俺がムースだ!

2006年03月27日 | 風の旅人日乗
この人が、ボルボ・オーシャンレースのリオデジャネイロでのイン-ポートレースで優勝し、喜ぶ『ABN AMRO 1』のスキッパー、ムースことマイク・サンダーソンです。
アメリカズカップも、ボルボ・オーシャンレースも、単独大西洋横断も、なんでもこなすニュージーランド人セーラーです。

ABN AMRO1がまた勝った

2006年03月27日 | 風の旅人日乗
3月27日 月曜日。

先週土曜日の25日、ボルボ・オーシャンレースのブラジルでのインショアレースが、リオデジャネイロで行われ、『ABN AMRO1』がまた勝った。総合ポイント差は圧倒的なまでに広がっている。
先日、AMRO1のスキッパー、ムースとメールで話をした。

来月ぼくが乗ることになっている、サンフランシスコ~横浜間の太平洋最短記録挑戦艇についての相談だ。
その艇から「乗らないか」という誘いは来たものの、乗るべきかどうか迷いに迷い、相談のメールを、ホーン岬を越えてリオデジャネイロにフィニッシュしたばかりのムースに出したのだ。
「いい機会だと思うぞ、楽しんでおいで」という返事に、やっと吹っ切れ、乗ることに決めた。
ムースはニューヨーク~イギリス間の大西洋横断最短記録を持っている。負けないぞ。

それにしても、ボルボ・オーシャンレースにおける『ABN AMRO1』の強さは圧倒的だ。すごい船、すごいクルー、そしてすごいスキッパーが揃ったのだろう。
5月の頭に、アメリカのボルチモアまで、再び『ABN AMRO1』に乗りに行く。太平洋の後の楽しみだ。
4月第2週発売の『ターザン』(マガジンハウス社)には、ムースとABN AMROを中心に取材した記事が掲載されます。是非、御一読を。

海草伸びて海も春

2006年03月26日 | 風の旅人日乗
3月26日 日曜日。

久し振りに逗子マリーナのAマジックでの練習。
昨夜降った雨も上がり、葉山町役場の横にある公園の桜が七分咲きだ。

9時半に出艇。逗子マリーナから沖に出る水路には、海底から伸びる海草が水面にまで届いて波に揺られていて、まるで草原を走っているようだ。
海底にも春が来てるんだなあ。

途中、海草がインボードエンジンのプロペラに絡まり、エンジンが黒煙を吐いて過負荷になっていることを伝えるので、何度もアスターンを入れてプロペラに絡まった海草を切り裂き、切り裂きしながら沖に出る。

こんなに大量の海草がプロペラに巻きつくと、船外機なら止まってしまうと思われる。一度か二度、南西風の大嵐が来れば、海面まで伸びた部分は波で千切れるのだろうけど、そうでなければ、海底の草刈りが必要なほどだ。馬力の弱い補機のヨットにはちょっと危険。

沖では葉山マリーナヨットクラブのクラブレースが行われていた。
そのレースのスタートラインの100メートルほど風下に、我々の仮想のスタートラインを設定し、レースのスタートに合わせて、スタートのタイミングをイメージする練習をする。ゼネラルリコールがあったので、2度スタート練習をすることができた。

その後、レース艇の邪魔をしないように、クローズホールドの練習。M井オーナーのステアリングで、ターゲットボートスピードで走り続ける練習と、ポインティングモードとスピードモードの使い分けの練習。

風上マークまで来て、レース艇の回航のクルーワークを見学。
O野オーナーのAドニスのクルーワークがピカイチだが、このヨットクラブでは圧倒的な練習量を誇るM越オーナーのSジュニアもそつのないクルーワークを見せる。

お昼に一旦葉山港に入って短い休息を取り、午後の練習再開。
午後は、葉山マリーナヨットクラブの第2レースの風下マーク回航動作を見学した後、朝のメニューに、タッキング後にいかに早くトップスピードまで戻すか、というテーマを加えて、2時間ほど集中して走る。

この練習の間に、レース終了後もしばらく打たれたままになっていたマークを使わせてもらって、風下マーク回航のステアリング練習も取り入れ、M井オーナー、かなり上達。

夕方、帰港。艇を片付けて洗った後、いつものようにオーナー婦人のM穂さん手作りの料理で宴会。
焼酎を飲んでいたM井オーナーから、「4月1日から禁煙するぞ!」宣言が飛び出す。
M井オーナー、かなりのヘビースモーカーなんですが、大丈夫でしょうか?

