風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

5月18日 歩く

2009年05月18日 | 風の旅人日乗
一昨日の土曜日、
整備の必要があるヨットを葉山から江ノ島に回航して上架するために
自宅から葉山鐙擦港まで浜伝いに歩いた(葉山マリーナ部分を除く)。

海路江ノ島に着いた後、江ノ島を徒歩で出て、
腰越の漁港の先から稲村まで砂浜を歩き、
稲村ガ崎から国道に上がって、鎌倉坂ノ下の友人の家に寄る。
(そもそも、ここに立ち寄る用事があったから、休日の満員の江ノ電に乗るのをためらって歩き始めた)

しばらくそこでおしゃべりをして、
混雑しているはずの鎌倉駅に行かずに、次の目的地の逗子マリーナに行く方法ないかな、
と思案しているうちにフト思いついて、
友人宅から国道を渡って由比ガ浜に出ると、逗子マリーナはすぐ近くに見える。
そこで、そのまま由比ガ浜からから材木座の砂浜まで歩き(滑川を渡るときは国道で)、
材木座のバス通りまで上がって、お蕎麦屋さんで軽く昼食を食べ、
そこから逗子マリーナまで道を歩き、
そこにあるヨットに寄って来週のレースの準備をして、
それが終わってから披露山を迂回して逗子新宿の住宅地を歩いて逗子海岸に出て、
田越川の手前で一旦国道に上がって渚橋を渡り、
葉山マリーナの先まで県道を歩いてから再び海岸線に出て、
岩場や漁師さんの作業場を通って森戸海岸に抜けて、帰宅した。
葉山江ノ島を、風と足だけで往復する一大プロジェクトを完遂した気分で、
つい、ビールが進む。

そして翌日、昨日の日曜日、始発のバスに乗り、
東京ディズニーランド沖で開催予定だったヨットレースのために
東京夢の島マリーナに向かう。
なんだか、左足の甲の真ん中辺りがうずく。

さては昨日のビールが悪かったのか、通風の前兆か、と思い、
出港前にそのヨットのオーナーであるお医者さんに見立てをしてもらったら、
「通風ではここは痛くならないと思いますよ。
最近長い距離を歩きましたか?
足指の小骨のジョイントにダメージがあって、それが痛いように思えますが…」
さすが、名医。

いつも履いているぼくのビーサンは、ハワイのIsarand Pro製の、鼻緒がゴッツイやつで、
本体も分厚くて気に入っているのだけれど、少々重い。
そう言われれば、確かに、その鼻緒で押さえつけられる部分が痛いことに気が付いた。

長くなりましたが、ビーサンでの長距離徒歩はご用心、と言いたかったのと、
どうだどうだこんなに歩いたよ、という自慢でした。

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5月15日 指をくわえる

2009年05月15日 | 風の旅人日乗
日本にセーリング文化を根付かせたいと願ってもがき、
それが目に見える形で前進していかないことをもどかしく、悔しく思っている間にも、
西洋のセーリング文化は第3復興期の真っ只中を謳歌しているみたい。

今日、西洋の知り合いから送られてきた写真は、
ブレードランナーをさらに進化させたセールボート。
ボート、と書いたが、しかし、ボートと呼ぶためにはなくてはならない「船体」がない。
水中のフォイルであるセンターボードとラダーと、空中のフォイルであるセールとをリンクさせるトラス状の構造物があるだけの、新しい乗り物だ。
こういうものを開発するには、それなりの費用も、マンパワーも必要だ。
それを賄ってくれるだけの資金提供者とマーケットが今のヨーロッパにはあるらしい。
海で遊ぶことや、文化としてのセーリングというものの本質を理解しているのだろう。

口先だけのエコや環境保全を謳う日本企業は、
究極のエコエネルギーであるセーリングに興味も理解も示さない。
勉強さえしようとしない。

千里の道も一歩から。
でも、これまで何年も、何歩も歩いて来たと思うけど、
歩いても歩いても、
千里の道が999里になった実感はない。

山本一力氏の、
主人公たちのひたむきな努力がいつしか報われる
人情江戸物を片っ端から読みまくり、
感動の涙を流し続けている今日この頃。

チームニシムラの、東京お台場の船の科学館での、
無料親子体験セーリングイベント、
5月の回は、31日に実施します。

今年度最初の開催だった4月26日の回には、142名の人たちが、
船の科学館の前の東京港内でセーリングを体験しました。
昨年一年では、約1000人の人たちに海とセーリングを体験してもらいました。
千里の道も一歩から。
この格言を作った誰かご先祖様、信じていますから。
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5月6日 サムが来た

