新たなる太平洋横断記録達成に向けて

2006年06月26日 | 風の旅人日乗
6月26日 月曜日
モノハル艇での太平洋横断最短記録達成に向けて、大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツのホーム・スタジアムとして有名なSBCパーク・スタジアムに隣接したサザンビーチ・マリーナからビーコムが出航しました。
2006年6月25日16時(日本時間6月26日08時)に、サンフランシスコ・ゴールデンゲート・ブリッジのスタートラインを通過する予定です。
太平洋横断記録のための公式コースは、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジから、日本の神奈川県三浦半島城ヶ島沖と決められています。
サンフランシスコをスタートし、三浦半島先端の城ヶ島沖の公式ゴールラインを目指して、太平洋横断チャレンジの幕開けです。

順調に行って、予定の7月20日前後に城ヶ島フィニッシュを迎えると、約25日間で太平洋を横断することになります。
仮に、サンフランシスコ~城ヶ島間のラムライン4482マイルに沿ってセーリングできたとしてみても、アベレージでで7.47ノットをキープし続けることが必要となります。
実際には、北東から吹く貿易風をブロードリーチ(クォーターリー)で受け、西に向かって流れる北赤道海流を味方につけるために、最短の大圏コースではなく、かなり南下してハワイ寄りのコースをとらなければなりません。日々刻々と変化する風向や風速、風浪やうねりなどの影響も考えれば、単純な航跡とはならず、最終的な航走距離が4482マイルを大幅に越えることは容易に想像できるかと思います。

過去のモノハル艇での太平洋横断記録を調べてみたところ、公式記録は存在しない模様です。
舵誌のバックナンバーに当たってみたところ、1981年太平洋横断シングルハンドレースでの記録が残っていました。
それは、太平洋横断シングルハンドレースで1位となった、今田福成さん、太陽による43日15時間11分48秒の記録です。
フィニッシュが洲本であったため、今回とは多少条件が異なりますが、比較対照するには、一番参考となりそうな記録です。
当時の舵誌には、以下のような記録が掲載されています。

★1981年太平洋横断シングルハンドレース
スタート:1981年6月7日午前10時(日本時間6月8日午前2時)サンフランシスコ湾
フィニッシュ:洲本サントピアマリーナ沖

順位 氏名   艇名  フィニッシュ時刻      所要時間
1位 今田福成 太陽  7月21日17時11分48秒  43日15時間11分48秒
2位 岡本頼治 レイ・ケンウッド 7月23日00時49分31秒 44日22時間49分31秒
3位 小田義彦 シャルレ 7月24日15時48日20秒 46日13時間48分20秒
4位 岡田豪三 タサキパール・オブ・ティダ 7月25日10時24分54秒 47日08時間24分58秒
5位 東山洋一 タカラブネ 7月29日17時39分10秒 51日15時間39分10秒
6位 Lind Waber Rettie スピリット・オブ・サントリー 7月30日19時11分08秒 52日17時間11分08秒
7位 畠中正人 スピリット・オブ・ハーフムーンベイ 7月31日01時33分29秒 52日23時間33分29秒

それ以外では、1975年に開催された沖縄海洋博覧会記念太平洋横断シングルハンドレースで1位となった、戸塚宏さん、WING OF YAMAHAによる41日の記録が残されています。
ただ、フィニッシュが沖縄であったため、今回とは条件が大分異なります。

いずれにしても、25日前後で太平洋横断した場合、75年と81年のシングルハンドレースと比べても所要時間を大幅に短縮することになり、これはモノハル艇での太平洋横断記録達成であることに他ならないものと思います。

ビーコムチャレンジの詳細や、今後の経過については、こちらのブログをご覧下さい。

(text by Compass3号)

風の旅人たち <ヨットレース人生列伝-1>

2006年06月22日 | 風の旅人日乗
6月22日 木曜日。
この次は、舵誌の2001年4月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-1から。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年4月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

ヨットレース人生列伝-1

青年は海に出た
今から約30 年前、20 世紀後半に入った東京で、陸上競技に明け暮れていたひとりの男子高校生が、フトしたきっかけでヨットレースというスポーツを知った。
彼は、上流の家庭の少年少女が集まることで知られる大学に入ってまもなく、生まれて初めて外洋レースに出場する。
彼が乗った艇はクォータートンクラスと呼ばれていた小型ヨット。
スキッパーは、超人的な体力と精神力でその当時すでに外洋セーラーたちの間で一目置かれていた戸塚宏氏。
そのレースのコースは、三浦半島の小網代沖をスタートして伊豆半島先端の神子元島を回って小網代沖に設置されたブイに戻り、ハーバーに帰るのではなく、そのまま再び南に下って今度は伊豆大島を周り、しかるのちにやっと小網代にフィニッシュするという、ちょっとサディスティックな、約180マイルのコース。
レース艇とは言え、30年近く前の、重くて船足が遅く、モーションが悪いために常に波をかぶる、全長26フィート足らずの小型艇には辛くて長いレースだ。
新人セーラーはザブザブと頭から波をかぶりながらハイクアウトしたまま、海の上で長く苦しい時間を強いられた。
「アノー、スミマセン、トイレに行きたいですー!?」
お坊ちゃん育ちの彼が甘い声で懇願すると、スキッパーはティラー片手に生のニンニクをかじりながら、
「そのまま垂れ流しにしろ!」
と怒鳴り返してきた。
ライフラインの外で荒れ狂う海を見ながら、あまりの苦痛のためにボンヤリとなった頭で、このまま落ちて死んだらどんなに楽だろうか、とまで青年は考えた。
最初の外洋ヨットレースでこんなにきつい経験をしてしまうと、普通の人間はここでヨットをやめる。
しかし、このお坊ちゃんは違った。
大学2年生になって、青年は父親に頼み込んで (だまして、と彼は言い直した) 外洋ヨットを買った。艇の名前などどうでもよかったが、取りあえず〈エスメラルダ〉と名付けた。
そのヨットに自分よりヨットのうまい先輩セーラーたちを招き、自分はクルーになって本格的にヨットレースを始めた。当時日本にまだフランチャイズがなかったノースセールのアメリカ本社に、タイプライターで手紙を書いてセールを発注した。
ヨットレースにのめり込み始めている自分を感じていた。
初めて自分のヨットを持って4年後には、すでに3隻目になっていたヨットで、クォータートンクラスの世界選手権に出場した。青年はその2年前に大学を卒業して、テレビ局の営業部に就職していた。この世界選手権に集中するために、入ったばかりのテレビ局を辞めようかとも思ったが、さすがにそれは思いとどまった。
その世界選手権の後しばらくして、仕事でプロ野球のアリゾナ・キャンプを訪れた帰り、クォータートンのときにセールで世話になったセールメーカーを頼ってサンフランシスコに行きセントフランシス・ヨットクラブでJ/24というヨットを初めて見た。これ買おう、と決めた。
その翌年の東京ボートショーで展示された日本第1号艇の赤いJ/24が彼の艇で、だから彼の日本J/24協会会員番号も、1番だ。
最初のJ/24全日本選手権では3位、翌年2位、そして3年めに優勝した。
他の艇が国産のマストだったのに、自分だけがアメリカのケニヨン製のマストにこだわったことが、勝った理由だと彼は考えている。
1984年には、サンフランシスコで行われたJ/24世界選手権に遠征した。
レースでは全く歯が立たなかったが、その代わり、ヨットクラブで行われたシャンパン早飲み競争にダントツで優勝した。闘志満々で早飲み競争に挑む変な日本人の姿は、当時大学生だったケン・リード、高校生だったジョン・コステキにしっかりと記憶されることになった。
10年間ほどJ/24に乗り、3隻のJ/24を乗り継ぐのとオーバーラップして、テレビ局を辞めて父親の事業を手伝い始めていた青年は2隻の新艇を含めて数隻の外洋ヨットを次から次に所有した。
この時期にはグアムレースにも出たし、沖縄レースの回航も買って出た。関東関西の外洋レースにもほとんど出た。
後にジャパンカップでクラス優勝することになるトリップ36をアメリカのキャロルマリンで造った時、その近くにあったゴーツ造船所を見学させてもらった。ゴーツは世界最高レベルのレースヨットを造ることだけでなく、値段もかなり高いことでも知られた造船所だったが、いつかはここでワンオフのレースボートを造ってやろう、と壮年になっていた元青年は固く心に誓った。
父上が亡くなり本格的に後を継ぐことになったのをきっかけに、彼は少し仕事一生懸命モードになり、ヨットレースのほうも長期展望を立てて、「いつかはクラウン、いつかはゴーツ」作戦に突入した。
戦略知略をめぐらせて業界大手を逆に吸収合併して、彼は家業をさらに安定させた。こうして自分がヨットレースに注ぎ込むことの出来るお金の予算をひとまわり大きくしてから、ゴーツでILC40の建造を開始した。
シャンパン早飲み競争優勝の変な日本人は、カーボンファイバーでできたその船にケン・リードとジョン・コステキを雇い入れ、ギリシャのILCワールドに殴り込みをかけた。
それからさらに数年後、彼は13隻めの<エスメラルダ>として濃い緑色をした50フィートのヨットをゴーツで造り、14代め(13は縁起が悪いので)、50フィートという意味で、5014というセールナンバーをつけた。
昨年のケンウッドカップでのクラス優勝、サンフランシスコでのクラス優勝に続いて、今世紀北半球のキールボートレースシーズン幕開けとなるキーウエストレガッタでも、彼の<エスメラルダ>5014は優勝した。

