それですから「私」というところの者(事)は、あるのではないのです。
「私が聞いている」という事は無いのです。
「只(ただ)聞こえている」のです。
「この物(身体)は自分を離れた活動者」なのです。
そのように自分の全ての物を親しく観ると、それがはっきりします。
そこですべての迷いが取れるのです。
当然、「坐禅をする」という事が必要になるのです。
それですから「私」というところの者(事)は、あるのではないのです。
「私が聞いている」という事は無いのです。
「只(ただ)聞こえている」のです。
「この物(身体)は自分を離れた活動者」なのです。
そのように自分の全ての物を親しく観ると、それがはっきりします。
そこですべての迷いが取れるのです。
当然、「坐禅をする」という事が必要になるのです。