7月22日 葉山

2010年07月22日 | 風の旅人日乗
7月16日、17日、18日、19日と、東京湾と相模湾でトレーニング&レースのセーリングを堪能しつつ、夜は一生懸命モノカキ仕事に精を出して、今日になってやっとホクレア行きの荷造りまでたどり着いた。

ヘリーハンセンから、今回の航海で着用させていただくウエアも届き、半日かけて荷造り。
ヘリーハンセンのウエアを提供していただいている㈱ゴールドウインには、本当にいつも頭が上がらない。
今回もホクレアでの航海用にいろんな素材のウエアを提案いただいた。夏のハワイの強烈な紫外線対策として、フード付きラシュガードなどを試させてもらうことになった。

ホクレアには基本的にドライなエリアがない。航海中は常に、身体も荷物も、いつも濡れっ放し。
なので、ウエア類は釣り用のクーラーボックス、小物は、例の「ホクレアバケツ」に入れて持っていく。

クーラーボックスは、居住区テントの中のボンク板を支える仕事も兼ねてもらう。居住区テントの下の床には、デッキに打ちあがってきた海水がほとんどいつも川のように流れている。クーラーボックスの水密構造に抜かりがあると、中のウエアは海水でひたひたになって、着替える前に海水を絞ってから着ることになる。ウエアからは海水が、目からは涙が滴り落ちる。

荷造りをしている最中に、この日ハワイから戻ったばかりのM井オーナーから電話が入る。



モロカイ・チャンネルには27~30ノットの貿易風が吹き荒れていたとのこと。今回はこの貿易風を数日間に渡って切り上がるレグがある。
アウターの上下を一段階ヘビーデューティーなものに換えることにした。
M井オーナー、貴重な情報ありがとうございました。

家族ともじっくり話ができて、心からの応援をもらっている。
あとは、この2週間ばかり変な具合が続いている、自分の体調の問題だけだ。
自分の身体が自分のものではないような、初めての経験。
しかし、大丈夫、気合で回復させることにする。

7月15日 三崎 横浜

2010年07月22日 | 風の旅人日乗
13日の火曜日早朝に大船渡を出発。




梅雨の合間の凪を幸いに、快調に南下する。
海を見ながら、
波を確認しながら、
新造船のエンジンの回転数を気にかけながら、
東北の海を楽しみながら、
それでも心の片隅にいつも、この船や先導艇の船長とも不思議な縁を持つホクレアのことが常に存在している。

珍しく凪ている金華山沖も、午前中のうちに、のどかに通過。




この日は茨城県の小名浜で一泊する予定だったが、翌日の房総沖に、南の強風という予報が出たため、大洗に1時間ほど入る以外は、このまま夜走りをして、明日午前中までに神奈川県三崎入港を目指すことになる。

日没直後に大洗に入港。
大洗マリーナに着岸してから携帯電話を見ると、westさんと、ハワイのSam's Kichinのサムから、何度も着信履歴がある。どうしたんだろう?

富山のO准教授と別件で連絡をしたら、サタワル島のマウ・ピアイルグが亡くなったようだと教えてもらう。
westさんも、サムも、そのことを知らせてくれる電話だったのだろう。

ミクロネシアの島に日本から寄付される船を運んでいる最中に、ホクレアのことを考えている最中に、ホクレアが第一歩を踏み出すために非常に重要な存在になった太平洋最後の伝統航海師の死の知らせを受けた。

そのことについて考えごとをしながら、ぼんやりとしたままチャーシュー麺の夕食を食べ、この日の夜食と翌日の朝食をコンビニで買って、夜9時前、滞在1時間半で大洗を出航する。

VHFから、銚子沖濃霧警報が発せられている。

マウが亡くなったのか・・・・。
そうなのか・・・・。

警報通り、銚子沖から九十九里浜沖にかけては、視程0.1マイル以下の、とんでもない濃霧だった。

レーダーを見ると、数えきれないほどの行き会い船が、不気味な黒い楕円の形で、前後左右の至近距離を走っている。

肉眼では、航海灯はまったく見えない。厚い雲の中にいるような霧が、船の舷側まで迫ってきている。

時折強い雨が降ってくると、レーダーの電波が雨粒を律儀に捕らえてしまい、レーダー画面は黒いシミで埋め尽くされ、船も海岸線も、一切認識できなくなる。感度を鈍くしても、この船に搭載されているレーダーのグレードでは、画面は真っ白か、真っ黒か、にしかならない。

