風の旅人たち <明るい未来へ>

2006年06月20日 | 風の旅人日乗
6月20日 火曜日。
今度は、舵誌の2001年2月号に掲載された、風の旅人たち、明るい未来へから。(text by Compass3号)

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風の旅人たち <<舵2001年2月号>>

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

明るい未来へ

レース熱衰退はなぜだ?

明けましておめでとうございます。
今年、そして今世紀が日本のセーリング文化にとって良い時代の訪れになりますように……。

自分にとって20世紀最後のレースとして、J/24クラスの全日本選手権に出場した。考えてみれば日本でヨットレースに出たのは半年ぶりだった。
日本のキールボートレース人気の衰退が嘆かれるようになって久しいが、J/24クラスの全日本選手権が行われた日産マリーナ東海には、11月の末だというのに全く別の熱い空気が流れていた。その熱い空気には、なんとなく懐かしい匂いがした。
今年大阪湾でこのクラスの世界選手権が行われるということが、最近のJ/24人気復活の大きな要因になっているのだろうが、以前はこのクラスに限らず、日本のいろいろな場所にこの熱い空気が流れていたのだ。
ジャパンカップが行われていた熱海の特設ヨットハーバー、オレンジカップ期間中のサントピア・マリーナ、鳥羽の朝曇館の前に広がる海面を埋め尽くしたレース艇群と鳥羽の街に日本中から集まったセーラーたち…。
最近のディンギー・レースの様子は知らないが、日本の外洋ヨットレース人気の衰えを目の当たりにすると、いろんな事を考えさせられる。
以前、若いヨット乗りたちは会社を辞めてまで、あるいは大学の留年を覚悟してまで沖縄レースや小笠原レースといった日本の“ビッグレース”に出ることを夢見た。自分が乗っているチームがハワイのレースに遠征するなんてことになった日には、必ず何人かのクルーが喜んで笑いながら会社をクビになっていた。今考えてみれば、ヨットレースに出ることは、かつて日本のセーラーにとってそれほどまでに魅力的なことだったのだろう。
そんな“ビッグレース”でなくても、関東水域の大島レースや三宅島レース、紀伊水道レース程度のレースでも、それに出ること、勝つことはオーナーを含めたヨット乗りにとって“えらくカッコイイこと”だった。レースに勝つと舵誌がインタビューに来る、派手な記事を作ってくれる、仲間内で威張って歩ける。オーナーたちは自分のヨットの記事が載った舵誌を銀座のクラブに持って行き、女の子達に音読させてはシミジミと喜んだ。夜の海の恐怖や船酔いや大波と闘いながら外洋を走りぬいてフィニッシュした苦労は、そういうふうに報われたものだった。
ところが今や舵誌など、そんなレースが行われたことさえ知らない振りをしたりする。同じハーバーのヨット仲間の間でも話題にさえ上らない。びしょ濡れの寒さに耐えたことはただのくたびれ儲けに終わる。必死の思いで相手に競り勝ち、僅か3秒差でフィニッシュラインを走り抜けた名勝負は、相手艇とだけ共有できる、ただの自己満足に終わる。銀座のクラブで自慢しようとしても、話題は株で大儲けした奴のほうに持っていかれる。ヨットレースなんかの話をする人はなんとなくイケテナイ。

現役レース関係者がやるべきこととは?

