夏の終わりに

2007年09月29日 | 風の旅人日乗
9月29日。午前3時過ぎ。
北海道の東海上から伸びる強くて長大な寒冷前線が、関東地方を北から南に通過しようとしている。
冷たい雨が降り始めた。
この前線が通過した後には、再び高気圧が関東地方を覆うことになる。
しかしこの高気圧は大陸からやってくるもので、これまでの2ヶ月余り関東地方を覆っていた太平洋高気圧は、南の太平洋上に退いていく。
おそらく今日を境に、2007年の関東の夏は終わり、秋が来る。
2007年の日本の夏が、正真正銘に終わろうとしている。



今年の夏は、自分の人生の中で、どんな夏として記憶されるのだろうか?
・・・・足掛け2ヶ月をかけて発達障害児を対象にしたセーリング体験セミナーを一生懸命準備し、その甲斐あってその事業は成功し、セーリングや海での体験がそういうこども達に効果があることがはっきりと分かり、今後につながる道筋を示すことができた。・・・・深川に行って、来年の本祭りを前にしたトレーニングと称して町内会の神輿を思いっきり担いだ。・・・・

しかし、ぼくがこの夏これらの行動を選んだのは、自分で分かっていることだけど、ホクレアの影響だ。
発達障害児を対象にしたセーリング体験セミナーという、重い仕事を引き受ける決心をしたのは、ホクレアを水先案内中の九州で掛かってきた電話でイエス/ノーの返事をしなければならなかったからだし、深川で今年も神輿を担ぎたいと切実に思ったのは、門前仲町でナイノア・トンプソンと日本の歴史と伝統の話をしている最中だ。

ホクレアやナイノアと濃い時間を持ったことで、日本人として、自分は次世代の日本人に何を伝えられるか、自分の専門分野を生かして自分はいま何をやれるのか、をいつも考えるようになっている。
つまり、ぼくにとっての2007年夏は、ホクレア後遺症にかかっていた夏、である。
でもこの後遺症の症状は、いたって快適だ。真剣にこの後遺症に対峙すれば、何かが見えてくる予感がある。ただ、今はまだそれが見えない。

映画監督や学者さんたちや外国人ジャーナリストが書いた、ホクレアやナイノアに関するいろんな本を読んで勉強しなおしている。きちんとした資料に基づいて書いているこれらの文章を探し出して読んでみると、今まで自分が知っていたつもりになっていたホクレアやナイノアとは違う実像が浮かび上がってくる。

「もしも〈ホクレア〉が来るならば、(中略)、誇りを持って大きなカヌーを出迎えるのだ。〈ホクレア〉よ、日本の海だって負けてないぜ」
ターザンのホクレア特別号の最後の編集後記に、この本を企画したマガジンハウスの西岡さんが記した文章だ。〈ホクレア〉はもう日本に来て、すでに去っていってしまったが、我々日本の海と船のプロたちは、西岡さん一人にこの言葉を背負わせてはいけない、と改めて決心している。

鎌倉・海船教育会議(その2)

2007年09月27日 | 風の旅人日乗
 

(その1から続く)
4月29日に糸満を出港したあと、O君は天候を見極めて、奄美大島の名瀬に一旦避難し、その港で強い寒冷前線を伴った低気圧をやり過ごしてから、熊本に無事ホクレアとカマヘレを連れてきてくれた。
しかもO君は、航海中のホクレアのクルーたちに美しい日本の国土を見せるために、コースを少し湾曲させて島に近づいたり、島原湾に進入する時間を調整したりと言う気配りまでしてくれた。

航海中O君は、ぼくとO君とで取り決めた交信時間の7時と17時の1日2回、NTTドコモが無料で提供してくれた衛星携帯を使って、現在位置と航海の状況を東京で地団太踏んでいるぼくに詳しく連絡して来てくれた。
ぼくはその報告を、ホクレア日本航海を安全支援のために追跡してくれていた海上保安庁第11管区(那覇)の担当者と、そのレグの担当である鹿児島と熊本の保安本部に、電話で連絡した。

