風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

君のことが好きだよ、ニュージーランド

2008年02月26日 | 風の旅人日乗
特に理由がないまま、なんとなく足が遠ざかっていたが、3年ぶりにニュージーランドに来て数日を過ごすうちに、
「やっぱりオレは君のことが好きなんだ、ニュージーランド!」
と、加山雄三さんの歌の歌詞的に思ってしまった。

思えば、本物の外洋ヨットセーラーになりたくて、武者修行を積むためにニュージーランドに初めて来たのは、はや25年前。
着いたその日が水曜日で、空港からそのままその日のウエンズデイナイト・レースに乗るヨットに連れてこられて、掃除をした。奉公に出された丁稚小僧みたいだ。

その日の夕方のレースでバウマンをやらされたが、あの日のスタートのアウターエンドだった黄色いブイは(代は替わっただろうけど)まだ、同じ場所に浮かんでいる。さっき、その黄色いブイのすぐ近くにある食堂シッティング・ダックで、チームニュージーランドのバウマンのディックと昼飯を食べた。ぼくがあの黄色いブイの横を初めてスタートしたとき、ディックはまだ産まれたばかりの赤ん坊だったんだなあ。
そんな話をすると爺くさく思われるので敢えてしなかったが、そういう若い世代とタメ口でアメリカズカップ絡みの噂話をしながらメシを食う時間は楽しかった。

仕事を増やして、積極的にこちらに来る機会をもっともっと増やそう、と思う。
明日、日本に帰ります。
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日本は海洋国家か?

2008年02月25日 | 風の旅人日乗
仕事の相手と昼飯を食う約束の時間まで、オークランドのウォーターフロントの桟橋に建つニュージーランド国立海洋博物館で時間をつぶした。
これまで何度も行っているけど、飽きることがない。
今日は、15人ばかりの小学生たちと入場が同じタイミングになり、最初のアニメ映画からずっと一緒に館内を回った。小学生たちの課外授業には、ボランティアの女性が説明に付くので、とても得をした気分になった。

この博物館での今日の個人的な発見は、sharkcallerという漁業用道具。
ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアに共通するサメ釣りの道具なのだそうだ。海面につけると半分に割った椰子の実の芯がぶつかり合い、歌うように鳴ってサメをおびき寄せるそうだ。太平洋の3つの文化圏に共通していることから、これらの人たちが同じ祖先を持つという証拠のひとつになっているらしい。ここには何度も来ているのに、今までカヌーにばかり目が行っていて気が付かなかった。

この海洋博物館は、皆様ご存知のジュール・ベルヌの『15少年漂流記』で、スルギ号の舫いが解けて漂流し始める、そもそもの物語の発端になったプリンセス・ワーフのすぐ隣の桟橋の上に建てられている。
夏休みには子供たちは寝袋持参でこの博物館に泊り込みで歴史と集団生活を学び、2日目にはスルギ号と同じような小型帆船でセーリングも経験する。

一緒に回っていた小学生たちは、本日の特別カリキュラムとして、カヌーのいろんなパーツのラッシングの方法を教わっていた。

これができたからといって、今後の社会生活に生かせるわけではほとんどないのに、自国の文化を伝えるために、子供たちに自分の国の文化に興味を持ってもらうために、こういうカリキュラムを実現させるこの国に、悔しいけど、羨望のようなものを覚えてしまう。

ちなみに、この子供たちに、ボランティアの女性が
「カヌーのことをマオリの言葉でなんといいますか?」
と聞いたら、ヨーロッパ系、アジア系を含む子供たちの80%くらいが、元気良く、
「waka!」(正解。時代・地域によってはwataとも。ポリネシア共通)
と答えていた。ニクイ。
現代の日本の小学生たちに、
「古い日本語で船の船首のことをなんといいますか?」と質問したら、
「船首って何?」って聞かれるんだろうな。
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久し振りにニュージーランドだよ

2008年02月22日 | 風の旅人日乗
今朝、ニュージーランドのオークランドに到着しました。
最近、ニュージーランドのことが身の回りやヨット関係者の間で話題にならないので、海外旅行先としての人気が落ちているのかなと思ったら、アララびっくり、木曜日成田発の平日便だというのに、ビッシリの満席。久し振りに身動き取れんツライ9時間半を経験しました。

