風の旅人たち <ヨットレース人生列伝-1>

2006年06月22日 | 風の旅人日乗
6月22日 木曜日。
この次は、舵誌の2001年4月号に掲載された、風の旅人たち、ヨットレース人生列伝-1から。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年4月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

ヨットレース人生列伝-1

青年は海に出た
今から約30 年前、20 世紀後半に入った東京で、陸上競技に明け暮れていたひとりの男子高校生が、フトしたきっかけでヨットレースというスポーツを知った。
彼は、上流の家庭の少年少女が集まることで知られる大学に入ってまもなく、生まれて初めて外洋レースに出場する。
彼が乗った艇はクォータートンクラスと呼ばれていた小型ヨット。
スキッパーは、超人的な体力と精神力でその当時すでに外洋セーラーたちの間で一目置かれていた戸塚宏氏。
そのレースのコースは、三浦半島の小網代沖をスタートして伊豆半島先端の神子元島を回って小網代沖に設置されたブイに戻り、ハーバーに帰るのではなく、そのまま再び南に下って今度は伊豆大島を周り、しかるのちにやっと小網代にフィニッシュするという、ちょっとサディスティックな、約180マイルのコース。
レース艇とは言え、30年近く前の、重くて船足が遅く、モーションが悪いために常に波をかぶる、全長26フィート足らずの小型艇には辛くて長いレースだ。
新人セーラーはザブザブと頭から波をかぶりながらハイクアウトしたまま、海の上で長く苦しい時間を強いられた。
「アノー、スミマセン、トイレに行きたいですー!?」
お坊ちゃん育ちの彼が甘い声で懇願すると、スキッパーはティラー片手に生のニンニクをかじりながら、
「そのまま垂れ流しにしろ!」
と怒鳴り返してきた。
ライフラインの外で荒れ狂う海を見ながら、あまりの苦痛のためにボンヤリとなった頭で、このまま落ちて死んだらどんなに楽だろうか、とまで青年は考えた。
最初の外洋ヨットレースでこんなにきつい経験をしてしまうと、普通の人間はここでヨットをやめる。
しかし、このお坊ちゃんは違った。
大学2年生になって、青年は父親に頼み込んで (だまして、と彼は言い直した) 外洋ヨットを買った。艇の名前などどうでもよかったが、取りあえず〈エスメラルダ〉と名付けた。
そのヨットに自分よりヨットのうまい先輩セーラーたちを招き、自分はクルーになって本格的にヨットレースを始めた。当時日本にまだフランチャイズがなかったノースセールのアメリカ本社に、タイプライターで手紙を書いてセールを発注した。
ヨットレースにのめり込み始めている自分を感じていた。
初めて自分のヨットを持って4年後には、すでに3隻目になっていたヨットで、クォータートンクラスの世界選手権に出場した。青年はその2年前に大学を卒業して、テレビ局の営業部に就職していた。この世界選手権に集中するために、入ったばかりのテレビ局を辞めようかとも思ったが、さすがにそれは思いとどまった。
その世界選手権の後しばらくして、仕事でプロ野球のアリゾナ・キャンプを訪れた帰り、クォータートンのときにセールで世話になったセールメーカーを頼ってサンフランシスコに行きセントフランシス・ヨットクラブでJ/24というヨットを初めて見た。これ買おう、と決めた。
その翌年の東京ボートショーで展示された日本第1号艇の赤いJ/24が彼の艇で、だから彼の日本J/24協会会員番号も、1番だ。
最初のJ/24全日本選手権では3位、翌年2位、そして3年めに優勝した。
他の艇が国産のマストだったのに、自分だけがアメリカのケニヨン製のマストにこだわったことが、勝った理由だと彼は考えている。
1984年には、サンフランシスコで行われたJ/24世界選手権に遠征した。
レースでは全く歯が立たなかったが、その代わり、ヨットクラブで行われたシャンパン早飲み競争にダントツで優勝した。闘志満々で早飲み競争に挑む変な日本人の姿は、当時大学生だったケン・リード、高校生だったジョン・コステキにしっかりと記憶されることになった。
10年間ほどJ/24に乗り、3隻のJ/24を乗り継ぐのとオーバーラップして、テレビ局を辞めて父親の事業を手伝い始めていた青年は2隻の新艇を含めて数隻の外洋ヨットを次から次に所有した。
この時期にはグアムレースにも出たし、沖縄レースの回航も買って出た。関東関西の外洋レースにもほとんど出た。
後にジャパンカップでクラス優勝することになるトリップ36をアメリカのキャロルマリンで造った時、その近くにあったゴーツ造船所を見学させてもらった。ゴーツは世界最高レベルのレースヨットを造ることだけでなく、値段もかなり高いことでも知られた造船所だったが、いつかはここでワンオフのレースボートを造ってやろう、と壮年になっていた元青年は固く心に誓った。
父上が亡くなり本格的に後を継ぐことになったのをきっかけに、彼は少し仕事一生懸命モードになり、ヨットレースのほうも長期展望を立てて、「いつかはクラウン、いつかはゴーツ」作戦に突入した。
戦略知略をめぐらせて業界大手を逆に吸収合併して、彼は家業をさらに安定させた。こうして自分がヨットレースに注ぎ込むことの出来るお金の予算をひとまわり大きくしてから、ゴーツでILC40の建造を開始した。
シャンパン早飲み競争優勝の変な日本人は、カーボンファイバーでできたその船にケン・リードとジョン・コステキを雇い入れ、ギリシャのILCワールドに殴り込みをかけた。
それからさらに数年後、彼は13隻めの<エスメラルダ>として濃い緑色をした50フィートのヨットをゴーツで造り、14代め(13は縁起が悪いので)、50フィートという意味で、5014というセールナンバーをつけた。
昨年のケンウッドカップでのクラス優勝、サンフランシスコでのクラス優勝に続いて、今世紀北半球のキールボートレースシーズン幕開けとなるキーウエストレガッタでも、彼の<エスメラルダ>5014は優勝した。

