美味しいものを食べたい、飲みたいという思いは人の天性のようなものです。
昔からよく「食べるものに欲のない人は衣、住や名誉の欲もない」という
ことで、淡泊という表現が使われています。
そのように貪欲というものは、いかに離れられないかということをよくよく
理解して修行に励んで頂きたく思います。
美味しいものを食べたい、飲みたいという思いは人の天性のようなものです。
昔からよく「食べるものに欲のない人は衣、住や名誉の欲もない」という
ことで、淡泊という表現が使われています。
そのように貪欲というものは、いかに離れられないかということをよくよく
理解して修行に励んで頂きたく思います。
三番の中でも、「貪欲(とんよく)」が一番防ぎ難いものです。
知らず識らずの内に生に対する執着(貪欲)が出て来ます。
それほど貪るというのは恐ろしく、怒りも貪りから起きて来るということ
から「貪等を宗とす」と、貪りを主眼に説かれています。
「宗」とは主たる原因、あるいは根本ということです。
食べ物や飲み物ほど貪りやすいものはありません。
仏教では五種の欲望があるとされ、それを「五欲」といいます。
財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲です。
その五欲の中の一つ、「飲食欲(おんじきよく)」。
即ち、食べ物や飲み物に対する欲です。
「五観之偈(ごかんのげ)」という食事の時に必ずお唱えするお経の中の
第三番目に「三つには心(しん)を防ぎ 過(とが)を離るることは 貧等(とんとう)
を宗(しゅう)とす」というお示しがあります。
「心を防ぎ」とは「貪顚痴(とんじんち)・・・むさぼり、怒り、愚痴」の三毒を
防ぐということです。
何故ならば、これは諸々の罪過の根源になるからです。
一般的にはそれを「無明(むみょう)」と言います。
無明とは本来分かれていながら一つであるものを、二つに見ることです。
⑥智慧
「智慧」とは、いつも縁と一つに成っている状態、一切自分の力を用い
ないという様子です。
自分が智慧を使うと「智慧に頼る」ということになります。
ですから、「道」に至れないということになります。
これは仏教の特色ですが、「六つの道の一つ」さえ完全に行じることが
出来さえすれば、後の五つも必ず行じられるということです。
これが仏教でよくいわれる、「一はすべてであり、すべては一である」という
お言葉の意味です。
⑤禅定
これは静かになるということですが、静かになる状態があってはいけない
のです。
仏様の別名に「不動尊」がありますが、これは何時も動いておりながら
動いていないという仏様の名前です。
「不動(動ぜず)」ということですが、迷いがなくなって悟りがあるという
のではなく、迷いそのものを悟りと自覚するということです。
「動いていない中に動いているものを見つける」、これが禅定です。
④精進
切れ目なく常に努力をしていくことです。
これを「常精進」といいます。
精進する時としないときがあったのでは「真の精進」にはなりません。
「意義付け意味付けのない精進」が必要なところです。
③忍辱(にんにく)
「忍辱」とは、今の事実に耐えるということです。
「今の事実」に一切手を付けないということです。
どれだけ「我慢」しても「道」には至りませんが、この「忍辱」をすれば
必ず「道」に至ることが出来ます。
しかし、どうしても手を付けてしまうのは修行が手段や目的や方法になって
しまっているからです。
「今の事実のまま」にいられる努力が一番大きな「忍辱行(にんにくぎょう)」です。
②持戒
「持戒」というのは「戒律」を保つということです。
別の言葉で言えば相手を見ないということ、自我を立てないということです。
自我を起こして相手を認めるということが戒を破ること「破戒」になります。
「戒律」を守ることによって悟りに至ると考えて努力している人がいますが
それは間違いです。
①布施
「布施」とは、施しということです。
自分の大切にしているものを差し上げる、或いは執着を離れるというような
ことをいわれています。
これは非常に小さな「布施」です。
大きな「布施」とは、一番施しにくいものを施すということです。
即ち、この身を一切のものに施すということです。
それが本当の「布施」です。
自分を施すことは、即ち自分を完全に失くすことが出来ますから悟りを
開くことが出来るのです。
迷いの世界から悟りの世界に至るまでに渡る六つの道「六波羅蜜」。
別名「六度(ろくど)」と言います。
この六つとは何かというと「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」のすべて全部、
自分を捨てた状態をいいます。
この六つの道が私たち衆生には全部豊かにそなわっているのです。