前回のNZは、シドニー-ホバートレースに100フィートマキシ《ザナ》で出て以来だから、もう4年前だ。
あのときは、ファーストホームまであと10時間というところで船体が折れてしまい、沈没の危険があるため無念のリタイア、緊急入港した地の果てのような漁村でヤケビールを飲んで、バスを仕立ててタスマニア島を縦断してホバートに行ってヤケワインを飲んで、メルボルン経由でオークランドに12月30日に着いてヤケビールを飲んで、大晦日の12月31日昼前オークランド発便に乗って、その夜日本に帰りついてコタツにはいったら紅白歌合戦をやっていてあれま、と思い、ふと気がついたらもう2005年の正月の御屠蘇を飲んでたのだったなあ。

大時化のバス海況をやっと乗り越えてタスマニア島に到達したのに波がおさまらず、それで船体が折れてしまい、それからずっとヤケ酒をあちこちで飲んでたら、いつの間にか日本にいて、2005年が明けてたのだったなあ。


そうだった、あの時はオークランド→成田の12月31日の便のエコノミークラスが満席で、仕方がないので、コツコツ貯めたマイレージを使ってビジネスクラスにアップグレードしたらエアNZ航空のマイレージがほとんどなくなってしまったのだった。それでなんとなくNZから気持ちが遠ざかってしまったのかもなあ。

翌日の1月1日まで待てば席は空いてたのだけど、なんか、あの年だけは少しでも早く日本に帰りたいと思ったのだけど、なんでかな? あ、そうだった、娘が生まれる予定日が近かったから、少しでも早く帰ってあげたいと思ったからだった。たった4年で、自分の心の動きも忘れてしまうんだなあ。
文字で記録をしておくことはやっぱり大切だね。

さて今回のNZの目的は、3月と4月に予定しているNZセーリングツアーの準備。
バッチリ準備してきますので、熟年セーラーのご夫妻の方々はじめ、たくさんの皆さんの参加をお待ちしています。
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105ft.のマキシトリマランが転覆した

2008年02月19日 | 風の旅人日乗
ジュールベルヌ・トロフィー世界一周スピード記録に挑戦していた全長105ft.のトリマラン《Groupama3》が、2月17日23時過ぎ(GMT)、ニュージーランド南東80海里沖の海域で転覆したようです。幸いなことに乗組員は全員無事で、ニュージーランドのレスキュー隊によってヘリコプターで救出されたとのことです。

スキッパーのフランク・カマスによれば、スターボードタックへジャイブした直後に、左舷側(風下側)のフロート(アウトリガー)が崩れ波に呑まれて真っ二つに折れ、次にそれを支えていたビームが折れ、そして180度の転覆に至ったそうです。
転覆当時の海況は南西風、風速25-30ノット、波高は5-7m。クルー10名は全員怪我もなく、転覆からわずか3時間後にはニュージーランドのレスキュー隊によって無事に救助された。救出時に波高が2mに収まっていたのも幸いしたようです。


2006年に全長110フィートのトリマラン《GERONIMO》のクルーとして太平洋を横断しましたが、波の悪い海域では、モノハル艇では経験し得ないほど波にものすごく叩かれ、いつ壊れてもおかしくないと思いました。船体中央とトランサムにある脱出口からの脱出方法やサバイバルスーツの収納場所を全員で確認し合ったものです。
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帰国報告

2008年02月14日 | 風の旅人日乗
ハワイから戻った翌日の昨日は、横浜ベイサイドマリーナからおしゃれなトローラーボートを出して海を突っ走る仕事でした。
裾野まで雪に覆われた富士山と丹沢の山系が杉田のIHIの工場越しに見える横浜沖の海は大荒れ。いやはや寒いの何の。フライブリッジの運転席で涙と鼻水にまみれながら、ベイブリッジの下までホクレアのことを思い出しながら突っ走りました。
ホクレアを引っ張っていた頃から、季節は完全に逆になってしまったんですね。しかし日本列島の最も素晴らしいことのひとつは、四季があること。今は寒さの冬を楽しむことにします。