O君がホクレアとカマヘレを熊本まで連れて行ってくれている航海期間中、ぼくは1日だけ時間を取ることができ、関東から日帰りで熊本に向かった。
ホクレアとカマヘレの入港の、具体的受け入れ態勢を最終的に決定するためだった。
宇土マリーナのハーバーマスターの佐伯さん、マリーナにホクレアを曳航するヤンマー船の船長、カマヘレが入港する三角港の桟橋を管理する熊本県の担当者、そして熊本海上保安本部の担当官と、2隻の入港作業に関して最終打ち合わせをした。そして熊本空港で羽田行きの飛行機を待つ間に、その日打ち合わせした内容を、熊本に向け航海中のO君に衛星携帯電話で連絡した。

O君は、歓迎式典のスケジュールに合わせて、5月4日、衛星電話での打ち合わせどおり、見事に時間通りにホクレアとカマヘレを、それぞれ宇土マリーナと三角港に入港させた。

ぼくの身の回りの個人的事情は、ホクレアとカマヘレが熊本に向かっている間に好転の兆しを見せ始め、O君との約束どおり、熊本からはぼくがO君から再びこの任務を引き継ぐことができそうな光が見えてきた。

ホクレアとカマヘレが長崎県の野母崎に出港する前日、ぼくは航海用の分厚い資料と衣類をバッグに詰めて、なんとか羽田から熊本に向かう飛行機に乗ることができた。
ヤンマー熊本の担当者の方に車で宇土マリーナまで送ってもらう。ヤンマーが今回のホクレア日本航海で、全社的に示してくれたサポートは、並大抵のものではない。
2月の事前打ち合わせ、つい数日前の最終打ち合わせに続いて、3回目の宇土マリーナだ。

その日の午後いっぱいをかけてホクレアのキャプテン、チャド・バイバイヤン、カマヘレのキャプテンのマイク・テーラーと、野母崎、長崎への航海について詳細な打ち合わせをしたあと、夜、真っ暗な宇土の海岸に座って、島原湾の波の音を聞きながら、O君とカップ焼酎で静かに乾杯した。
O君は重圧から解放されてホッとした様子。チャドとマイクの心配りで、長崎まではホクレアのクルーとして乗せてもらえることになった。重い責任感から開放されて、伸び伸びと航海を楽しんで欲しい。その辛い責任感は、ぼくが気合を入れて引き継ぐことにしよう。

ぼくよりも15歳も歳下だけど、ぼくはO君にはいくら感謝しても感謝し足りない。

O君の決心を見守り、職場での彼の立場を気遣い続けてくれたO君の上司は、ホクレアが横浜に到着した後、休暇を利用してぼくとナイノアに会いに来てくれた。
ぼくは2月にホノルルで、このO君の上司とナイノア・トンプソンを引き合わせ、彼はナイノアに日本近海の気象・海象について事細やかにアドバイスしていて、ナイノアはそのことに深い感謝をしていた。さらに彼は、ホクレアの生え抜きのクルーであり、マトソン・ラインのコンテナ船の優秀なキャプテンでもあったノーマン・ピアナイアとも旧知の仲だったのだ。

このO君の上司も、日本が世界に誇る大型練習帆船・海王丸の船長という責任ある職務に付いてさえいなければ、ホクレアの日本航海に直接関わりたいくらいだったらしい、ということを、後になってO君から聞いた。

昨夜の鎌倉では、O君と2人で今後の仕事の夢について語り合った。

彼は練習帆船の一等航海士として、ぼくはヨットのプロセーラーとして、ぼくたちは、一つの確固たる『柱』を共有している。セーリング、である。
この柱を、これまでどおり自分の生き方の柱にしつつ、今後の生活の柱としていくためには、二人の力とパッションとビジョンを融合させるにはどういう道があるかについて、時間を忘れて語り合った。

はい、いい夜でしたよ。

鎌倉・海船教育会議(その1)

