近代西洋型快速帆船大研究 - CBTFの実際

2006年10月25日 | 風の旅人日乗
10月25日

今晩は、KAZI(舵)2004年7月号に連載された、近代西洋型快速帆船大研究 Vol.2 PYEWACKETの前半から、CBTF(Canting Ballast Twin Foil)で話題になったパイワケットの解説の後半。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.2 PYEWACKET

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

CBTFの実際

CBTFを装備したレース艇の、レースでの場面をシミュレートしてみよう。
スタート前のマニューバリング。キールは真下に固定している。操船は、大小2セットあるホイールのうち大きい方で行なう。このホイールは後ろラダーと前ラダーのコードラントに繋がっていて、ホイールを回すと後ろと前のラダーが逆向きに動くように、それぞれのコードラントからのラインがセットされている。例えば艇を左に回頭させるためにホイールを左に回すと、後ろのラダーは通常の艇と同じように右を向くが、前のラダーは艇が回っていく方向、左に向かって切れる。つまり、2枚のラダーはハの字のように切れる訳だ。このことによって艇は、通常のヨットのようにスターンを大きく振ってその抵抗で減速することもなく、スムーズな弧を描いてスピード豊かに回頭する。
で、スタートしてスターボード・タックで走り始めたとしよう。油圧でキールを右舷側、つまり風上側に持ち上げる。〈パイワケット〉の場合、キールは片舷53°まで持ち上げることができる。この操作で艇のヒールがグンと起き、パワフルなセーリングが始まる。
そして後ろと前の2枚のラダーの操作である。クローズホールドで走り始めるや、大小2つあるホイールのうち、小さいホイールを操作する。小さい方のホイールは前のラダーを独立して動かすことができる。つまり、それまでゼロだった前ラダーと後ろラダーのオフセットをずらすことができる。この小さいホイールの操舵の目的は、通常のヨットの場合、後ろのラダーだけが受け持っているウエザーヘルムとのバランス調整を、前ラダーにも分担させることである。つまり2枚のラダーともほぼ同じ角度でほんの少し風上側に向くようにして、艇のウエザーヘルムとバランスさせる。こうすることによって通常のヨットでは3~4°あるリーウエイが、僅か1°~2°に激減する。
通常のヨットに比べて水面下抵抗物として前ラダーが余分なわけだから、その意味のデメリットもありそうだが、CBTF社の説明によるとそういう計算にはならないらしい。
通常のヨットと違って、キール・ストラットは揚力を発生する必要がないから、強度だけを考慮すればいいので前後長さと厚さを押さえることができる。カンティング・キールにすることでバラストそのものを軽くすることができるので、鉛バルブの体積、表面積が減り、その分の造波と摩擦抵抗が減る。バラストの重さが減ることで艇全体としての排水量が減って艇が浮き上がり、カヌーボディーの浸水面積も減る。従ってトータルとしては通常のヨットよりも接水面積は小さく、セールエリア/排水量比は大きくなる、という説明である。
手元に〈パイワケット〉を設計したジム・ピューからもらった資料が何枚かある。そのうちの一枚は同じくジムが設計したアメリカズカップクラス艇〈スターズ&ストライプス〉USA-77とMaxZ86〈パイワケット〉との性能比較表である。この表からすると、〈パイワケット〉は2003年型の平均的なACクラスよりも微風のクローズホールドで1マイル当たり26秒近く速く、中~強風のリーチングからダウンウインドでは、なんと1マイル走るだけで46~53秒も前に行ってしまうことになっている。恐るべしのスピードである。
外洋ヨットとしての機構としてはまだ不安の残るCBTFだが、今後さらに改良され洗練されていくのかも知れないし、これとは別にまったく新しい発想の外洋ヨットの水面下機構が生まれるのかもしれない。しかし、そのどれもにも日本のセーラーやデザイナーが関わってないことがとても悔しい。
今、オリンピックの470級の世界では、日本が独自で開発し製造するセールが世界中を席巻している。凄いことだ。いつの日か日本の外洋セーリング界からも、日本発の独自の機構やシステムが生み出される日が来ることを夢見て、西洋人セーラーたちが考え出すセーリングの新機軸に取り残されないよう、勉強を続けて行きたいと思う。

近代西洋型快速帆船大研究 - CBTF

2006年10月24日 | 風の旅人日乗
10月24日

今晩は、KAZI(舵)2004年7月号に連載された、近代西洋型快速帆船大研究 Vol.2 PYEWACKETの前半から、CBTF(Canting Ballast Twin Foil)で話題になったパイワケットの解説の中盤。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.2 PYEWACKET

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

CBTF

CBTF、つまり、カンティング・キール(傾斜させることができる可動キール)に、揚力を発生する2枚のフォイルとして前後ラダーを組み合わせるという装備が、これからの高速帆走艇水面下のスタンダードになっていくのか、それとも元の伝統的なキールとラダーというセットにもどっていくのか、あるいは、もっと違った組み合わせが登場するのか、今のところ誰も予測できない。
これまで長い間、バラスト・キールは同時に2つの役割を担わされていた。即ち、復元力を確保することと、翼として揚力を生み出して艇の横流れを防ぐ、という2つの役割りである。
CBTFでは、バラスト・キールは復元力を確保するという仕事しか担当しない。艇の横流れを防ぐ仕事は、キールの前後に配された2枚のラダーが担当するのである。
キールの前にもラダー(カナード)を付け、後ろの本来のラダーとの2枚セットで揚力を発生させて艇の横流れを防ぐという装備は、1987年、フリーマントル沖のインド洋で行なわれたアメリカズカップ挑戦者シリーズで初めて登場した。セントフランシスYCから挑戦した、故トム・ブラッカラーが率いる〈USA〉である。
この艇は、長い直線を走る場面で驚くべきスピード性能を見せることはあったものの、その場面に至る以前の、スタート・マニューバリングやマーク回航で艇のコントロールが上手く行かず、早い時期に敗退した。このチームがフリーマントルから撤退した後の倉庫の中に、折れたカナードが何枚も放置されていたのを思い出す。波荒いインド洋を走るのに、強度上の問題も最後まで解決できなかったのだろう。
それ以降も複数のアメリカズカップ関係チームがこのアイディアを試したはずだが、それらのチームがアメリカズカップに勝利するには未だ至ってない。
一方、キールを風上側に振り上げて復元力を増すカンティング・キールの工夫と装置は、オープン60クラスなどですでに一般的である。大西洋横断記録を更新したジャイアント・ケッチ〈マリシャーIV〉も、巨大な油圧シリンダーによって駆動するカンティング・キールを装備している。来年スタートするボルボ・オーシャンレースを走るボルボ70クラスでもこの機能を持つキールが多く採用されている。しかしこれらオーシャン・ゴーイングの高速艇では、カナードを装備していない。これらの艇では、横流れを防ぐ揚力を、風下側の舷にオフ・センターで差し込むダガー・ボードによって発生させている。艇の前部にあるために空中高く飛び出し、海面に叩きつけられるカナードは、オーシャン・ゴーイングのヨットでは構造的にまだ不安材料が残っているようである。
CBTFは、カンティング・キールと前後2枚のラダーを組み合わせたシステムである。その名もCBTFコーポレーションという会社がこのシステム自体にライセンスと特許を持っている。つまり、CBTFを採用する艇はすべてこの会社にライセンス料を支払わなければならない。噂では、このライセンス料が結構高いらしい。余談だが、最近米国西海岸で進水したアラン・アンドリュー設計の80フッター〈マグニチュード〉はカンティング・キールを装備しているが、揚力発生機構としては、カナードではなく、角度調節ができないダガー・ボードをキールの前に装備している。ダウンウインドではこのダガー・ボードを引き上げて抵抗を軽減させるのが主な狙いだが、CBTF社にライセンス料を払うのが嫌で、カナードではないシステムを模索したという理由もあるようだ。

(続く)