ホノルルのサンドアイランドに上架されているホクレアと、昨年7月に横浜・大黒ふ頭で別れて以来の再開を果たしました。写真ではよく分からないけど、デッキの上では、海王丸の実習生たちがカイウラニや内野加奈子さんの指示の元、一生懸命手すりをサンディングしています。いや、本当にいい光景でしたよ。

いい気になってハワイの時間を楽しんでいる間に、日本でも同じように時間は流れていたらしく、セーリング専門誌関係の原稿の締め切りが束になって襲ってきています。取りあえず、あと6時間以内に勝負を決めなければならない原稿君が1本あり、そのあとも波状攻撃に曝されます。
なので、しばらくは投稿できないと思いますが、試験前になると読書/引き出し掃除に逃避していたぼくのことですから、書きに来るかもしれません。
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ホノルルにて(その1)

2008年02月08日 | 風の旅人日乗
ホノルルにいます。

2月7日にホノルルに到着した練習船海王丸の船長レセプションで、ナイノア、ノーマン、レイトン、マイクといったホクレア関係者と再会し、レセプション終了後、雨宮船長の御好意で船長公室に陣取って日本航海のときの話に花を咲かせました。

翌日の8日には、ぼくのピンチヒッターとして沖縄―熊本の水先案内を務めてくれた奥・海王丸一等航海士が、ホクレアの日本航海のDVDを実習生に見せながら、ホクレアのこれまでの活動を説明してくれたそうです。
その授業でホクレアに興味を持った実習生たちが、忙しい日程と折角の上陸休暇の最中なのにもかかわらず、2月9日午前中、サンドアイランドのホノルル・コミュニティー・カレッジのマリタイムトレーニング・エデュケーション・センターに上架されているホクレアの、整備作業を手伝いに来てくれました。
日本の船員の卵たちが、ホクレアと関わりを持ち、クルーたちとの絆を深めたことを、とても嬉しく思っています。

昨日2月9日は、宇和島水産高校の練習船えひめ丸の悲惨な事故から7年目にあたります。

えひめ丸の記念碑がある美しい丘で行われたセレモニーには、昨年の7回忌と同じように、ナイノアはじめ、ホクレアとカマヘレのクルーたちが参列しました。
ホクレアとカマヘレのクルーたちが宇和島寄航中に大変お世話になった水口さんご夫妻はじめ、ご遺族の方たちにも、ホクレアとカマヘレの宇和島寄港以来半年ぶりで再会することができました。

今年のセレモニーには、この日の午前中にホクレアの整備を手伝ってくれた練習船海王丸の実習生も、真っ白い制服に着替えて参列してくれました。
もしかしたら、彼らの真っ白い制服は、それに似た制服を着て宇和島を出港していく息子たちを見送ったご遺族の方たちの目には辛かったかもしれません。しかし、それを越えて、自らの意思で、短い自由上陸時間を割いてこのセレモニーに参加したい旨を申し出てくれた20歳前後の若者たちの、真摯な心がご遺族の方たちに伝わったのではないか思います。

昨年の同じ日、セレモニーのあとのレセプションの席上で、ご遺族を代表してご挨拶した水口さんの、『ホクレアが、息子たちの霊を宇和島まで運んでくださる』旨のお言葉を聞いたときが、ぼくがこの航海に関わることに最終決断をしたときかもしれません。

ホクレアがハワイ島を2007年1月にミクロネシアに向けて出港した後、ハワイ州観光局日本事務局の御手配で実現した昨年2月のホノルル訪問は、ハワイに残っていたナイノアに4月以降の日本近海の海況を説明し、また、ぼくの大学の後輩でもあり、日本の海況に非常に詳しい独立行政法人・航海訓練所の海王丸・雨宮船長をナイノアに紹介することが目的でしたが、それにも関わらず、ぼくは、ホノルルに向けて成田を飛び立つ時点では、2007年のホクレアの日本航海の水先案内を務める決心がついていませんでした。