彼の名前は、植松 眞。1952年生まれの、48歳。
植松は自分のヨットにクルーとして乗るために、レースが近づくと毎日15キロをランニングする。週1,2回は自転車で50~70キロを走る。ヨットレースがない週末は反射神経のトレーニングを兼ねてMTBのダウンヒル。今年のキーウエストレガッタ前は、スキッパーから指示された体重に落とすために、年末に合計100キロほど走り込んで身体を絞った。
50フィートのエスメラルダとは別に、植松はマム30を1隻アメリカに持っていて、ここ数年来このクラスの北米選手権やワールドに出場している。50フィートにはクルーとして乗るが、オーナーヘルムが義務づけられているマム30ではスキッパー/ヘルムスマンだ。50フィートとマム30でクルーを務める吉田学は、ヘルムスマン植松の腕前を、「最近すごく上手くなりました」と証言する。
50フィートでアメリカズカップセーラーたちと乗り、経験し、学び、それをマム30のレースで生かす。そこいらの日本人セーラーよりも世界第一線のレースをクルー、スキッパーとして濃い密度で経験している。話をしていても、世界の上位に君臨するレースヨットのオーナーというよりも、風を求めて旅をするセーラーたちに、より近い匂いがする男だ。
会えばいつもヨットレースそのものの話ばかりになって、まったくオーナーの匂いのしない植松だが、以下、普段の彼が口にしない、オーナーとしての植松が考えるヨットレースとは、について語ってもらった。

植松流エクスタシー考
ヨットレースに勝ちたいのなら、オーナーは他のすべてを節約して、一切の妥協をせずにレースに向かっていくべきだと思います。
まぁ、でも、あのー、最近のケン・リードには、ちょっと、節約と妥協って言葉を教えたいですけどねー…。
去年のケンウッドカップには2000万円、今年のキーウエストには1000万円かけました、もちろんセール代は別です。たった5日間のレースに1000万。このお金は、勝っても負けても戻ってこない、経済的にはまったくの棄て金です。
ぼくはね、思うんですけど、たった1枚のお皿、たった1個のカップのためにお金を注ぎ込むセンスというのは、すべてのお金持ちが持っているわけではないんだろうなぁ、と思います。
ヨットレースをやっているオーナーはかなり育ちのいい人なんじゃないかと思います。どんなにお金をかけても、ヨットレースは何もお金を生まない。ヨットレースは経済理念から思いっきり外れた、まさに道楽以外の何物でもないですから。
でね、いつも人に言うんですけど、あんまり分かってもらえないんだけど、どんなにいい女を口説き落としたときの喜びとかに比べても、ヨットレースに勝った瞬間の喜びにかなうものはない、とぼくは思ってるんですけど、どうですか? どうですか? でしょ? でしょ?

(無断転載はしないでおくれ)

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