2007年09月27日 | 風の旅人日乗
9月26日夕方。 
航海訓練所の帆船海王丸の一等航海士のO君と鎌倉駅前で待ち合わせをして、豆腐料理屋さんに行き、美味しい豆腐料理と酒を前に、いろいろなことを語り合った。
海王丸は、横浜杉田のIHIでのドックを終え、明日27日、東京港の晴海桟橋に向かうらしい。翌朝の出港が早いと言っていた彼の言葉を忘れてしまい、O君に夜遅くまで付き合ってもらった。



O君は、突然発生した個人的事情で沖縄に戻れなくなったぼくのピンチヒッターとして、沖縄から熊本まで、ホクレアとカマヘレを水先案内してくれた、ぼくとすべてのホクレア関係者にとっての恩人だ。

沖縄から熊本に至る海は、特に春先は気象の変化が激しい。その上、黒潮が荒々しく流れて、波が著しく悪い海域も何箇所かある。さらに、見張りの義務を怠る外国船籍の船舶の交通量も多く、衝突事故も多く起きている。つまり沖縄から熊本までのレグは、今回のホクレアの日本航海の中でも最大の難所だった。



O君がいなければ、ホクレアとカマヘレが無事熊本までたどり着いたかどうか疑問だった、と今でもぼくは思っている。

4月23日の日没直前の17時30分、北緯26度11分、東経128度01分の沖縄本島沖でホクレアをやっと見つけて伴走を始め、翌日未明の糸満港までエスコートしたときにもO君はぼくの補佐を務めてくれた。
糸満入港からほんの数時間後の4月24日の早朝、ぼくはナイノア・トンプソンとチャド・バイバイヤンと次の寄港地である熊本県・宇土の入港方法の詳細などについての打ち合わせを済ませ、そのままO君が運転する車で那覇空港に向かい、その日の朝一番の飛行機で慌しく東京に戻った。

その後ぼく自身の身の回りに発生した、東京をどうしても離れられないという辛い事情と、ホクレアとカマヘレを“絶対に”無事に熊本まで届けなければならないという使命感の間で、どちらを選択すべきなのか、ぼくは恐らくこの一生の中で最も激しく悩み抜いた。身体が2つあればいいのに、と本気で願った。

そのとき、ぼくの代わりとして、ぼくが安心してホクレアとカマヘレの安全を委託することができ、人間性にも優れた海と船のプロフェッショナルは、O君しかいなかった。

しかし、彼は航海訓練所の一等航海士という職員であり、休暇中とはいえ、勝手に海に出ることは、しかも責任ある立場で、ある航海に立ち会うことは、職務上許されていなかった。彼の職場の上司からも、「西村さんの補佐という形であればよいが、O君を単独で航海に出すことは、考えないで欲しい」という、彼の立場を考えての、厳しいお言葉ももらっていた。

もし、O君が乗れなかったら、自分としてはホクレアを選ばざるを得ない、と決心したが、そうすれば、自分は自分の身内の中で、今後身の置き所のない人間になってしまうだろう、と思うと辛かった。心から血が出る思いとは、こういうことなのか、と思っていた。

しかし、O君は、そういうぼくの心を見透かしたかのように、職場での自分の立場が危うくなることを覚悟した上で、ぼくの代理として一人でホクレアを熊本まで水先案内することを決意し、上司を説得して回ってくれたのだ。

(続く)

舵誌、新連載

2007年09月23日 | 風の旅人日乗
来月10月5日発売の『舵』誌11月号から、ぼくが担当する新連載が始まります。

日本で発売されているいろんなヨットに試乗して、その艇の購入を考えているオーナーに代わって試乗したり、設計者や製造者や販売者に、いろんな疑問を直接インタビューして聞き出す、という企画で、タイトルは『KAZU impression 西村一広的熱視線』

この連載でちゃんとした文章を書くには、実際に乗りに行く前にじっくりとその艇のことを調べなければならないし、乗った後も、自分が実際にセーリングしてみて感じたことを、科学的に裏付ける文章で、まだその艇に乗ってみたことがないオーナーやセーラーの皆さんが分かるように丁寧に書かなければいけない。
ちょっと大変だけど、その過程がすごく自分の勉強にもなることもあって、ぼく自身がけっこう楽しんでいる企画です。