近代西洋型快速帆船大研究 Vol.2 PYEWACKET

2006年10月23日 | 風の旅人日乗
10月23日

今晩は、KAZI(舵)2004年7月号に連載された、近代西洋型快速帆船大研究 Vol.2 PYEWACKETの前半から、CBTF(Canting Ballast Twin Foil)の搭載で話題となったパイワケットの解説。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.2 PYEWACKET

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

さて近代西洋型快速帆船大研究第2弾、今月はMaxZ86クラス、CBTF装備の〈パイワケット〉である。
いきなりMaxz86クラスと言われても、いきなりCBTFと言われても、何のことだか分かる人は少ないはずだ。2つとも日本のセーリング界には存在しないものだからだ。これについては次のページから説明していくとして、まずは〈パイワケット〉という快速マキシの横顔から紹介しよう。
およそ4億5千万円を掛けて全長87フィートの〈パイワケット〉を建造し、世界のレースを楽しんでいるオーナーは、ロイ・ディズニー氏。ご存知ディズニー王国創始者ウォルト・ディズニー氏の甥っ子である。現在はディズニー社の経営には直接タッチしていないが、辣腕のビジネスマンである。辣腕のビジネスマンでありながら、アメリカ西海岸きっての辣腕のセーラーでもある。ロイ・ディズニー氏のセーラーとしてのキャリアは50年以上に及び、これまでに数々のロング・レースを制覇している。
キム・ノバック主演の映画(ディズニー映画ではないが・・・)『Bell Book and Candles』に出てくる魔法の力を持つ不思議な猫「パイワケット」がロイのお気に入りで、そのマジカル・パワーを海の上でも発揮してもらおうと、自分のヨットの名前として使うようになった。今月紹介するのはその4代目の〈パイワケット〉(ライケル/ピュー87)である。
ロイはまた、先代〈パイワケット〉(ライケル/ピュー75)で打ち立てた、トランスパック(ロス~ハワイ)レース、マキナック・レース、そしてバミューダ・レースの最短所要時間記録保持者でもある。
先代の〈パイワケット〉が作った記録を破るべく誕生した4代目の全長は87.36ft(26.63m)。それに対する全幅は14.76ft(4.9m)。非常に細身のヨットである。排水量は21トン。このサイズのヨットとしてはかなり軽い。そしてセール・エリアは872.18m²もあって攻撃的だ。大きなセールエリアを持ちながら細い船型と軽排水量。このようなスペックを〈パイワケット〉に与えることを可能にするマジカル・パワーがCBTFである。

MaxZ86クラス

MaxZ86クラスとは、ボックス・ルールで規定された新しいオープン・クラスである。ボックス・ルールとは、長さ・幅・深さ・重さ・セールエリアなどのスペックが、定められた枠内であれば、設計は自由であるというルールで、勝敗は原則として着順で争われる。
同じ『着順勝負』のレースであっても、ワンデザイン・クラスと違ってオープン・クラスは設計に自由度がある。多くのレーシング・ヨットのオーナーにとって、どのデザイナーに設計を依頼するかを真剣に考え、そのデザイナーと一緒になって自分のアイディアを盛り込んだ独自の艇を創り上げていくことは、レースそのものにも匹敵する大きな楽しみの一つである。だが、ワンデザイン・クラスだと、この楽しみを味わうことができない。
IMSでもIRCでもPHRFでもない、もっと伸び伸びとした性能の高速ヨットで、ほとんど見えない相手との修正時間を気にするレースではなく、間近で息も詰まるような抜きつ抜かれつの、着順勝負の本来のヨットレースをしたい! しかも、自分のヨットには自分のアイディアを盛り込んで相手を出し抜きたい! そういうオーナー層の要望を満たすのが、オープン・クラスなのである。
世界一周レースに使われるオープン60クラス、ボルボ70クラス、アメリカズカップ・クラスなどが代表的なオープン・クラスだが、一般的な外洋ヨットには、今までオープン・クラスはほとんど存在しなかった。
その露払いとして北米で華々しくデビューしたのが、トランスパック52(TP52)クラスだ。TP52クラスは、艇体やセールの各諸元の範囲が定められたボックス・ルールで規定されるオープン・クラスで、今年あたりからいよいよ本格的に活動が活発化した。
そしてこのTP52クラスのアイディアを参考にして登場したのが、〈パイワケット〉も所属するMaxZ86クラスなのである。TP52が、純粋にクラス内でのレースを目的としているのに対し、MaxZ8は、それに加えてクラシック・レースでの最短時間記録更新を狙うオーナーたちが作ったクラスだ。ライバルたちとつばぜり合いの勝負も楽しみつつ、新記録樹立も狙うんだ、という欲張りなオープン・クラスなのである。
TP52のクラス・ルールが、1枚のキール(トリムタブは禁止)と1枚のラダーしか許してないのに対して、貪欲に絶対性能を求めるMaxZ86クラスでは、復元力を得る方法や水面下のアペンデージの選択にもかなりの自由度が与えられている。そんなクラス・ルールのもと、第1世代のMaxZ86〈ゼフィルス〉が採用したのがウォーター・バラストであり、〈パイワケット〉に代表される第2世代MaxZ86がこぞって採用しているのが、CBTF(Canting Ballast Twin Foil―スウィング・キールと前後ラダーの組み合わせ)なのである。

(続く)

近代西洋型快速帆船大研究 - CBTFかウォーターバラストか

2006年10月22日 | 風の旅人日乗
10月22日

今晩は、KAZI(舵)2004年6月号、7月号と連載された、近代西洋型快速帆船大研究の中から、98フィート・レーシングヨットZANA〈ザナ〉の解説の後半から。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.1 ZANA

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

CBTFかウォーターバラストか
〈ザナ〉のアッペンデージとしてブレットはCBTF(カンティング・バラスト・ツイン・フィン。詳細は来月号)を最初に検討した。CBTFは50ft~70ftのサイズの外洋艇ではすでに実績があり、話題のMaxiZ86クラスでも採用されているシステムである。
結果として、〈ザナ〉ではCBTFは採用しないことになった。それは、この艇の第一のターゲットが、少なくともレース中の何時間かは、ほぼ間違いなく荒れるシドニー~ホバートだったからだ。
バス海峡を寒冷前線が横切って南風が入ると、98ftの大型艇といえども大きなピッチングを繰り返す。バウが跳ね上がるとCBTFで船体前部に付けられるカナード(前ラダー)も空中に飛び出す。ブレットの計算では、バウが跳ね上がる高さは9mほどにもなる。ピッチングするということは艇が風上に向かって走っているということで、だから艇はヒールしている。つまり、空中に飛び出したカナードは、次の瞬間に9m近い高さから斜めに、角度を持って海面に叩きつけられる。カナードを横からへし折ろうとする、ものすごい水圧が加わるのである。艇の浮心の後ろにある通常のラダーが決して経験することのない荷重である。
このパンチングでカナードが折れてしまう可能性がある。といってカナードの強度をただ上げればいいというものでもない。カナードの構造が船体よりも強くなってしまうと、カナードが過大な荷重を受けたとき、取り付け部周りの船体のほうに浸水から沈没に繋がる深刻なダメージを与えてしまうからだ。
これらのことから、〈ザナ〉はCBTFを将来的なオプションとして残したまま今回はCBTFの採用を見送り、2つのモードのバラスト・システムを使うことになった。一つは、ウォーターバラスト(片舷容量5トン)と軽めのバルブキールの組み合わせ。もう一つは、ウォーターバラストを使わず、重めのバルブキールだけを使うモードである。
ウォーターバラストを使う場合、いかに早く海水を注入・排出し、左右のタンクを入れ替えを行なうかが、マーク回航やタッキング時に重要になってくる。〈ザナ〉では、この注排水にジェット・ポンプを採用している。これはライケル/ピュ-が2002年に設計した90ftマキシ〈ショックウエイブ〉にも採用されたシステムである。〈ショックウエイブ〉はそのジェットポンプを出入港時の推進力としても併用していたが、港内での細かな操船が難しく、〈ザナ〉ではこのアイディアは使っていない。

