活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

坐禅は坐禅なり 1

2015年08月08日 | 坐禅

仏法の真髄は、まず「ものは一つである」という事です。

このことは、是非理解して頂きたく思います。


私達衆生は、分別して【ものを二つに見る癖】がついているのです。

ものを二つに見るとは、良い悪い、好き嫌い等、相対的にものを見てしまうことです。


癖というのは、「我 (が) 、自我」というものです。

癖と我 (自我) は【同じもの】です。

坐禅をしてその癖「我 (自我)」を取ることです。

すなわち、自己を忘れる事です。


畢竟、“坐禅 (今の事実)” そのものに【成る】という事以外にありません。

道元禅師「坐禅箴 (ざぜんしん)」に云わく「坐禅は坐禅なり」と。


坐禅そのものに成りさえすれば【ものは一つである】という事が、本当に明白 (めいびゃく) になります。

もともと坐禅というのは、「我」というものもなければ、癖もなければ、迷いとか悟りとか、凡だとか聖 (しょう) というものではありません。

「人」も「法」も、何もない【ただ坐禅だけがある】のですから。


坐禅 (今の事実) に徹しさえすれば、確かにものは一つであるという事がわかります。

「坐禅は坐禅なり」「坐禅の先生は坐禅である」ということです。


坐り尽くして下さい。坐忘して下さい。

坐忘とは、【坐して、坐る事を忘れる】という事です。


道元禅師「坐禅箴」に云わく、

「坐禅を坐禅なりと知れるひと、すくなし」と。


道元禅師の師匠、如浄 (にょじょう) 禅師云わく、

「坐禅を坐禅とする人は、稀なり」と。

御二人の真意は、「坐禅を手段や方法として、ものを求める人は多いけれども、坐禅が坐禅で【終わってしまっている】という人は非常に少ない」という事です。


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