連載第1回目に選んだのは、8月初旬に愛知県・衣浦に行って乗ってきた、話題の新モデル・VITE(ヴィッテ)。ヴィッテルじゃあないよ。



淡路島の親子体験セーリングセミナーの準備や、来年の横浜でのレースイベントの企画書作りなどと原稿書きの時期が重なってしまったけれど、先週やっと入稿が終わった。
VITEを設計した横山さんや金井さん、建造したツボヰヨットの坪井さんからもいろんな情報をいただいて書き上げた。

これからも、日本の海が好きで、セーリングが大好きな人たちに楽しんで読んでいただけるような文章を、努力を怠らずに書いていきたい、と願っています。

親子海洋体験セーリングセミナー(その6)

2007年09月17日 | 風の旅人日乗


9月17日午後。
参加者全員がシャワーを浴びて、昼食を取った後、午後1時、親子体験海洋セミナーの終了式だ。

「セーリングを体験し、みんなで頑張ったので、あなたをチームニシムラのメンバーとして認めます」という認定カードを、参加した子供たちに手渡すと、みんな本当にうれしそうないい笑顔を見せてくれた。

海とセーリングは、子どもたちの教育に、計り知れない可能性を持っているかもしれない ―― ホクレア号の日本来航に関わって以来、考えているこのことについて、今回も多く、深く深く考えさせられた。

担当のスタッフの方々、ボランティアスタッフの方々、そしてチームニシムラのメンバーの方々のそれぞれが、力を出し合って実現し、成功裏に終わることができた今回の海洋体験セミナーだけど、この輪を広げていくには、また新たな力が必要で、それをどのように一つに力に結集していくかが、次の課題だなあ、と考えながら、大阪・伊丹発羽田行きの飛行機に乗り込んだ。

親子海洋体験セーリングセミナー(その5)

2007年09月17日 | 風の旅人日乗


9月17日
今日はもう最終日だ。なのに、風は収まらない。

目を覚まして窓から外を見ると、海を見に行く必要がないくらいの南西風が、宿舎の周りをビュービューと吹いている。
しかしそれでも朝6時、チームニシムラの全員で、祈りを込めて阿万海岸まで歩いてビーチと海をチェックしに行く。

いや参った。このプログラムの準備を始めた昨年12月以来、何度かこの海岸を見てきたが、今日が一番ひどい荒れ模様だ。
初心者対象のセーリング体験をやるかやらないか、まったく悩む必要がないくらいの、激しい海だった。

職員室に行き、担当のスタッフの方々とミーティング。カヌー・リレー用のたすきと、終了式で渡す予定の、チームニシムラ認定証の準備をお願いする。

朝9時、福良のB&G海洋クラブの艇庫前に集合。
今日は、参加者全員が一体感を持てるよう、4組のチームを作って、チーム対抗カヌー・リレーを行なうことを発表。
子供たちがチームメイト同士で作戦を練り、ライバルチームになった友達とけん制しあっている。
初日に最初に見たときのイメージからはほど遠い、生き生きとした子供たちの表情だ。海や船が子供たちに与えるパワーに、改めて考えさせられる。

10時くらいになると、福良の海岸に昨日のようなつむじ風がなくなり、セーリングも可能だったかな?と一瞬迷う。しかし、風向が少しでも変われば、あのつむじ風が降りてくる可能性もゼロではない、と自分を言い聞かせて、残念だけれども今回はあきらめよう、と自分を説得する。

親子海洋体験セーリングセミナー(その4)

2007年09月16日 | 風の旅人日乗
9月16日午後。
参加者たちが昼ごはんを食べている間に、午後のプログラムの可能性を探りに阿万海岸、施設内の池、隣町の福良の海岸などを、チームニシムラの面々で見て回る。