リベンジ
結果を先に言うと、2003年、〈ザナ〉はその最大の使命を果たすことに失敗した。〈ザナ〉と同サイズだがスウィング・キールを装備した〈スカンディア〉の弱冠39歳のオーストラリア人オーナー、グラント・ウエリントンに、ホバートのフィニッシュラインで15分の遅れを取ったのだ。スタート前のシドニーでは「〈ザナ〉のほうが圧倒的に速い」という評価を受けていながら、〈ザナ〉はフィニッシュ直前のパフに乗り遅れてしまったのである。
私が〈ザナ〉を訪れたのはそのフィニッシュから2ヶ月も後だったが、スチュワートの怒りはまだ新鮮なままで、10ヶ月も先の2004年のレースでのリベンジを誓った。改造を施した〈ザナ〉が今年のシドニーでどんな走りを見せるか、スチュワートとそのチームがどんな秘策を練ってくるのか。今年12月、私はそれを〈ザナ〉のクルーとして見届けることになりそうだ。

(続く)


PYEWACKET 帆船の進化は止まらない

さて、〈ザナ〉に続いて来月号で紹介するのは、MaxZ86クラスの〈パイワケット〉だ。CBTFを装備した全長86ftのインショア&オフショア・マキシである。
CBTFは、シングルハンド長距離レース艇のオープン60クラスやミニトランザットクラスで使われているカンティング・キール+ダガーボードの考え方をさらに進めたシステムである。このCBTFのメカニズムを中心に、話題のMaxZ86クラスを来月号で詳しく見てみることにしよう。


近代西洋型快速帆船大研究 - 機は熟した

2006年10月21日 | 風の旅人日乗
10月21日

今晩は、KAZI(舵)2004年6月号、7月号と連載された、近代西洋型快速帆船大研究の中から、98フィート・レーシングヨットZANA〈ザナ〉の解説の中盤から。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.1 ZANA

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

機は熟した
〈ザナ〉建造構想は、2003年のシドニー~ホバート・でのファーストホームを最大目標としてスタートした。
シドニー~ホバートにせよ、トランスパックにせよ、ファーストホームを狙って大型艇の建造を繰り返すオーナーたちのほとばしるような熱意には、我々日本人にはうかがい知れないものがある。彼らにとって、ハンディキャップ・ルールによる「修正順位」なるものは、不可解で意味のないものに過ぎない。新茶や金塊や羊毛を載せて競っていた時代から、帆船による競争は「一番乗り」こそが勝負なのである。クリッパーの時代の価値観を引き継ぐ彼らにとって、一番速い船を持つことが一番の名誉であり、また、それが船主の富の象徴として受け取られる側面があったとしても、それはそれでやぶさかではないのである。
自分一代で身を起こし、ウエリントンの実業界で成功を収めつつあるスチュワート・スウェイツにとって、「母国で最大級のレーシングヨットを造って宿敵オーストラリアに乗り込み、その国の伝統的レースで彼らのヨットを蹴散らしてホバートに一番乗りする」という計画は、身が震えんばかりに興奮するものだった。本来のビジネスも軌道に乗っている。着手したばかりの新しいビジネスも順調に育っている。スチュワートにとって、機は熟したのである。

設計者と建造者
スチュワートが〈ザナ〉の設計者として抜擢したのは、ブレット・ベイクウェルホワイトである。ブレットはローリー・デイビッドソンの右腕として長く働いてきたベテラン設計者である。ローリーの事務所から独立するに際して、ブレットは米国の伝統的で権威あるヨット設計事務所「S&S」からチーフ・デザイナーとして誘われたが、それを断って自らの事務所を開いた。
ローリーの事務所にいる頃からすでに、ブレットは地元オークランドでは優れた設計者としての評価を得ていたが、海外で活躍する艇を設計する機会に恵まれることはなかった。〈ザナ〉は、国際的な舞台でブレットの実力を世に問う、最初の作品になることになった。
スチュワートは現役の実業家であり、仕事の場では現場で陣頭指揮を取るタイプの経営者である。毎日忙しいスケジュールに縛られている。自分のビジネスの現場であるウエリントンから、大型艇建造技術を持つオークランドやタウランガの造船所に通う時間などない。「それならば」と、スチュワートは地元ウエリントンに自分で造船会社を設立し、そこで〈ザナ〉を造ることにした。これなら毎日でも建造現場に顔を出すことができる。スチュワートは、その造船所の共同経営者として最高の技術力を持ち、しかもこの道で成功したいという野心を持っている造船技術者を探し出した。それが、ポール・ヘイクスである。
ポールはカンタベリー大学を卒業してからこの道に入った。中卒や高卒でこの世界に入るのが一般的なニュージーランドの造艇業界では、異色の存在である。
彼は量産艇の造船所で基礎を学んだ後、カスタム艇建造で世界をリードするクックソン・ボートに移籍した。10年以上に渡ってクックソンで数々の名艇建造を担当してから、ポールはドイツへと渡った。2003年のアメリカズカップ挑戦を目論んでいたドイツ・チームの挑戦艇建造担当に抜擢されたのだ。しかし、挑戦艇が99%完成した時点で、資金不足に陥ったこの組織は突然崩壊する。呆然としていたポールに、旧知の設計者ブレットからの電話が入った。「君を必要としている人物がウエリントンで待っている」。
 数回のミーティングを経て、スチュワート・スウェイツとポール・ヘイクスの共同経営による「ヘイクス・マリン」が設立された。ニュージーランドの首都ウエリントンで最初の本格的カスタム艇建造ビルダーの誕生である。〈ザナ〉の建造が始まった。

(続く)

近代西洋型快速帆船大研究 Vol.1 ZANA

2006年10月20日 | 風の旅人日乗
10月20日

今晩から、少し趣きを変え、何回かに分けて、KAZI(舵)2004年6月号、7月号と連載された、近代西洋型快速帆船大研究を紹介します。まずは、98フィート・レーシングヨットZANA〈ザナ〉の解説の前半から。(text by Compass3号)

近代西洋型快速帆船大研究
Vol.1 ZANA

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

世界のメジャーレースでトップ・フィニッシュし、過去の最速記録を塗り替えることを使命とする、全長86ft~100ftの大型レーシング・ヨットが次々と建造されている。
過去に存在した同サイズのレース艇に比べて圧倒的に速いこれらの艇には、最新の流体力学理論や、材料、構造が惜しみなく注ぎ込まれている。まさに時代の最先端を行くセーリング・モンスターである。
日本人セーラーには馴染みの薄いこれらの最新鋭セーリング・マシーンを紹介する。今月号ではニュージーランド最大の98フィート・レーシングヨット〈ザナ〉、来月号ではCBTF(カンティング・バラスト・ツイン・フォイル)を装備した話題のMaxZ86クラス〈パイワケット〉を詳しく見てみよう。

Boat name / ZANA,
LOA / 98 feet,
Owner / Stewart Thwaites,
Designer / Bakewell-White Yacht Design,
Builder / Hakes Marine,
Spars / Southern Spars,
Sails / Doyle Sails,
Deck equipments / Harken

Boat name / Pyewacket,
LOA / 86 feet,
Owner / Roy Disney,
Designer / Reichel/Pugh,
Builder / Cookson boats,
Spars / Hall Spars,
Sails / North Sails,
Deck equipments / Harken