横浜インターコンチネンタル、エーゲの間

2006年03月25日 | 風の旅人日乗
3月24日午前中。

3月25日に日本を出航するエレン・マッカーサーの『B&Q』を見に、横浜インターコンチネンタルホテルに行った。

ホテルの前のプカリ桟橋に浮かぶ『B&Q』を見下ろす宴会場、エーゲの間で、翌日出航するエレンの歓送会が行われた。
イギリス人エレンは、意志強く、頭脳明晰そうな青年女子(日本語に「青年」の女性形ってないのかな?)だった。

同じく海に囲まれた島国育ちの日本人セーラー、負けちゃおられんよ。お互い、しっかりしような。

肉体あっての頭脳労働なのさ

2006年03月22日 | 風の旅人日乗
3月21日
昨日20日の朝から21日の夕方まで、関西の新西宮マリーナに出かけて、備品、セールの積み込みなど、久し振りにヨット系肉体仕事に従事した。
そのおかげで、20日夜の、JR西宮駅前の焼き鳥屋での日本酒が、果てしなく美味しかった。最初のうちは頭の隅にキッチリ覚えていたのに、杯を重ねるにつれ、その日のうちに提出しなければいけない原稿の校正のことなど、すっかり忘れてズッポリと飲んでしまった。

今日21日は、朝から荷物の積込みとエンジン整備で、帰りの伊丹発羽田便の時間までへとへとになるまで働いた。したがって、原稿仕事など到底できる時間などなかった。机の前に座ってやる仕事は、昨日の夜やるべきだったのだ。と今更いってもそれはもう過ぎたこと。悔やんでも仕方ない。

その後始末として、今、羽田から葉山に帰りついたそのままの服で、風呂にも入れず、マガジンハウス社『ターザン』の、ボルボオーシャンレースの原稿校正と、ヨット専門誌のラッセル・クーツ44の原稿の校正をやってます。
もう22日の夜がしらじらと明けてきました。

さっき、日が暮れたばかりなのに、もう朝だ。なんてこったい!
海の上では、不安にかられて、天使のような夜明けを待ちわびているときに限って朝が中々来ないというのに、締め切りと戦っているときには、なぜか、意地が悪いくらい早く夜が明ける。

事態がここまで切迫してくると、原稿書きという仕事は、もはや頭脳ではなく体力の勝負だ。それなら自信があるよ。
とは言え、やっぱり、眠ーい、です。

日本海洋青年たちとの夜

2006年03月20日 | 風の旅人日乗
3月19日。
18日の午前3時に、砂嵐が続く砂漠の国ドバイを出て、18日の深夜、桜の花がほころび始めた葉山に帰り着いた。
出発前、ギリギリまでドバイでワインを飲み続け、記憶喪失の状態のまま、関空経由で羽田まで運ばれてきた。

翌日19日は、母校の東京海洋大学ヨット部の合宿所に、彼らの夕食が終わった後にお邪魔した。

チームニシムラの構想、自分自身の夢を語り、これからの葉山を中心にした活動計画に協力をお願いした。
青年たちが、こちらの拙い説明を、真剣なまなざしで非常に熱心に聞いてくれるので、ワタクシは少し緊張してしまった。

しかし、青年たちというのは、気持ちいいなあ。礼儀正しく、未来に夢を持っている。未来の日本を担う、大切な人たちだ。
これから、こういう人物たちと今後同じ目標に向った活動をして行けるとなると、自分の人生も、結構捨てたモンじゃないじゃん、という気持ちになってくる。
ドバイ疲れがジンワリと癒される夜になった。

アラブの砂嵐

2006年03月19日 | 風の旅人日乗
3月17日
砂嵐。風速40ノット超。

これが砂嵐か、と感動した。すごいもんだ。
イスラム教の休みは本日金曜日。工事が止った建設中の高層ビルの間を、砂嵐が吹雪いている。黄土色の嵐だ。
予定していたマッチレースも風落ち待ちだ。
深夜の出発に備えて荷造りをしていたら、日も落ちかけた午後6時前、決勝レース開始。
結果、ラッセルの3勝2敗で、ラッセル・クーツ44最初のマッチレースは幕を閉じた。