風の強さも方向も、午前と変わりなく、良くない。まず、阿万海岸での実施は不可能と決定。

次に、施設内にある観賞用の広大な池でセーリングできるか否かの可能性を検討する。
広さ、◎。
風も、○。
艇の乗り移り設備、ウーム、×。
池の周囲は庭石のような岩で囲われ、その岩が全体に緩んでいて人が乗ると池に崩れ落ちそうだ。これは危ない。その1点の×印が理由で、不適当と判断する。

残るは、西にある山を一つ越えたところにある福良湾の、B&G財団施設前の水面。南西風が山でさえぎられているので、水面は波静か。離着艇に適切な小石のビーチもある。
ところが、ここも欠点があり、風が非常に不安定だ。
水面を取り囲むように切り立っている急峻な山の斜面から、時折吹き降ろしてくる突風が、ここの水面上でつむじ風のように舞い、風向が360度定まらない。風速の強弱も激しい。
これでは、初心者は風を感じるどころか、風に翻弄されて、ヨットに乗ってはみたけれど、自分が一体何をしたのか分からないセーリングになってしまうだろう。

で、みんなで出した結論は、福良のこの水面を使って、カヌーによるカリキュラムを急いで考えて、午後のメニューにしよう、というもの。

交流の家のスタッフの方たちがこの予定変更に素早く対応してくれて、バスとトラックのピストン輸送で参加者、ボランティアスタッフ、カヌーを福良まで運んでくれる。
海からは、ゴムボートを積んだレスキュー艇が、荒波を乗り越えて福良へと移動してきた。

このように、臨機応変の運営に素早く対処できる主催者がやっているイベントは、それだけで成功が約束されているようなものだ。とても心強い。さすが、独立行政法人・国立淡路青少年交流の家のスタッフの方々である。

この日の午後は、時折やって来る雷と大雨と、突風を伴った雲が来たときは、急いで海から上がって雨宿りしながら、親子でカヌーを漕いでレースをやることができた。

天気に恵まれないにも関わらず、海に入った子供たちの表情が、素晴らしく明るくなる。海から上がりたくない、と親や先生に駄々をこねる子供たちも少なくない。親との会話をしている子供たちが、心なしか増えてきたようにも感じた。

親子海洋体験セーリングセミナー(その3)

2007年09月16日 | 風の旅人日乗

9月16日
朝、小池さんと風をチェックしに海岸に行く。南南西の風が、昨日から吹きつのり、施設の前のビーチには、怒涛のような波が押し寄せている。
そのビーチとは異なり、沖に消波ブロックがある阿万海岸だが、それでも離着岸は難しいし、うまく沖に出られても、時折の強いブローで数回の転覆は経験することになるだろう。もちろんセーリングが不可能という風ではないのだけれど・・・。

青少年交流の家の職員室に行き、インターネットで気象情報を見る。
西の大陸にある台風くずれの低気圧と日本の東北地方にある低気圧とが前線でつながっている。その前線に向かって南からの暖かい、しかも湿った空気が吸い込まれている。
強い風が吹いているのは淡路島だけではなく、遠く離れた駿河湾でも、相模湾でも、同じような強い風が吹いている。ウー、まいった・・・。

だけど。

この体験セーリングセミナーの眼目は、親子で楽しくセーリングを経験すること、2日間でセーリングができるようになって達成感を楽しむことだ。スパルタ教育でセーリングの技術を叩き込むことではない。このことを忘れないようにして、判断を下さなければいけないことを、常に頭の先頭に置いておくこと!、と自分に言い聞かせる。

午後になってコンディションが好転することを期待して、午前中は、施設内のプールに2隻のアクアミューズを浮かべて、我々インストラクターと参加者親子の、それぞれの艇に3名ずつ乗って、セーリングの感触を摑んでもらうスケジュールに組み替える。

ライフジャケットの大切さと着方を参加者全員に教えた後、小池哲チャンがいきなりプールに飛び込んで実演。緊張している子供たちをリラックスさせて集中させる作戦だ。

高橋、村橋、小池、西村の4人で交代で艇に乗り込んで参加者の方々にセーリングを楽しんでもらう。子供たちは、プールの中とはいえ、水の上に浮かぶ船に乗って本当に楽しそうだ。
その笑顔と興奮度を見ながら、コンディションが思うようなものにならなかったら、意固地になってセーリングにこだわらなくてもいいかも知れんなあ、という考えが浮かんできた。