クリッパーの血統を引き継ぐ者たち

1851年に初めてアメリカズカップが開催された頃、太平洋、大西洋、インド洋といった外洋でも、英国と米国の高速帆船によるスピード競争が盛んに行なわれていた。それは、中国の新茶、インドの胡椒、オーストラリアの金(きん)、羊毛といった貿易品をライバル社よりも早く運ぶための会社経営上の競争であったが、当事者たちにとってはそれだけが理由ではなかった。これら、“クリッパー”と呼ばれる高速帆船の競争には懸賞金が出され、賭けの対象としても民衆の大人気を博していた。また、米国と英国の両国民のライバル意識がぶつかりあう格好の場でもあった。両国を代表する船主や設計者は、経済的成功だけでなく、この競争に個人的プライドをも掛けていた。
船主たちは優秀な設計者を高額で雇い入れて高速船型を開発させた。設計者と造船所は軽くて頑丈な船体構造を研究し、乗員数を削るためにウインチなどの機械的な艤装品の開発にも積極的に取り組む。そうしてその時代の最先端技術が搭載された高速帆船が次々と誕生していった。
これら百数十年前のクリッパーの血統を受け継ぎ、現代の船主たちの意地を具現した近代セーリングモンスターの開発競争が、東洋の国日本から離れた西洋社会で今でも連綿と続いている。
つい最近、142ftのハイテク・スクーナー〈マリ・シャーⅣ〉が単胴帆船のデイラン記録と大西洋横断記録を塗り替えた。その直後には世界最大のスループとして全長約250フィートの〈ミラベラV〉が進水した。〈ミラベラV〉のマストの高さは100メートル近くあって、ゴールデンゲート・ブリッジをくぐることができないほどだ。
また、これらの超大型艇とは別のアプローチで、モノハル帆走艇としての高速記録に挑むセーリング・モンスターたちも次々と誕生している。これらの一群は既存のメジャー外洋レースの参加資格枠の上限に収まるように設計され、全長が86~100ftというサイズである。
参加枠上限のサイズではあるものの、最新の流体力学理論や構造技術が思うさま詰め込まれたこのモンスターたちの使命は、ライバルと競いながらトップでフィニッシュラインを走り抜け、世界のメジャー外洋レースの最短所要時間記録を塗り替えること。
世界中で続々と建造されているこういったマキシ・ボートのうちの一隻、全長98ftの〈ザナ〉は、ニュージーランド最大のレーシングヨットとして、この国の首都ウエリントンで昨年建造された。

(続く)

子供たちとの新しいステージへ

2006年10月19日 | 風の旅人日乗
10月19日

さて、今晩は、KAZI(舵)2004年10月号に掲載された、サバニ帆漕レース2004「古来の海文化を子孫に伝える」の後半です。
(text by Compass3号)

古来の海文化を子孫に伝える
サバニ帆漕レース2004

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(昨晩からの続き)

子供たちとの新しいステージへ

そして現代。サバニとその帆走技術は、子供たちの総合学習の題材として取り上げられるようになった。沖縄県の座間味中学校では、今年からサバニを操って海に出る授業を、総合学習の一環として始めた。祖先が伝えてきたサバニという海洋技術・文化を次の世代に伝えるのである。過酷な労働条件の問題と一緒くたにして、サバニの帆走技術まで途絶えさせることはないのである。改めるべきものは改めればいいのだし、残すべき文化や技術は残すべきなのだ。
その授業の一つの区切りとして、座間味中学の生徒たちが自分たちだけでチームを組んで、今年で5回目の開催になった座間味~那覇のサバニ帆漕(帆走しながら櫂で漕ぐ)レースに参加した。現代の中学生たちが、自分たちの祖先が乗っていたのと同じ舟、サバニ、を操って、自分達が暮らす島を出て、海を渡ったのだ。
風は途中で凪ぎてしまい、櫂を漕ぐことだけが舟を進める唯一の手段になったが、子供たちは暑さや、手に出来たマメ痛さに耐えて、その航海を無事やり遂げた。しかも、多くの大人のチームを尻目に、好成績でゴールラインを走り抜けた。
現代の子供たちに操られるサバニは、重いテーマのTVドラマから抜け出だして、とても現代的で溌剌としているように見えた。これからは、子供たちが助け合うことを覚えたり、夢や冒険心を育む舟として、サバニはその役目を背負っていくことになるのだろう。

「古来の海文化を子孫に伝える」

2006年10月18日 | 風の旅人日乗
10月18日

さて、今晩は、KAZI(舵)2004年10月号に掲載された、サバニ帆漕レース2004「古来の海文化を子孫に伝える」の前半から。
(text by Compass3号)

古来の海文化を子孫に伝える
サバニ帆漕レース2004

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

サバニの過去と新事実

かつて(1988年)NHKが、『海の群星(むりぶし)』というタイトルのドラマを制作した。舞台は、第二時世界大戦が終わって間もない頃の石垣島、主人公のサバニ漁師を緒方 拳が演じている。
このドラマのビデオを入手して鑑賞した。ストーリー自体から離れた目で見ると、細くて不安定で、乗りこなすのに熟練を要するサバニを、緒方 拳以下の出演者たちが、物の見事に操ってセーリングしていることに舌を巻く。慣れない人間にとっては、転覆させないためには立ち上がることすら躊躇するサバニの上を、役者たちは何の不安もなく歩き、そのうえ主演の緒方 拳は、サバニの伝統通りに、脇に挟んだエーク(櫂)を使って、セーリング中のサバニの舵を自在に取っている。現在の沖縄漁師にも、エークで舵を取ることができる人はそれほどいないはずだ。「フー(帆)降ろせー」という命令で、素早くスルスルと帆を降ろす子役たちも、熟練の技を見せる。このドラマの制作当時の十数年前、役者たちにサバニの帆走技術やそこで使う言葉を指導する、バリバリのサバニ漁師たちがまだ存在したのだろう。
しかしドラマの主題は、サバニ操船法ではない。ドラマは、当時の沖縄の酷烈な漁業労働環境を軸に展開する。第二次世界大戦争後に、それまでこの地域に伝統的に受け継がれてきた労働環境が急激に変化し、いい意味であれ悪い意味であれ、伝統の帆走サバニと、それを使った漁法が消えていかざるを得なかった背景が描かれている。
ドラマでは、人買い同然に周辺の島々から子供たちが集められ、サバニに乗せられ、海に潜らされる。そうして親方の家の納屋に数人単位で寝泊りしながら、彼らは厳しく漁を仕込まれていく。サバニの帆走技術もそういった生活の中で学んでいく。中には、あまりに過酷な生活から逃れようとして脱走を試みる子供たちもいる。
2年前、初めてサバニ・レースに参加したときの、島の老人の「遊びでサバニに乗るんか?」という言葉と、驚いていた表情の本当の意味が、このドラマを観て初めて分かったような気がした。昔の過酷なサバニ漁を知る人にとって、サバニという舟は、決してロマンという言葉で簡単に括れるものではないのだろう。
縁があってサバニに関わるようになって以来、サバニを勉強すればするほど、後から後から新しい事実、歴史を知ることになる。TVドラマを観るまでは、サバニを単純に、沖縄海文化のロマンの対象として見ていた。しかしもうそういう単細胞的な観察眼で見ることはできない。
また、今回の沖縄取材で、糸満に住む熟練のサバニ乗りと話していて、ひとつ新しい事実を教わった。かつて、糸満の漁師はサバニに乗って八丈島やパラオまで遠征していた、と書いた文献や人の言葉を鵜呑みにして、そう思っていたし、そういう文章を自分でも書いたことがある。
しかしそれは間違っていた。その糸満のサバニ乗りの話では、サバニは自力でそんな遠征ができる舟ではないという。自力で南太平洋の島々に行ったのではなく、やんばる船という、やはり沖縄古来の船で、サバニよりももっと大きな大型船に載せられて現地まで行き、そこで海に降ろして現地行動舟として漁をし、その漁が終わるとまたやんばる船に載せて糸満に帰ってきたのだという。確かに、あんな小舟のどこに食糧や水を積んで長期航海をしていたのだろうと、不思議に思わないこともなかったが、深く考えることをしないままそれらの文章や言葉を鵜呑みにしていた。速い、という特長があるとは言え、サバニとて、沖縄-八丈島を水や食糧を積まずに行き来できる魔法の舟ではなかったのだ。

(続く)

サバニが沖縄にもたらしたもの

2006年10月17日 | 風の旅人日乗
10月17日

今晩で、KAZI(舵)2003年9月号に掲載された、沖縄の伝統帆装船・サバニ「海の系図を求めて」の最終回。
読み終わったら、ゆっくり瞳を閉じて、沖縄・慶良間で帆漕するサバニをイメージしてみてください。
(text by Compass3号)