難しい右を、どのように取るか

2006年03月18日 | 風の旅人日乗
3月16日
午前、ラッセル・クーツ44でセーリング。午後、チーム・ラッセル・クーツ対マスカルゾーネ・ラティーノの対戦を観戦。
ビーチと桟橋から観戦できるように、非常に短いショートコース。

第1マークまでの距離が短い場合で、しかもマッチ・レースの場合、風や潮のファクター的に左サイドが極端に有利だという場合を除いて、スタートは相手の右側からポートタックで出たい。なぜなら、それだけでスターボ・タックの優先権で最初に上マークを回れる可能性がグッと増すからだ。
この日行なわれた3レースで、ラッセルはすべてのスタートで相手の右側からポートタックでスタートした。
レースそのものはラッセルは1敗を喫したが、相変わらず見事なスタートだった。
見習うことは山ほどある。

グラントの哲学って

2006年03月16日 | 風の旅人日乗
3月14日
1月に乗って以来のラッセル・クーツ44で再びセーリング。
すぐ横では、チーム・ニュージーランドが30フィート艇と25フィート艇を使って、何かよく分からないイベントをやっている。
ラッセルはそのイベントのために打ったマークを、使って練習している。
ドバイの海に、見えない火花が散っている。
ウーム、ウーム。
だけんど、おいらには直接関係ないことだ。

朝、ホテルのトレーニング・ジムでグラント・ダルトンのすぐ横でエアロバイクを漕いでいるのだけれど、今のところ、取り合えず、完全に無視されている。

エミレーツがスポンサーに付く前、チーム・ニュージーランドが2007年のアメリカズカップへの挑戦が難しい局面にいたときに東京で会ったときはとても愛想がよかったのに、今や、世界の航空会社でもピカイチのお金持ち、エミレーツ航空というスポンサーを得て大チーム・ニュージーランドのボスとなったグラント・ダルトンは、ちょっと違ってきたな。

ぼくにセール・デザインの基礎を教えてくれ、ぼくが個人的に深く尊敬するトム・シュナッケンバーグをチーム・ニュージーランドから追い出した人間として、ぼくにもグラント・ダルトンという人物に偏見がある。あ、いかん、いかん、話が熱くなり過ぎてきた。
まあいいか。人との付き合い方は人それぞれの哲学の問題だ。ほっとこう。

ドバイのおとな

2006年03月15日 | 風の旅人日乗
3月13日午後。
いい感じの睡眠から覚めて、腹が減ったのでホテルのプールサイドでシーザーズサラダを食べていたら、チーム・ニュージーランドの見慣れた面々がぞろぞろと歩いてくる。
お互いにこんな所で会うことにビックリ。

チームニュージーランドは、メインスポンサーのエミレーツ航空のイベントに参加するためにドバイに来ているらしい。ぼくは、ラッセル・クーツとラッセル・クーツ44に乗るためにドバイにいる。

チームニュージーランドの面々は公式イベントだから常にチームNZのユニフォームを着ている。ぼくはラッセル・クーツ44のロゴが入ったウエアを着ている。
ラッセルとヨロシイ関係とは思えないグラント・ダルトンがこのチームを率いている。
微妙な感じだ。お互い、グラント・ダルトンのいないところで会うとささっと近況の話をし、彼がいるところでは目で挨拶するだけで、距離を置く。みんな、大人だよなあ。

午後、ビーチを走る。砂は細かく、足の裏に気持ちがいい。
水は透明できれいだ。アラビア湾の海水である。
ビーチから海に視線を向けている限りはいい感じなのだが、一旦後ろ、内陸側を振り返ると、ビックリ。街全体が工事現場だ。市内で180以上の高層ビルが建設中らしい。よくもまあこんなにたくさんのビルがいっぺんに建設できるもんだ。世界中のゼネコンが潤っているのだろう。
観光地としてのドバイの景観が完成するのは、3年か4年先のことだという。