順番を待つ子供たちが退屈しないよう、ボランティアスタッフの人たちが、プールの横の広場でゲームを企画して楽しませてくれている。

親子海洋体験セーリングセミナー(その2)

2007年09月15日 | 風の旅人日乗

9月15日、午後12時過ぎ、セミナー参加者とボランティアのスタッフたちは、大型バスで淡路島に出発。ぼくたちは、この事業を企画した北中さんたち淡路青少年交流の家のスタッフと一緒に車で淡路島に向かう。

明石大橋を渡り淡路島に入る。
島の緑と、時折見える海がとてもきれいだ。でも、風がかなり強い。朝、神戸空港に着陸したときはベタ凪だったのに。うーむ、初めてセーリングを体験する人にとっては、絶好のコンディションとは言えないなあ。

午後、村橋夫妻と、青少年交流の家の施設内で合流したあと、チームニシムラの5人と、交流の家のスタッフの以頭(いとう)さんと一緒に、セーリング体験の場所に予定している阿万(あま)海岸を見に行く。
ウー、恐れていた通りだぞ。風は海から吹いていて、打ち寄せる波がけっこう大きい。沖を走る大型の船が引き起こす波だろうか、時折大きいうねりがザブンザブンと来る。離着岸のタイミングでこの波が来たら、艇が磯波に巻かれてしまう恐れがある。

ふーむ。明日はこの風が収まるか、風向が陸からの風になることを祈ろう。
朝鮮半島にある台風が遠ざかれば、風が収まることも、風向が左回りに回って陸から吹く風になることも、ありえないことではないのだから。

夕方は、参加者、スタッフ全員で大バーベキュー大会。時折激しい雨が降っている。日が暮れても、海岸の松林を吹き渡る風の勢いは収まらない。

写真は、今回のチームニシムラのスタッフ。向かって右からチャーリー高橋さん、私、小池哲生さん、村橋さんの奥様。これに、この写真を撮影した、村橋さんが加わった5名で、体当たりで子供たちと接しました。

親子海洋体験セーリングセミナー(その1)

2007年09月15日 | 風の旅人日乗

9月15日
朝4時半に起きて、朝ご飯を食べ、6時前のバスに乗って葉山から逗子に出て、羽田に向かう。
8時15分羽田発の神戸行きに乗ればいいのだけれど、7月に、サバニレースに出るために沖縄に行くときに予約していた飛行機に乗り遅れて以来、恐くて、つい早めに空港に行く癖が抜けなくなった。

穏やかな快晴の神戸空港に降りてポートライナーに乗り、三ノ宮に早めに着いたので、学生時代によく行っていた中山手通りの「にしむらのコーヒー」で、コーヒーを飲みながら、この週末のセミナーに関する資料を改めて読み直す。
気が引き締まる。

中山手通りから再び歩いて生田神社に行き、この週末のセミナーの安全祈願をしてから、11時30分に、フラワー通りに面した国際会館の前に到着。
大阪から来た高橋さん、浜名湖から来た小池さんと合流。今回もインストラクターとして活躍していただく。2人とも元気そう。
あと2人のチームニシムラ・スタッフである村橋さん夫妻は、昨晩7時に東京の有明埠頭を出港した東九フェリーに乗って、太平洋経由で午後1時に徳島に入り、淡路島の現地で合流することになっている。

セーリングが持つ可能性

2007年09月14日 | 風の旅人日乗


9月9日にB&G財団葉山海洋クラブで、特別セーリングプログラムの講師を務めたが、親子の参加者たちの、セーリングができるようになった後の笑顔がとても素晴らしかった。そう、風だけで海の上をスイスイ走ることができるなんて、どう考えても楽しくないわけがない。

