6月21日 水曜日。
次は、舵誌の2001年3月号に掲載された、風の旅人たち、春よ、来いへから。(text by Compass3号)
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風の旅人たち <<舵2001年3月号>>
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
春よ、来い。
ニュージーランドで初日の出
二十一世紀の初日の出を、ニュージーランド北島東海岸のタイルアという町で見た。
1月1日午前0時を期して、町の主催で大花火大会が始まったり、若者たちがパブに集まって大騒ぎをしたりして新年を祝うものの、海か山に出かけてその年最初の日の出を見ようという習慣はこちらにはないらしい。
夜明け前のタイルアの町にはまだ酔いつぶれてない生き残りが何人かフラフラと歩いているだけで、温かいベッドから起き出して海から上る朝日を見ようなどと考える人は誰もいないようだった。
町の前に陸続きで浮かぶパクという名前の小さな島の、小高い丘に登る。
近くの家から、チョコレート色のレトリーバーがニコニコしながらしっぽを振って出てきて横に座り、徐々に赤みが差してくる東の方向の水平線を一緒に眺める。
夜半から強く吹いていた風が急速に衰え、家々は寝静まって丘の上には静かに時間が流れる。
風が凪いでしばらくすると、空と海の隙間から眩しい光が溢れ出てきた。
ニュージーランドの東の海岸に姿を現した二十一世紀最初の太陽は、オレンジ色、というよりも、ぼんやりと暖かい温州みかんの色をして、とても和風な趣きで水平線に浮かぶ雲をかき分けるようにしてゆっくりと上ってきた。
その場所の経度は日付変更線のすぐ近く、東経約176度だったから、世界でほとんど一番早い二十一世紀の夜明けだ。
日本から持ってきたフリーズドライのお雑煮を車のボンネットの上で作っているうちに、その朝日に照らされた海全体がみかん色になってゆき、なんだかまるで安っぽい正月写真の中に入ったようになってそのお雑煮をすすった。
冬休み読書感想文
元日以外、クリスマスや年末年始は雨に振り込められたので、田舎町のベッド&ブレイクファストの小さな部屋や森の中に張ったテントの中で、雨音を聞きながらゆっくりと本を読むことができた。
今回もニュージーランドにはたくさんの本を持ち込んだが、中でも、ロアール・アムンセンの「南極点」とアーネスト・シャックルトンの「エンデュランス号漂流」を久しぶりに読み返すのが何よりの楽しみだった。
これらの2冊を読んでいると、昔の人はこの地球の厳しい大自然と正面切って闘っていたのだなあ、と改めて感心する。
羊毛とトナカイの毛皮という原始的な防寒具と、犬という動力(兼食糧)だけで南極の寒さに立ち向って何ヶ月もかけて南極点まで往復したり、ちゃんとしたデッキのない全長僅か20フィートの救命ボートを操って、冬間近かで大時化の南氷洋を何週間もかけて渡り切り、文明世界まで戻ってきたりしている。
しかし、昔といってもアムンセンが人類で初めて南極点に到達したのは今から僅か90年前のことだ。
僅か90年の違いとは言え、文明が進化すると、いつの間にかヒトと大自然との闘いの場面はぐっと減ってきて、一方でヒト対ヒトの闘いがいろんなところでより激しくなっているように思える。
子供たちが夢中になっているテレビゲームの中でも、ヒトがヒトをブン殴ったり蹴っ飛ばしたりばかりしているようだが、現実のヒトの社会もこれから先さらに、そういう、相手の痛みなど構わずヒトを倒してヒトに勝つヒトだけが正しいヒトだという社会になっていくのだろうか?