(昨晩からの続き)

サバニが沖縄にもたらしたもの

横山晃が船型を分析したのは糸満のサバニだが、サバニは、糸満、宮古水域、八重山水域では、それぞれ船型が微妙に異なる。しかも地域による違いだけではなく、舟大工一人一人が、敢えて他人に迎合しない、自分自身の形を持っていたと言われる。
宮古の池間島出身で、現在は石垣島でサバニを造っている船大工・新城康弘は、サバニの船首部船底の膨らみについて、横山とは別の理論で説明している。「この船底の膨らみはサバニが風に流されるのを防ぎ、また波を切り開く役目を果す」。
新城が造ったサバニの船底は、前部の比較的エッジの立ったV~Uシェイプから後半部のフラットなシェイプへとなだらかに変化していく。前半部の形でアップウインドを効率良く走り、後半部のフラットな部分でダウンウインドをパワフルに走る、最近のレーシング・ヨットと似た考え方だ。いや、最近のレーシング・ヨットのほうが、数十年前から造られている新城のサバニを真似たことになる。これに似た局面構成の船底を最近どこかで見たなあ、と記憶をたどったら、それは今年の第31回アメリカズカップ予選2位になったオラクル〈USA‐76〉だった。タッキングしない限り、上りもダウンウインドも今回の挑戦者のなかでダントツに速かったボートだ。
新城にサバニを造ってもらったある船主によると、そのサバニは他のどのサバニよりも長く波に乗ることができ、どんなに時化ても船首が波に沈むことなく常に波を切り続けるのだという。新城は、自分の技術を残すサバニを、自分の体力が続くうちにもっともっとたくさん造りたいと望んでいる。
現代の糸満うみんちゅたちも、「サバニにもいろいろあるけど、糸満のサバニこそが本筋なんだ」という気概を持っている。"これが本物の糸満サバニだ"と誇れる新艇を自分たちで造ろうという気運が、最近糸満の漁師を中心に盛り上がっているらしい。こういった動きやサバニ帆漕レースの人気ぶりを観察していると、サバニは、サバニという文化だけにとどまらず、沖縄人の誇りそのものを思い出すキーワードになったように見える。

今、沖縄でサバニをきっかけにして起きているようなことが起爆剤になって、自分たちの海文化を思い出し、見直し、復活させ、自分たちの誇りを取り戻すことに繋がる活動が日本全国に広がっていけば、すでに化石になりつつある日本の海文化の未来も少しは明るくなると思う。自分が生きている世界を、経済という側面だけしか知らないで死んでいくのは、淋しいことだよなあ。(文中敬称略)

参考資料
素晴らしき哉「サバニ」 横山晃 舵誌1976年11月号~1977年1月号
潮を開く舟サバニ -舟大工・新城康弘の世界 安本千夏 南山舎   

「素晴らしき哉サバニ」

2006年10月16日 | 風の旅人日乗
10月16日

さらに、また引き続き、KAZI(舵)2003年9月号に掲載された、沖縄の伝統帆装船・サバニ「海の系図を求めて」から。
(text by Compass3号)

(昨晩からの続き)

「素晴らしき哉サバニ」

サバニに乗って、漕ぎ、セーリングして、まず驚かされることは、その加速性能である。スピードである。プレーニング性能である。前時代的イメージの船型を見てなめてかかると、ヤケドする。
サバニに秘められた素晴らしい能力を初めて科学的に分析したのは、私が知る限りでは、日本のヨット設計家の草分け横山晃だ。今から27年近く前の、舵誌1976年11月号から翌年の1月号にかけて3回連載された「素晴らしき哉サバニ」という標題の文章である。
横山はサバニの船型を分析し、舵誌にその結果を発表した理由を、「この名艇を風化させてはならないという思いに駆られ」、「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇のエッセンスを今日以降の舟艇設計に生かそうとする同士が1人でも増えることを願って」、と説明している。西洋型ヨットの設計家として日本の第一人者であり、長く一世を風靡していた横山晃をして「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇」と言わしめる性能を持っているのが、沖縄の無名の舟大工たちが伝承で造ってきたサバニなのである。
サバニの船底前部には、不思議な前後方向の膨らみがある。船首からなだらかに船体中央部に向かって喫水が深くなっていくのではなく、船首部で一旦喫水が深くなったあと、ごく僅かなマイナスカーブを描いて喫水は再び浅くなり、それから再び深くなっていく。横山はこの形こそがサバニのスピードの理由だと説いた。この工夫により船首から立つ波を小さく抑え、結果、ハル・スピードを越えてプレーニングへと入るときに越えなければいけない最大抵抗そのものも小さくなるのだ、と。
江戸時代の東京湾。漁師が江戸前の魚介を捕ったり、池波正太郎の小説の主人公達が大川(隅田川)で遊んだりしていたのは、ニタリとかチョキとか呼ばれていた舟だが、サバニと同じく剣のような細い船型の高速性能ボートで、"粋"であることを人生最大の目標とした江戸ッ子を喜ばせていた。横山はニタリやチョキにも、サバニと同様に船首部船底に膨らみがあって船首から出る波が小さいことを指摘し、これを、サバニから直接影響を受けたものだと推論している。糸満のうみんちゅが八丈島や伊豆まで来ることはその昔から日常茶飯事のことで、彼らを通じてサバニ船型が江戸湾の舟にも伝えられたのだろう、と書いている。

(続く)

サバニを引き継ぐ者たち

2006年10月15日 | 風の旅人日乗
10月15日

さらに引き続き、KAZI(舵)2003年9月号に掲載された、沖縄の伝統帆装船・サバニ「海の系図を求めて」から。
(text by Compass3号)

沖縄の伝統帆装船・サバニ
 「海の系図を求めて」

(昨晩からの続き)

サバニを引き継ぐ者たち

精神的略奪に耐えて残した海の文化

沖縄の人たちは、本土政府から自分たちの文化を奪われ続けてきた。明治時代が始まった頃、沖縄の人たちは自分たちの民族衣装を着ることを禁止された。第2次世界大戦が始まると、本土政府は沖縄人が土地の言葉を使って会話することを禁止した。土地の言葉を使って会話している者を敵国スパイとみなすというのだ。それ以前の時代には一切の武器を持つことも禁止された。沖縄で空手が生まれた理由である。
自分たちの言葉を奪われる悲しみはどんなだっただろうか。「基礎施設」という分かりやすい言葉があるのに「インフラ」といい、「協力」「共同作業」という美しい響きの自国語を持っているのにわざわざ「コラボレーション」とオチョボ口で言う現代の日本人には、到底理解できない悲しみだったことだろう。
そんな圧政の中で、沖縄の人たちは自分たち独自の船を守ってきた。帆かけサバニである。帆かけサバニは、沖縄の人たちが辛うじて守ることができた数少ない文化のひとつである。鎖国政策を敷いた徳川幕府によって日本全国で徹底された船の構造制限の影響も受けたし、なぜか沖縄だけは鉄釘を使えないという制限も受けた。しかしそれらの制限の中で、彼らはサバニ文化を発展させ続けた。鉄釘ではなく、木の釘(フンドー)と竹釘(タケフズ)で船板を強固に合わせるサバニ構造を編み出した。それは他地域の和船に比べて驚異的に長い寿命をサバニに与えることになった。
現在は杉材を組み合わせて造られているサバニだが、僅か二百数十年前までは、大木を刳り抜いて造るサバニが主流だった。丸木舟の時代を持つということは、サバニはその血統をさらに過去にまで遡っていくことができる舟だということを意味する。日本は、実は世界最古の造船用工具・丸ノミ形石斧を出土している国である。鹿児島県加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡から出てきた一万二千年前の石斧である。木を刳り抜いて舟を造る道具である。世界最古の造船工具が出てきたということはつまり、九州地方には世界最古の舟があった、ということになるのである。我々の祖先は、この地球という天体の海に初めて舟を浮かべた生物なのかも知れないのである。そして、現在我々が実際に見て触れることができるサバニは、その一万二千年前の世界最古の丸木舟の、直系の子孫なのかも知れないのだ。
近世の圧政の中にあっても、自分たちの文化を守るという頑固さを持ち続けた沖縄人の矜持こそが、サバニという舟を現代に伝えることを可能にしてくれたのだ。