まったくの全盲状態に恐怖を抱いても、真後ろから同行船が至近距離で続いて来ているはずのため、スロットルを緩めて船を止めることすらできない。

操舵室から顔を出して周りを見渡してみるが、自分の船の航海灯が、霧の中で舞台照明のように周囲に乱反射し、緑、赤、白の妖しい光に取り囲まれて、この世の光景とは思えない。

そんな光が乱舞する中、いきなり、突然、見上げるような角度で反航船のブリッジが出現し、こちらに覆いかぶさるように突進してくる。はじかれたように舵を右に切る。
それが繰り返される。
何度も心臓が止まりそうになる。

これが果てしなく続いて、数時間後。

明けない夜はない。晴れない霧はない。

2010年7月14日の朝日が、太平洋から上がってきた。




周囲に危険な行き合い船もいなくなる。

舵をオートパイロットに切り替え、昨日の夕方大洗のコンビニで買ってきた缶コーヒーを飲みながら、再びマウのこと、ホクレアのことに思考を戻す。

この7月のホクレアでのトレーニングを、半ばあきらめたつもりになって北陸に来たのに、ホクレアに関わることがなぜこれほど次から次に出てくるのか?

もしかしたら、
「この7月、8月のホクレアでの航海は、オマエにとってとても大事な、大きな意味のある航海になるのだぞ」、
という知らせなのではないか。

マイレージ特典の航空券のキャンセル待ちが出なくても、定価のチケットを買ってでも、自分は今回のチャンスを大切に扱わなければならないのではないか。

明日横浜に着いてこの仕事が終わり、葉山に戻ったら、今月末から始まるホクレアのトレーニング航海参加について、家族とじっくりと相談しなければいけない、
と、昇ってくる太陽を見ながら思った。



7月12日 岩手県 大船渡

2010年07月17日 | 風の旅人日乗
[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]


週末を相模湾でのセーリングとレースに費やした後、
月曜日早朝に葉山を出て岩手県・大船渡へ。

新造の漁船を横浜までデリバリーする仕事だと聞いていたが、午後2時過ぎに現地に着いて、その2隻の船を見てビックリ。
それらの2隻は、ヤンマーが造ったもので、日本政府からマーシャル諸島のマジュロに寄付される漁業研修船だった。





大船渡までの道すがら、ホクレアのトレーニング航海のことを考えていた。
この7月、8月のトレーニングスケジュールの大筋がその前の週にやっと決まり、それに参加するためにチケットを手配しようとしたら、マイレージ特典のチケットはすでに空席待ち状態で、ハイシーズン中のハイシーズンであるハワイ行き格安チケットは、その時点ではすでに全然格安ではなくなっていた。おいそれと簡単に買える金額ではない。

なるべく冷静になっていろんなことを考え合わせ、マイレージ特典の空席待ちチケットが取れない場合は、非常に無念ではあるけど、この7月8月のトレーニング参加はあきらめるしかないな、と、一ノ関で東北新幹線から在来線に乗り換える頃には、半ば結論を出そうとしていた。

だが、ホクレアは9月からドックに入り、その先1年以上を掛けて大改造を行なう。この7月8月のトレーニング参加をあきらめるということが、どういう意味を持つのかも理解できていて、それが心にのしかかり、行かないという結論を出しあぐねてもいたのだった。

そんな思いで大船渡に着いてみたら、マジュロに行く船が待っていた。
マジュロは、ホクレアが2007年のミクロネシア・日本航海の時に立ち寄った島の中でも、特に意味深い島だ。
ホクレアのことを考えながら、ホクレアとは無関係の自分自身の仕事をしに岩手県まで来たら、ホクレアをストレートに思い出させる船が待っていた。



さらに。
翌日の火曜日早朝に大船渡を出航することになって、その夜、今回のデリバリー航海の責任者でもあるI船長と、まったく関係のない話をしていたら、I船長は、1975年沖縄海洋博の折、ミクロネシアのサタワルから沖縄・本部までスターナビゲーションで航海したミクロネシアの航海カヌー『チェチェメニ号』の、エスコート艇の船長を務めた方だと言うではないか・・・。
日本の、思いもよらぬ場所で、ホクレアやスターナビゲーションの、濃密な空気に包まれた。
(続きます)







7月4日 東京 チームニシムラセーリングイベント開催

2010年07月05日 | 風の旅人日乗


毎月第1日曜日は、東京・有明の船の科学館のイベントプールで、チームニシムラ体験セーリングイベントの開催日。
これまでずっと6月の最終日曜日に開催されていた座間味~那覇間のサバニ帆槽レースが、今年は7月第1日曜に行われることになったため、日程が重なってしまった。

