風の旅人 西村一広 Sailing Diary

海とセーリングだけの人生で考えたこと、悩んだこと、感動したこと、学んだこと、あれやこれや。

スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (5)

2009年08月31日 | 風の旅人日乗
先人達の技術に磨きをかけて後生に伝えること


オスロ港。
「フェーダー・レース」という名のヨットレースが、オスロ市街のすぐ前に広がる海面からスタートした。
スカンジナビア半島に住むアマチュア・セーラーたちが冬の間から楽しみにしているオーバーナイト・レースだ。
その参加隻数、驚くなかれ、1050隻。150隻ではない、1000と50隻!

午後2時に最初のクラスがスタートしたあと、15分間隔でクラスごとに順次スタート・ラインを飛び出してゆくが、最後のクラスがスタートするときには、もう夕方の5時近くになっている。
フィヨルド・クルーズの豪華大型客船たちも、この日は夕方まで動こうともしない。動こうとしても、海面を埋め尽くしたヨットに囲まれて、おそらく身動きが取れなくなるだろう。

深いフィヨルドの一番湾奥にあるオスロ港から、何十マイルも先の湾の入口に向かって1050隻のヨットが止めどなく流れ出てゆく。現代のバイキング野郎ども(女性セーラーもいるが)の、華々しい船出だ。
その中の1隻、〈フラム〉号はノルウエーのハーラル5世国王が所有しているヨットで、王様が自分でステアリングしていらっしゃる。
その王様は、スタート・ラインで抜群のテクニックを披露し、混み合うスタートラインの中でも、最も有利なポジション争いを制して、素晴らしいスタートを切った。
王様から下々までが連なって、レース艇群は前後に伸びる長い長い一団となって外洋へと姿を消した。

ご存知の通り、スカンジナビア半島の夏は短く、厳しい冬は長い。
つまり、1年のうちでセーリング・シーズンはごく僅かだ。それにもかかわらず、セーリングというスポーツの、この人気のほどはどういうことなんだろう。
このレースは、第2次世界大戦直後の1947年に、地元のヨットクラブの7名のメンバーによって始められたという。それが徐々に参加艇が増え始め、1990年代に入ると1000隻を越えるようになった。

ここにいると、現在の日本では想像もできないセーリング文化の厚みを強く感じる。
セーリング文化に厚みがあるかないかの違いは、そのまま、歴史ある海洋民族としてのプライドがあるかないかの違いではないか、と思われた。


伝統ある海洋民族として誇りを持つこと


この「フェーダー・レース」を創設し、半世紀以上に渡って運営しているのは王立ノルウエー・ヨットクラブである。そのクラブハウスは、海洋博物館の集まるオスロ市内ビグディー半島にあって、1883年の創立だ。
北欧の典型的な帆装ワークボート船型の楚を築き、地球の真上と真下、北極海と南極海の両方を航海した最初の船<フラム号>の設計者でもあるコリン・アーチャーや、歴代のノルウエー国王がかつてのコモドア(会長)として名を連ねる、伝統のヨットクラブである。

ここのヨットクラブのクラブハウスを歩いていると、彼らのプライドがそこかしこから匂い立つ。
バイキング時代からの卓越した海洋民族として活躍した歴史的事実、オリンピックで獲得した数々のメダル、歴代の国王が身近なセーリング仲間であること、などなど。
これらの事実が彼らを支え、そのことをこの上ない誇りとしている。彼らが海洋民族として自信を持ち、そのことをとても心地よく思っていることを肌で感じる。

それに羨望を覚えながらも、ぼくは、この日本が、我々日本人が、本当は、海洋国として、海洋民族として、彼ら北欧人に劣っているとは、どうしても認めることができないでいる。
しかし残念なことに我々は、それを主張できる資料や証拠を今は失っていて、為す術もない。

この日、オスロを後にしたぼくは、ノルウエーの海岸に沿った旅をさらに続けることにした。
その旅先で、祖先に対する深い尊敬の念に起因する、さらに驚くべき北欧の人たちの情熱的な活動を知ることになった。
(続く)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (4)

2009年08月28日 | 風の旅人日乗
先人達の知恵と勇気を誇りにすること

 
ノルウエーはバイキング時代以来の海洋文化国として知られているが、国としてスウェーデンから正式に独立してからまだ100年そこそこの、若い国だ。だから、古い時代まで遡ることができるその海文化の歴史は、国ではなく、そこに住んでいた人たちそのものに由来するものである。

オスロ市のビグディー半島には、海と船にまつわる博物館が、4つある。ノルウエー海洋博物館、フラム博物館、バイキング博物館、そしてコンティキ博物館、である。

フラム博物館内部では、史上初めて北極と南極を制した帆船フラム号を、そのままの形で見ることができる。
アムンセンが最初に北西航路に挑んだ<ヨア号>も、フラム博物館の外に保存されている。その小ささに驚く。15年前は打ち捨てられたような状態だったそうだが、今は整備が行き届いている。

バイキング博物館では、20世紀初頭、オスロの南のオーセベルで発掘された全長22メートルのバイキング船が展示されている。
船首と船尾部はバラバラになった破片をもとに復元されていて、保存作業、復元作業ともに困難を極めたという。先人たちの過去の技術を未来に残すべきだという価値観が、その作業を推し進めた。

ビグディー半島に4つある海関係博物館には、毎日たくさんの小・中学生が訪れているが、中でも一番人気はコンティキ博物館だ。
トール・ヘイエルダールがコンティキ号の航海で証明しようとした、ポリネシア人たちの太平洋拡散に関する仮説(東から西へ)は、今では間違ったものとなったが、それでも、トール・ヘイエルダールは、ノルウエーの子どもたちにとって英雄だ。
コンティキ号の復元船だけでなく、葦舟ラー号の復元船にも、子供たちは目を輝かせる。

トール・ヘイエルダールがコンティキ号の航海の記録として撮影したフィルム映画が、アカデミー賞で初めてのドキュメンタリー部門受賞作であることを、この博物館で知った。

これらの博物館の展示品群を見て歩いているうちに、この地の祖先が残した海洋文化、業績、技術、を現代に残し、未来に伝えようとする熱意に、深い敬意を抱く。
それは、自分の国の海洋文化史を系統立てて見ることが出来ないという悔しさも少し含まれた、複雑な感情でもある。
数千年前から日本に間違いなくあったはずの独自の海洋文化史を、誇りを持ってこの目で見たいと願っているのに、それを現在では見ることが出来ない。その悔しさだ。

しかし、これらの海関係博物館建設の露払い的役割を果たしたフラム博物館の、建設までの困難を克服した経緯を知ると、隣の芝の青さを羨んでばかりもいられないことを知る。

ロアール・アムンセンの、南極点に人類として初めて到達するという偉業に貢献したあと、1914年に群集の大歓迎の中をノルウエーに戻ってきたフラム号は、第1次大戦が始まったことや、その後アムンセンが飛行機事故で亡くなったこともあって、人々から忘れられ、放置され、朽ち果てようとしていた。