(続く)

過去を知り、未来を思う

2006年10月14日 | 風の旅人日乗
10月14日

昨晩から引き続き、KAZI(舵)2003年9月号に掲載された、沖縄の伝統帆装船・サバニ「海の系図を求めて」から。
(text by Compass3号)

沖縄の伝統帆装船・サバニ
 「海の系図を求めて」

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(昨晩からの続き)

過去を知り、未来を思う

翌々日、台風6号のために欠航していた座間味行きフェリーの運航再開第1便に乗って、1年ぶりの座間味へと向かう。前日にハワイから沖縄入りしたナイノア・トンプソン、荒木をはじめとするアウトリガーカヌー・クラブの若者たちから成る我ら「まいふなーチーム」がこのフェリーの上で揃い、ナイノアがハワイから持参した海図でレースで走る実際のコースを確認しながら、座間味島への航海を楽しむ。
ナイノア・トンプソンについては、龍村仁監督の映画「ガイアシンフォニー」や星川淳氏著の「星の航海師」などによって知っている人も多いことだろう。ナイノア・トンプソンは、祖先から伝承された古代航法だけを頼りに、いかなる航海用具も用いず、太平洋を自在に行き来する能力を持ったナヴィゲーターである。ナイノアはその古代航法によって、ハワイからタヒチ、イースター島、トンガ、ニュージーランドに至る太平洋を、古代セーリングカヌーを復元した〈ホクレア〉で何度も航海してきた。それらの航海を通じて、ナイノアは、ポリネシア文化圏のすぐ近くに浮かぶ日本という国、人、文化に強い何かを感じている。言葉にはあえて出さないが、彼は、自分たちポリネシア人の故郷が実は日本なのではないかと強く感じているフシがある。だからこそ、サバニという舟、その文化全体にも深い敬意を抱いている。それが、沖縄を訪れてこのサバニ帆漕レースに参加したいと彼が強く願った理由なのである。
同じフェリーの貨物デッキには、今回のサバニレースに参加する大小、新旧、様々なサバニが載せられて、座間味島に向かっている。ほとんどが沖縄各島から集められた船齢数十年のサバニたちだが、今年は新艇の数も増えてきた。古いサバニを保存するだけでなく、伝統工法に則った新しいサバニを作ることで、サバニ造船技術も保存することに協力したいと考える船主が現われるようになったのだ。
来る度にその海の美しさに圧倒される座間味島では、今回のサバニ帆漕レースに参加するチームが楽しそうに準備をしていた。年に一度のこの催しを心待ちにしていた現代のうみんちゅたちだ。今年、第4回サバニ帆漕レースにエントリーしたのは34隻。スタート前日、真っ白い砂浜が続く古座間味浜の沖では、レース中の西洋型ヨットと交錯するようにしてサバニたちがセーリングしている。濃淡の茶色に染められたサバニのセールが、強い光が溢れる青い海の色彩の中で、柔らかく目を癒す。世界のどこに行っても見ることができない、日本オリジナルの光景が目の前に広がっていた。
このサバニ帆漕レースの意義は、少なくとも今のところはまだフィニッシュラインでの勝敗ではないと思う。自分たちの祖先が乗っていた帆掛け舟を蘇らせ、水に浮かべ、皆が揃って座間味から那覇までの海を走ること。先人達が大海を渡るのに使っていたのと同じ形の舟が語りかけてくるものを身体で感じ取りながら海を渡ること。それをより多くの人たちが体験すること。これらのことが今は重要なのだと思う。それによって、未来に繋がるものも見えてくるようになるのだろう。
座間味から那覇まで約18マイルの航海は、今年もあっという間に終わってしまった。もっともっと乗っていたかった。また一年待たなければいけない。

(続く)

沖縄サバニと出会う旅

2006年10月13日 | 風の旅人日乗
10月13日

西村さんは、スロベニアのポルトロッシュから、本日、お昼過ぎに帰国。
明日、14日午前中は、葉山町の広報誌からの取材。
8月の葉山セーリングキャンプの様子を広報誌に載せてくれるそうです。
14日の午後は浦賀でヨットの仕事。
15日のお昼から19日夜まで、家族サービスを兼ねて、沖縄・慶良間でサバニ合宿。
その後、再びヨーロッパへ向かって、ヨットレースと、ほぼ毎日、セーリングの日々が続きます。

さて、今晩から、何回かに分けて、KAZI(舵)2003年9月号に掲載された、沖縄の伝統帆装船・サバニ「海の系図を求めて」を紹介しようと思います。
サバ二帆漕レースの様子については、こちらのフォトギャラリーに沢山写真が掲載されていますので、併せてご覧になると、イメージし易いかと思います。(text by Compass3号)

沖縄の伝統帆装船・サバニ
 「海の系図を求めて」

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

陸上を移動していて突然目の前に海や水平線が見えたとき、心は何故ざわめき立つのだろう?
海に出て、船首を沖に向けて波を乗り越えるとき、心は何故昂ぶるのだろう?
自分の体の中に、海とともに生きてきた民族の血が流れているせいではないのだろうか?
そんな予感の手掛かりに会うために沖縄に行く。サバニという帆装舟に乗りに行く。

サバニに会える海、沖縄

台風6号が宮古島に接近していた。強い南東風が時折の激しい雨とともに吹きつける沖縄本島・那覇空港に、シーカヤックの内田正洋と共に降り立つ。
今年もサバニに乗るために沖縄を訪れた。慶良間諸島の座間味村から那覇まで約18マイルの海を走る。第4回サバニ帆漕レースである。昨年はソウル・オリンピック470級代表の野上敬子さんと一緒に乗って楽しんだが、今年は内田、そしてハワイからやって来るナイノア・トンプソンたちと一緒に乗る。
沖縄屈指のシーカヤッカー大城敏が空港まで迎えに来てくれ、彼が経営するカヤックガイド店「漕店」に立ち寄ってキリリと冷えた泡盛で再会を祝した後、首里にある山城洋祐の自宅に向かう。山城は今回の我々『まいふなー(八重山言葉で、「お利口さんだねえ」の意)チーム』のボスであり、何週間も前からこのレースのためにサバニを用意し整備してくれている生粋の沖縄人。外洋ヨットを所有するベテラン・セーラーでもある。
自宅の庭に生えていたイヌマキの木からレースに使うアウトリガーを削り出す作業をしていた山城を、内田と大城が手伝う。私は、途中まで終わっているセールの仕上げ作業を引き継ぐことにする。神奈川県の三浦半島にあるセール屋さんが特別なコットン製オックスフォード織りの生地で作った帆を、山城が久米島まで船で持って行き、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。車輪梅で布を染めると織りの目が詰まるだけでなく、防水性も加わるのだという。そのセールにはフーカケ(帆かけ)サバニの伝統通りに竹製の横桁が渡されている。各横桁にシートとなるロープを付け、端止めをする。このロープは山城が芭蕉(琉球名産の芭蕉布の材料となる植物)の繊維を使って自分の手で綯(な)ったものだ。仕上げに縮帆用のハトメをセールに打つ。作業を終えて皆でオリオン・ビールを飲みつつ上空を見上げると、台風に吹き込んでいく風が雲をびゅんびゅん飛ばしている。少し考えてビールを置き、3段めのリーフ用ハトメを打ち加えた。
それにしても、サバニのセールは帆(フー)であり、メインシートはティンナーであり、マストはハッサ、メインハリヤードはミンナーで、マストステップをダブ、マスト・カラーをカンダンというのである。常々ヨットレースでも通常のセーリングでも、自分の国の単語がないのを淋しく思っていたが、サバニはその形だけでなく、言葉においてもサバニ・オリジナルを持っている。我が日本国にも、独自の帆走文化があり、独自の言葉があったのである。一般の日本人に知られることがないまま、20世紀の終わりと共にほとんど途絶えかけていたこの文化が、サバニ保存会が年に一度開催する「サバニ帆漕レース」という催しのおかげで、再び息を吹き返そうとしている。伝統の天然染料で染めた帆を揚げ、芭蕉の葉から作った縄を操って風に乗る。自分たちの祖先が使っていた道具、言葉をそのまま使って美しい沖縄の海を帆走するのである。自分が日本人であることを意識するセーラーならだれでも、最高の幸せだと感じるのではないだろうか。少なくとも私は、サバニに乗って帆走しているとき、説明しがたい誇らしい気持ちが高まってしまい、西洋人たちに威張りたくなって仕方がない。