個人的にはあんまり良いことじゃないんじゃないかと思うが、ぼくは、自分自身のことを社会的に見てあまり常識的な生き方をしてないのではないかと密かに恐れているので、自分と違う意見を持っている常識的なヒトと論戦を張る自信はあまりない。
ボルボセーラーたち
冬期の8000メートル級の山々に立ち向かっていき、そしてそんな山で死んでいった登山家たちの本も何冊か読んだ。
南極点にしても未登峰への登山にしても、ヒトに先んじようというヒト対ヒトの闘いがそれ以前に間接的にあるにせよ、詰まるところはヒトを寄せつけようとしない厳しい大自然に、ヒトが自分自身の精神と肉体の限りを尽くして立ち向かうという行為だ。
その行為そのものはなんら生産的でもなければ、なんの意義もない。しかし彼らは現代のヒトが失いつつある何かを心の中に携えていたように思う。ほんの少し昔、ヒトの精神と肉体は大自然に対して結構強かったのだ。
そういう意味では、大晦日にバルセロナをスタートして今現在行われているザ・レースも、今年9月にスタートするボルボオーシャンレースも、ヒトが大自然の中でそれぞれが自分の能力の限界尽くすことで間接的に他のヒトと競い合う、現代では数少ない挑戦事だ。しかし、残念なことにそのどちらにも日本人セーラーは関係していない。
今年のボルボオーシャンカレースに参加するイルブルック、タイコ、ニューズ・コープの3隻が、1月6日にオークランドに姿をそろえた。、シドニー~ホバートをフィニッシュしてすぐトレーニングのために3隻そろって同時にホバートをスタートしてオークランドを目指したのだ。
ぼくが犬と一緒にのんびりと朝日を見ながら雑煮を食べていた頃、彼らはタスマン海を雄々しく渡っていたのだと思うと、少々焦りを感じる。
3隻それぞれのクルーたちと話した。イルブルックとタイコは2月末からの2ボートテストに備えてボートをフロリダに輸送する作業で大忙しだが、みんななんだかとても幸せそうだ。
オーストラリア大陸とタスマン島の間のバス海峡では67ノットの南西に吹かれたらしい。
僕が2回経験したシドニー~ホバートレースのうち1回は、バス海峡とストームベイで47ノットの向い風に吹かれた。今はそうは思わないが、そのときは、これが終わったらもうオフショアレースに出るのやめるべきではないか、と思ったほどだった。
全長30フィートのヨットで出ていたある年の三宅島レースでは夕方から真夜中にかけて55ノットの北東風を経験したが、そのときはセールをすべて降ろしても船体に受ける風圧だけで艇は横倒しの状態からなかなか起き上がることができなかった。今でも覚えているが、高さ60センチしかないライフラインの外側に広がる暗い海に「死の世界」がクッキリと見えた気がした。
それらの経験からしても、67ノットの南西風が吹き続くバス海峡の有り様というのはあんまり想像したくない。彼らも一度はベアポールにまでしたそうだが、それもちょっとしたいい土産話に過ぎないようで、クリスマスも正月もないセーリング漬けの毎日の後なのに、みんなやけにハツラツとしている。
しかし、それはそうだろう。この先、レースのフィニッシュまで1年半もの間このプロジェクトに没頭できるのだし、イルブルック組などはそのまま続けてアメリカズカップもやるから、これから少なくとも丸2年は望み得る最高の舞台でセーリングばかりして過すことが約束されているのだ。幸せに決まっている。プロセーラーは自分のセーリングの腕を、極限の環境で発揮できる場所と機会を持てて初めて幸せになれるのだ。
英語圏からはずれた日本人セーラーにとって、地球を舞台にセーリングの場所と機会を得ることは極めて厳しいことだが、夢々あきらめることだけは決してするまいと固く思う。
春よ、来い
オークランドでのある晩、アメリカのアメリカズカップ挑戦チーム、ワンワールドに加わった元ニッポンチャレンジの脇永、早福、鹿取と飯を食べた。彼らは昨年からオークランドで始まった2ボートテストプログラムに加わっていて、とても充実した日々を送っていることが彼らの話し振りから伝わってくる。彼らのいろいろな苦労話も、聞いている側にはうらやましくさえ思う。
元ニッポンチャレンジで開発チームのひとりだった金井アキヒロとリグデザインを担当していた高橋太朗さんも、<阿修羅>と<韋駄天>と共にイギリスのシンジケートに行くことがほぼ決まったらしい。途絶える寸前だった日本とアメリカズカップの繋がりは、彼ら達のお陰で辛うじて保たれているのだ。