2009年05月07日 | 風の旅人日乗
サムが葉山にやってきた。
冷たい雨の中を逗子駅までやってきたサムは、少し疲れているようで、ハワイにいるときのような元気がなかった。
ハワイから来たサムには、この日の、季節はずれの日本のうすら寒さは、結構辛いのだろう。

サムは、カマヘレのクルーで、日本語韓国語その他数カ国語ペラペラのアメリカ人。
もちろん英語もうまい、というか、それはサムの母国語だ。
ホクレアとカマヘレの日本航海でも、一部区間を除いてサムはカマヘレに乗っていたし、
先月のポマイラ環礁からオアフ島への航海でも、ぼくらはカマヘレで一緒だった。

丸2週間かかったその航海で、
ぼくの当直は、08時-14時と20時-02時だったのだけれど、
サムは、ぼくが一人当直になる真夜中の00時-02時の間、
自分の当直ではないのに起きてきて、
コーヒーを入れてくれたり、お茶漬けを作ってくれたりして、付き合ってくれた。
航海の終わり頃の数日は、
2人だけで午後8時から翌日の04時くらいまで、
暗闇の嵐の中、ホクレアを見失わないよう一定距離を保って並走するよう、
カマヘレを緊張して操船しながら、いろんなことを話した。

サムがいたからぼくは、ポマイラ航海の日々、
心をホクレアのサポートとカマヘレのセーリングに集中することができた。

オアフ島に着いた翌日、ナイノアとの深い話になった夜にも、
サムは一緒にいてくれて、ぼくたち2人の間の通訳になってくれた。
サムがいなかったら、ナイノアの深い話を、
ぼくは正確に理解できていなかったに違いない。

サムは、ナイノアがあの夜口にした重い言葉を、
母国語としての英語で直接聞いている人物で、
だから、その後のぼくの心の中のありようを、
とても正確に理解してくれている人物だ。

葉山での夕食のとき、朝食のとき、
そしてぼくの仕事先に向かう途中の三崎口駅までの車の中で、
ハワイで話し足りなかったこと、ハワイから日本に戻ってきてから考えたことを、
たくさん話した。

ぼくよりもかなり年下のサムだけど、
今やサムは、ぼくにとってとても大切な友人だ。

あと2週間日本に滞在して仕事を頑張るそうだけど、
また明後日からは暖かくなりそうだし、
元気モリモリのサムになって日本を楽しんで下さいよ!
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5月2日 拝啓 トンプソンひとみさま

2009年05月02日 | 風の旅人日乗
トンプソンひとみさま、コメントありがとうございます。
返事が長くなりそうなので、日記のほうに書かせて頂きます。

ホクレアの周防大島寄港の際には、役場の方たちにも大変お世話になりましたが、
安全な泊地確保など、藤井船長の大車輪のご活躍がなければ不可能なことでした。

新門司から周防大島に到着したときも大変お世話になりましたが、
それだけでなく、
広島から宇和島への航海の際、
航程と潮流のタイミングを計算し直すと、
どうしても途中一箇所で仮泊しなければ宇和島到着が日没後になる恐れがあることに気付いて
大島丸の桟橋に一晩仮泊させていただきたい旨をお願いしたときも
(恐らく学校の行事をずらせてまで)、温かくホクレアを迎え入れていただきました。

生徒さんたちの有志が、休みを返上して大島丸でカレーを作って待っててくださり、
ホクレアのクルーたちはそのカレーをいただいた後、
大島丸の船室でぐっすりと眠ることもできました。
次代を背負って立つ若手ナヴィゲーターの第一人者であるカイウラニが、寝坊をして朝の集合時間に遅れ、みんなに冷やかされていましたが、
それほど、ホクレアのクルーたちにとって大島丸のお腹の中は心地良かったのでしょう。

翌朝5時に大島丸の桟橋を離れてすぐ、
ナイノアはホクレアのセールを開き、セーリングで周防大島に別れを告げました。
大島商船の生徒さんたちは、ホクレアのセーリングを見ることができた数少ない日本人たちです。

藤井船長がパソコンでブログを読んでいる姿は、あまりうまくイメージできませんが、ぜひよろしくお伝え下さい。
本のタイトルは「朱印船貿易史」、著者は川島元次郎氏、巧人社刊、です。

実は、ぼくは30年も前に沖家室島に行ったことがあります。まだ周防大島と橋でつながる前のことです。半自作のヨットで、2人の友人と東京の大学から小倉の実家に帰る途中の、最後の寄港地でした。
その後、その島のことはすっかり忘れていたのですが、ホクレアの日本航海が終わった後に、実家に帰省して、学生時代のセーリングノートをパラパラとめくっているうちに、そのときの島が沖家室だったことを思い出しました。
そのときに島の子どもたちと一緒に撮った写真と、森本孝氏の本に載っていた写真とを見比べて、入った港が本浦だったことを知りました。
ナイノアから、沖家室出身のヨシさんの話を聞いた直後だったこともあり、とても不思議な縁を感じました。