(続く)

風と星に導かれて、その後

2006年10月12日 | 風の旅人日乗
10月12日

今週発売されたTarzan No.475の82ページに、先月、福岡で開催された、ナイノアさんや内田さんの講演会の様子が写真入で掲載されていますので、是非、ご覧下さい。
その中で、来年、ハワイ文化の象徴であるホクレアが、伝統航海術継承の地、ミクロネシアを経由して、日本へ向かう計画が紹介されています。
日本での寄港予定地は、那覇(4月1日到着予定)~熊本~長崎~福岡(4月下旬到着予定)~山口~愛媛~横浜(5月14日到着予定)とのこと。
ホクレア号航海支援Tシャツをまだ買っていない方は、この波に乗り遅れないように、急ぎましょう。
(text by Compass3号)

ランドフォール オブ パラダイス

2006年10月11日 | 風の旅人日乗
10月11日

みなとみらい21の石造りドックに現役当時のまま浮かぶ日本丸のスターンをうっとり眺めていたら、27年前のランドフォールの記憶が沸々と蘇って来ました。

今晩は、KAZI(舵)2004年11月号に掲載された、CRUISING STORIES「読むクルージング」の中から、ランドフォール オブ パラダイスを紹介します。

秋の夜長に、珠玉のエッセイをどうぞ。

実は、このエッセイに甚く心を動かされ、何回も読み直してみては、タイムトリップしています。(text by Compass3号)

ランドフォール オブ パラダイス

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

日本を出航して、すでに32日めが過ぎようとしている。
毎日、毎日、船はそれなりの速度で前進しているが、行けども行けども、前方から見えてくるのは海だけである。船の周りには、満々と海水を湛えた太平洋が、圧倒的な量感でどこまでも広がっている。商船大学卒業前の遠洋航海。航海科の実習生として、練習帆船日本丸に乗っていた。
リベット構造の鋼鉄でできた日本丸は、当時すでに船齢50年を越えていて、太平洋の大きなうねりが船底を通り抜けていくたびに、船体はギイギイという軋み音をたてた。最後に見た陸は、千葉県外房の野島埼。いや、正確に言えば、房総沖を通ったのは夜だったから、神戸を出て紀伊半島をかわして以来、陸地は見てない。暗い水平線の向こうに、光芒として消えていった野島埼灯台の赤白の閃光が、日本との別れだった。

航海中の練習船の生活は、単調に思われるかもしれないが、実際は結構忙しい。
毎朝甲板に海水と砂を撒き、横一列に並んで、半分に割った椰子の実でチーク甲板をこする。椰子の実の繊維と砂との摩擦で、硬いチーク材の表面が薄く削り取られる。当直の実習生全員で甲板全体をこすったあと、ポンプで汲み上げた海水で甲板を洗い流す。甲板を覆うチークの木目が鮮やかな色を取り戻し、朝日を浴びて光り輝く。
1日2回、4時間の当直に立つ。士官役、見張り役、舵取り役、気象・海象観測などの役割りを交代で担当しながら、実際の航海士の仕事を覚えていく。
当直時間以外にも、教室で様々な授業を受ける。天気が穏やかな日には、甲板に帆布やロープを広げて、次の航海で使うセールを縫いあげる。各種ロープ類をスプライスする。リギンに捲く「バギーリンクル」と呼ばれる擦れ止めを、古くなったマニラロープをほぐして作る。係留時に使う大型フェンダーも、ロープを編んで作る。
1日3回、明け方と正午、そして夕暮れ時に、六分儀で太陽と星の高度を測り、天測暦と天測計算表を使って船の位置を出す。それを士官に提出する。測定船位の精度と、その計算に要した時間が採点される。
その天測計算の際に必要な、船の推定位置を割り出すために、1時間ごとに船の速力を測定する。抵抗板のついたロープを船尾から送り出し、そのロープが出て行く長さを砂時計で測る。ロープには一定の長さごとに結び目がある。砂時計の砂が落ちるまでにその結び目がいくつ出て行くかを数える。船の速力が速ければ、出て行く結び目の数も増える。船の速力を表わすノット(結び目)の語源である。
海況によってその方法が使えない時は、薪(まき)を十字に組んだような木片を船首から投げる。海面に浮いている木片の横を船が通り過ぎるのに要した時間を測定する。自船の長さは分かっているから、その長さと時間から速力を割り出す。現代では主に航程を意味するようになったログ(薪)の語源である。
操帆も頻繁だ。風向が変われば、セールの帆綱を調整しなおす。必要があれば下手回しで方向転換(ジャイビング)もする。日本丸では、舫いやアンカー・チェーン以外にキャプスタン(ウインチ)を使うことはできないので、1本の帆綱に10人以上の実習生が群がってハリヤードやブレース、シートを引く。先頭の一人がビレイ・ピン(ロープ留め)にクリートするまでの間、ロープを引いているその他の全員が、尻をデッキにつけてセールの荷重に耐える。ほとんど運動会の綱引きの要領だ。4本のマストに掛っているセールは全部で約30枚もある。だから、一口に「セールをトリムする」「ジャイビングする」と言っても、全ての作業が終わるまで、結構時間がかかる。一番前のフォアマストから一番後ろのジガーマストまで、当直全員でデッキを走り回って様々なロープを引く。
時と場合によっては、上手回し(タッキング)をすることもある。ジャイビングと違ってタッキングは、30枚のセールを一度に返さなければ、失敗する。だから横帆リグの帆船でのタッキングは、船を挙げての大イベントになる。実習生はもちろん、船長以下、事務方からドクター、食堂のシェフまで、約120名の乗員全員が甲板に勢ぞろいする。船長がいよいよタッキングを決心すると、その1時間くらい前から、「本船は○○時にタッキングを始めるので、それまでにそれぞれの用事を済ませた上で、各自持ち場に集合するように」という旨の船内放送がある。船全体が、まるで祭りの前のように高揚した雰囲気に包まれる。その時間帯に舵を持つことになっている実習生は、1時間も前からガチガチに緊張する。
風速が変われば、セールを縮帆したり、それを再び展帆したりする。また、風速に変化がなくても、毎日の日課として、夕方になると、前3本のマストの一番上に展開している「ロイヤル」と呼ばれるセールを畳んで、夜の突風に備える。何事もなく夜が明けると、再びロイヤルを展帆する。その作業のために1日2回マストトップに登る。作業中、下を見ると、全長約100メートルの船の、バウスプリットから船尾までが視界の中にスッポリと入る。甲板にのたくるロープは糸のように細い。精密な帆船模型を見るようだ。作業を終えてしばし見渡す水平線は、相当な曲率で丸まっている。
毎週土曜日には、便所掃除もある。これは普通の便所掃除ではない。船のトイレは海水で水洗するが、海水と尿の成分が反応して結晶する。その結晶がパイプを詰まらせる。だから週1回、配管をすべて分解し、管の中を金属製のブラシでゴシゴシとこする。こすりカスが顔に跳ねる。しゃべっていると口にも飛び込む。
そのあとは、これも週一度だけの洗濯日課。貴重な真水を無駄なく使うために、全員揃って行う。男たちの汗や塩や便所掃除の汚れで、たらいの水がドロドロになる。
このように、課業に追われた不便で忙しい生活だが、海と帆船の生活はしみじみと楽しい。特にお気に入りは、夜明け間近の時間帯だ。夜半0時から朝4時までのゼロヨン・ワッチを終えた後、熱いコーヒーの入ったマグカップを片手に、フォクスルのすぐ後ろ、一段低くなっているウエルデッキに出る。風下側のチェーンプレートに攀じ登り、フォアマストのロア・シュラウドに張られたラットラインに腰を下ろす。夜明けの気配が始まった空と海を眺めながら、コーヒーを口に運ぶ。ウエルデッキは海面に近くて、時折細かな波しぶきが降りかかる。一段上の甲板から、笛の音が聞こえてくる。次の当直に入った仲間たちが、薄明時の星を使って一斉に天測をしているのだ。

