から、齋藤氏が選んだ条項を紹介・解説しているのが、この本だ。
NHK大河ドラマ“西郷どん”が終盤に入っているが、その西郷も“言志四録”を愛読し、“逆境の中で彼を支えた”のであり“『言志四録』から101条を抜きだし、それを心の糧として、何回も何回も書いてその身に覚え込ませています。”と著者・斎藤氏もこの本の序章で紹介している。その101条は明治21年(1888年)に“西郷南洲手抄言志録”として世に問われているといい、この本の最後には、西郷南洲(隆盛)が採録した条項を紹介している。
ということから、“言志四録”は幕末の教養あるサムライ達にとっての共通の心構えを示していたのだろう。佐藤一斎は、“二人(小楠と象山)にどのような影響を与えたかは不明だが、二人が所属した幕府の昌平黌の儒官(総長)として指導的立場にあったというのは確かである。”ともこのブログで書いた。昌平黌は江戸時代の東大と思ってよい。

また前々回次のようにも書いた。“そこに何が書かれているか、それはこれからの私の修養によるが、恐らく“一点の曇りもない心眼で見る”ための心得であろうか。“心眼で見れば”小楠のように何事も“一を聞いて百を知る”ことができ、万一も誤らない判断ができるようになるのかも知れない。”という思いで興味津々で読むことにしたのだった。
序章で齋藤氏は“切れ味がよく、ちょっと格好のいいこれらの言葉を、一つでも二つでもいいので、ぜひあなたの座右の銘として、日々の生活のなかで精神のバランス感覚を養うのに活かしてください。”と序章の最後に言っているので、私もそのつもりで、読んでみた。また何か心を打つ言葉があれば、それを突破口として全体を理解できるようになるのではないかとも期待したのだ。しかし、いささか期待が大きすぎたようで、ついに参考になるものはなかった。否、恥ずかしながら、私がそのレベルに達していないのかもしれない。
もう少し、佐藤一斎に関する他の文献を当たって見るべきかも知れない。或いは、深追いしても無駄かもしれず、ここが思案のしどころであろう。

中には、そりゃぁ当然だろう、というのもあり、いささか科学的知識ある我々には理解しがたい表現も多々あった。或いは、そうするべきことは分かってはいるが、具体的にどうすれば可能なのか分からないので目的が達せられないこともある。ひょっとして、自覚することが大事で、自覚しさえすれば自ずといずれなされるものと考えているのだろうか。
しかし、そういうことにはこの本では多くの場合齋藤氏がコメントを与えてくれている。それでも私には具体性が感じられないのが大半だった。しかしながら、齋藤氏のコメントは多才な教養を反映していて、さすが、と感心させられることが多かった。

それにこの本を読んでいる間は、何かと仕事が入っていて切れ切れに読んでいたので、印象が継続しなかったことに問題があるのかもしれない。広い範囲の箴言を選択していることの限界もあるのかもしれない。
しかし、この本の終盤は心の持ちように関するものが多かったので、多少参考になるかなぁと思える部分は多々あった。しかし、今の私の心を大きく打つものは少なかった。やはり、私の心のレベルの問題であろうか。小楠や南洲の“心眼”レベルに達するのに、どうするかというテーマがどこかに行ってしまったのが、残念でならない。或いはこの本の中では、小さなことの積み重ねが大事を為すようなことが書かれていたが、箴言の一つ一つの実行が真実に至る道なのかも知れない。今や私には遠い道だ。

何だか、マクラが大きくて、本文が短くしかも、つまらないものになって申し訳ない。それでもいずれ、東京に出たとき、御茶ノ水、昌平坂を歩いて、湯島聖堂も訪問してみたいとは思った次第だ。

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