彼の名前は、植松 眞。1952年生まれの、48歳。
植松は自分のヨットにクルーとして乗るために、レースが近づくと毎日15キロをランニングする。週1,2回は自転車で50~70キロを走る。ヨットレースがない週末は反射神経のトレーニングを兼ねてMTBのダウンヒル。今年のキーウエストレガッタ前は、スキッパーから指示された体重に落とすために、年末に合計100キロほど走り込んで身体を絞った。
50フィートのエスメラルダとは別に、植松はマム30を1隻アメリカに持っていて、ここ数年来このクラスの北米選手権やワールドに出場している。50フィートにはクルーとして乗るが、オーナーヘルムが義務づけられているマム30ではスキッパー/ヘルムスマンだ。50フィートとマム30でクルーを務める吉田学は、ヘルムスマン植松の腕前を、「最近すごく上手くなりました」と証言する。
50フィートでアメリカズカップセーラーたちと乗り、経験し、学び、それをマム30のレースで生かす。そこいらの日本人セーラーよりも世界第一線のレースをクルー、スキッパーとして濃い密度で経験している。話をしていても、世界の上位に君臨するレースヨットのオーナーというよりも、風を求めて旅をするセーラーたちに、より近い匂いがする男だ。
会えばいつもヨットレースそのものの話ばかりになって、まったくオーナーの匂いのしない植松だが、以下、普段の彼が口にしない、オーナーとしての植松が考えるヨットレースとは、について語ってもらった。

植松流エクスタシー考
ヨットレースに勝ちたいのなら、オーナーは他のすべてを節約して、一切の妥協をせずにレースに向かっていくべきだと思います。
まぁ、でも、あのー、最近のケン・リードには、ちょっと、節約と妥協って言葉を教えたいですけどねー…。
去年のケンウッドカップには2000万円、今年のキーウエストには1000万円かけました、もちろんセール代は別です。たった5日間のレースに1000万。このお金は、勝っても負けても戻ってこない、経済的にはまったくの棄て金です。
ぼくはね、思うんですけど、たった1枚のお皿、たった1個のカップのためにお金を注ぎ込むセンスというのは、すべてのお金持ちが持っているわけではないんだろうなぁ、と思います。
ヨットレースをやっているオーナーはかなり育ちのいい人なんじゃないかと思います。どんなにお金をかけても、ヨットレースは何もお金を生まない。ヨットレースは経済理念から思いっきり外れた、まさに道楽以外の何物でもないですから。
でね、いつも人に言うんですけど、あんまり分かってもらえないんだけど、どんなにいい女を口説き落としたときの喜びとかに比べても、ヨットレースに勝った瞬間の喜びにかなうものはない、とぼくは思ってるんですけど、どうですか? どうですか? でしょ? でしょ?

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <春よ、来い。>

2006年06月21日 | 風の旅人日乗
6月21日 水曜日。
次は、舵誌の2001年3月号に掲載された、風の旅人たち、春よ、来いへから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年3月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

春よ、来い。

ニュージーランドで初日の出

二十一世紀の初日の出を、ニュージーランド北島東海岸のタイルアという町で見た。
1月1日午前0時を期して、町の主催で大花火大会が始まったり、若者たちがパブに集まって大騒ぎをしたりして新年を祝うものの、海か山に出かけてその年最初の日の出を見ようという習慣はこちらにはないらしい。
夜明け前のタイルアの町にはまだ酔いつぶれてない生き残りが何人かフラフラと歩いているだけで、温かいベッドから起き出して海から上る朝日を見ようなどと考える人は誰もいないようだった。
町の前に陸続きで浮かぶパクという名前の小さな島の、小高い丘に登る。
近くの家から、チョコレート色のレトリーバーがニコニコしながらしっぽを振って出てきて横に座り、徐々に赤みが差してくる東の方向の水平線を一緒に眺める。
夜半から強く吹いていた風が急速に衰え、家々は寝静まって丘の上には静かに時間が流れる。
風が凪いでしばらくすると、空と海の隙間から眩しい光が溢れ出てきた。
ニュージーランドの東の海岸に姿を現した二十一世紀最初の太陽は、オレンジ色、というよりも、ぼんやりと暖かい温州みかんの色をして、とても和風な趣きで水平線に浮かぶ雲をかき分けるようにしてゆっくりと上ってきた。
その場所の経度は日付変更線のすぐ近く、東経約176度だったから、世界でほとんど一番早い二十一世紀の夜明けだ。
日本から持ってきたフリーズドライのお雑煮を車のボンネットの上で作っているうちに、その朝日に照らされた海全体がみかん色になってゆき、なんだかまるで安っぽい正月写真の中に入ったようになってそのお雑煮をすすった。

冬休み読書感想文

元日以外、クリスマスや年末年始は雨に振り込められたので、田舎町のベッド&ブレイクファストの小さな部屋や森の中に張ったテントの中で、雨音を聞きながらゆっくりと本を読むことができた。
今回もニュージーランドにはたくさんの本を持ち込んだが、中でも、ロアール・アムンセンの「南極点」とアーネスト・シャックルトンの「エンデュランス号漂流」を久しぶりに読み返すのが何よりの楽しみだった。
これらの2冊を読んでいると、昔の人はこの地球の厳しい大自然と正面切って闘っていたのだなあ、と改めて感心する。
羊毛とトナカイの毛皮という原始的な防寒具と、犬という動力(兼食糧)だけで南極の寒さに立ち向って何ヶ月もかけて南極点まで往復したり、ちゃんとしたデッキのない全長僅か20フィートの救命ボートを操って、冬間近かで大時化の南氷洋を何週間もかけて渡り切り、文明世界まで戻ってきたりしている。
しかし、昔といってもアムンセンが人類で初めて南極点に到達したのは今から僅か90年前のことだ。
僅か90年の違いとは言え、文明が進化すると、いつの間にかヒトと大自然との闘いの場面はぐっと減ってきて、一方でヒト対ヒトの闘いがいろんなところでより激しくなっているように思える。
子供たちが夢中になっているテレビゲームの中でも、ヒトがヒトをブン殴ったり蹴っ飛ばしたりばかりしているようだが、現実のヒトの社会もこれから先さらに、そういう、相手の痛みなど構わずヒトを倒してヒトに勝つヒトだけが正しいヒトだという社会になっていくのだろうか?
個人的にはあんまり良いことじゃないんじゃないかと思うが、ぼくは、自分自身のことを社会的に見てあまり常識的な生き方をしてないのではないかと密かに恐れているので、自分と違う意見を持っている常識的なヒトと論戦を張る自信はあまりない。