この航海の半年前には、別の練習船で南半球への実習航海を経験していた。その航海は、途中たくさんの島々の間を通り抜けるコースを取ったから、陸や人間社会はいつも身近な存在だった。1ヶ月以上も陸地を見ないのは、この、練習帆船での航海が初めてだった。意外だったのは、日本を出航した直後には少し残っていた陸への里心が、航海がこれだけ長くなると、逆に薄れてくることだった。船での生活にほとんどストレスがなかったせいなのだろう。この航海が、このままあと1年ほど続いても、大した苦ではないようにさえ思った。
かつて、まだ外洋を航海したことがなかった高校生の頃、海洋冒険小説や海の史実に関する本に頻繁に登場する「ランドフォール!(陸が見えるぞー!)」という言葉に憧れた。いつかは自分も長い航海をして、船の中で一番最初に陸を発見し、その言葉を自分の口で叫んでみたいと思っていた。だからこの実習航海では、誰よりも早くハワイの島影を見つけることを、密かな楽しみにしていたのだ。
33日めの夜。ホノルル港到着予定の丸2日前。
甲板で、風上側の見張り当番をしていた。
手摺を越えて吹き込んできた風を何気なく吸い込んだとき、その風の中に、森の中を歩いているときに嗅ぐのと同じ匂いが混じっているのを感じた。この一ヶ月の海での生活で、まったく忘れていた匂いだった。急いで船橋に走り、レーダーの画面を見る。しかし、レンジをいっぱいに広げても、陸影は映っていない。なのに、木や土や花の匂いは、いよいよ鮮明に鼻を刺激する。視覚やレーダーの超短波が島影を発見する前に、その島の匂いが、先に嗅覚に届いたのだ。
初めて訪れたハワイ諸島の印象は、それ以来、森の匂いとして、鮮明に記憶に残ることになった。人間の嗅覚が、視覚の範囲より遠くに存在するものの匂いを感知できるということも、それまでは、思ってもみないことだった
その匂いを感じるようになってから2日後の朝。寝ぼけ眼で甲板に出てみると、バウスプリットの向こうに、こげ茶色のダイヤモンドヘッドが、日本で見慣れた観光ポスターそのままの姿で横たわっていた。とても残念なことに、あれほど憧れていた視覚による「ランドフォール!」の栄誉は、別の実習生に奪われた。間抜けなことだが、オフ・ワッチでグッスリと寝ている間に、船はホノルル港外に着いて錨を降ろしてしまっていた。

大学を出て海関係の雑誌社に入ると、毎月の締め切り仕事に追われて、ランドフォールを楽しみにできるような長い航海に出る機会がなくなった。週末のヨットレースと練習で海に出る他は、いつも満員の通勤電車で会社に通った。カメラやテープレコーダーを持って取材に走り回り、乱雑に散らかった机で原稿用紙に向かう。とてもストレスの溜まる毎日だった。
そんな生活の中にも、「ランドフォール」という言葉に触れる時間が、僅かだが、あった。日々の仕事に疲れて帰ってきた夜、安酒を飲むテーブルや布団の枕もとで、現実逃避をしていた。『ランドフォール・オブ・パラダイス』という本のページをめくりながら、想像上の航海をしていた。
『ランドフォール・オブ・パラダイス』は、アメリカの出版社が発刊する太平洋の島々の入港ガイドブックである。ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの島々が細かく取材されていて、主要な港への入港方法、桟橋の場所、税関事務所の位置などが、詳しい説明図と写真で紹介されている。その島でお勧めのパブに関する記述や、そのパブの入口にある看板の写真まであったりする。寒い冬の夜、布団から首と手を出してその分厚い本を開き、それらの島々をランドフォールして、入港し、架空のパブに入ってうまい酒を飲んだ。
そういうふうに4年が過ぎたあと、本の中でのランドフォールはもう止めにして、やはり自分は海に出て生きるべきだと思い、プロセーラーとして自立することを決めた。
雑誌編集者としての最後の仕事は、小笠原群島・父島のクルージングガイドを作ることに決めていた。かつて、大学を休学中に父島で暮らしたこともあったから、その島のことや島を取りまく海には詳しいつもりだったし、島で生活している友人たちもいた。もちろん自分自身で最新情報の取材にも出向いた。その記事は我ながら満足のいくページになったが、しかし、企画そのものや、写真とイラストをたくさん使って入港方法や地元の情報を紹介するページ作りは、ほとんど『ランドフォール・オブ・パラダイス』のスタイルそのものだった。

陸の安定した生活から離れ、海とセーリングで生きることを決めた後の、初めてのランドフォールは、それもなぜか小笠原だった。スキッパーとして小笠原-東京レースに出るために、三浦半島の油壷を出航して父島を目指した。大学を卒業して以来、数年ぶりに手にする六分儀を使って、天測で船位を出しながら南下した。何日目かの朝、自分の天測位置が正確だったと証明される方向に小笠原群島の北端にある北之島をランドフォールしたとき、なにか、身体が痺れるような感動を覚えた。自分はやっとまたこの世界に戻ってきたのだ、と思った。
それ以来、数知れずのランドフォールをした。そしてそのたびに身体が痺れ、心が震えた。プロセーラーがクルージングを楽しんでいては、残念ながら仕事として成り立たないから、セーリングと言えばほとんどの場合がレースである。逆説的かも知れないが、その航海がレースで、そしてそれが、海況という意味でも勝負という意味でも、厳しい状況の航海であればあるほど、ランドフォールはより恍惚とした瞬間になる。前を走る艇のこと、後ろから迫ってくる艇のことが、瞬間、意識の表層から遠のく。そしてそれよりも、自分のセーラーとしての実力や、真の航海者としての実力が証明されたような、それはもちろん自己満足的な世界なのではあるが、そういう気持ちに浸ることができる。他艇との先着争いという部分でのヨットレースが、小さなことに思えてくる一瞬でもある。
シドニー~ホバート・レースで前方に見えてくるタスマニア島は、この島とオーストラリア大陸を隔てるバス海峡でほとんどいつも大時化の洗礼を受けるせいか、荒涼とした島だという印象が深い。タスマニア島からも、森林の匂いが風に乗って届く。しかしその匂いは、少し甘く感じるハワイの森の匂いとは異なり、鋭く凛とした寒帯の針葉樹林の匂いだ。
トランスパックの最終日に水平線から見えてくるモロカイ島。チャイナシーを渡って到達するフィリピン沿岸から聞こえてくるニワトリの声。外洋セーリングカヌー〈ホクレア〉から見た、聖なる島カホオラウェの夜明け。寒々としたアイルランドの沿岸の手前に、突然のように姿を現す孤高の岩、ファストネット・ロック・・・。
いま思えば、それぞれのランドフォールすべてが、自分の夢に近づいていく『ランドフォール・オブ・パラダイス』だった。その意味では、長い航海のあとのランドフォールは、陸や島と同時に、セーラーとして一歩成長した新しい自分自身を発見していることでもあるのだと、言えなくもない。
航海に出ることの不安に怯えてしまって、航海そのものに出ることをやめれば、セーラーはランドフォールの感動を経験することはできない。また、航海に出たとしても、誰もがそれを経験できるわけでもない。そうして考えていくと、一人の人間の人生そのものも、一生の夢をランドフォールしようとしている、心の航海なのかもしれないと思えてくる。