自分にとってどちらも大切なことだが、身体は一つしかない。

沖縄には行かない。
その代わりに東京で、日本のヨット設計者の草分けである横山晃さん・一郎さん父子が設計した小型ヨットで、できるだけたくさんの大人と子どもにセーリングを体験してもらうのだ。

私たちチームニシムラが所有している小型ヨットは、サバニ船型の素晴らしさに惚れ込んだ故・横山晃さんが、その船型のキモの部分を取り入れて設計したもの。

つまり、この小型ヨットに乗ることは、沖縄のサバニに触れることにもなる。
そんな小型艇で多くの人たちがセーリングを体験することは、たくさんの日本人に自分たちの祖先が作り出したもののDNAに触れてもらうことになる。




この日もチームニシムラの面々が集まってくれ、先月に予行練習したとおり、プールの両サイドに2名ずつのサポート&救護担当を配する。
M橋ご夫妻、Mさん、A島君、I 君、暑い中、いつも本当にありがとうございます。

プールの中に入って、泳ぎながら人間監視艇の役目をしていると、人工的な色ではあるけれど、東京・お台場にある船の科学館のイベントプールの水の色が、遠く、沖縄・座間味島の古座間味浜の海の色を思い出させてくれる。





プール使用の割り当て時間が限られていて、午後1時から4時半までの、わずか3時間半だったが、今回も67名もの人たちにセーリングを体験してもらうことができた。
もし、丸一日プールを使わせて頂けたら、昨年と同じように毎回100名以上の人たちにセーリングを体験してもらうことができるだろう。

この日も、乗った人たちほとんど全員が、
「え、これ今、風だけで走っているんですか? 信じられない!」
「すごーい! 速いですねー!」
「静かですね!」 
「風って、どうしたら見えるんですか?!」
って、乗っている間中ずっと興奮している。

もっともっとたくさんの人たちにセーリングを知って欲しいな。
この日も、10人近くの人が時間が足りずに乗れなかった。

どうしたらいいのかな。



ご家族が、お父さんとお姉さんチーム、お母さんと妹チームに分かれてセーリング。
ご家族の皆さん、かなり盛り上がっていたのですが、写真がヘタでした。スミマセン。
この写真を撮った直後に、カメラモードのままの携帯にサバニのチームメンバーから電話が入った。

整備に追われて練習がほとんどできなかったため、今回は完走が目標だと言っていたのに、なんと、見事古式2位に入ったとのこと。
おめでとうー!


7月某日 鎌倉 

2010年07月05日 | 風の旅人日乗
[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]

先週、6月最終週から7月の始まりにかけての週は、結局毎日鎌倉に通うことになった。



日本で初めて小学校の正規の授業としてセーリング教育を実施している現場に立ち合い、光栄なことに、開校式で、挨拶までさせていただいた。






その翌日の鎌倉湾でのセーリングは、新しく日本に入ってきた小型ヨットのテストセーリングでもあり、いつもお世話いただいているマリンウエアブランドのHHの新しいネオプレーン・ボトムのテストでもあった。


[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]

ネオプレーンのボトムは、微風のときなどに膝を折って乗らざるを得ないときには、膝裏がうっ血して辛いことが多いが、新しいHHのボトムは、後ろ側に使っている布地の厚さを微妙に変えていて、膝を折って乗っていても不愉快感がほとんどなかった。


[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]


[photo by Shigehiko Yamagishi/KAZI magazine]

この小型ヨットに試乗した感想などについては、8月発売のKAZI誌で報告する予定です。


翌日はそのウエアを試着しての報告も兼ねて、鎌倉に新しく開店したHH&ノースフェイス・ショップのオープニングセレモニーに顔を出させていただく。
旧知の人たちに会ったり、未知の人たちを紹介してもらったりして、有意義な時間を過ごせた。
そのあと行こうとしていた豆腐料理屋さんはお休みだったのが、ちょっと残念だったけど・・・。


そしてその週最終日の金曜日も、仕事の打合せで由比ガ浜西側エンドの坂ノ下まで。

歩いて葉山から逗子に出て、披露山を迂回して鎌倉の材木座海岸まで出たら、鎌倉時代の築堤跡、和賀江島の手前に、漁船が数隻アンカリングしていた。
鎌倉時代も、こんなふうに舟を泊めて、南風を凌いでいたのかな。