ボルボセーラーたち

冬期の8000メートル級の山々に立ち向かっていき、そしてそんな山で死んでいった登山家たちの本も何冊か読んだ。
南極点にしても未登峰への登山にしても、ヒトに先んじようというヒト対ヒトの闘いがそれ以前に間接的にあるにせよ、詰まるところはヒトを寄せつけようとしない厳しい大自然に、ヒトが自分自身の精神と肉体の限りを尽くして立ち向かうという行為だ。
その行為そのものはなんら生産的でもなければ、なんの意義もない。しかし彼らは現代のヒトが失いつつある何かを心の中に携えていたように思う。ほんの少し昔、ヒトの精神と肉体は大自然に対して結構強かったのだ。
そういう意味では、大晦日にバルセロナをスタートして今現在行われているザ・レースも、今年9月にスタートするボルボオーシャンレースも、ヒトが大自然の中でそれぞれが自分の能力の限界尽くすことで間接的に他のヒトと競い合う、現代では数少ない挑戦事だ。しかし、残念なことにそのどちらにも日本人セーラーは関係していない。
今年のボルボオーシャンカレースに参加するイルブルック、タイコ、ニューズ・コープの3隻が、1月6日にオークランドに姿をそろえた。、シドニー~ホバートをフィニッシュしてすぐトレーニングのために3隻そろって同時にホバートをスタートしてオークランドを目指したのだ。
ぼくが犬と一緒にのんびりと朝日を見ながら雑煮を食べていた頃、彼らはタスマン海を雄々しく渡っていたのだと思うと、少々焦りを感じる。
3隻それぞれのクルーたちと話した。イルブルックとタイコは2月末からの2ボートテストに備えてボートをフロリダに輸送する作業で大忙しだが、みんななんだかとても幸せそうだ。
オーストラリア大陸とタスマン島の間のバス海峡では67ノットの南西に吹かれたらしい。
僕が2回経験したシドニー~ホバートレースのうち1回は、バス海峡とストームベイで47ノットの向い風に吹かれた。今はそうは思わないが、そのときは、これが終わったらもうオフショアレースに出るのやめるべきではないか、と思ったほどだった。
全長30フィートのヨットで出ていたある年の三宅島レースでは夕方から真夜中にかけて55ノットの北東風を経験したが、そのときはセールをすべて降ろしても船体に受ける風圧だけで艇は横倒しの状態からなかなか起き上がることができなかった。今でも覚えているが、高さ60センチしかないライフラインの外側に広がる暗い海に「死の世界」がクッキリと見えた気がした。
それらの経験からしても、67ノットの南西風が吹き続くバス海峡の有り様というのはあんまり想像したくない。彼らも一度はベアポールにまでしたそうだが、それもちょっとしたいい土産話に過ぎないようで、クリスマスも正月もないセーリング漬けの毎日の後なのに、みんなやけにハツラツとしている。
しかし、それはそうだろう。この先、レースのフィニッシュまで1年半もの間このプロジェクトに没頭できるのだし、イルブルック組などはそのまま続けてアメリカズカップもやるから、これから少なくとも丸2年は望み得る最高の舞台でセーリングばかりして過すことが約束されているのだ。幸せに決まっている。プロセーラーは自分のセーリングの腕を、極限の環境で発揮できる場所と機会を持てて初めて幸せになれるのだ。
英語圏からはずれた日本人セーラーにとって、地球を舞台にセーリングの場所と機会を得ることは極めて厳しいことだが、夢々あきらめることだけは決してするまいと固く思う。

春よ、来い

オークランドでのある晩、アメリカのアメリカズカップ挑戦チーム、ワンワールドに加わった元ニッポンチャレンジの脇永、早福、鹿取と飯を食べた。彼らは昨年からオークランドで始まった2ボートテストプログラムに加わっていて、とても充実した日々を送っていることが彼らの話し振りから伝わってくる。彼らのいろいろな苦労話も、聞いている側にはうらやましくさえ思う。
元ニッポンチャレンジで開発チームのひとりだった金井アキヒロとリグデザインを担当していた高橋太朗さんも、<阿修羅>と<韋駄天>と共にイギリスのシンジケートに行くことがほぼ決まったらしい。途絶える寸前だった日本とアメリカズカップの繋がりは、彼ら達のお陰で辛うじて保たれているのだ。

今オークランドでは、ワンワールドの他に、オラクル、プラダ、そしてもちろんチームニュージーランドがハウラキ湾に出て艇のテストやクルートレーニングに明け暮れている。市郊外のクックソンボートでは、ヨーロッパのディジュース・チームが発注した2隻のボルボ60が完成間近かだ。
冷え切っているようにみえる日本のセーリング熱が、なんとか早く暖かい春を迎えることができるよう、自分なりにできる限りの努力をしていきたい。

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <明るい未来へ>

2006年06月20日 | 風の旅人日乗
6月20日 火曜日。
今度は、舵誌の2001年2月号に掲載された、風の旅人たち、明るい未来へから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年2月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

明るい未来へ

レース熱衰退はなぜだ?

明けましておめでとうございます。
今年、そして今世紀が日本のセーリング文化にとって良い時代の訪れになりますように……。

自分にとって20世紀最後のレースとして、J/24クラスの全日本選手権に出場した。考えてみれば日本でヨットレースに出たのは半年ぶりだった。
日本のキールボートレース人気の衰退が嘆かれるようになって久しいが、J/24クラスの全日本選手権が行われた日産マリーナ東海には、11月の末だというのに全く別の熱い空気が流れていた。その熱い空気には、なんとなく懐かしい匂いがした。
今年大阪湾でこのクラスの世界選手権が行われるということが、最近のJ/24人気復活の大きな要因になっているのだろうが、以前はこのクラスに限らず、日本のいろいろな場所にこの熱い空気が流れていたのだ。
ジャパンカップが行われていた熱海の特設ヨットハーバー、オレンジカップ期間中のサントピア・マリーナ、鳥羽の朝曇館の前に広がる海面を埋め尽くしたレース艇群と鳥羽の街に日本中から集まったセーラーたち…。
最近のディンギー・レースの様子は知らないが、日本の外洋ヨットレース人気の衰えを目の当たりにすると、いろんな事を考えさせられる。
以前、若いヨット乗りたちは会社を辞めてまで、あるいは大学の留年を覚悟してまで沖縄レースや小笠原レースといった日本の“ビッグレース”に出ることを夢見た。自分が乗っているチームがハワイのレースに遠征するなんてことになった日には、必ず何人かのクルーが喜んで笑いながら会社をクビになっていた。今考えてみれば、ヨットレースに出ることは、かつて日本のセーラーにとってそれほどまでに魅力的なことだったのだろう。
そんな“ビッグレース”でなくても、関東水域の大島レースや三宅島レース、紀伊水道レース程度のレースでも、それに出ること、勝つことはオーナーを含めたヨット乗りにとって“えらくカッコイイこと”だった。レースに勝つと舵誌がインタビューに来る、派手な記事を作ってくれる、仲間内で威張って歩ける。オーナーたちは自分のヨットの記事が載った舵誌を銀座のクラブに持って行き、女の子達に音読させてはシミジミと喜んだ。夜の海の恐怖や船酔いや大波と闘いながら外洋を走りぬいてフィニッシュした苦労は、そういうふうに報われたものだった。
ところが今や舵誌など、そんなレースが行われたことさえ知らない振りをしたりする。同じハーバーのヨット仲間の間でも話題にさえ上らない。びしょ濡れの寒さに耐えたことはただのくたびれ儲けに終わる。必死の思いで相手に競り勝ち、僅か3秒差でフィニッシュラインを走り抜けた名勝負は、相手艇とだけ共有できる、ただの自己満足に終わる。銀座のクラブで自慢しようとしても、話題は株で大儲けした奴のほうに持っていかれる。ヨットレースなんかの話をする人はなんとなくイケテナイ。

現役レース関係者がやるべきこととは?

日本の社会の中におけるヨットレースのマイナーさという意味では事情は以前と変わらないかもしれないが、日本のヨットレース文化内部そのものの熱さが少し違ってきているような気がする。
つてを頼って企業を回り、やっと面会の約束を取りつけて、「日本人だけで世界一周レースに出たいので金銭的な応援をしていただきたいのですが」と話を始めた途端、担当者の目が遠いところを見る目つきに変わってしまうという現象は今も昔も変わらないが、最近はヨット関係者たちとヨットレースの話をしている時にも、そんなボンヤリとした、こちらの熱意を伝えることが拒絶されているような目つきをしばしば見るようになった。
休日に海に出ても、海でセーリングしているヨットは数えるほどしかない。相模湾をベースに月例で行われていたヨットレースも、参加艇の減少のためか毎月は行われなくなってしまったらしい。
景気が悪い、景気が悪い、と言うけれど、マリーナには一昔前よりたくさんの立派なヨットがずらりと並んでいる。自分のヨットを持って高い保管料をきちんきちんとマリーナに払っているオーナーの方たちがそれだけいるのに、その人たちが海に出て来ないのは景気のせいではないだろう。
以前日本でIORレースが盛んだった時、これからはIMSだ、これが究極のレースルールだと、半ば強引にルール変更が行われた。レースヨットのオーナーはそれが世界の趨勢ならと、ちょっと無理をしてヨットを買い換えた。
ところが今や、IMSを柱とした外洋ヨットレース運営をしているのは、日本とヨーロッパーの一部の国に過ぎなくなり、IMSでのヨットレースは国際的には極めてマイナーなものになりつつある。経済の調子がいいとされているアメリカに於いてさえIMSボートを造るオーナーはほとんど皆無で、現在のところファー40やID35といったワンデザインに人気が集中している。日本でIMSボートを買ったオーナーとしては、おだてられて2階に上げられ、気が付いたらはしごを外されて降りられなくなっていた、という心境かもしれない。
IMSの非常に大きな問題点は、速度予測プログラムが進歩するから仕方のないことだとは言え、ルールが毎年変わるという点だろう。このことは、そのヨットのIMSボートとしての戦闘能力が1年しか持たないことを意味する。これは高額なお金でIMSボートを手に入れたオーナーにとっては許し難いことだろうし、これから新艇を造ろうという気にもなれないだろう。ルールが変わりすぎるとあれほど批判されていたIORでさえ、ルール変更は3年に1度と制限されていて、IORボートはルール上少なくとも3年間は第一線での戦闘能力が保証されていたのだ。
オーナーたちが今現在持っているヨットで公平にレースを楽しむことができる、日本の実情に合った、イギリスからのお仕着せでないレースルールを真剣に模索していくことが、ヨットレースの現場に再び熱い空気を呼び込むために必要に迫られているのかもしれない。IMSやIR2000などといった国際間で通用するレースルールは、基本的には国際レースに出場するヨットだけが必要とするのだが、たくさんある日本のヨットのうち一体何隻が常時国際レースに参加しているのだろうか。

