地球上に存在している物は、全て善くも悪くも無く、「只、事実その物」であるという事です。
「存在事実」に変わりは無いのです。
ですけれども、「物その物」は、先般も申し上げましたが、使い道に因って善い悪いと言われる迄の物なのです。
この善いでも悪いでも無いのが、本当の存在です。
それでは「人間の存在」が、何の様に大きな作用をしているのか、私たち衆生に具わっている「眼(まなこ)」を例に取って考えてみたいと思います。
地球上に存在している物は、全て善くも悪くも無く、「只、事実その物」であるという事です。
「存在事実」に変わりは無いのです。
ですけれども、「物その物」は、先般も申し上げましたが、使い道に因って善い悪いと言われる迄の物なのです。
この善いでも悪いでも無いのが、本当の存在です。
それでは「人間の存在」が、何の様に大きな作用をしているのか、私たち衆生に具わっている「眼(まなこ)」を例に取って考えてみたいと思います。
人間の全ての感覚を、六感といいます。
六感というのは、視・聴・臭・味・触の五感と、俗に言う「第六感」と、いわれる心の働きをいいます。
その六感は、最初から条件が無いのが本当です。
条件が有(在)ると言う事は、自分に一つの考えを持つ物に対して、良し悪しが起こるのであって、物に良し悪しが有(在)るのではないのです。
只、使い道に因って暫く良し悪しという事が、出て来るまでの事なのです。
物その物は、善いでも悪いでもないのです。
人間がとかく「自我」を認めて、自己中心の観念で、全てを取り扱うと云う事は、誤りであるという事です。
そういう「自己中心の考え」を、超えて本当に大きな働きするのは、実際は人生その物の真相であるという事です。
何故ならば、地球上の全ての物を横一列に、並べてみても、地球上の全ての存在という物は、「人間の為に有(在)るのではない」と、いう事です。
私たち衆生一人一人は世界の人口分の一の「存在者」です。
掛替えの無い自分ですから、本当に「自分自身」に成らないと、いけないという事です。
他人の為の私で有ってはいけないという事です。
この事は、各人が徹底した個という者に成らない限りは、私たち宗教に携わる者は、助けてあげたいと思っても助けてあげられないのです。
徹底した個というのは、所謂「自分の主人公」です。
私たち衆生は、自分の主人公は何時も自分に内に居るか、絶えずその事を、自分自身で点検していく必要が有(在)ると思います。