フラム号が成し遂げたことを後世に伝えるべきだと考えた有志たちは、大苦戦を強いられた。
しかし、多くの障害や反対運動の中、彼らは、あきらめず、莫大な資金を提供してくれるスポンサーを必死で探し出し、フラム号を修復し、船全体を覆う建物を作り、そしてフラム号をその中に収めた。
それは一言で片付けられるような簡単な事業ではなく、それを実現するまでに、実に20年もの歳月を要した、大プロジェクトだったというのだ。恐らくこの博物館を作るために、半生を捧げた人たちが何人もいることだろう。

過去の文化を未来に伝えようとすることは、このように、強い信念と熱意を必要とするものなのだろう。しかし、それが間違いなく子孫たちに誇りと勇気を与えると確信していたからこそ、彼らはそのための努力を続けたのだろう。
そして彼らのその努力は報われた。
現代のスカンジナビア人は海洋文化を大切にし、祖先が成し遂げたことを自分たちの誇りとし、その矜持を胸に、海と接し続けている。
(続く)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (3)

2009年08月27日 | 風の旅人日乗
スウェーデンからノルウエーへ


翌朝、スウェーデンのイェーテボリ港に到着した〈ステナ・ジャーマニカ号〉を降り、旅に必要な買い物ををしたり、市内で軽く腹ごしらえをしたりしたあと、お昼過ぎにオスロへ向かって北上を開始する。

濃い緑の針葉樹の森、黄色い菜の花、紫色のラベンダー畑。
初夏のスウェーデンの、色鮮やかな風景の中を、時速140キロくらいのスピードで(正直に言うと、時々190キロくらいを試したりしながら)、心地よいドライブでノルウエーとの国境を目指す。

いくつかの、U字谷になった深いフィヨルドに架けられた橋を渡る。
ノルウエーとスウェーデンとの国境線は、そんな深いU字谷のひとつに沿って走っていた。そのフィヨルドに架かった橋の向こうに、有料道路の料金所のような、国境検問所があったが、止められることもなく、正確に言えば、どのブースに入ったらいいのか分からないまま、無人のゲートを選んでそのまま走り抜けた。

なにしろ、この国境検問所もそうだが、スウェーデンもノルウエーも、道路標識はすべてその国の言葉で書かれていて英語の標識はほとんどない。つまり、何を言っているのか、何を指示しているのか、さっぱり分からないのだ。
例えば「シティ・セントロ」と書いた矢印があったら、多分、市内中心方向のことだろう、と推測するしかない。

ノルウエーに入ると、スウェーデンからずっと続いてきた同じ道なのに路面の状態が少し悪くなり、行き交う車のメーカー、サイズががらりと変わった。道沿いの遠景に見える家々に塗られたペンキの色がスウェーデンとは微妙に違うのも印象的だ。

細長い吹流しのようなペナント型の国旗も、水色地に黄色十字のスウェーデンから、赤地に濃紺十字のノルウエーに変わった。しかし、それらが家々の前庭に翻っている光景は変わらない。
本来、帆船のトップ・マストに掲げられているべきペナントを誇らしげに自宅の前に掲げるところに、船文化がスカンジナビア半島の一般生活に浸透していることを強く感じさせる。

日本でもセーリング・ウエアで馴染みの深いへリー・ハンセン氏の地元だったモスの街を過ぎると、反対車線が渋滞し始めた。オスロから郊外の住宅地に帰宅する人たちのクルマによる、通勤ラッシュのようだ。

午後4時半、ノルウエーの首都オスロ市街に入る。
約20時間前にドイツのキールを出てから、海路250海里、陸路500キロ、ドイツ、デンマーク領海、スウェーデンを通り抜けてのノルウエーまでの旅だった。

オスロ市街の目の前にある港には、大型の客船、帆船、木造の作業船が、忙しげに走り回っている。海運王国ノルウエーの首都オスロは「マリタイム・メトロポリス」と呼ばれていて、世界の海に直結した港町である。

ノルウエーに来たのは、今は亡き野本謙作先生の愛艇〈春一番〉にご一緒させていただいたとき以来だ。そのときは、野本先生ご夫妻と〈春一番〉で、スタファンゲルという漁港を出てハルダンゲル・フィヨルドを巡り、ノルウエー西海岸のベルゲンまでのクルージングを楽しんだ。

そのクルージングのあと、ぼくはベルゲンから夜行寝台列車に乗ってオスロに行き、博物館を巡って歩いた。そのときに見落としたものや、そのときの自分では見えなかったものを、今度は別の角度から見ることができるかもしれない。
明日からはオスロで、北欧の海洋文化の歴史をゆっくりと見て回ることにしよう。
(続く)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (2)

2009年08月26日 | 風の旅人日乗
ドイツからスウェーデンへ


この地方の海洋文化の背景を探るには、やはり博物館に行くことから始めるべきだろう、と思った。

北欧で、海に関する博物館といえば、ノルウエーの首都オスロである。
オスロには海洋博物館、バイキング博物館、フラム博物館、コンティキ博物館と、船や海洋関係の博物館が集まった一画がある。
オスロを目指すことにしよう。

ドイツのキールからスウェーデンのイェーテボリまで船で行き、そこからスウェーデン西海岸を走る国道をクルマで北上してノルウエーとの国境を越え、そのまま北上を続けてオスロに向かうことにする。

しかしその前に、まずはここドイツで何か、この国の海洋文化に触れられる場所に行きたい、と思った。

かつて、有能な潜水艦「Uボート」の母港でもあったキールは、第2次世界大戦で徹底的な爆撃を受けたらしく、古い建物はポツンポツンとしか残っていない。街並みも何かまだ復興途中のようで、痛々しい。

しかし競技セーラーにとってキールといえば、ヨーロッパの夏の訪れを告げるセーリングの祭典、“キール・ウイーク”が行なわれる港である。
それを主催しているのはキール・ヨットクラブだ。
そのヨットクラブは1936年ベルリン大会、1972年ミュンヘン大会の、2つのオリンピックのセーリング競技を担当したことでも知られている、ドイツの代表的なヨットクラブでもある。
旅の始まりに、まずはキール・ヨットクラブを表敬訪問してからルウエーへ旅立つことにした。

キール・ヨットクラブでは、現会長のオットー・シュレンズカー氏と面会して、ドイツのセーリング競技の歴史に関する興味深いお話を聞くことができた。ドイツと日本のセーリング界の、意外と深い繋がりについても知ることになった貴重な時間だった。
その日の午後7時半、キールを出港してイェーテボリに向かう客船〈ステナ・ジャーマニカ号〉に乗り込む。
デンマーク国土にはさまれたバルト海を抜けてスウェーデンへと向かう、約13時間の船旅である。