ドバイはねむい

2006年03月15日 | 風の旅人日乗
3月13日
夜明け前の、早朝のドバイに着いた。
出国手続きを終えて空港を出て、恐ろしいほどのスピードで走るタクシーに乗り、ホテルの部屋に入ってカーテンを開けたら、霞んだ空に朝日がぼんやりと浮かんでいた。
周りは建設中の高層ビルだらけ。話に聞いていた“夢のようなリゾート、ドバイ”とはちょっと、いや、かなり異なる景色。
この謎は、午後調べることにして、ちょっと寝よう。
来る飛行機の中では、隣に座った変人親父のせいでまったく寝られなかった。
糊がきいてて、ひんやりとしたシーツが気持ちいい。よく眠れそうだ。

砂漠とセーリングの国へ

2006年03月13日 | 風の旅人日乗
さあて、これから、ドバイです。
アラブ首長国連邦、UAE。
砂漠でラクダに乗ってきます。

じゃ、なくて、アラビア海でセーリングしてきます。
滞在先の通信環境によっては、ブログ日記、ストップするかも知れませんが、中断しないで済むかも知れません。
楽しい話を送ることができればいいなと思います。

ボルボ・オーシャンレース第4レグ

2006年03月10日 | 風の旅人日乗
ボルボ・オーシャンレースの第4レグ、トップの『ABN AMRO1』がリオデジャネイロ港のフィニッシュ・ラインまで残り250マイルを切った。

画像で、白い点で表されているのが、『ABN AMRO1』とその航跡だ。2位の『パイレーツ・オブ・ザ・カリビアン』に80マイルの差をつけている。
明日朝には、リオにゴールする見通しだ。
ボルボ・オープン70クラスは、本当に速いヨットだなあ。

居酒屋アメリカズカップ東京

2006年03月10日 | 風の旅人日乗
3月10日 金曜日。

昨日、9日の木曜日は一日東京だった。

主な目的は、4月発売のヨット専門誌に掲載する『ラッセル・クーツ44』の記事に使う写真を編集者と一緒に選ぶことだったが、それ以外にも、いろんなヨット関係者に会って、面白かった。

その編集部の近くの、1970年代にタイムスリップしたような、ちょっとシュールな喫茶店で、エ○メラルダのU松オーナーにお茶を御馳走になり、氏の今シーズンと来シーズンのヨットレース計画を聞いたり、最新の2006年ジャパンカップ裏事情情報などを仕入れさせていただいた。

浜松町にあるその雑誌の編集部での仕事が終わると、山手線で品川に行き、3人の優秀な学者たちと酒を飲んだ。
一人は、2000年のニッポンチャレンジ開発チームの若親分で、現在はヨットデザイナーの金井亮浩氏。
もう一人は、2000年のニッポンチャレンジの建造チームのボスで、現在は東京大学助手の鵜沢氏。
さらにもう一人は、大阪府大の田原教授。田原先生は、1987年のアメリカズカップに勝ったデニス・コナーの『スターズ&ストライプス87』の開発にアメリカの組織で携わったこともあり、2000年のニッポンチャレンジ艇では、キールバルブの抵抗の評価などにも携わっている。


席に着くなり、3人はいきなり、なんだか秘密らしい、現在日米間で進められている、太平洋を舞台にした国家プロジェクトの話とか、落下傘の性能をどう評価するかとか、光ファイバーを使って物性がどうして、抵抗の検出がこうして、そして研究費をどうひねり出すかとか、などについて熱い議論を始めた。

その会話が唐突に始まったこともあり、また、その会話に使われている単語のほとんどが分らないこともあり、ぼくには外国語か音楽を聞いているようだったが、酒のつまみとしては、決して耳障りなものではなかった。

セーリングを、セーリングボートを、科学と物理学の目で見ることができるこれらの人たちと話すことは、とても面白いし、すごい勉強になる。ヨットレースの時とは別の方法でセーリングのことに夢中になれる、非常に楽しい時間だった。

話に熱中して、2本目の焼酎のボトルを飲みきれなかったので、みんなを代表して、ぼくが、いつも持ち歩いているスターバックスのマイ・マグカップ(スタバに行ってこれにコーヒーを入れてもらうと、20円安くしてくれるのだ。資源節約にも気持ち貢献できるしね)に移して持ち帰った。2年程前、このマグカップを買うときに大きいのにするか小さいのにするか、とても迷ったが、大きいのを選んだことが、2年後になって、思わぬところで報われた。焼酎は、ほんのりコーヒー・フレーバーになったけど。