ほんの何年か前まで、外国でレースをするために2,3ヶ月日本を離れて、その後日本のレースに復帰すると、スタートエリアに必ず見慣れない新しいレース艇が少なくとも2,3隻は増えていてワクワクしたものだが、今は1年以上日本を留守にしても、戻ってみるとまだ同じ顔ぶれでレースをしている。新しい顔が増えず、それまで長く活動していたヨットやチームが櫛の歯が欠けるようにいなくなっていくから、レースに出てくるヨットの数は確固としたペースで減っていく。
今にして思えば、自分も含めてヨットレースをやってきた人たちがヨットレースの楽しさを次の世代に伝えていく努力をしていなかったということに改めて気が付く。
ここで次の世代という言葉は、年齢的な意味では使っていない。若い世代はもちろんだが、年齢的に熟年層であっても、ヨットレースをやってみたいという人たちが、気安く入って来ることができる雰囲気をヨットレースに関わっているセーラーたちで作っていく活動を、果たして我々はしていただろうか?
数年前、ゴルフを始めようかどうか躊躇しているとき、ゴルフの先輩諸氏が優しくて心温まる救いの手を、えらく積極的に差し出して下さったことを忘れることができない。現代の日本人も他人のことにこれほど温かい興味を持ってくれるのかと驚くほどの滅私のご援助であった。使いにくい古いクラブを譲っていただき、頼んでもないのにスウィングのアドバイスもいただいた。なんでもいいからとにかく早くプレーしろという貴重なルールを教えて下さった。お陰で闇夜のように思えたゴルフの世界すんなりと入っていくことができた。
この、ゴルフにおける新人への手厚い援助という美徳を思い出せば、ヨットレースの分野にニューカマーを引きずり込むのも簡単なことのように思える。21世紀、日本のヨットレースの未来を明るくするために、まずはこの超マニアックな専門誌を読んでいる人、書いている人、一人一人が意識して自分の身近の人間をヨットレースに引き込む運動を始めてみるというのはいかがだろうか?

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <若者たち>

2006年06月19日 | 風の旅人日乗
6月19日 月曜日。
次は、舵誌の2001年1月号に掲載された、風の旅人たち、若者たちから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年1月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

若者たち

辛い思い出
ハワイのケンウッドカップ、サンフランシスコでのビッグボートシリーズの後、関西ヨットクラブ主催のジャパンカップ2000に挑戦する予定だった〈シーホーク〉(世良直彦オーナー)だったが、サンフランシスコからの船便の都合がつかず、ジャパンカップ参加を急遽断念することになった。
そこでぼくも急遽暇になった。
サンフランシスコのあと仕事で2週間ほどニュージーランドに行って日本に帰ってみると、11月の週末のスケジュールがまだ空白のままだった(他の月もそうなんですが…)。
この機会に、久し振りに仕事以外で、自分の遊びとしてヨットに乗ってみたいな、と思った。J/24の全日本選手権が11月後半にあることは知っていたが、なんとなくそれには出る気にはなれないでいた。J/24からは3年以上も遠ざかっているし、悪い思い出のレースばかりだった。最後に出たJ/24のレースは1997年の全日本で、それがまた最悪だった。
その年の全日本の2ヶ月ほど前の7月、自分の誕生日にニュージーランドで、ギックリ腰なのに無理をしてゴルフをやってしまい、ある一振りで激症の椎間板ヘルニアになり、そのまま立つことができなくなった。翌日、NZラグビーのオールブラックスの担当医に見てもらったら、こんなひどいヘルニアは初めて見た、もうスポーツはだめだろう、と見放され、でも可能性はゼロではないので自殺するんじゃないよと励まされた。
雨が続く冬のニュージーランドでそのまま5週間寝たきりになった。3分以上立っていることができなかったうえ、医者が、飛行機に乗ることを絶対に許可してくれず、日本に帰れなかったのだ。
5週間後に少しの間だけ立っていられるようになって医者の許可をもらい、やっとのことで日本に帰ってきた。オークランド空港と成田空港では、それぞれの空港職員の奇麗な女の子に車椅子を押してもらって税関を通り抜け、そのまま東京の病院に行った。その後しばらくほとんど寝たまま、立つときは松葉杖という生活が続いた。
その帰国から約3週間後にJ/24全日本に参加した。参加の準備がどんどん進んでしまっていたし、それまでにはなんとか歩けるようになるだろうと思っていたから、敢えてエントリーを取りやめなかったのだ。レース中メインシートを持っていることが出来ず、ずーっとクリートに止めてステアリングした。メインシートを強く引いたりクリートを外したりする動きをすると、損傷した背骨の椎間板に左足の神経が直接触れるらしく左足がしびれて激痛が走るのだ。そのうちなんとかなるだろうと思っていたのだが、なんともならなかった。スタートをして、自分の風上、風下を他のヨットがどんどん前に出て行くのを見るのはとても辛いことだった。
それ以来J/24に乗るのが恐くなり、J/24から遠ざかった。

イケテル若者たち

さて、今回ニュージーランドから戻ってすぐのこと、あるJ/24のオーナーと別の話で雑談をしていたら、そのオーナーがそろそろJ/24を売ろうかなと思っているという話題になった。では売る前に一度貸していただけませんか? と尋ねると、オゥ、使ってくれ、ということになった。
で、何するの? と聞かれたので、本当はちょっと気楽に仲間内でセーリングしてみたいなと思っていた程度だったのだが、イエ、ちょっと、全日本に出てみたいなと思って、などと、まだ決めてもないことが口から出てきた。口に出してしまったので、なんとなく、気持ちもそういうふうに傾いていった。
ちょうど郵貯の簡易保険の「5年間何も請求しなかった御褒美」的一時金が入ることになっていたのでそれを遠征費に当てればいいかなと思っていたが、あつかましくも石田オーナーからもカンパをいただいた。クルーもなんにも決めてなかったが、これで後に引けない感じになった。
まず、元ニッポンチャレンジの吉田 学に声を掛けたらいつものように無愛想に「いいっすよ」と言ってくれた。
同じく元ニッポンチャレンジの柴田 俊樹に声を掛けたらいつものようにもう別の船に乗ることに決まっていた。柴ちゃんが、自分の代わりに高岡どうっすか?というので、これも元ニッポンチャレンジで、とても性格のいい高岡 勝のことを思い出して声を掛けたら、仕事が変わったばかりで忙しいんですけど乗りたいですと言いながら、休日出勤をやりくりし、さらに幼い息子をなんとか説得して乗ってくれることになった。
以前から、いつか一緒にセーリングしようと話していた山田 寛に電話をしたら、その週は470の全日本に出ようと思っているので、ということだったので諦めたが、その15分後に、クルーの斎藤と話してそっちに出ることに決めました、と電話がかかってきた。
これでクルーも決まってしまった。ぼく以外の4人ともJ/24に乗ったことがなかったが、5人の体重を足してみると390kgで、最大400kgのJ/24のクルーウエイトにピッタリだ。これでもう、出ない理由が無くなってしまった。