ぼくは、2007年の4月から6月に渡るホクレアの日本航海に関わることになれば、そのときすでに契約していた、主としてヨーロッパを転戦する今後複数年にわたる外洋レースヨットのマネージング・スキッパーという、自分にとって理想に近い仕事を放棄しなければならない、という立場にありました。
もちろん、2001年に初めてナイノア・トンプソンという人物に会い、初めてホクレアに乗せてもらってオアフ島―マウイ島間の航海をして以来、ホクレアがそれまでにやってきたことも、ホクレアが日本にやってくる意味も意義も、理解しているつもりではいました。しかし、そのハワイのカヌーに関わることが、日本人である自分の人生にとってどれほどの意味があるか否かの議論になると、自分の中でどうしても答えを見つけられないことでした。

しかし、そのときのホノルル滞在で初めて、事故後6年も経って、日本人の間でさえ忘れかけられているえひめ丸とその御遺族のために、ホクレアがハワイでしてくれているいろんなことを知ったとき、何かがぼくの心の中に走ったようです。
短い滞在を終えてホノルル空港を飛び立つときには、もし自分がこれまで培ってきた海での経験と知識を、ホクレアが日本の海で必要としてくれているのであれば、2007年のシーズンはホクレアを最優先にするしかないだろう、と決心をしていました。

さて、2008年2月10日。今夜はナイノアのお母さんの家で、ぼくとぼくの家族は夕食に招待されています。
昨日会ったときにナイノアは、次のホクレアの航海のプランについて相談したい、と言っていました。
その大航海のプランは、もうかなり完成に近づいているようです。
その、恐らくは日本に寄港しない航海に関わることができるとすれば、日本人としてそれに関わるその意味と意義とは何なのか?
このことが、今後の自分自身の心との会話のテーマになっていきそうです。

(ナイノアが、次の航海でのホクレアのサポート艇として目を付けている中古の大型ヨットを、ホテルの窓からチラチラと見下ろしながら)
西村一広
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単独無寄港世界一周新記録 57日13時間34分6秒

2008年02月02日 | 風の旅人日乗
単独無寄港世界一周記録に挑戦していたフランスのフランシス・ジュアィオン(51)が操る97フィート・トリマラン〈Idec2〉が、2008年1月20日午前0時39分58秒、フランスのブレスト沖にフィニッシュ。
フランシス・ジュアィオンと〈Idec2〉が地球を1周するのに要した時間は57日13時間34分6秒。これまでの世界記録だったエレン・マッカーサーの71日14時間18分を丸14日近くも短縮しました。

 1970年に、イギリスのロビン・ノックス・ジョンソンが人類として初めてセーリングによる単独無寄港世界一周を達成したときの記録は313日でした。
 今から10年前の1998年には、クリストファー・オーギンが105日間20時間という記録を打ち立て、ノックス・ジョンソンの記録を3分の1に縮めます。そして今回のフランシス・ジュアィオンは、10年前のその記録を、さらに半分に縮めたことになります。
 セーリングへの科学的アプローチと、インターネットを駆使するナビゲーション・ツールの進歩が、ここ最近の目覚しいセーリングスピード記録更新を支えているとは言え、セーラーとしてのフランシス・ジュアィオンの実力は並大抵のものではないのだと思います。

フランシス・ジュアィオンは2004年にも単独無寄港世界一周を成功させ、72日23時間足らずという新記録を打ち立てましたが、その1年後に、イギリスのエレン・マッカーサーによってその記録を、わずか約1日だけれども、破られています。今回の〈Idec2〉によるフランシス・ジュアィオンの航海は、そのエレン・マッカーサーの記録への挑戦だったわけだけれど、全航程の平均スピードは19.09ノット。これは、エレン・マッカーサーのそれを4ノットも上回るスピードででした。

もうひとつ、今回のフランシス・ジュアィオンの航海で特筆すべきことがあります。それは、〈Idec2〉には、補助エンジンも、発電機も積まれていなかったことです。航海中に必要な電力は、すべて風力発電と、太陽発電と、そして燃料電池でまかなわれました。燃料電池が消費したエタノールも僅か15リッターだけだといいいます。ほとんど自然エネルギー(風、太陽)だけで地球を回ったフランシス・ジュアィオンと〈Idec2〉の航海は、セーリングがいかに環境に優しいスポーツであり文化なのかを、現代社会にアピールしてくれたとも言えそうです。
(photo/JM Liot DPP IDEC)
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