和賀は材木座の本来の地名で、当時この湊に木材が多く集散したため、新しく材木座と呼ばれるようになったらしい。



今では、その和賀江島の前は、ボードセーリングの専有エリアのようになっている。
遠くに、稲村ガ崎の切通しと、江ノ島が見える

坂ノ下の知人宅の庭にテーブルと椅子を出して昼ご飯を食べながら、結構手応えのある仕事の話をしたあと、再び歩いて葉山に戻る。

沖合いから真っ黒い雷雲が接近して来ていて、帰りつく前に夕立に遭ってしまったら、デイパックの中にある資料や書類が濡れちゃうな、とハラハラだったが、なんとかセーフ。

雨は、日が暮れてからやってきた。


6月某日 鎌倉

2010年07月01日 | 風の旅人日乗
6月最終週は、月曜からずっと鎌倉行きが続く。


月曜日
鎌倉にある小学校の学校見学。子どもたちを遊ばせまくることで有名な学校。自分に関係する子どもたちが入って欲しいなと思う。
川端康成が編集者や友人と待ち合わせたり食事をするのに贔屓にしてたという蕎麦屋さんでお昼を食べた後、由比ガ浜まで歩いて、午後はそこで仕事の話。

火曜日 
ある小学校が正規の授業として行うセーリングを見がてら、翌日に乗る予定のディンギーをチェックしに、由比ガ浜へ。

浜名湖の事故の後にも関わらず、毅然として授業を続けるこの学校と担任の先生に非常な敬意を覚える。

浜名湖の、あの悲惨な事故は、言わば、海洋教育の素人のような組織が海洋教育施設の指定管理者として認められたということが、全てのことの発端なのではないかと考えているが、こちら鎌倉の授業は、経験豊かなセーラーたちや地元マリン業者と学校側、そして父兄の方々が密接に連絡を取り合いながら企画・運営していて、その授業の進め方の見事さに脱帽した。
小学3年生の児童たちが、伸び伸びと海遊びを楽しんでいた。

水曜日
「曇り時々雨、ほぼ無風。」
という、セーリングに最も向かないような天気予報が見事に外れてくれ、この日は五月晴れ、南からの気持ちの良いシーブリーズに恵まれた。
気象庁を庇うわけではないけど、この時期の天気予報はとても難しいのだ。

小型ヨットの生産では世界的規模になりつつある中国・上海にある会社が新しく発表した1~2人乗りのディンギーでのセーリング。

ヤマハの撤退、由緒あるヨット造船所の倒産、という状況が続く我がニッポンのセーリング界に比べて、中国の台頭は非常に現実味を帯びてきた。

この人生のうちに中国製の小型ヨットに乗ることなどあるまい、などと考えていたが、この日は、その、『上から目線』の自分の認識に大打撃を受けた。

何に大打撃を受けたかと言うと、そのディンギーのコンセプトやデザインの独自性、だ。
所詮あそこは人のもののコピーが上手なだけ、という、ニッポン人としてのワタクシの自信喪失を食い止めるための拠り所が、このディンギーによって見事に粉砕されてしまった。

もちろん欠点はある、改良して欲しい部分もある。しかし、すごいのはそのオリジナリティーである。
人によっては垢抜けないと思うかもしれないデザインだが、それは中国オリジナルのデザインなのだ。
レーザーやナクラのそのまんまコピーを作って売ってきた日本の大企業は、こういう独自性のあるニッポンのヨットを作ったことがあっただろうか。
参りました。
上海のこの会社は、もしかしたら今後世界のセーリング界で、面白いことをやってくれるかもしれない。

上海で造られたヨットに乗って、ニッポン鎌倉の見事な五月晴れの空の下、相模の海と南風を堪能した。

夕方、葉山に戻って、森戸神社で、子供たちと一緒に6月晦日大祓いの茅の輪くぐり。
神主さんから、この行事に参加した人は千年寿命が延びると言われています、という言葉を聞くや、子共たちを押しのけて列の前に出るイジワル爺さん、イジワル婆さんが数人。顔が切羽詰っている。
皆さん御事情があるのだろうけど、次世代を担う子共たちよりもまだ自分かよ、と少し驚く。

形代を海に流した後、そのまま子どもたちと夕食まで磯遊び。

木曜日
本年の後半戦第1日。
鎌倉に拠点を開設することにした海関係アパレルメーカーのショップ・オープンのセレモニー。

いつもはこの手の行事はご遠慮させていただいているのだけれど、個人としてもチームニシムラとしても多大なご協力をいただいている会社からのご招待なので、喜んで参加させて頂く予定。
あのPブランドが本社を置く鎌倉にあえて出店するという、並々ならぬ決意表明に、拍手をおくりたくなっている。

そのあとは、久し振りに豆腐屋さんのYに行って、Bさんの顔でも見てこようかな。