今オークランドでは、ワンワールドの他に、オラクル、プラダ、そしてもちろんチームニュージーランドがハウラキ湾に出て艇のテストやクルートレーニングに明け暮れている。市郊外のクックソンボートでは、ヨーロッパのディジュース・チームが発注した2隻のボルボ60が完成間近かだ。
冷え切っているようにみえる日本のセーリング熱が、なんとか早く暖かい春を迎えることができるよう、自分なりにできる限りの努力をしていきたい。
(無断転載はしないでおくれ)
次は、舵誌の2001年3月号に掲載された、風の旅人たち、春よ、来いへから。(text by Compass3号)
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風の旅人たち <<舵2001年3月号>>
文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura
春よ、来い。
ニュージーランドで初日の出
二十一世紀の初日の出を、ニュージーランド北島東海岸のタイルアという町で見た。
1月1日午前0時を期して、町の主催で大花火大会が始まったり、若者たちがパブに集まって大騒ぎをしたりして新年を祝うものの、海か山に出かけてその年最初の日の出を見ようという習慣はこちらにはないらしい。
夜明け前のタイルアの町にはまだ酔いつぶれてない生き残りが何人かフラフラと歩いているだけで、温かいベッドから起き出して海から上る朝日を見ようなどと考える人は誰もいないようだった。
町の前に陸続きで浮かぶパクという名前の小さな島の、小高い丘に登る。
近くの家から、チョコレート色のレトリーバーがニコニコしながらしっぽを振って出てきて横に座り、徐々に赤みが差してくる東の方向の水平線を一緒に眺める。
夜半から強く吹いていた風が急速に衰え、家々は寝静まって丘の上には静かに時間が流れる。
風が凪いでしばらくすると、空と海の隙間から眩しい光が溢れ出てきた。
ニュージーランドの東の海岸に姿を現した二十一世紀最初の太陽は、オレンジ色、というよりも、ぼんやりと暖かい温州みかんの色をして、とても和風な趣きで水平線に浮かぶ雲をかき分けるようにしてゆっくりと上ってきた。
その場所の経度は日付変更線のすぐ近く、東経約176度だったから、世界でほとんど一番早い二十一世紀の夜明けだ。
日本から持ってきたフリーズドライのお雑煮を車のボンネットの上で作っているうちに、その朝日に照らされた海全体がみかん色になってゆき、なんだかまるで安っぽい正月写真の中に入ったようになってそのお雑煮をすすった。
冬休み読書感想文
元日以外、クリスマスや年末年始は雨に振り込められたので、田舎町のベッド&ブレイクファストの小さな部屋や森の中に張ったテントの中で、雨音を聞きながらゆっくりと本を読むことができた。
今回もニュージーランドにはたくさんの本を持ち込んだが、中でも、ロアール・アムンセンの「南極点」とアーネスト・シャックルトンの「エンデュランス号漂流」を久しぶりに読み返すのが何よりの楽しみだった。
これらの2冊を読んでいると、昔の人はこの地球の厳しい大自然と正面切って闘っていたのだなあ、と改めて感心する。
羊毛とトナカイの毛皮という原始的な防寒具と、犬という動力(兼食糧)だけで南極の寒さに立ち向って何ヶ月もかけて南極点まで往復したり、ちゃんとしたデッキのない全長僅か20フィートの救命ボートを操って、冬間近かで大時化の南氷洋を何週間もかけて渡り切り、文明世界まで戻ってきたりしている。
しかし、昔といってもアムンセンが人類で初めて南極点に到達したのは今から僅か90年前のことだ。
僅か90年の違いとは言え、文明が進化すると、いつの間にかヒトと大自然との闘いの場面はぐっと減ってきて、一方でヒト対ヒトの闘いがいろんなところでより激しくなっているように思える。
子供たちが夢中になっているテレビゲームの中でも、ヒトがヒトをブン殴ったり蹴っ飛ばしたりばかりしているようだが、現実のヒトの社会もこれから先さらに、そういう、相手の痛みなど構わずヒトを倒してヒトに勝つヒトだけが正しいヒトだという社会になっていくのだろうか?