山田 寛と斎藤 誠二のコンビはアトランタの選考で最後まで中村 健二選手を苦しめた、ホンダ技研が誇る470の強豪チームだった。山田はその後弟の真と全日本も取り、シドニーでも代表を狙っていた。寛ちゃんに初めて会った頃は彼がまだ中学生の頃で、浜名湖の小池哲生のジュニアヨット塾でのことだ。その頃の小池塾合宿では、風が出てくるのを待つ間、年長の寛ちゃんは1階で勉強をしていたが、2階では、弟の真や今〈ゼネット〉のスキッパーになっている小林正季がイガクリ頭の小学生で、カレーライスを馬鹿みたいにお代わりしていた。
寛ちゃんとは昨年、彼がシドニーの選考で結果が出せず悩んでいて、一方のぼくがニッポンチャレンジで精神的に少し辛かった頃、お互いの休日に浜名湖で会って飯を食ったり、今年の5月には葉山で会ったりしていた。彼は今後自分がセーリングとどんな風に関わっていけばいいのか悩んでいたし、それは同時に長年のぼく自身の深い悩みでもあった。そして自分より17歳も若い青年がしっかり物事を捉えようとしていることに新鮮な驚きも覚えた。また、こういう青年が日本のセーリング文化を引っ張っていく手助けをしなければいけないな、とも思った。いつか何かの機会に一緒にセーリングしようという話をしていたが、今回がそのいい機会になった。
3年以上もJ/24から遠ざかっているぼくと、ほとんど初めてJ/24に乗る4人だったが、みんな忙しくほとんど練習ができなかったものの、いろんなセーラーたちが協力してくれた。
工学院大学のヨット部OBたちで運営されている〈ハゼドン〉というJ/24のチームがある。2000年3月にスキッパーの斎藤卓司をガンで亡くし、今回の全日本に出場しないことになった〈ハゼドン〉だが、そのメンバーの面々がかわるがわる練習に付き合ってくれてJ/24初体験の高岡や山田に各ポジションのクルーワークを教えてくれた。柴ちゃんは、忙しい週末の1日を割いてキールボート初体験の斎藤にバウの作業を直々に教えてくれた。
吉田 学はとてもヨットがうまい。サッカーで世界に通用する中田は世間でえらく評価されるが、ヨットで世界に通用する吉田はまったく世間には知られてないし、テレビCMに起用されることもない。生活も苦しい。で、吉田はあと数ヶ月でプロセーラーを廃業することに決めた。日本にはプロセーラーが生活できる土壌がないのだ。吉田はジャパンカップ、マム30北米選手権と、プロとして乗るレースが続いたため、練習に参加することはできなかった。
結局、5人がそろって乗るのは全日本の第1レースが最初と言うことになってしまったが、一番の不安材料は、しばらくぶりでJ/24に乗り、タックもままならないぼくだ。ボートスピードもなんとなく冴えない。こんないいチームが揃ったのに申し訳ない気持だが、セーリングが好きで、しかもこんなにヨットがうまい若者たちと一緒に乗ることができる幸せを強く思った。何とか来年の世界選手権の枠も取れた。
こんなにヨットがうまい若者セーラーたちが日本にも揃っているのだから、日本人セーラーだけでいつか本格的な国際ヨットレースに挑戦することを実現させたいと、思いを新たにした2000年の11月だった。

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <2000 Big Boat Series in San Francisco Bay>

2006年06月18日 | 風の旅人日乗
6月18日 日曜日。
次は、舵誌の2000年12月号に掲載された、風の旅人たち、2000年、サンフランシスコビッグボートシリーズから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2000年12月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

カリフォルニアのサンノゼは、シリコンバレーの中心的な街だ。 成田で乗った飛行機からサンノゼ空港に降り立ち、バスを乗り継いでサンフランシスコ市内へと向かう。
アップルコンピューター、ヒューレッド&パッカード、オラクルなどの本社がこの地域に立ち並び、それらの創立者や技術者たちを送り出したスタンフォード大学の敷地内をフリーウエイが突っ切る。
高給のコンピューター技師たちが住むこの地域の住宅価格は高騰に高騰を重ね、今では全米で最も地価が高い地域と言われている。ここでアメリカの平均的なサイズと環境の家を買うには1億円が必要だと言われる。シリコンバレーは、今の時代の花形であるIT産業のパワフルさを見せ付けている。
アメリカズカップに挑戦するために脇永や早福が移籍したワンワールドシンジケートの母体は北米に基盤を置くバリバリの情報通信企業だし、オラクルのラリー・エリソンもそれに負けない予算を注ぎ込んでアメリカズカップ奪還を目論んでいる。
20世紀のアメリカズカップは紅茶、ボールペン、鉄道、有線テレビ、金融、不動産、ファッションブランドなどの分野の成功者たちが主役の座を占めてきた。次回2003年、21世紀最初のアメリカズカップは情報通信産業の成功者たちが主役を演じることになるのだろうか。
サンフランシスコ市内のユニオンスクエアでバスを降り、少し歩いてBART(ベイエリア鉄道)に乗り替えてリッチモンド市へと向かう。これから6日間、リッチモンド市内のマリーナに保管されている〈シーホーク〉にキールを付け、マストを立ててセントフランシス・ヨットクラブが主催するサンフランシスコ・ビッグボートシリーズに参加する準備をする。
サンフランシスコ湾のベイエリアの南端に位置するシリコンバレーとはまったくの反対側、ベイエリアの北端近くにあるリッチモンドは、太平洋戦争前は造船産業で栄華を極めた地域だ。
しかし時代は変り、今この地域は荒廃し切っているように見える。車でわずか1時間しか離れてないシリコンバレーとの対比が際立つ。街を歩いている人も少なく、手入れの行き届いてない家が多い。4回タクシーに乗ったが、そのうち3人の運転手が大回りしたり、わざと違う駅まで向かったりして料金をごまかした。最近のアメリカではあまりしない経験をさせてもらった。
サンフランシスコビッグボートシリーズでは、我が〈シーホーク〉はPHRFのAクラスに出場したが、成績はイマイチだった。〈エスメラルダ〉が同じAクラスで出場し、優勝した。
PHRFはパフォーマンス・ハンディキャップ・レーティング・フリートの略で、IMSレーティングなどを参考にしてそれぞれの水域ごとに組織されているハンディキャップ委員会が出場艇のハンディキャップを決めている。アマチュアゴルファーたちが仲間内でハンディキャップを決めてコンペを行なうやりかたに近い。
その艇の過去の成績もハンディキャップを決める要素のひとつに入るが、その成績がボートの性能によるのか乗り手の腕によるのかを科学的に分析することはできない。したがって、ターゲットとするレースをあらかじめ決めておき、1年ほど弱いフリを続けてたっぷりとレーティングを下げ、ここ一番のレースに一流の乗り手をそろえる、という作戦をとることもできる。そういう艇が同じクラスに2隻いた。
プロフェッショナル・セーラーをそろえて真剣に世界を転戦するヨットにとっては、少しマッチしないハンディキャップだ。
だが、クラブ内でのレースであれば、ハイスピード・ヨットから通常のプロダクション・ヨットまで、あらゆるタイプのヨットがレースを楽しめる面白いハンディキャップだと思う。以前は日本の小網代フリートにも、このような独自のハンディキャップ・システムがあったと思うが、今も続いているのだろうか?
サンフランシスコ湾は、川の流れのような強い潮流の上をペリカンが飛び、アシカがマークブイの横にいきなり顔を出す。大都会の前に広がっている海とは思えない不思議な海だ。風は強めだが、その強弱とシフトの読みに加えて潮の流れを正確に把握することが、レースでの勝敗に大きく関わる。ハワイでの豪快な波の中でのセーリングとはまた一味違って、ちょっと渋い、玄人好みのするレース海面である。
数年前のビッグボートシリーズでラリー・クラインが落水して亡くなって以来、このシリーズすべてのレース中にライフジャケットを着用することが義務付けられている。これも、アメリカズカップのスキッパーにノミネートされるまでになったばかりだというのに無念の死を遂げてしまった故人の思いを後世に伝えるいいルールだと思う。
サンフランシスコから日本に戻って知り合いの結婚式に顔を出した後、ニュージーランドにやってきた。こちらでの休日を使ってニュージーランド北島の中央部に広がるトンガリロ国立公園に行き、雪を被ったルアペフ山の麓や湖の畔りを2,3日歩いてきた。ニュージーランドの山や森は、とても良質な癒しの時間と空間だ。
オークランドのチームニュージーランドのベースキャンプ内部は、若いクルーたちによって大幅な改築が始まっていた。情熱を持て余ましてウエストヘブン界隈をウロウロと歩き回っていた若いセーラーのほとんどすべてが、ベテランたちが国外に去った後のチームニュージーランドに入ることができたように思う。自国に残ったベテラン・セーラーを含め、すべてのニュージーランド人セーラーの才能を結集してアメリカズカップを防衛するのだというチームの指揮者たちの気持ちが伝わってくる。
オラクルのラリー・エリソンが施設とボートをまとめて引き取った元アメリカワンのコンパウンドでは、もうすでにセールメーカーたちが忙しく働いていた。このシンジケートのセールメーカーは、元ニッポンチャレンジと元アメリカワンのセールメーカーたちの混成チームだ。3ヶ月前まで出入りが自由だったこの施設は今ではオラクルの関係者以外立ち入り禁止になっている。
オークランドに来てバイアダクトベイスンを歩いていると、2003年のアメリカズカップの胎動が始まっているのを実感できる。11月に入って天気が安定するようになると、チームニュージーランドを初め、プラダやオラクル、ワンワールドなどが本格的な活動を始める。ジョン・コステキを中心とするイルブルック・チームが世界一周ボルボ・オーシャンレースを終えたら、ドイツからアメリカズカップに挑戦するという噂話も真実味を増してきた。

(無断転載はしないでおくれ)

太平洋横断からイエテボリまで

2006年06月17日 | 風の旅人日乗
6月17日 土曜日

サッカー・ワールドカップ、スウェーデン勝利でイエテボリ市民は幸福そう。イエテボリは白夜で、爽やかな夏空だとか。でも湘南は梅雨で蒸し蒸しする毎日です。
太平洋横断最短記録達成から、イエテボリに至る日々の活動について、まとめて近況報告しておきます。それから、ターザンのジェロニモの連載始まりましたので、こちらもお楽しみに。(text by Compass3号)