今日は、かつてぼくが書いた『歴史に挑む、風の旅人たち』というアメリカズカップ本の中に、昨日一緒に飲んだ金井氏のことについて書いた部分があるので、金井氏の紹介も兼ねて、抜粋してみましょうね。


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テクニカルチームのディレクターである宮田秀明教授の片腕とも言える金井亮浩は、今回のアメリカズカップをきっかけに、東京大学の研究室を離れて株式会社ニッポンチャレンジに入社し、ニュージーランドでニッポンチャレンジの活動が一段落した後、2000年に自らの会社を設立した。自身の研究テーマと仕事を、船舶一般からセールボートに絞ってきたわけだ。
 
ニッポンチャレンジの新艇開発に取り組み始めたころはセーリングの素人だったが、今では自分自身による勉強、世界一流のセーラーたちとの会話や実際のセーリングを通して、セーリングの本質、セールボートの本質を理解しつつある。他のレースボートデザイナーに比べて自分の弱点がどこにあるかを分析し、その弱点を補うための努力を続けている。

〈阿修羅〉と〈韋駄天〉の2ボートテストによる性能解析、性能アッププログラムを通して彼がセーリングチームに提出する分析値は、セーラーが担当する仕事に関する部分で多くのヒントを与えている。そのうちのいくつかは、確実に2隻の性能を向上させた。

 ニッポンチャレンジ内部では、流体力学という科学とセーラーの経験と感覚とが、金井の能力によってひとつに結び付けられつつあった。ぼくは個人的には、そこの部分に深い感動を覚えた。

 現在のところ世界トップのレースヨット・デザイナーだと評価されているブルース・ファーは、中学生のときに自分が乗るディンギーを設計することからボートデザイナーとしてのキャリアをスタートした。
金井は、造波抵抗を研究する分野では世界最高峰の研究室で、セールボートデザインを進化させる作業を始めた。今では、ときどき自分で自分が開発したボートのステアリングもする。
ジャイブ、下マーク回航では、ニコニコと笑顔を浮かべたままグラインダーのハンドルを離さない。

 高校生のときにボート部だった金井は朝のトレーニングにも毎日参加する。サッカーでは、ボールに体ごと食らいつき、勢い余って転倒して手首を骨折したが、それに気づかず、ただの捻挫だと思い込んだまま、骨折した手首でクルーのグラインディングテストに参加し、驚くべき好成績を収めた。その無理がたたってオークランドに移動した後もしばらく手首のギプスが取れないままだった。

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面白い人でしょ、金井さんって。これからの日本のヨット設計という分野を支えていくべき人です。

ラッセル・クーツがいた瀬戸内海 最終回

2006年03月08日 | 風の旅人日乗
3月8日 水曜日。

4月第2週発売のターザン原稿が7日火曜日の午前中に完成。
5日日曜日のレースが終わって以来、あまり寝てないような気がするが、まあ、長距離外洋レースの、フィニッシュ直前のラストスパートの練習をしていると思えば、楽なもんだ。濡れないしね。

ターザンの原稿は、ボルボ・オーシャンレースのトップをひた走る『ABN AMRO1』を中心にした話。この艇のスキッパーとは、16年来の付き合い。じっくり話をし、クルーと話し、実際のセーリングでステアリングをさせてもらってからの原稿書きなので、楽しく書くことができた。眠かったけど。
4月12日発売なので、ぜひ読んでください。よろしくお願いします。

午前中に原稿をメールで送った後、記事に使う写真とレイアウトの打ち合わせで、夕方、東銀座の編集部へ。
東京に向う横須賀線で、前後不覚に眠る。

約束の時間よりも早く着き、小腹が空いたので、東銀座から築地まで歩いて、お気に入りの蕎麦屋さんで時間調整。蕎麦って、本当においしいなあ。日本人に生まれてよかった。
2時間ほどの打ち合わせのあと、再び新橋から横須賀線に乗って逗子経由で葉山に帰る。
東銀座から京浜急行で新逗子まで帰るって手もあるが、京浜急行の殺人的ラッシュ、しかもほとんど酔っている人たちばかりのカタマリの中で耐える体力・気力ともなしと判断して、夜の銀座通りをブラブラと新橋まで歩いた。
ああ、早くセーリングの仕事に戻りたいなあ。