個人的にはあんまり良いことじゃないんじゃないかと思うが、ぼくは、自分自身のことを社会的に見てあまり常識的な生き方をしてないのではないかと密かに恐れているので、自分と違う意見を持っている常識的なヒトと論戦を張る自信はあまりない。
ボルボセーラーたち
冬期の8000メートル級の山々に立ち向かっていき、そしてそんな山で死んでいった登山家たちの本も何冊か読んだ。
南極点にしても未登峰への登山にしても、ヒトに先んじようというヒト対ヒトの闘いがそれ以前に間接的にあるにせよ、詰まるところはヒトを寄せつけようとしない厳しい大自然に、ヒトが自分自身の精神と肉体の限りを尽くして立ち向かうという行為だ。
その行為そのものはなんら生産的でもなければ、なんの意義もない。しかし彼らは現代のヒトが失いつつある何かを心の中に携えていたように思う。ほんの少し昔、ヒトの精神と肉体は大自然に対して結構強かったのだ。
そういう意味では、大晦日にバルセロナをスタートして今現在行われているザ・レースも、今年9月にスタートするボルボオーシャンレースも、ヒトが大自然の中でそれぞれが自分の能力の限界尽くすことで間接的に他のヒトと競い合う、現代では数少ない挑戦事だ。しかし、残念なことにそのどちらにも日本人セーラーは関係していない。
今年のボルボオーシャンカレースに参加するイルブルック、タイコ、ニューズ・コープの3隻が、1月6日にオークランドに姿をそろえた。、シドニー~ホバートをフィニッシュしてすぐトレーニングのために3隻そろって同時にホバートをスタートしてオークランドを目指したのだ。
ぼくが犬と一緒にのんびりと朝日を見ながら雑煮を食べていた頃、彼らはタスマン海を雄々しく渡っていたのだと思うと、少々焦りを感じる。
3隻それぞれのクルーたちと話した。イルブルックとタイコは2月末からの2ボートテストに備えてボートをフロリダに輸送する作業で大忙しだが、みんななんだかとても幸せそうだ。
オーストラリア大陸とタスマン島の間のバス海峡では67ノットの南西に吹かれたらしい。
僕が2回経験したシドニー~ホバートレースのうち1回は、バス海峡とストームベイで47ノットの向い風に吹かれた。今はそうは思わないが、そのときは、これが終わったらもうオフショアレースに出るのやめるべきではないか、と思ったほどだった。
全長30フィートのヨットで出ていたある年の三宅島レースでは夕方から真夜中にかけて55ノットの北東風を経験したが、そのときはセールをすべて降ろしても船体に受ける風圧だけで艇は横倒しの状態からなかなか起き上がることができなかった。今でも覚えているが、高さ60センチしかないライフラインの外側に広がる暗い海に「死の世界」がクッキリと見えた気がした。
それらの経験からしても、67ノットの南西風が吹き続くバス海峡の有り様というのはあんまり想像したくない。彼らも一度はベアポールにまでしたそうだが、それもちょっとしたいい土産話に過ぎないようで、クリスマスも正月もないセーリング漬けの毎日の後なのに、みんなやけにハツラツとしている。
しかし、それはそうだろう。この先、レースのフィニッシュまで1年半もの間このプロジェクトに没頭できるのだし、イルブルック組などはそのまま続けてアメリカズカップもやるから、これから少なくとも丸2年は望み得る最高の舞台でセーリングばかりして過すことが約束されているのだ。幸せに決まっている。プロセーラーは自分のセーリングの腕を、極限の環境で発揮できる場所と機会を持てて初めて幸せになれるのだ。
英語圏からはずれた日本人セーラーにとって、地球を舞台にセーリングの場所と機会を得ることは極めて厳しいことだが、夢々あきらめることだけは決してするまいと固く思う。
春よ、来い
オークランドでのある晩、アメリカのアメリカズカップ挑戦チーム、ワンワールドに加わった元ニッポンチャレンジの脇永、早福、鹿取と飯を食べた。彼らは昨年からオークランドで始まった2ボートテストプログラムに加わっていて、とても充実した日々を送っていることが彼らの話し振りから伝わってくる。彼らのいろいろな苦労話も、聞いている側にはうらやましくさえ思う。
元ニッポンチャレンジで開発チームのひとりだった金井アキヒロとリグデザインを担当していた高橋太朗さんも、<阿修羅>と<韋駄天>と共にイギリスのシンジケートに行くことがほぼ決まったらしい。途絶える寸前だった日本とアメリカズカップの繋がりは、彼ら達のお陰で辛うじて保たれているのだ。
今オークランドでは、ワンワールドの他に、オラクル、プラダ、そしてもちろんチームニュージーランドがハウラキ湾に出て艇のテストやクルートレーニングに明け暮れている。市郊外のクックソンボートでは、ヨーロッパのディジュース・チームが発注した2隻のボルボ60が完成間近かだ。
冷え切っているようにみえる日本のセーリング熱が、なんとか早く暖かい春を迎えることができるよう、自分なりにできる限りの努力をしていきたい。
(無断転載はしないでおくれ)