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さて、大学の後輩で、某大手総合電気機器メーカーの要職にあるCompass3号氏にブログの管理をお願いしてます。持つべきものは有能な後輩です。
任せっぱなしでは申し訳ないので、時々は自分で日記を書こうかなと思っています。

4月27日に太平洋横断最短記録を樹立してから、すっかりサボっていますが、その言い訳も兼ねて、それ以降の、5月6月のぼくの毎日を報告します。

4月27日夜に横浜沖にゴールした後、上陸禁止、そのままアンカー・ウォッチ。4月28日朝に晴れてベイサイドマリーナに上陸。
翌4月29日から5月7日までのゴールデンウイークは、浦賀ベラシスマリーナの艇で練習。
サンディエゴでの準備から数えるとほぼ1ヶ月セーリング漬けの日々が続き、一種のランナーズ・ハイの状況。

5月9日から12日まで、沖縄、座間味島に行って、12月、2月に続いて第3回目のサバニ合宿。これも楽しかったなあ。
5月15~17日は、1ヶ月も自分が好きなことをしたお詫びに、家族旅行。これも楽しかったなあ。

17日から26日までの10日間は、香港から帰ってきたトリマラン〈ジェロニモ〉号の受け入れサポート、クルーのヘルプ、彼らとの飲み、某からすの某斜森オーナーとの飲み、などでベイサイドマリーナと東京と葉山の往復で、ほとんど机の前に座る暇なし。

5月27日から31日まで、イタリアのローマ経由でイギリスのポーツマスに行き、ボルボ・オーシャンレースで優勝を決めた〈ABN AMRO 1〉のスキッパー、ムースと面会。

5月31日にロンドンからハンガリーの首都ブダペストに移動。
市内を流れるドナウ川の川幅の広さ、とうとうと流れる流量のすごさに圧倒されました。
東欧の深い歴史を感じさせる建築物に圧倒されました。
自分たち民族の文化を必死で残そうとしているハンガリー国民に深い敬意を覚えました。
ブダペスト市長選を直前にして突然始まったという市内一斉道路工事(私はこんなにブダペストをよくしようとしている!という現職市長のアピールなんだとか)に土ぼこりまみれになりました。

6月1日、ブダペストにあるカーボンコンポジット企業、PAUGERの視察。名もない農村(名前はあります。ぼくが知らないだけ)の一軒の農家の門をくぐると突如として出現する超ハイテク・カーボンコンポジット工場。
これは、もはや、平和な南海の孤島の地下に隠された国際救助隊サンダーバードの秘密基地そのもの。

6月2日、ブダペストからミラノ経由でイタリアのサルディニア島ポルト・チェルボに移動。
食をそれほど重要視しない国だと思えるイギリス、ハンガリーの後のイタリア。パスタ、ピザ、オリーブオイル。匂いから唾液腺と胃を攻め立ててくる料理と、味わいの深い赤白ワインが身体に染み込んでいきました。

6月3日、4日は、ラッセル・クーツと一緒に「ラッセル・クーツ44」でセーリング。
サルディニアカップを前にしたたくさんの知り合いセーラーたちに会い、ヨットクラブ近くの有名なクリッパーバーで真夜中過ぎまで飲み、我を忘れました。

6月5日にサルディニアを出て、ミラノを経て、
6月6日に日本に帰還。

その後1週間、東京での様々な打ち合わせ、原稿書き、チーム・ニシムラのミーティング、浦賀のベラシスの艇での練習・整備などがあり、

6月14日早朝葉山を出て、ロンドン経由でスウェーデンのイエテボリ。ボルボ・オーシャンレース関係の仕事。

結構、日々ハアハア、忙しく過ごしてきました。
ブログをサボっていた言い訳になったかなぁ・・・・。

で、6月16日現在、スウェーデンのイエテボリにいます。
夜は暗くならず白夜です。北欧の爽やかな夏。美しい花が咲き乱れ、果物も、野菜も、手長海老も美味しく、スウェーデンの最高の季節。
昨夜はサッカー・ワールドカップでのスウェーデンの勝利で、イエテボリ市民もとても幸福そうです。前回ワールドカップは予選で破れて出場できなかっただけに、今回は国民一同楽しんでいるようです。

6月19日には日本に戻りますが、翌20日からはサンフランシスコです。
4月はフランス艇にたった一人の日本人として乗って太平洋を渡りましたが、今度は日本艇で、日本人中心のチームでサンフランシスコから横浜までの太平洋を渡ってきます。

なので、またまた日記はサボり気味になるかも知れませんが、Compass3号氏から強くプッシュされると思いますので、太平洋からイリジウム経由で航海日記を送ることになると思います。お楽しみに。
ではでは。

風の旅人たち <高原の温泉にて>

2006年06月16日 | 風の旅人日乗
6月16日 金曜日。その次は、舵誌の2000年11月号に掲載された、風の旅人たち、高原の温泉にてから。(text by Compass3号)

風の旅人たち <<舵2000年11月号>>

高原の温泉にて

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

暑い暑いと不平を言いながらハワイでの仕事を終えてやっと日本に戻ったら、今年の日本の夏の暑さはハワイなんかよりも殺人的だったので驚いた。湿気の多い海岸近くの下界を慌てて抜け出して、山を目指した。
ここ数日間、長野県と岐阜県の県境に近い開田高原の開田村で温泉に入っている。木曽御嶽山のふもとの露天風呂には、ひんやりとした爽やかな高原の風が吹いている。
この高原は冬は雪に閉ざされてしまうが、夏は別世界だ。日本にもこんなにきれいな自然に囲まれた場所がまだ残されているのかと、感動する。村の中を流れているせせらぎに、岩魚の影が走る。

ケンウッドカップでニュージーランドが優勝し、ニュージーランド・チームに所属していたぼくは、生まれて初めてケンウッド杯でシャンパンを飲んだ。1986年に〈瑠璃光〉というボートでバウマンとして参加してから数えると、実に14年かった。それ以前にこのレガッタがパンナムクリッパーカップと呼ばれていた頃の1982年の〈サンバード〉からは18年だ。その年に生まれた赤ん坊はもう大学生ということになる。   
ヨットレースという、世間一般の世界から思い切り外れた、マイナーな夢を追い続けるということは、そのまま、自分の人生に対する忍耐力を試されるということでもあり、覚悟していることではあるが結構辛いことでもある。
 今回は幸運にも、レース艇部門の艇別でも10年振りに勝つことができた。10年ぶりにこの優勝トロフィーを間近で見ていると、10年前にこのキング・カメハメハ・トロフィーを取った時の、〈マテンロウ〉の故・杉山オーナーの嬉しそうな笑顔が鮮やかに蘇ってきた。
別にケンウッドカップばかりに出ているわけではないが、2年毎にこのレガッタのためにハワイにやって来ては、ほとんどいつも悔しい思いを抱えたまま日本に帰る、ということを何度も繰り返してきたことを思い返すと、つい、長いため息が出る。

彼らの実績、自分の実績

ケンウッドカップを終えて次のレース、ビッグボートシリーズに参加する〈シーホーク〉をサンフランシスコに運ぶために、キールを外すことになった。
 元々、キールを外すことを考えて造っていなかったため、このボートのキール・ボルトとステンレス製の分厚い台座は、エポキシ樹脂で船体に強固に固めている。キールを外す作業は、思いがけず大工事になった。
クックソンボートの社長ミック・クックソンと、ミックの親父のテリーがその作業を手伝ってくれることになった。
ハワイの太陽で船ごと焼かれているような暑い船内で汗を流しながら働く、世界有数のカスタムヨット屋2人の仕事を手伝いながら、初めて2人に会った17年前のことを思い出していた。