日が長い夏の夕暮れ、〈ステナ・ジャーマニカ号〉は細く長いキール港の中を、ゆっくりとしたスピードで、港口に向かって走り始める。
船内やサンデッキにはバーがあって、出港するや否や、乗客はもうビールやワインを楽しんでいる。
平日なのに、何隻かのヨットが客船の脇を走る。

キール湾口には、1隻のUボートが陸上に展示されている。
当時、ナチズムに塗り固められたドイツを憎んでいた敵国の立場から見れば、忌むべきものとも言えそうな潜水艦を、堂々と展示している。
失敗であれ成功であれ、自分たちの祖先が残した歴史を正面から見つめ、その事実や技術をきちんと未来に伝えようとするこの展示物を客船の高いデッキから見下ろしているうちに、今回の旅で探すべきものが見えてきたような気がした。
(続く)
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スカンジナビア漂流 ・北欧の海洋文化を辿る旅・ (1)

2009年08月25日 | 風の旅人日乗
 ドイツのキール港に面した公園に、朝から夥しい数の人たちが集まってきている。
 世界一周レースに参加したレーシングヨットたちがドイツ・キールのフィニッシュ・ラインに迫っている。9ヶ月かけて世界の海を走り、地球を一周してきた彼ら、海の英雄たちを出迎えようと集まった人々だ。

 夕方6時過ぎ、地元ドイツからの参加艇がトップでキール港の沖合に姿を現した。
 そしてそのトップ艇が、イギリス・サザンプトン沖のスタート・ラインから3万2千250マイルの距離に設置されたフィニッシュ・ラインを横切ると、長い長い岸壁に、幾重にも重なってびっしりと並んだ観衆が歓声を上げ、拳を突き上げる。
 200隻を越えるヨットやボートが祝福のホーンを鳴らしてそのドイツ艇を取り囲む。陸上の群集たちは身を乗り出して英雄たちの着岸を待つ。

 そのときぼくは、大帆船時代に新大陸を発見したコロンブスがヨーロッパに凱旋したときや、イギリスのスコットに先んじて人類として初めて南極点に立ったアムンセンがノルウエーに帰還したときの、当時の彼らを迎える港の光景を見たような気がした。

 これが日本だったら、と想像をめぐらせてみる。
 世界一周レースのフィニッシュ地が横浜の山下公園の前で、トップを走ってきているのが日本艇で、と仮定して、どれだけの人たちが歓迎してくれるだろうか、と。
 しかし残念なことに、現実感のあるものとして、その具体的光景をまぶたの裏にイメージすることができない。

 ヨーロッパの群集たちは、海から戻ってきた同朋たちをいつの時代もこんなふうに迎えていたのだろう。当時の探検家やセーラーたちは、国に繁栄と誇りをもたらす英雄だったのだろう。

 大航海時代の、自国の発展のために他国に犠牲を強い、それらを植民地化していった彼らの行為そのものには憤りを覚える。しかしそれはそれとして、現在のヨーロッパ諸国の海文化はその時代から現代まで直列で繋がっていて、だから、荒海を乗り越えて帰ってきた世界一周レースのセーラーたちは、現代のヒーローとして迎えられるのだ。

 彼らの海洋文化の歴史を知りたいと思った。
(続く)
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中禅寺湖

2009年08月23日 | 風の旅人日乗
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湖から農場までの急勾配の野原を、ロジャが右、左と大きくジグザグに横ぎりながら走ってきた。(略)
ロジャは、小道のきわの生け垣ぎりぎりまで走っていくと、むきを変えて、今度は反対側の生け垣ぎりぎりまで走る。そこでまたむきを変えて、もう一度野原を横ぎる。(略)
風は真むかいから吹いているので、ロジャは風上に間切りながら、農場にむかっているのだった。(略)
ロジャは、いま、帆船カティー・サーク号になっていたから、風に向かってまっすぐに進むわけにはいかなかった。けさ、にいさんのジョンが、蒸気船なんて、ブリキの箱にエンジンを入れたようなもんだと、言ったばかりだった。帆船でなくちゃだめなんだ。だから少し時間がかかったが、ロジャは大きく間切って野原をのぼっていった。
(アーサー・ランサム著「ツバメ号とアマゾン号」 岩田欣三/神宮輝夫訳)
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北九州の、玄海灘に面した漁村で育ち、荒海に出て海と命をやりとりする船乗りの生き様に憧れた。その漁村でアーサー・ランサムを読んで、セーリングに憧れた。

セーリングを知った今、その本を読み返すと、間切るという言葉の意味も、もどかしいようなロジャの気持ちも、実感として理解できるようになった。

農場の入口にはお母さんが待っている。その手には、遠くにいるお父さんからの電報が握られている。早く見たい、でも自分は帆船だから、向かい風の中を真っ直ぐ風に向かって走っていくわけにはいかないんだ。そんなことをしたら、帆船ではなくなってしまう…。
セーラーを夢見るロジャなりの美学だ。
子供の頃読んだ海や船の物語を時折読み返してみると、その頃の自分に再び会うことが出来る
―― 帆船でなくちゃだめなんだ。

何年も前、クルマの屋根にレーザー級の愛艇を積んで三浦半島から浜名湖に通うことを繰り返していた。
知人が借りていた湖畔の合宿所で寝起きしながら、早朝から湖面に出てセーリングの練習に精を出した。
週日はその練習で感覚を研ぎ、週末になると三浦半島に戻って外洋艇でレースに臨んだ。
その浜名湖行きは、なんというか、ぼくにとっては修行のようなもので、そのときの浜名湖は、ぼくにとっては道場のようでもあった。
夜は夜で、海とは違うリズムで岸に寄せる波の音を聞きながら、セーリングの本を読み漁った。

初夏。
ぽっかりと予定が空いた1日を利用して、どこか湖に出かけることにする。
今日は修行ではない。山の湖でセーリングし、湖面に浮かんで読書して、それに疲れたら昼寝も楽しんで、1日を過ごす。
子供の頃の自分へのタイムスリップだ。

クルマの屋根にディンギーを縛り付け、トートバッグにコーヒー・セットを入れて後部座席に放り込み、そして助手席に2冊の本を置く。今日のお供をさせる本はアーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』と、ジュール・ベルヌの『二年間の休暇』。一般には『十五少年漂流記』という邦題で知られる子供向け海洋冒険小説だが、最近は朝倉剛氏翻訳の原題バージョンがお気に入りだ。

夜が明けたばかりの三浦半島を出発して東京都内を抜け、東北自動車道に入る。目指す湖は栃木県・日光の先にある中禅寺湖。
中禅寺湖には周囲の山々から冷たい雪解け水が流れ込んでいるが、この季節には水温も緩む。紅葉の季節以外は観光客も少ない。非日常へのショート・トリップにはもってこいの湖である。

