たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

読書 アンネの日記2

2012年07月01日 | 読書

「アンネの日記」増補新訂版は600ページもあって、なかなか読書が進みません。概要はウイキペディアのほうが適していると思います。念のためリンクを張っておきます。以下は増補新訂版に解説される人名についての引用です。

隠れ家で25ヶ月あまりを一緒に生活した8人の本名と、日記での変名はWik「アンネの日記」を参照してください。
アンネは生前Bテキストを書いたとき、将来これが公刊される場合にそなえて、登場人物の変名を決めていた。たとえば彼女自身には、はじめアンネ・アウリス、ついでアンネ・ロビンの名を与ええている。
敬愛していた父、オットー・フランクには変名を採用せず、自分達一家の姓も変更しなかった。公刊された「アンネの日記」には、アンネの考えた変名がそのまま使用されている。
いっぽう、隠れ家の8人を支援し、協力してくれた人びとについては、今日ではすべて身元が判明しているので、その人たちの名は、この本では本当の名にもどしてある。
登場人物で特に匿名を希望した人の場合には、オランダ国立戦時資料研究所により、任意に選ばれた頭文字が使用されている。
<隠れ家の8人を支援し、協力してくれた人びと>
ヴィクトール・クーフレル
ヨハンネス・クレイマン
ミープ・ヒース(女性、夫のヤン・ヒースも真相を知っていて協力する。ベップと日記草稿を拾い集め保管した)
ベップ・フォスキュイル(女性、タイピストとして雇われていた。アンネたちが連行された後、ミープと日記草稿を拾い集めた。)
「少女アンネ-その足跡」ではクーフレル⇒クラーレル、クレイマン⇒コーフェイス、ベップ⇒エリ・フォッセンという名で、またアンネの姉、マルゴー⇒マルゴットで表記されている)
アンネ・フランクの家 は見学者が引きも切らない。

<「少女アンネ-その足跡」でアンネの最後の頃をリース・Pが証言している。>
衛生状態の悪いベルゼン収容所へ鉄条網で仕切られた隣のブロックにアウシュビッツからのグループが到着し、その中にマルゴットとアンネのいることをリースは耳にした。
夜になるのを待って、こっそりバラックを抜け出し、鉄条網の脇までいき、暗闇にむかって「そこにだれかいる?」と小さい声で呼ぶと、女の声で「わたしがいるよ、ファンダーンよ」と返ってきた。ファンダーン夫人だった。
リースは自分の名をいって、マルゴットかアンネがさくのところへ来られるか聞いた。
夫人はマルゴットは病気だけどアンネは多分こられるだろうといって、ようすを見に行った。
しばらく暗闇の中で震えながら待っていると、「リース、リースどこにいるの?」とアンネだった。
声のしたほうへ走っていくと鉄条網ごしに、アンネはぼろをまといやせおとろえて目のおちくぼんだ顔をしてくらやみのなかにいた。
ファンダーン夫人とここで再会したとアンネは話す。リース達のバラックは赤十字小包を受け取れるのに、アンネたちは何ひとつ受け取れず、彼女は寒さにこらえ、おなかをすかせきっていた。リースはつぎの夜も同じころここで会う約束をする。
約束どおりつぎの夜も彼女はさくのところへくる。リースは毛のジャケットといく枚かのビスケットとお砂糖、ニシンのかんずめを一包みにして放り投げた。
すると、叫び声と泣き声がきこえてきた。私は大声でたずねると「ほかの女のひとがあれをとっちゃた。わたしにくれないの」と、泣きながら叫びかえしてきました。横取りして走り去る女の足音が聞こえた。

「アンネ、またきてね、なにかさがしてみるわ」。
そのつぎのとき、くつ下一足とビスケットをあげましたが、そのときはアンネがちゃんとそれをひろいました。それがアンネを知人が見た最後だった。
リースは後日「彼女はチフスで死んだといわれていますが、二月のその夜から一度も彼女に会いませんでした。それというのもわたし自身が囚人輸送車でまた別のところ移動させられたからです。

ネットのどこかに日本の翻訳者のある人がオランダを訪問し、書店に立ち寄った際「ナチス・ドイツと同盟を結んだ日本人にアンネの気持ちが分るのか」と言われたとあった。アンネの日記は、日本人は罪の意識で、覚悟して読む必要があるのではないかと思った。