その頃はテリー・クックソンが造船所の恐い親父としてバリバリの現役で、息子のミックが家業をいやいや手伝い始めたばかりの頃だった。まだ小さかったクックソンボートの工場では、世界で初めてバキューム工法を使ってレーシングヨットの建造が始まっていた。
レーシングヨットを造るときに、バキューム工法は今では当たり前すぎるほど当たり前の方法だが、テリー・クックソンが、ほとんど独自のアイディアを使って、手探りでこの方法を開発した。
例えば、今は誰もそんなことはしないが、フォームと繊維とが接する最初の積層には、テリーはその2つの接着を強固にする目的で、樹脂にマイクロバルーンを混ぜ込んでいた。それはテリー独自のアイディアで、マイクロバルーンと樹脂の混合比はテリーの大秘密だった。2つを混ぜ合わせる作業は従業員にも誰にも見せずに、衝立の裏でいつもテリーが自分でやっていた。ビルダーたちは自分の容器(バット)が空になったら、その衝立の前に並んでテリーに混合樹脂を作ってもらうのだった。
そのとき造られた2隻の姉妹艇はブルース・ファーのレース界復帰第一作として大成功し、その翌年、ケンウッドカップの前身であるパンナムクリッパーカップを楽々とハワイからニュージーランドに持ち帰った。
テリ-の息子のミック・クックソンはその頃、ロサンジェルス・オリンピックのニュージーランド代表選考レースを控えてソリングの練習に夢中で、終業のベルが鳴る午後4時のずいぶん前に工場から姿をくらませて、練習に出かけていた。結局その代表の座はトム・ドッドソンに奪われ、ミックのオリンピックへの夢は叶わなかった。
それが原因でもないだろうが、長い間、トムとミックはお互いにお互いの悪口を言う仲だったが、つい最近になって、2人が協力しあう姿が見られるようになった。今ではトムもミックも、優秀なセーラーであると同時に、世界を代表するようなセール会社とヨットビルダーの経営者だ。 ニュージーランドのアメリカズカップ防衛のために、それぞれセールと艇を製造する重要な立場を担っている。ミックなどは、17年前は造船の知識などほとんどなかったくせに、今では世界をリードするカスタムボート屋の親父として、驚くべき技術と知識、経験を身に付けている。
ふと自分自身を振り返ってみる。 彼らと同じように努力を続けてきたつもりだったのに、彼らが素晴らしい実績を残して確固たる地位を築いているのに対し、一方のぼくは、今まで自分が歩いてきた道に足跡さえ残せないでいる。
ウーム、だなぁ。辛い。
しかし後ろを振り返っている暇はないわけで、次の目標、サンフランシスコ・ビッグボートシリーズに全力を尽くすことにしよう。

鎌倉=カマクラ=太陽が出る処の子供たち

ヨットレース以外の目下の楽しみは、古代ポリネシアカヌーを日本流に再現しようとしている〈カマクラ〉プロジェクトの手伝いだ。これは、鎌倉に住むハワイ人、タイガー・エスペリのアイディアを相模湾岸に住む海関係の日本人たちが協力しあって進めているプロジェクトだ。カマクラというのは、古代ポリネシア語で「太陽が出る処の子供たち」(カマ=子供たち、ク=出る、ラー=太陽)という意味なんだそうだ。
このセーリングカヌー〈カマクラ〉に日本の子供たちを乗せて日本を一周する、というのがタイガーの最初の計画だ。そしてポリネシアへの航海を経て、最終的には南アメリカまでセーリングする、というのが〈カマクラ〉の役目だ。
ポリネシアの人たちにとって、セーリングカヌーというのは神聖なもので、それぞれに存在しなければならない使命があって初めて建造されるものなんだそうだ。だから、船が出来上がってから船の名前を考えるのではなく、船の名前が先にあって、しかる後に建造に取りかかかるものらしい。だから、タイガーは〈カマクラ〉の進水式、各目的地を訪れたときのためのカマクラ独自の“ハカ”(ラグビーのニュージーランド選抜「オールブラックス」が試合開始前に相手に疲労する、「カマテッ、カマテッ、ナーントカ!!」というあの儀式をハカと言います。あれは自己紹介のようなもので、日本の武士が相手と相目見える前に「やあやあ我こそは・・・」と自己紹介しあうようなものらしい)もすでに作っていて、関係者たちは練習もしている。
日本の大人が自分のことばかり大切にして子供たちをどうも大切にしてないのに、伝説のハワイ人サーファー、タイガー・エスペリが日本の子供たちに海を通して何か大切なことを伝えようとしている。
日本人セーラーとして、手伝わないわけにはいかないでしょう。

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <2000年、夏、ハワイ>

2006年06月15日 | 風の旅人日乗
6月15日 木曜日。
次は、舵誌の2000年10月号に掲載された、風の旅人たち、2000年、夏、ハワイから。
(text by Compass3号)

風の旅人たち《舵2000年10月号》

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

2000年、夏、ハワイ

危機
この夏のハワイには、元ニッポンチャレンジのセーリングチームのメンバーが13人も集まった。ハワイの夏に隔年で開催されるケンウッドカップに参加するためだ。
〈タワーズ〉に脇永、木村、小川、長尾、岡山、〈ファンデーション〉に伊芸、本田、〈ゼネット〉に三好、梅田、〈からす〉に柴田、〈エスメラルダ〉に早福、吉田、そして〈シーホーク〉にぼく、といった顔ぶれだ。
今年2月にニュージーランドでニッポンチャレンジが解散して以来久しぶりに会うメンバーも少なくなかったが、オークランドとは違い、ここハワイでは敵味方に別れてセーリングした。
それぞれ、日本艇に乗っていたり、USAチームに所属していたり、ニュージーランドチームに所属していたりしたが、レースコースですれ違うときは、手を振る代わりにハイクアウトしている足を振りあったり(手を振ると当然スキッパーに怒られるので)、秘密のサインでその日の夕飯の予定を知らせあったりして、結構楽しんだ。
彼らは経験、セーリング技術、肉体、性格に優れた日本人セーラーたちだ。仮に、今回のケンウッドカップで、この13人が戦闘力のある1隻のレース艇に集まって乗ることができたとしたらとても楽しかっただろうし、かなりの成績を残せたことだろう。
しかし今のところ、これらの“元ニッポンチャレンジ”のメンバーが、2003年のアメリカズカップ挑戦のために再びそろって一緒に乗るチャンスはほとんど無い。ニッポンチャレンジが次回のアメリカズカップに挑戦することをやめてしまったからだ。ただし、早福、脇永、谷路の3人は、ピーター・ギルモアがスキッパーになるシアトルのワールドワン・チームに行く道がまだ残されている。
アメリカズカップは大型艇を使ったレースだ。日本人セーラーはアメリカズカップクラスのボートに乗る以外、大型艇のセーリングを経験できる機会が極めて少ない。ぼくは全長67フィートの12メータークラスや70フィートクラスのレース艇でレースをしていた経験がある。しかし、恥ずかしながら告白すると、ニッポンチャレンジに入って、セーリング中のアメリカズカップ・クラスのボートの各部に加わるすさまじい荷重の恐怖から開放されて、セーリングそのものに集中できるようになるまで、数ヶ月以上を要した。自分が大型艇でのセーリングに慣れるために、前回のキャンペーンがもう1年早く始まっていれば、と今でも恨めしく思う。
しかし、元ニッポンチャレンジのバウからグラインダーにいたるセクションのクルーたちは、他のシンジケートの同じポジションのクルーたちにまったく引けをとっていなかった。過去3回の挑戦を通じて、大型艇でのクルーワークのノウハウが選手たちに引き継がれてきたからだ。
次回2003年の挑戦は、これらのベテランクルーたちがそのセーリング技術を次の世代の日本人選手に伝えていく場所になるはずだった。しかし今、ニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦の歴史は途切れることになり、大型艇でのレースやセーリングを熟知した数少ないベテラン日本人セーラーたちの貴重な技術と経験は、伝えるべき若者たちに伝えることができないまま行き場所を失いつつある。
例えばハワイで〈シーホーク〉や〈ビッグアップル〉に乗ったチームニュージーランドのメンバーの多くは、ケンウッドカップが終わったわずか1週間後には、ニュージーランドで進水したニューマキシボート〈ショックウエイブ〉に乗ってオーストラリアのハミルトンアイランド・レガッタに参加する。
彼らはアメリカズカップ以外にもこういったレースや世界一周レースで、日常的に大型艇でのレースに参加することができる。
一方の日本人セーラーには、アメリカズカップのキャンペーンに加わる以外に、そういうチャンスがほとんど巡って来ないのが現状なのだ。ニッポンチャレンジのアメリカズカップ挑戦中止は、この意味からだけでも日本のレーシングヨット界にとって辛い痛手だ。

ニュージーランドの2連勝

今年のケンウッドカップは、〈シーホーク〉、〈ビッグアップル〉、〈ハイファイブ〉の3艇がチームを組んだニュージーランドチームが前回1998年に引き続いて優勝した。ケンウッドカップの2連勝はこのレガッタが始まって以来のことらしい。
今年は、シドニーホバートレースに優勝した〈YENDYS〉(シドニーの逆さ読み)を旗艦に、無敵のIMSレーティングを持つファースト40.7を2隻も加えたオーストラリアチームがひどく強力だったが、我々ニュージーランドチームは得点が3倍になる最終のモロカイレースでやっとオーストラリアを逆転して、なんとか優勝することができた。
オーストラリアの2隻のファースト40.7のうちの1隻は昨年のハミルトンアイランドレガッタにも優勝していて、ボートのIMSレーティングだけでなくクルーの技量も一流の手強いチームだった。
ニュージーランドチームの3隻には、ロイヤルニュージーランドヨットスコードロンがスポンサーを手配して、ハワイまでの艇の船積み代とクルーのエア・チケット代はスポンサーが負担した。その他、毎日のレースに積み込むミネラルウォーターや表彰式用のユニフォームなどもスポンサーから支給された。
チームを送り出したヨットクラブからはチームマネージャーがハワイに派遣されていた。彼は1998年のケンウッドカップで優勝したニュージーランドチームのうちの1隻のオーナーでもあるのだが、今回はチームのための下働きに徹し、レース前後の諸手続きの一部を担当したり、気象情報を集めたり、毎日のレース後にその日のレースの反省会や各艇間で情報交換しながら3隻のクルーたちが飲むための冷たいスタインラガーとニュージーランド産ワインを手配したりと、クルーがなるべくレースだけに集中できるよう、大活躍していた。
具体的に何が、と特定することはできないが、日本の外洋レース界が一朝一夕には追い着くことが出来ない彼我の差のようなものを、ニュージーランドチームの一員として参加したこの夏のケンウッドカップで、再び見てしまったような気がする。