宇都宮を過ぎると、クルマの左右を流れる光景が緑で溢れはじめる。標高が高くなるに従って空気も凛と引き締まってくる。
いろは坂のカーブに合わせてハンドルをさばく頃には、男体山の雄々しい山容が木々の間から見えるようになる。職場である海の「日常」を後ろにおいて、山の湖という「非日常」へと分け入っていく高揚感が心を満たす。

「華厳の滝方面右折」という標識があるT字路を、それとは反対に左に折れるとすぐ、目指す中禅寺湖が正面に広がる。
まだ朝の気配が残る湖面には、気持ち良さそうな風が吹いている。湖の北岸に沿ってさらにクルマを走らせると、程なく湖畔のキャンプ場に到着し、クルマを湖水の際まで乗り入れた。都心を抜けてから2時間弱の行程である。

沖に伸びる桟橋に座ってコーヒーを沸かし、目の前に広がる景色に見入る。つややかな緑に覆われた湖岸の向こうには標高2600メートル級の山々が迫っている。初夏だというのに、その山襞にはまだ雪が残っている。

さあ、湖面に出ることにしよう。
舟をクルマから降ろしてリグとセールをセットする。
湖へと乗り出す。穏やかな風が吹いている。中禅寺湖は海抜1269メートルの高所にある。考えようによっては、海面から1200メートルもの高度の大空を滑る"航空セーリング"である。

それにしても、セーリングを知ったことは、この人生で最大の幸運のひとつだった。これも、子供の頃に海やセーリングへの夢を膨らませるキッカケを作ってくれたいろんな本に出会えたおかげだ。

美しい湖を、風に乗って走る。幸せだ。
標高1200メートルのそよ風が,様々な色合いの緑に囲まれた山の湖面にちりめん模様を作る。その上を滑るぼくの乗る舟が通ったあとの水面は、ちりめん模様が数秒間だけ消えて、一本の澪(みお)が引かれている。
ユリー・シュルヴィッツの「よあけ」という絵本に、この光景によく似た絵があったことを、ふいに思い出す。

中禅寺湖を管理しているのは、国土交通省ではない。宮内庁だ。そのせいか、なんとなく上品で、雅な印象さえ受ける湖である。

風と一緒に、湖のあちこちを探検して遊ぶ。棒杭のように突っ立ったマス釣りの釣師たちの姿が湖岸に沿って点在しているが、湖に浮かんでいる舟はごく僅かで、その中でも風に乗って遊んでいるのはぼくだけだ。
恐れ多くも、宮内庁が管理なさる湖水と風を独り占めして、雅やかに遊ばせていただく。

今でこそ中禅寺湖を走るヨットの姿を見ることはほとんどないが、その昔、ここには「男体山ヨットクラブ」というヨットクラブがあり、夏には欧州各国の大使が参加するヨットレースさえ開催されていたらしい。
その頃湖岸にあったボートハウスを復元した建物がある。その建物の前は小振りな入り江になっている。丸太で組まれた瀟洒なボートハウスの景観に誘われて、その入り江にも舟を進める。

陽が高くなり、それと共に、風が弱くなる気配を感じ、セーリングで湖岸に戻る。
舟からリグとセールをはずし、替りにクルマからパドルを取り出して舟に載せる。水、携帯ストーブ、コーヒー、カップ、サンドイッチと林檎のランチ、それに2冊の本を入れたトートバッグも積み込む。どこか静かな場所に錨泊しようと企んで、水際に転がっていた石をロープで結(ゆ)わえて錨を拵え、これも積み込む。

さてさて、では再出港。今度は「食う・読む・お昼寝の豪華3点セット付き、パドリング・プチ・クルーズ」だ。

パドルで舟を進めているうちに、湖岸から伸びた木の枝が、艶やかな葉で涼しそうな緑の日蔭を作っている水面を見つけ、石の錨をドブンと放り込む。
スウォートに携帯ストーブを置いてお湯を沸かす。そのお湯でたっぷりとコーヒーをいれる。舟の周りにコーヒーのいい香りが漂い出る。舷側から足を外に出して湖水に浸す。木洩れ日が水面をキラキラと輝かせている。

コーヒーカップを片手に、まずは『二年間の休暇』(十五少年漂流記)のページを開く。
ぼくが長くお世話になっているニュージーランドのオークランドが物語の発端だ。
オークランドにいるときは毎日のように歩くクイーン・ストリートや、週何日もセーリングしているハウラキ湾などの地名が、そのまま物語に登場する。何度も読んだ本なのに、すぐにストーリーの中へと引き込まれる。

湖を囲む木々の間から、いろんな鳥のさえずりが聞こえ、舟の側板に小さな波が当たってピチャピチャと静かな音を立てている。
時として命の危険とも戦わざるを得なくなる海での日常とは正反対の、穏やかな空気がここには満ち溢れている。
山の湖に浮かぶ小さな舟の周りを、幸福な時間が流れていく。

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2009年夏 富岡八幡宮例祭

2009年08月22日 | 風の旅人日乗
[二の宮の宮入 写真はすべて富岡八幡宮提供]

今年の夏の個人的クライマックスも、昨年同様、江戸・深川の富岡八幡宮だった。

3年に一度の本祭りは昨年終わったばかりだから、次の本祭りまで後2年待たなきゃいけないけど、陰の今年は、普段は富岡八幡宮の境内に祭られている二の宮の渡御で、各町内がリレーで担ぐことになっていた。

富岡八幡宮の初代宮神輿は、一代限りの豪商・紀伊国屋文左衛門が元禄時代に奉納したという、三基の総純金張りの豪勢なものだったが、関東大震災で消失した。
その後、昭和元禄とも呼ばれた昭和後期に財を成したある人物が、平成の世になって純金24kg、ダイヤモンド合計16カラット、ルビー2000個以上、その他白金だの銀だの宝石だの多数が散りばめられた、時価数億円という現在の一の宮を奉納した。
<

日本一の黄金張り神輿として知られるその富岡八幡宮一の宮の重さは、4トン半。
奉納された年には何とか踏ん張って担いだものの、これではあまりに重くて、そう度々担ぐのは難しい、ということになって、一の宮より少し小振りの二の宮を拵えることになった。


しかし、屋根に舞う鳳凰の両目に2.5カラット+2.5カラット=5カラットのダイヤモンドがキラリキラリと輝くその二の宮も、重量2トンの大物神輿である。2年前の陰祭りのときも担がせていただいたが、そのときはその重さにやられて、腰を痛めた。最後まで担げず、あの年の自分は健闘はしたものの敗退した、と密かに自覚している。
今年、その二の宮を再び有難く担がせていただけるのだ。2年前のようなみっともないことはできない。