小泉クン、知ってますよ。
2006年12月の沖縄・本部でのセーリングキャンプのときに一緒でした。ナチュラルなセーリングセンスを持っている、非常に優れた少年ですよね。
もしヨットレースを続けるのなら、彼のセンスを素直に伸ばしてあげることができるコーチに出会えれば、かなりの選手になることだと思います。
ホクレアが大島丸の桟橋に停泊しているときにも、お父さんと一緒に遊びに来てくれました。
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4月30日 御朱印船

2009年05月01日 | 風の旅人日乗
息を切らしてママチャリで葉山の坂道を登り切って、
あえぎながら吸い込む空気の中に、
いろんな植物の新芽の匂いが交じっている。
なんだか空気がおいしい季節になったなあ、と思っていたら、
もう、明日から5月なんだ。
ちょっと前まで、朝の自転車は帽子と手袋なしでは乗れなかったのに、
季節は自分が思っているスピード以上の速さで流れているってわけだ。

この1年の間に、同年齢の知り合いが4人、亡くなった。
4人とも、去年の今頃は当たり前のように元気で生きていた。
そのうちの2人とは、
この新緑の季節の空気を一緒に吸いながら
書類を前にして今年の仕事の具体的な計画を練っていた。

来年の今頃、自分がこの世に居ないことも、
この美味しい空気を来年はもう吸えないことも、
それほど突拍子もないことじゃない、
もっと時間を大切にすべし、と自分を戒めてはいるのだけれど…。

ホクレアのポマイラ航海から戻ってきた4月8日以来、
いろんな人に会うことを続けて、もう3週間が過ぎた。
行動を起こすキッカケを探している。
行動を起こすべきことのコアの部分は、
自分ひとりのことじゃない、
たくさんの人との輪の中で行なわなければ意味がない、
そのことだけは、この3週間で確信することができた。

大正10年に発刊された、朱印船に関する記録を、
鵠沼に住む伝説のサーファーからお借りしてきた。
表記が昔風で、しかも自分の能力の問題で読めない漢字も多く、読み辛い。
しかし、パラパラとページをめくって拾い読みするだけで、
驚くべきことの数々が、平穏な表現で書かれていることを発見する。

例えば、『朱印船の構造』の章。
「船を堅牢にするだけでなく、創意を加えて、
逆風を利用し、波浪を凌駕するための道を講じた。」
「帆は最初はマストに直接取り付けていたが、
マストにガフとブームを取り付けてこれに帆を取り付け、
それをウインチ(轆轤)でコントロールし、
前後左右上下に移動して風に合わせて推進力とした。」
すごい。すでに今の近代ヨットと同じだ。
「船底は2重構造とした」、ともある。近代タンカーと同じ安全構造だ。

そして、もっと凄いことが書かれているのを発見した。

「船尾に2対のスクリューを装着し、それをウインチ(轆轤)で巻いて回転させ、推進力とした。
これは周防大島の村上氏の祖先の創意(発明)である」、
との記述だ。
設計図(そう、設計図の写真もある)を見ると、
飛行機のプロペラのように細く長い羽が4枚付いている。
そのスクリューが船尾板左右に2つ装備されている。
確かに、これだと人力でも轆轤を介せば楽に回せただろう。

西洋で、蒸気でスクリューを回す蒸気船が登場したのが19世紀。
周防大島の村上氏のスクリューの発明が、16世紀。
西洋より300年も前に、日本で人力スクリューが発明され、実用されていた!
うーん、知らなかった。
村上氏というのは当然、村上水軍関係者だろうな。
歴史の時間は年号ばかり覚えさせられて、退屈で仕方なかったけど、
先生、こういうことを学校で教えてくれば、
ボク、もっと勉強するいい子になっていたのに。

ホクレアが寄った周防大島。
ホクレアの周防大島寄港の段取りを整えてくれた大島商船高専の
藤井船長の生まれ故郷の、あの周防大島で、
地球初のスクリューが考え出されたのか…。
突飛なことのようだけど、でも、あの島に住む人たちの船と海の「血」の濃さを思えば、
当然のようにも思えてくる。
2年前に寄港して以来、周防大島ファンになっているホクレアのクルーたちに、
早速教えてあげよう。

ホクレアに関することを相談に行った先で、
帰り際にまったくそのこととは関係なく、1冊の本をお借りしたら、
それもホクレアに繋がってしまった。
うーん、どういうこと?
そういうこと?

豊臣秀吉が発案し、徳川幕府開闢直後に徳川家康が制度化した朱印船は、
その僅か30年後、鎖国政策によって存在理由をなくし、廃れた。
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