日本の社会の中におけるヨットレースのマイナーさという意味では事情は以前と変わらないかもしれないが、日本のヨットレース文化内部そのものの熱さが少し違ってきているような気がする。
つてを頼って企業を回り、やっと面会の約束を取りつけて、「日本人だけで世界一周レースに出たいので金銭的な応援をしていただきたいのですが」と話を始めた途端、担当者の目が遠いところを見る目つきに変わってしまうという現象は今も昔も変わらないが、最近はヨット関係者たちとヨットレースの話をしている時にも、そんなボンヤリとした、こちらの熱意を伝えることが拒絶されているような目つきをしばしば見るようになった。
休日に海に出ても、海でセーリングしているヨットは数えるほどしかない。相模湾をベースに月例で行われていたヨットレースも、参加艇の減少のためか毎月は行われなくなってしまったらしい。
景気が悪い、景気が悪い、と言うけれど、マリーナには一昔前よりたくさんの立派なヨットがずらりと並んでいる。自分のヨットを持って高い保管料をきちんきちんとマリーナに払っているオーナーの方たちがそれだけいるのに、その人たちが海に出て来ないのは景気のせいではないだろう。
以前日本でIORレースが盛んだった時、これからはIMSだ、これが究極のレースルールだと、半ば強引にルール変更が行われた。レースヨットのオーナーはそれが世界の趨勢ならと、ちょっと無理をしてヨットを買い換えた。
ところが今や、IMSを柱とした外洋ヨットレース運営をしているのは、日本とヨーロッパーの一部の国に過ぎなくなり、IMSでのヨットレースは国際的には極めてマイナーなものになりつつある。経済の調子がいいとされているアメリカに於いてさえIMSボートを造るオーナーはほとんど皆無で、現在のところファー40やID35といったワンデザインに人気が集中している。日本でIMSボートを買ったオーナーとしては、おだてられて2階に上げられ、気が付いたらはしごを外されて降りられなくなっていた、という心境かもしれない。
IMSの非常に大きな問題点は、速度予測プログラムが進歩するから仕方のないことだとは言え、ルールが毎年変わるという点だろう。このことは、そのヨットのIMSボートとしての戦闘能力が1年しか持たないことを意味する。これは高額なお金でIMSボートを手に入れたオーナーにとっては許し難いことだろうし、これから新艇を造ろうという気にもなれないだろう。ルールが変わりすぎるとあれほど批判されていたIORでさえ、ルール変更は3年に1度と制限されていて、IORボートはルール上少なくとも3年間は第一線での戦闘能力が保証されていたのだ。
オーナーたちが今現在持っているヨットで公平にレースを楽しむことができる、日本の実情に合った、イギリスからのお仕着せでないレースルールを真剣に模索していくことが、ヨットレースの現場に再び熱い空気を呼び込むために必要に迫られているのかもしれない。IMSやIR2000などといった国際間で通用するレースルールは、基本的には国際レースに出場するヨットだけが必要とするのだが、たくさんある日本のヨットのうち一体何隻が常時国際レースに参加しているのだろうか。

ほんの何年か前まで、外国でレースをするために2,3ヶ月日本を離れて、その後日本のレースに復帰すると、スタートエリアに必ず見慣れない新しいレース艇が少なくとも2,3隻は増えていてワクワクしたものだが、今は1年以上日本を留守にしても、戻ってみるとまだ同じ顔ぶれでレースをしている。新しい顔が増えず、それまで長く活動していたヨットやチームが櫛の歯が欠けるようにいなくなっていくから、レースに出てくるヨットの数は確固としたペースで減っていく。
今にして思えば、自分も含めてヨットレースをやってきた人たちがヨットレースの楽しさを次の世代に伝えていく努力をしていなかったということに改めて気が付く。
ここで次の世代という言葉は、年齢的な意味では使っていない。若い世代はもちろんだが、年齢的に熟年層であっても、ヨットレースをやってみたいという人たちが、気安く入って来ることができる雰囲気をヨットレースに関わっているセーラーたちで作っていく活動を、果たして我々はしていただろうか?
数年前、ゴルフを始めようかどうか躊躇しているとき、ゴルフの先輩諸氏が優しくて心温まる救いの手を、えらく積極的に差し出して下さったことを忘れることができない。現代の日本人も他人のことにこれほど温かい興味を持ってくれるのかと驚くほどの滅私のご援助であった。使いにくい古いクラブを譲っていただき、頼んでもないのにスウィングのアドバイスもいただいた。なんでもいいからとにかく早くプレーしろという貴重なルールを教えて下さった。お陰で闇夜のように思えたゴルフの世界すんなりと入っていくことができた。
この、ゴルフにおける新人への手厚い援助という美徳を思い出せば、ヨットレースの分野にニューカマーを引きずり込むのも簡単なことのように思える。21世紀、日本のヨットレースの未来を明るくするために、まずはこの超マニアックな専門誌を読んでいる人、書いている人、一人一人が意識して自分の身近の人間をヨットレースに引き込む運動を始めてみるというのはいかがだろうか?

(無断転載はしないでおくれ)