祭りで富岡八幡宮の宮神輿を担ぐには、「富岡八幡宮」の文字が濃紺で染め抜かれた白半纏を着ていなければならない。
その白半纏を着ていない者は神輿に触れることは許されない。
白半纏の下はさらし木綿の腹巻か白のダボシャツ、そして下半身は白の半ダコと白足袋が決まりだ。帯と鉢巻は各町内で統一されている。
白半纏を着るためには、各町内の肝煎り衆に公認された上で氏名登録が必要になる。
誰もが富岡八幡宮の宮神輿を担げるわけではないのだ。

そんな晴れがましい白半纏を着て、ナイキのエア・ソールの機能と構造をそのままパクッた靴底を持つエア白足袋(腰に優しい)を履いて、40分ほどだったが、今年は牡丹二・三町内担当レグを、ほとんど担ぎっぱなしで担ぐことができた。

不安だった腰のヘルニアも全然問題なく(翌日少し左足が変だったから、まったく大丈夫、というわけではなかったみたいだけど)、ワッショイ、ワッショイを叫びながらとっても気持ちよく担ぐことができた。

神輿が大き過ぎて、レグ途中の大横川に掛かる東富橋の鋼鉄製上部構造を担いだままくぐることができず、総代の指示で、みんなで一斉に担ぎ棒から肩を抜いて、全員中腰になりながら両手で担ぎ棒を抱えてその下をくぐらせた。
この十数メートルが肉体的(特に腰)に今年最も苦しかった程度で、そのほかはまったく問題なしの、完璧。2年前の個人的雪辱を果たすことができた。

昨年の本祭りと違って天気も良くて暑く、沿道の人たちが威勢よくザブザブと掛けてくれる力水が本当に気持ちよかった。
2年後の本祭りに向けて調子を整えるために、来年もいいコンディションで臨みたい。

次の町内の担ぎ手たちにバトンタッチして、心地良い余韻にひたりながら、それまで二の宮を担いできた道を仲間の担ぎ手たちと一緒に歩いていたら、
沿道に陣取って我々が担いだ神輿の渡御を見物していたらしい若い女の子二人が興奮して喋っている声が耳に入ってきた。

細かい言い回しはよく理解できなかったが、要約すると、
「お神輿も、それを担いでいる人たち(男の人も女の人も)も、すごくカッコよかったね」
ということを、新現代日本語とイントネーションを駆使した表現で二人は述べ合っているようだった。

そうか、この世代の心にも、日本の古い伝統のカッコよさは響いているのだ。
日本のいろんな伝統や文化を新しい世代に伝えようとすることは、まだ決して遅くはないのだと、思った。
ねえ、君たちの、ちょっとアバンギャルドな浴衣の着こなしも、とても可愛かったよ。

その二の宮渡御の前日、家族・親類と一緒に門前仲町の縁日をひやかして歩き、伊勢屋では久し振りにあんみつを食べた。
『伊勢屋稲荷に犬のクソ』というのは、江戸の町に多かった物トップ3だそうだが、門仲の伊勢屋も古くて由緒正しい。地元の人たちにはおこわが特に人気だ。学生時代、おんぼろヨットの修理費を稼ぎ出すためにぼくはこの伊勢屋で皿洗いのバイトをやったこともある。懐かしい店なのだ。

日暮れ時、富岡八幡宮境内で行なわれているという奉納ライブを、夕食までの間、ちょっとだけ楽しむことにして、八幡宮境内に向かう。
そのライブで歌うことになっている泉谷しげるさんの姿が、境内の隅にあった。

北九州・小倉の、坊主頭の田舎の高校生だった頃、泉谷さんや吉田拓郎さんや岡林信康さんとかが出演するコンサートに、小遣いの続く限り通っていた時期がある。

まだフサフサだった髪の毛をボブ・ディラン風にボサボサに伸ばしていた泉谷さんは、ステージの真ん中に置かれているイスまで片足を引きずって面倒くさそうに歩いてきて、
そのイスにドカンと腰を降ろして、あの当時からすでに、「季節のない町に生まれー、風のない丘に育ちー」って、怒ったように歌っていた。

そう言えばあの頃、小倉より田舎の田川にある歯医者さんの息子だった井上陽水さんは、その頃はアンドレカンドレという名前でステージに上がっていて、それらメインイベンターたちの前座として、おらぶ(叫ぶ)ようにひたすら声を張り上げて歌ってたなあ。
海援隊というグループにいた武田鉄矢さんも、その頃は、全国区の泉谷さんたちを盛り上げるための、地元北九州限定の前座だった。

テレビという華やかな活動の舞台もあるとは言え、音楽の中では比較的マイナーなジャンルにこだわり、その道一本でここまで生き抜いてきた泉谷さんは偉いなあ、オイラも道を見失わないよう頑張らないとなあ、などと考えながら、ファンに囲まれている泉谷さんの横をすり抜けて、本殿に上がってお参りした後、その下の敷石の一つに座り、ステージを観る。

そこでは、和服を優雅に着こなした美しいおばあちゃんたちと若い女の子たちが横にズラリと並んで琴(こと)の集団ライブ演奏をしていた。
その中でリーダー的なおばあちゃんは、自分もきちんと演奏しながら、左右の若い女の子たちの様子に気を配り、カラオケで言えばサビの部分、その曲のここ一番の聴かせどころと思われる場面では、稽古したとおりにうまくやるのですよオーラを左右の若いお弟子さんたちに厳しく注いでいた。
そして、体を結構激しく動かして演奏するその部分がうまく成功すると、ほっとしたような表情を見せて、それから自分自身の演奏の世界に戻っていくのだった。

和服を着て微笑みの表情を浮かべながら琴を調べているおばあちゃんたちも若い娘たちも、とてもカッコよかった。日本って、いいなあ。

伝統を次世代に伝えようとしている者、その伝統に魅力を感じてそれを前の世代から引き継ごうとしている者。
わずか2日間の間に、なんだかとても暗示的なものにお江戸の深川で触れたような気がするのだが、その正体をうまく見つけられないまま、2009年夏最後の、短い休日が終わった。
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2009年夏 お伊勢参り

2009年08月21日 | 風の旅人日乗
7月中旬、逗子のMオーナーと2人で、海路を辿ってお伊勢参りの旅に出た。
梅雨前線が居座っていた遠州灘では、豪雨、向かい風、稲光の中、ひたすら神のご加護を願いながら伊勢の五ヶ所湾に向かった。

五ヶ所湾に到着した翌日。
そこまでの航海が無事に終わったお礼を込めて、朝から伊勢神宮にお参りしたその一日は、パーフェクトな一日になった。

毎年ご夫婦でお伊勢参りをしているというMオーナーにガイドをお願いして、朝一番のバスを降りておはらい町に入る。
参拝後の楽しみにすることにして、おかげ横丁は素通り。

