風の旅人たち <2000 Big Boat Series in San Francisco Bay>

2006年06月18日 | 風の旅人日乗
6月18日 日曜日。
次は、舵誌の2000年12月号に掲載された、風の旅人たち、2000年、サンフランシスコビッグボートシリーズから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2000年12月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

カリフォルニアのサンノゼは、シリコンバレーの中心的な街だ。 成田で乗った飛行機からサンノゼ空港に降り立ち、バスを乗り継いでサンフランシスコ市内へと向かう。
アップルコンピューター、ヒューレッド&パッカード、オラクルなどの本社がこの地域に立ち並び、それらの創立者や技術者たちを送り出したスタンフォード大学の敷地内をフリーウエイが突っ切る。
高給のコンピューター技師たちが住むこの地域の住宅価格は高騰に高騰を重ね、今では全米で最も地価が高い地域と言われている。ここでアメリカの平均的なサイズと環境の家を買うには1億円が必要だと言われる。シリコンバレーは、今の時代の花形であるIT産業のパワフルさを見せ付けている。
アメリカズカップに挑戦するために脇永や早福が移籍したワンワールドシンジケートの母体は北米に基盤を置くバリバリの情報通信企業だし、オラクルのラリー・エリソンもそれに負けない予算を注ぎ込んでアメリカズカップ奪還を目論んでいる。
20世紀のアメリカズカップは紅茶、ボールペン、鉄道、有線テレビ、金融、不動産、ファッションブランドなどの分野の成功者たちが主役の座を占めてきた。次回2003年、21世紀最初のアメリカズカップは情報通信産業の成功者たちが主役を演じることになるのだろうか。
サンフランシスコ市内のユニオンスクエアでバスを降り、少し歩いてBART(ベイエリア鉄道)に乗り替えてリッチモンド市へと向かう。これから6日間、リッチモンド市内のマリーナに保管されている〈シーホーク〉にキールを付け、マストを立ててセントフランシス・ヨットクラブが主催するサンフランシスコ・ビッグボートシリーズに参加する準備をする。
サンフランシスコ湾のベイエリアの南端に位置するシリコンバレーとはまったくの反対側、ベイエリアの北端近くにあるリッチモンドは、太平洋戦争前は造船産業で栄華を極めた地域だ。
しかし時代は変り、今この地域は荒廃し切っているように見える。車でわずか1時間しか離れてないシリコンバレーとの対比が際立つ。街を歩いている人も少なく、手入れの行き届いてない家が多い。4回タクシーに乗ったが、そのうち3人の運転手が大回りしたり、わざと違う駅まで向かったりして料金をごまかした。最近のアメリカではあまりしない経験をさせてもらった。
サンフランシスコビッグボートシリーズでは、我が〈シーホーク〉はPHRFのAクラスに出場したが、成績はイマイチだった。〈エスメラルダ〉が同じAクラスで出場し、優勝した。
PHRFはパフォーマンス・ハンディキャップ・レーティング・フリートの略で、IMSレーティングなどを参考にしてそれぞれの水域ごとに組織されているハンディキャップ委員会が出場艇のハンディキャップを決めている。アマチュアゴルファーたちが仲間内でハンディキャップを決めてコンペを行なうやりかたに近い。
その艇の過去の成績もハンディキャップを決める要素のひとつに入るが、その成績がボートの性能によるのか乗り手の腕によるのかを科学的に分析することはできない。したがって、ターゲットとするレースをあらかじめ決めておき、1年ほど弱いフリを続けてたっぷりとレーティングを下げ、ここ一番のレースに一流の乗り手をそろえる、という作戦をとることもできる。そういう艇が同じクラスに2隻いた。
プロフェッショナル・セーラーをそろえて真剣に世界を転戦するヨットにとっては、少しマッチしないハンディキャップだ。
だが、クラブ内でのレースであれば、ハイスピード・ヨットから通常のプロダクション・ヨットまで、あらゆるタイプのヨットがレースを楽しめる面白いハンディキャップだと思う。以前は日本の小網代フリートにも、このような独自のハンディキャップ・システムがあったと思うが、今も続いているのだろうか?
サンフランシスコ湾は、川の流れのような強い潮流の上をペリカンが飛び、アシカがマークブイの横にいきなり顔を出す。大都会の前に広がっている海とは思えない不思議な海だ。風は強めだが、その強弱とシフトの読みに加えて潮の流れを正確に把握することが、レースでの勝敗に大きく関わる。ハワイでの豪快な波の中でのセーリングとはまた一味違って、ちょっと渋い、玄人好みのするレース海面である。
数年前のビッグボートシリーズでラリー・クラインが落水して亡くなって以来、このシリーズすべてのレース中にライフジャケットを着用することが義務付けられている。これも、アメリカズカップのスキッパーにノミネートされるまでになったばかりだというのに無念の死を遂げてしまった故人の思いを後世に伝えるいいルールだと思う。
サンフランシスコから日本に戻って知り合いの結婚式に顔を出した後、ニュージーランドにやってきた。こちらでの休日を使ってニュージーランド北島の中央部に広がるトンガリロ国立公園に行き、雪を被ったルアペフ山の麓や湖の畔りを2,3日歩いてきた。ニュージーランドの山や森は、とても良質な癒しの時間と空間だ。
オークランドのチームニュージーランドのベースキャンプ内部は、若いクルーたちによって大幅な改築が始まっていた。情熱を持て余ましてウエストヘブン界隈をウロウロと歩き回っていた若いセーラーのほとんどすべてが、ベテランたちが国外に去った後のチームニュージーランドに入ることができたように思う。自国に残ったベテラン・セーラーを含め、すべてのニュージーランド人セーラーの才能を結集してアメリカズカップを防衛するのだというチームの指揮者たちの気持ちが伝わってくる。
オラクルのラリー・エリソンが施設とボートをまとめて引き取った元アメリカワンのコンパウンドでは、もうすでにセールメーカーたちが忙しく働いていた。このシンジケートのセールメーカーは、元ニッポンチャレンジと元アメリカワンのセールメーカーたちの混成チームだ。3ヶ月前まで出入りが自由だったこの施設は今ではオラクルの関係者以外立ち入り禁止になっている。
オークランドに来てバイアダクトベイスンを歩いていると、2003年のアメリカズカップの胎動が始まっているのを実感できる。11月に入って天気が安定するようになると、チームニュージーランドを初め、プラダやオラクル、ワンワールドなどが本格的な活動を始める。ジョン・コステキを中心とするイルブルック・チームが世界一周ボルボ・オーシャンレースを終えたら、ドイツからアメリカズカップに挑戦するという噂話も真実味を増してきた。

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