さて、本日のエッセイ、行きます。
『ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003-最終回』です。

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ラッセル・クーツと巡った紀州&瀬戸内クルージング日記2003
(最終回)


文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura


【瀬戸内牛窓の夜、寿司屋で一杯】
7月30日 尾道~鞆~直島~牛窓 

瀬戸内海の旅もあと2日。朝、尾道の急斜面を上り下りして汗をかく。おいしい和食の朝食後、千光寺に登って撮影。港へ帰る途中、尾道海技学院に立ち寄って職員の方々と記念撮影。

9時尾道出港。阿伏兎ノ瀬戸で撮影のため、しまなみ海道以来の激しいセーリングを楽しんだ後、撮影艇に乗り移り鞆に入港。古い街並みが残る鞆の町を歩き、澤村船具店前などで撮影。
鞆を出港後、直島へ向う。直島文化村の笠原支配人の案内でベネッセ美術館を見学し、美術館内のレストランで昼食。

直島を出て、この日の目的地、牛窓へ。牛窓入港前にPクラスで練習する子供たちの群に、乗ってきたセーリング・クルーザーで激励攻撃をかけようとしたが、水深が浅くて接近できず。
無念のまま、16時過ぎ、牛窓港のホテル・リマーニ前の桟橋に着岸。

ここでは岡山放送のテレビ番組に生出演。ホテルのプール前でアリンギTシャツを着てその番組をこなした後、すぐに部屋に走って帰ってネクタイ、スーツに着替え、18時30分パーティー会場へ入場。スピーチ。記念撮影。サイン。くじ引き賞品プレゼンテーター。
パーティーも残るは明日のサヨナラ・パーティーを入れてあと2つ。ラストスパート。

パーティー後、地元の寿司屋さんへ。お客さんが他に一人だけだったこともあり、ゆっくりしみじみと岡山の海の幸、瀬戸内海の食材を、おいしい料理で味わう。


【〆の大阪で、日本代表の天麩羅に圧倒される】
7月31日 牛窓~明石海峡~新西宮ヨットハーバー 

さあいよいよ、「ラッセル・クーツ紀州・瀬戸内の旅」最終日。
朝、牛窓神社までジョギング。地元の大学ヨット部の学生たちに見送られて出航。この旅の最終ゴール地、新西宮へと向かう。

明石海峡をセーリングでくぐるシーンの撮影をするも、残念ながら風なし。海から神戸の街を見ながら、阪神大震災の話。6千人の方々が犠牲になったことを知り、非常に残念がる。

新西宮ヨットハーバーにセーリングで入港。
今回のクルージング実行委員会主催の「サヨナラ・パーティー」。
関西のヨット関係のお歴々、今回の企画を支えてくれた各スポンサーの方々が多数参加。

ラッセルは心からの感謝と、今回見た瀬戸内海がどんなに素晴らしく印象的だったかを出席者に伝える素晴らしいスピーチを披露。
夜、主催者代表の方と一緒に大阪の天麩羅屋さんで食事。
日本一とも言われる天麩羅を、極上のシャルドネで。今回のクルージングの思い出を関係者の人たちに感謝しながら静かに語るラッセル。


【激務の待つスイスへ。また来いよラッセル】
8月1日 大阪 

朝9時過ぎ、大阪中之島のリーガロイヤルホテルを出発。
やっと梅雨が明けた空の下、関西国際空港に向う。2人だけで乗った車の中で、本を書くための詳細打ち合わせ。今後の原稿の進め方などについて連絡を取り合う段取りなどを決める。

スイスに帰れば9月開催のサンフランシスコでのモエ・カップの段取り手配、新人のリクルートから次回アメリカズカップ全体にまつわることまで、アリンギ全体を統括するディレクターとしてチーム内部のことだけでなくアメリカズカップ運営にも深く関わる激務が待っている。

もちろんこの13日間も、日本の海の魅力を海外に知らしめるという大事な仕事ではあったが、今回のクルージングが、ラッセルにとってこれからの忙しい日々に立ち向かう前のいいリフレッシュになればと祈りつつ、見慣れたスマイルで手を振りながら出国ゲートに消えるラッセルにさよならを言った。

(完。無断転載はしないでおくれ)