平成二十五年の式年遷宮に備えた一連の行事はすでに始まっていて、内宮に入るために渡る宇治橋もすでに工事に入っている。
隣に架けられた仮設の橋を通って五十鈴川を渡り、境内に入る。

式年遷宮は20年に一度、正殿をはじめ橋や建物、御神体を収める船形などを新しく作り直す行事で、次回で62回目。
第一回は紀元690年に行なわれたのだそうだ。なんと1300年以上も前から連綿と続けられている行事、というか事業だ。
日本という国の歴史の古さと、祖先の偉大さを改めて思う。

京都には1200年ももっている木造建造物があるというのに、なぜ20年周期で作り変えるかというと、
「人間が世代から世代に技術を伝えていくにはこの周期でなければなければならないそうなんです」、とMオーナーが教えてくれる。

例えば、15歳のときに生まれて初めてこの事業を目の当たりにした宮大工見習いの少年が、親方から式年遷宮の工事に必要な技のイロハを学び、35歳のときに働き盛りとしてこの事業の中心プレイヤー的役割を果たし、55歳で総監督として工事全体を掌握する、と考えれば、確かに、20年周期でなければ、技術や心が正確に次の世代に伝わっていかないことが分かる。

作り直さなくても数百年はもつかもしれないけれど、それが壊れてしまったときには、それを再び作り直すために必要な数百年前の人間の技術や能力はすでに失われてしまっていて、もはや作り直すことができない、ということかな。
うーむ、何か、別の、もっと大きな、普遍的なことを暗示しているような気がする。

伊勢神宮というのは、日本中にある他のxx神宮と区別するときにだけ使う俗称で、正式には、ただ「神宮」というのが正しい、ということもMオーナーの解説で知る。すごいな、神宮、固有名詞なのか。恐らく、郵便物なども、日本国 神宮、だけで配達されるんだろうな。

まずは、Mオーナー絶対のお勧めポイントへ、ということで、五十鈴川橋という、とても姿の美しい木橋を渡り、風日祈宮(かざひのみのみや)へ。
13世紀の蒙古襲来の際に、台風をこしらえて九州に急行させ、神風を吹かせたのは、この風日祈宮に祭られている神様なのだそうだ。
台風でさえ自由に操ることができるこの神様にだけは可愛がられていたほうが、今後のためにも良かろうと判断し、多めにお賽銭も用意し、心をこめて祈る。
帰りにはこの神様のお守りも有難く頂戴した。

神宮内宮を歩いていると、こう言っては変に思われるかもしれないが、間違いなく、神が発するのか、森が発するのか、「気」を強く感じる。Mオーナーも鳥肌が立つという。
正殿の天照大神にもお参りし、そのオーラをカラダと心で存分に感じた後、いよいよおかげ横丁へ。

まずはここから行きましょう! とMオーナーが上半身を前傾させて一直線で向かった先は、おかげ横丁に入るか入らないかの所にある、カウンターのある酒屋さん。
伊勢神宮、いや「神宮」のお神酒はこの銘柄に限る、と厳しく定められているのは、灘の銘酒『白鷹』。その『白鷹』を、下々の者であるワタクシどもが、このお店で有難く試飲させていただけるのだ。

Mオーナーが「5勺にしましょうか? 1合にしましょうか?」と尋ねる。
酒豪のMオーナーらしくない弱気な質問だ。まだお昼ちょっと前、遠く関東ではうちの可愛い従業員たちが汗を流して頑張っているはず、という時間帯を気にしてのことであろう。
「1合にしましょう」と容赦なく提案する。昔の人であれば一生に一度あるかないかの貴重な旅だ。温情無用。あとさきの諸々を考えなくていいのなら、2合でも3合でもいきたいところだ。

『白鷹』は神宮様に御指名されるだけのことがあって、切れ味鋭い辛口の、潔いお酒だった。
(その後、鎌倉の、あるお蕎麦屋さんの品書きの中にこの『白鷹』の文字を偶然発見。そのときは昼ごはんとしての蕎麦だったから飲むのは我慢したけど、次の楽しみ)
そのあと、神様のお酒に癒されて神聖な酔いに抱かれた2人は、美味しいものを飲み食いしながら、おかげ横丁を2、3時間漂い歩き、最高の時を過ごしたのだった。

かつて、日本からアメリカズカップに挑戦した2つのチームの、マイナーなほうに所属して、的矢で寝泊りしながら伊勢湾で練習に励んでいたとき、休日は世間から隔離された時間を持て余していた。
あの頃何故ここに来なかったのだろうと悔やむほど、素晴らしい空間と時間をこの日伊勢神宮で堪能させていただいた。でも、若い時は、こういう雅(みやび)やかな趣味は、なかなか理解できないものなんだよね。

お伊勢からの帰りも海路を伝った。帰りの道中は、50回目の開催になるという外洋ヨットレースの2人乗り部門に参加することにしていたため、利島、江ノ島を経由して逗子に向かう。
逗子に帰るのに、利島を回ってから北上しなければならないので少し遠回りになるけど、1隻で帰るよりも周りにレース仲間たちがたくさんいるほうがなんとなく心強いし、楽しい。

約190海里、370kmの航程。自動操舵装置もないため、どちらかが怪我をして動けなくなったらマジに大変なことになるので、
「絶対に無理をせず、2人とも無事な姿で逗子に帰り着く」を合言葉に、出発。
スタート前に揚げた前帆と主帆だけで、翌日の朝、利島を回航、吹き上がってきた風に乗って大島、初島の横を通り、夕方早く、江ノ島沖のフィニッシュラインに無事到着。

そのまま逗子に戻って艇を上架して片付け、夕食を自宅でゆっくりと食べることができた。
あとで聞くと、レースの成績も良かったようで、早速お伊勢参りのご利益をいただいたと感謝する。

これで、おかげ横丁の宝くじ売り場で買ったサマージャンボが当たれば、2009年夏のお伊勢参りは完璧だったんだけど、それは欲張り過ぎ…
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葉山のラッピーアイランド

2009年08月21日 | 風の旅人日乗
ちょっと久し振りに葉山図書館に行って、読みたい本を何冊か選んだ後、
「もうそろそろかな?」と思いながら、資料検索のタッチパネルに、
らっぴーあいらんど
と打ち込んでみたら、ありました!

