私たち衆生の日常生活においては「眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意(心)」の六根の
働きの中にしか存在しません。
ただ、「意(こころ)」というのは「五根(眼・耳・鼻・舌・身)」のように物を
「識別」するものではなく「分別」する道具です。
「分別」するだけで悪いとか善いという「判断」をするものではありません。
それが「意(こころ)の働き」です。
ですから、私たち衆生はきちんとすべてのものをそのまま受け入れるように
なっているのです。
これを「法身(ほっしん)」といいます。
本来私たち衆生は「法身(法の身)」なのです。
ですから、私たち衆生は修行して「法身」が求められるのです。
私たち衆生は「法身」を求めなければなりません。
すべてのものが「法身」でありますから、「縁」に触れてものと一体だった
ということに気が付く様になっているのです。
それを邪魔しているものが「我(が)」という自分で、いつの間にか認めたものです。
一度「自心」を知っていただきたいと思います。
合掌)949