(無断転載はしないでおくれ)

風の旅人たち <再び海へ>

2006年06月14日 | 風の旅人日乗
6月14日 水曜日。

昨晩、成田のホテルに入り、今朝方、成田を飛び立って、イギリス経由でスウェーデンのイエテボリに向かって飛行中。
そこで、Compass3号をリモートコントロールしながらブログをアップすることにします。

さて、ターザン最新号(6/28 2006 No.467)に、<ジェロニモ>による太平洋横断最短記録挑戦録が掲載されています。
3回連載の初回は、日本人セーラーの代表として、サンディエゴに単身乗り込み、マリーナに上架されている巨大な<ジェロニモ>を見上げるところまで。
このターザン最新号、すでに書店に並んでいますので、お見逃しなく。

これからしばらくの間は、以前、雑誌に掲載された記事を、何回かに分けて掲載することにします。
まずは、2000年に舵に掲載された、風の旅人たちから。
(text by Compass3号)

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風の旅人たち《舵2000年08月号》

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

風の旅人たち
1-再び海へ

森とカヌーとポリネシア

ルイヴィトンカップのセミファイナルに負けてニッポンチャレンジ2000の活動が終わると、それまで海の上ばかりにいた反動が出たのか、やたらと山や森に行きたくなった。
ニュージーランドでも、日本に戻ってきてからも、休日は山を歩いたり森の中でキャンプをしたりして過ごしている。
ヨットを始めてから30年近く、毎年平均して1年に150日くらいは海に出ていると思うし、2週間と続けて海を留守にすることがなかったので、我ながら驚いている。
海が恋しいとはまったく思わなかった。
山の緑や森の静けさがとても気に入った。なにしろ、森を歩いている分には人と争う必要がない。心が穏やかでいられる。
毎朝海岸の砂浜を走ったし、仕事の合間には海辺にある公園にコーヒーを持っていってぼんやりと春の海を眺めたりもしていたが、ヨットに乗って海に出て行きたいとは思わなかった。
ゴールデンウイークの頃になってようやく海に出たくなって、相模湾のクルーザーレースに乗せてもらった。久しぶりにレースでステアリングしたが、レースになると自分の過激な闘争心がまだまったく失われてないことを知り、これはこれでとても嬉しいことだった。
そのレースが終わって、ある人物に会いに鎌倉に出かけた。
ハワイ人、タイガー・エスペリ。ハワイでは名の通ったサーフィン界のレジェンドだ。
タイガーは鎌倉に拠点を置き、古代ポリネシア人が太平洋を航海するのに使っていた外洋カヌーを模した大型カヌーを日本で作り、日本を周りながら日本の子供たちをそのカヌーに乗せたい、という夢を持っている。
彼の話を聞いていて、日本人が立てるその類の企画にはない、とても純粋なものを強く感じたので、自分ができるすべての協力をするつもりになった。
このタイガー・エスペリの計画を、日本人として中心になって支援している内田正洋さんという人物を紹介してもらい、僕が住んでいる葉山のすぐ南、秋谷にある彼の家まで歩いて話を聞きに行った。
内田さんは、近々出版するシーカヤックの本の原稿を書き終えたばかりで疲れているようだったが、夕暮れの相模湾を見下ろす部屋で冷たくしたウオッカをクイクイと飲みながら、ポリネシアカヌーの歴史や現在進めている計画を熱心に話してくれた。
パリ-ダカール・ラリーに日本人として初めて出場したり、シーカヤックで台湾から沖縄、沖縄から東京まで漕ぎ上がってきたりしている内田さんは、ぼくが普段接している近代日本人セーラーとはかなり趣を異にする、興味深い人物だった。
日本セーリング連盟の神奈川県支部にもこの古代セーリングカヌーの計画に協力を求めようと、2人して、おなじ葉山に住む大庭さんの会社に押しかけることにした。
大庭さんは日本セーリング連盟の選手強化部長でもあり、470級女子のオリンピック最終選考レースがあったハンガリーから帰ってきたばかりだったが、熱心に話を聞いてくれ、鐙摺のヨットハーバーを使うことも含めて、葉山町長に話を持ちかけてみようと提案してくれた。
なんとなく、心がウキウキと楽しかった。
自分自身のやりたいことは何年努力してもなかなか実現せず、少し辛いなと思う時間がないわけではないのに、自分ができる範囲のことを手伝うことで人の輪が広がり、他人の夢が少しずつ前進していくのを見るのは、自分でも驚いたことに、嫌なことではなかった。
そんな心地よい気持ちのまま日本を出てニュージーランドに戻り、プロセーラーとしての自分の仕事を再開することにした。

南半球の冬

6月、ニュージーランドは冬真っ盛りだ。
冬のオークランドは、雨季とも言っていいくらい毎日雨が降る。ほとんどいつも風が強い。南極から直接吹いてきたように冷たい南風の日は、赤く色づいた落葉樹の葉が街の中を舞い、ハウラキ湾は波で真っ白になる。
冬のオークランドにやって来た日本人は、この惨めな気候に打ちのめされるか、二度と再びニュージーランドなんかに来るものか、と決心してしまう。
オークランド市街からハーバーブリッジを渡り、北に10分ほど車を走らせたところにあるカスタムボートビルダー、クックソンボートではブルース・ファーがデザインした全長47フィートのIMSレースボートが完成間近だった。
このレーシングヨットは今年、2000年8月にハワイのケンウッドカップ、9月にサンフランシスコのビッグボートシリーズを転戦する。

(無断転載はしないでおくれ)

次はモノハル部門世界最短記録にチャレンジ

2006年06月13日 | 風の旅人日乗
6月13日 火曜日。

さてさて、次なるチャレンジは、日本人による、太平洋横断最短記録への挑戦です。
2006年夏、日本人セーラーたちが太平洋に挑みます。挑戦するのは、太平洋横断、単胴艇部門世界最短記録樹立。

2006年4月に、フランス艇がフランス人クルー(日本人クルー1人含む)を乗せて、マルチハル部門の太平洋横断世界最短記録を樹立しました。しかし太平洋は、日本列島の前に広がる、日本人に関わりの深い海です。日本人こそが、その太平洋横断の記録を持つべきだと考える日本人セーラーたちが、記録挑戦を決心しました。日本人が所有するヨットで、日本人セーラーが中心になって太平洋を渡ってきます。

予定では、6月25日にサンフランシスコをスタートし、太平洋横断の公式ゴールラインである、神奈川県三浦半島先端の城ヶ島を目指します。順調に行けば、城ヶ島ゴールは、7月20日頃になると考えられています。

日本人の心意気を世界に伝えようとするこの挑戦に、皆様の応援をよろしくお願いいたします。

ビーコムチャレンジについては、こちらのナビゲーターさんのブログでも紹介されていますので、ご覧下さい。
http://blog.so-net.ne.jp/beecomchallenge/

太平洋横断、マルチハル部門世界最短記録達成

2006年06月12日 | 風の旅人日乗
6月12日 月曜日。

4月27日に横浜のフィニッシュラインを越えて太平洋横断世界最短記録は更新したものの、日記の更新は途絶えたままでした。
ここらで、心機一転、Compass3号の手も借りながらブログを再開しようと思います。Tarzan(6/14 2006 No.466)その他のメディアにも取り上げられたように、サンフランシスコから横浜までの太平洋横断世界最短記録に挑戦し、14日22時間40分41秒と、これまでの最短記録(1996年Steve Fossett氏による60ftヨットでの記録19日15時間18分9秒)を大幅に更新しました。

公式記録はこちらに掲載されています。 http://www.sailspeedrecords.com/ratified.html

WSSR Newsletter No 114 Geronimo
The WSSR announces the ratification of a new World Record:

Record: Transpacific East to West. San Francisco to Yokohama
Yacht: "Geronimo" 90ft Trimaran
Name: Olivier de Kersauson FRA and 10 crew. Dates: 12th to the 27th April 2006
Start time: 14:40:42 GMT on the 12th April
Finish time: 13:21'23" GMT on the 27th April
Elapsed time: 14 days, 22 hours, 40 minutes, 41 seconds
Distance: 4482nm

Comments: Previous record: Steve Fossett USA. Lakota 19d:15h:18m:9s in May 1996

John Reed Secretary to the WSSR Council