書名 Luppiiiy Island 著者 Maicon
貸出し可・なし

つまり、
葉山図書館の蔵書として書架にありますが、現在はどなたかに貸し出し中、とのこと。
葉山の誰かが、Maiconさんが伝えるホクレアのメッセージを、今夜読んでいる、ってことだな。
輪が広がっていけばいいな。


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レジェンド The LEGEND (3)

2009年08月20日 | 風の旅人日乗
ビジネスマンとして。


 Fの競技セーラーとしてのキャリアは、1964年10月を境に、プッツリと途切れる。

 不本意な成績に終わった東京オリンピックが終わると、それまでの10年以上セーリングに没頭してきたことの反動が来た。オリンピックでの予期しなかった惨敗のショックが尾を引いたこともあっただろうし、オリンピック前にヨット部内のレギュラー選抜にまつわる軋轢を経験してしまったことも原因だったかも知れない。Fの心は、東京オリンピックが終わるとともにセーリングから離れていった。Fは32歳になっていた。

 葉山の鐙摺港に通うヨット部中心の生活に区切りを付け、Fは、社業の主軸であった遠心分離機の製造工場に転属した。そこでの勤務を3年半経験した後、営業畑へと進んだ。Fはセーリングへの未練を断ち切ろうとするかのように夢中で働いた。自分でも気が付かないうちに会社経営のトップへの道を歩き始め、いつの間にかT工業の社長にまで昇り詰める。そしてそのポストを8年間務めたあと、相談役に退いた。
 
 T工業の会社人としてのFの経歴を振り返るとき、入社から正味10年足らずのヨット部選手時代は、Fの会社在籍年数からすれば、時間的には僅かな時期に過ぎない。しかしFにとって、その10年間は人生の中で掛け替えのない時間だった。セーリングに夢中だった頃の話を披露するFの顔から、そのことが伝わってくる。

 セーリングに没頭し、オリンピックという大きな目標に向かって邁進する時間を持ったことは、Fのビジネスの場で役に立つことも多かった。

 あるとき、社長として海外に出張し、仕事相手との丁丁発止の商談が紛糾しそうになった。
 そして、互いの部下を別室に退けて、伸るか反るかの一対一のトップ会談になったとき、ふと相手から「ところで、あなたはセーリングでオリンピックに出たことがあるんですって?」という話題が出て、しばし話はセーリングの話に逸れ、そこから話がほぐれて、その難しい商談がいつの間にか成立したのだという。

 取り引き先には世界一周レースに出たこともあるという経営者もいたし、転勤する時に自分のヨットに乗ってアメリカからヨーロッパの本社に戻ったという猛者もいた。欧米のビジネス社会では、セーリングは共通語であり、商談の緩衝材にもなれば相手の心を掴むキッカケにもなる。そのことを、Fは身を持って経験してきた。
 東京オリンピックを境に遠ざかってしまった競技セーリングの世界と、それに一所懸命に関わっていた時間を、Fは今でも深く愛しんでいる。


丘の上のレジェンド。


 Fは、現在の日本では無名のセーラーだ。三浦半島の丘の上に広がる住宅地をのんびりと散歩しているFを見て、彼がかつてオリンピック選手だったと思う人はほとんどいないことだろう。だが、Fは正真正銘の一流セーラーであり、かつての黄金期の日本セーリング界を現役として牽引した中心人物の一人である。

 ぼくは、Fのようなセーラーに接するとき、ハワイのサーファーたちの世界に存在する『レジェンド』という言葉を思い浮かべる。

 ハワイアンのサーフィンの世界で『レジェンド=伝説』は、時代を超えて尊敬するに値する偉大なサーファーに対する敬称である。伝説の大波に乗った勇者であり、また人格者でもあると認められたサーファーには、たとえ彼が老いて海に出ることができなくなっても、新しい世代のサーファーたちは畏敬の念を持って接する。レジェンドが何かを語るとき、若いサーファーたちは真摯な態度でその話に耳を傾け、人間としての生き方や、海や波乗りの本質に関わる何かを学び取ろうと努める。

 F自身や、1960年代の日本の海で、世界を目指してセーリングしていたセーラーたちの何人かは、日本のセーリング界にとって、紛うことのないレジェンドだ。Fに接し、Fの控えめな言葉で語られる当時のセーラーたちの話を聞いているうちに、ぼくはごく自然にそう思えるようになった。

 彼ら日本のレジェンド・セーラーたちがセーリングに対して示してきた愛情や、彼らの生き様そのものから、自分は何を学ぶことができるだろうか。
 そのことを、いつも自分の心に問い掛けていようと思う。
(終わり)
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レジェンド The LEGEND (2)

2009年08月19日 | 風の旅人日乗
ひどく貧乏、だけど豊か

 自分自身の競技セーラー時代のことを話し始めたFの口から、その頃の先輩、ライバル、後輩たちの名前が、次から次に尽きることなく流れ出てくる。
 まともなセーリングウェアなどは存在せず、ほとんど着の身着のままで海に出ていたその頃のヨット部の学生たち。合宿には自分が食べる分の米と、毛布1枚を持って集合した。選ばれた学生セーラーたちは卒業すると企業所属の選手になり、毎日海に出て練習することが許された。会社の費用で海外遠征に行っては惨敗して悔しがり、冬のさなかに練習を繰り返して、その翌年に雪辱を果たしたり、返り討ちにあったりしていた。今から40年以上も前の話である。

 Fの言葉の中で、彼らは生き生きと蘇り、浜から海にヨットを押し出し、セールを操って風に乗り、レースでつばぜり合いを演じ、整備を終えた愛艇の横に座って酒を飲み、そして楽しそうに笑っていた。 

 彼らは皆、戦争を知っている世代である。食べたい物を食べることができず、着たい服も着ることができない、貧しい時代の日本で育った世代だ。海外遠征には極めて限られた選手だけしか行くことはできず、その選手にしても、航空券が高すぎるために飛行機には乗れず、自分のヨットと一緒に貨物船に乗って海を渡った。写真を見ると、みんな可哀想になるくらい痩せこけている。しかし、そんな半世紀近く前の日本人セーラーたちが、元気いっぱいに日本のセーリング界を引っ張っていたのだ。

 Fの話の中には、第二次世界大戦中、元海軍大臣から依頼されて、横須賀にあった武山海軍基地で若い士官たちにセーリングを教えていた人物のエピソードも登場する。
 横須賀武山海軍基地の名前は、戦争末期に神風特攻隊として若い命を散らせた青年将校たちが、出撃直前に書いた手紙や日記を集録した『きけ わだつみのこえ』という本の中に、作者たちの所属基地として頻繁に登場するが、悲惨な戦争の犠牲になった学生や青年たちが、戦場に駆り出される前に、佐島の沖でヨットに乗ってセーリングを楽しむ時間を持ったということは、初めて聞く話だった。


セーラーとして


 Fの本格的なセーリングのキャリアは、早稲田大学ヨット部に入部することから始まった。その1年前、浪人時代に、荒川に架かる千住大橋の袂にあった貸しヨット屋で借りたA級ディンギーに乗ってセーリングの面白さの虜になって以来、大学に受かったらヨット部に入ってやろうと決めていたのだ。
 それにしても昭和20年代に、東京都内の下町を流れる川に貸しヨット屋……。かつての東京は、今の東京よりもよほどセンスのある街だったらしい。

