「唯務(ただ つとむ)」の「唯」は、「唯」が先にあるのではありません。
後にあるのでもありません。
何かを完全に務めている時には「唯」も何もありません。
例えば、苦いものとか辛いものを口にすると「苦い」とか、「辛い」と言いますが、それは過ぎてしまった知覚でわかることです。
全部過ぎたことだからわかるのです。
その中にいる間はわからないのです。
わからないぐらいに真実の中にいるのです。
私達衆生の日常生活の様々な状態というのも、いつも自分というものが判断したり、考えたりしていると思いがちです。
しかし、様々に変化している自分というのは全部、嘘でも本当でもない、それだけの因縁によって表れているだけのもので、私達衆生は、いつでも何もない世界にいるのです。