 早稲田大学のヨット部は、当時厳しい練習で知られていて、Fと一緒に55名入った新入部員が、1年後には3名になってしまうほどだったが、「皆が嫌がる艇の整備作業さえ楽しかった」というFは、その頃の花形クラスだったA級ディンギーですぐに頭角を現した。

 Fが4年生の時に、早稲田大学は全日本学生選手権で優勝する。早稲田大学の優勝は16年ぶりのことだった。
 FはA級ディンギーでその優勝に貢献したが、その活躍が見込まれて、T工業ヨット部に引っ張られることになった。大学卒業後に家業を継がなければならない立場だったにも関わらず、Fはその話を受けることにした。家業を継ぐために諦めるには、セーリング競技はあまりに魅力的でありすぎたのだ。

 T工業ヨット部の一員として、ほとんどプロのセーラーのような待遇でセーリングしていた日々のことを、Fは「素晴らしい時間だった」と振り返る。T工業の創業者であるS.Y.と二代目のY.Yは、セーリングと若いセーラーたちに惜しみなく熱意と資金を注ぎ込んだ。

 FはA級ディンギーやスナイプ級だけでなく、1960年のローマオリンピックの候補選手としてスター級にも乗った。そしてT工業が1964年に開催される東京オリンピックに自社チームの選手を送り込むことに照準を合わせてからは、集中してドラゴン級に乗るようになる。スキッパーとして1962年のドラゴン級全日本選手権に優勝したあとは、クルーとして2年後の東京オリンピックを目指すことになった。

 1962年にはT工業ヨット部として、1963年には日本ヨット協会の強化選手として、Fたちはヨーロッパに遠征して世界レベルのセーリングの技術を磨いた。
 そして1964年の1月から始まった選考レースで、Fの乗るチームは20レース中、1位17回、2位3回という圧倒的な強さを見せ、その年の6月には、4カ月後に開催される東京オリンピックへの出場権を早々と獲得した。
 自分たちの圧倒的な強さに自分たち自身で驚きながら、Fは「もしかしたらメダルに手が届くかも知れない」とさえ思っていた。

 だが、早い段階で代表権を得たことが、逆に負の要因になった。本番までの長い準備期間を過ごすうちに、Fのチームはメンタル面においても技術面においても、調整に失敗する。選考レースの時に保持していたトップコンディションとは程遠い状態で、東京オリンピック本番を迎えてしまったのだった。
(続く)
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レジェンド The LEGEND  (1)

2009年08月19日 | 風の旅人日乗
 1932年生まれのFは、今年77歳になる。

 一般工業用遠心分離機の分野で日本のトップに君臨するT工業という、商社と製造業機能を併せ持つ企業の相談役を引退してからは、神奈川県横須賀市の小高い丘の上に建てた住み心地のいい家で、静かな暮らしを送っている。

 その家は、T工業の商社部門が北米から輸入した木材を使って建てた住宅である。その会社の開発室が創案した、室内の空気と外気がフィルターを通して呼吸する構造を特徴としていて、Fはこの家をとても気に入っている。2階の居間からは、眼下に相模湾を見渡すことができる。

 その海は、Fがオリンピック選手として活躍していた頃から慣れ親しんだ海である。
 Fは、かつて、日本を代表する優秀な競技セーラーだった。


古き良き時代の匂い


 2002年10月から2003年の4月にかけての半年間、ぼくは第31回アメリカズカップが開催されたニュージーランドのオークランドに住んで、自分の目でアメリカズカップのレースを観、自分の耳で各チームの情報を集め、現場から日本のいろんなメディアに記事を書き送っていた。日本からのアメリカズカップ挑戦は2000年以来途絶えていたが、いつか日本のチームが再び挑戦する日のために、セーラー自身が、継続して現場でカップの空気に触れていなければいけないという、独りよがりの使命感からだった。

 オークランド在住の知人にFを紹介されたのは、そのニュージーランド滞在中のことだった。Fは夫人を伴った南半球の旅の途中で、アメリカズカップを観戦するためにオークランドを訪れていた。

 オークランド市街が対岸に見え、各チームのアメリカズカップ艇を曳いたテンダーが目の前を通る海辺の宿の居間で、日本のアメリカズカップ再挑戦への思いを語るぼくの話に、Fは柔和な笑顔を絶やすことなく、熱心に耳を傾けてくれた。ぼくは、Fが相談役のポストを退いたばかりのT工業という会社にあったヨット部が、その昔は日本の競技セーリング界で中心的存在だったということを人づてに聞いたことがあった。しかし、F自身がオリンピックセーラーだったという事実をまったく、知らなかった。

 その夜、夕食を共にしながら、日本のアメリカズカップ挑戦の気運が、日本企業の理解を得ることができずにほとんど消え去ろうとしていることを、ぼくはFにくどくどと説明した。日本からのカップ挑戦が難航している大きな理由のひとつは、日本の一般企業が、文化としてのセーリングに理解や興味を示してくれないからである、日本の企業が海やセーリングに関心を持つことはもう望めないのではあるまいかと、愚痴っぽい口調で話し続けた。

 Fはそれらの言葉に丁寧に頷いていたが、その合間に、控えめな口調ながら、現在とは比較にならないくらい、日本の若者や日本の企業がセーリングに魅力を感じていた時代のことを、懐かしそうに語った。日本のヨット界にそういう華やかな時代が存在していたということは、ぼくにとって、深い驚きであった。

 断片的なFの言葉を繋いでみたところ、どうも40年以上も前、日本には熱いセーリングの時代があったようなのだ。若者たちがセーリングに夢中になり、各大学のヨット部には毎年数十人単位で新入生が入部し、ヨット部の部員数が80名を数える大学さえあったのだという。それらの青年たちの中には、大学卒業後もセーリング競技を続けたいと願う者も多く、さらに驚くべきは、そんな若者の受け皿となって、彼らをセーリング選手として雇い入れる企業が、その時代にいくつか存在していたらしいのだ。

 その夕食が終わる頃には、ぼくは改めて別の機会をいただいて、その頃の日本セーリング界の息吹を、F自身の口からもっと詳しく聞きたいと願うようになっていた。そこに日本のアメリカズカップ再挑戦につながるヒントがあるかもしれないと思ったこともあるが、それよりももっと単純に、その話を聞くことで、なんだか楽しい気分になれそうだと思ったからだ。

 その機会は、2004年の夏に訪れた。
Fが青春時代をセーリングに打ち込んだ葉山の鐙摺港で、葉山の町に古くからあるパン屋さんのテラスで朝食をいただきながら、そして、相模湾からの風が心地良く吹き抜ける丘に建つFの自宅のリビングで、日本におけるセーリングの、遠い栄光の時代の話を聴くことができた。その時代は、Fの、セーリング選手としては決して長いとは言えない現役時代と、ほぼ完全に重なっていた。それは、1950年代から1960年代にかけてのことであった。
(続く)
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