日本人の、普通に暮らしている人たちが気軽にセーリングを体験できるチャンスを広く提供できたら、もっともっとたくさんの笑顔を見ることができるのにな。

このプログラム実現に邁進しているオーシャンファミリーの大西さんの頑張りが光っている。彼女のように、日本の若い人たちの中にも、貧乏なんかものともせずに、こんなに熱く生きている人がいることを知るのは、気持ちのいいことです。

それに、この日も、山下Aさん、山下Bさん、花谷さん、伊藝さん、などの大人たちがボランティアで頑張ってくれた。彼らのような人たちの協力がなければ、気楽に参加しやすい形での体験セーリングイベントができないこともまた、事実なんである。世の中、景気が密かにいいらしい。一人勝ちしている会社や個人もいるらしい。そういう、お金の使い道に困っている日本の企業や日本人がいるなら、ホンの少しでいいので、ぜひこういうことを応援して欲しいな、と思う。

ホクレアの不思議

2007年09月11日 | 風の旅人日乗


ハワイ人たちの宝物=ホクレアとそのクルーたち=を、
日本の海のプロとして絶対に守る、
無事な姿でハワイに帰ってもらう。

そう決心して、ホクレアの日本航海の、
海上運航の部分だけに関わり、
クールに航海の補佐を完璧にすることだけに徹するよう、
自分を厳しく律してきたつもりだったのに、ホクレアは、
秘かに恐れていた通り、
ぼくの内部に強烈な何かを残したまま
ハワイに帰っていった。

その何かに向き合って、
とりあえずそれを文字にしてみることを、
出版関係の友人に勧められた。
メモの段階でいいから
ウエブ雑誌にも書いてみないか、
と誘ってくれる人も現れた。

なのに。

今年の夏の暑いさなか、
ぼくは本来のセーリングの仕事をほとんどすべて断って、
その作業に没頭した。

したつもりだった。

なのに、
キーボードの前に座ると、
頭に浮かんでくるのは、
どうあがいても言葉の断片だけだった。

失語症と言う病名をこういう場所に使うことは、
この病に苦しんでいる人に対して失礼で、
しかも適切ではないのだろうけど、
思考が言葉に繋がらない、

言葉の断片が言葉の断片と繋がらず
文章になっていかない、
その、もどかしさ。
その、不思議。

俺なんかが、
自分のためにという名目はあるにせよ、
ホクレアについて書いていいのか?、
その資格はあるのか? 
という不安もフツフツとわいてくる。

キーボードを前にして呆然としているうちに、
暑くて、汗が気持ちがいいほど吹き出てくる最高の夏が
一瞬のうちに去って行った。

大好きなブログ『ホクレア号、西へ向かう』
を覗いてみると、
westさんが、再び
シャープな分析力で、
ホクレアについて語り始めていた。

相変わらず、的確な視点を保持して、
ホクレアとそれを取り巻く諸々を、
広い視野で観察している。

そうだったよな。
westさんが決心しなければ、
日本側の最初のひと転がりは、
始まらなかった。

westさんのスタンスは、
熱くなるべきときには熱く、
冷静になるべきときには冷静に。
変幻自在に主観と客観を入れ替える。

優れた編集者ならではの資質なのだろう。

創刊されたばかりのウエブマガジンに
いきなり穴を開けてしまった。

このことに関して
周囲と関わりを持ってしまった以上、
社会的な迷惑をかけないためにも、
これ以上書き始めることを遅らせるわけにはいかないし、
このプレッシャーに後押しされるのを、
甘えた気持ちで待ってたような気も、
しないではない。

そう、
経験した者が書くことでしか
伝えられないこともある。
そのことを拠りどころにして
書く勇気をふりしぼってみようか。

優秀な競技セーラーでありながら
多くのファンを持つ時代小説作家でもあった、
尊敬していたセーリングの先輩が
この日曜日、
突然死んだ。

セーリングのことも執筆のことも、
後ろ髪を引かれる思いで、
この世を後にしたことだろう。
辛かったことだろう。

ぼくだって、
この先に有り余る時間が約束されているわけではない。


B&G財団葉山海洋クラブで特別講師

2007年09月09日 | 風の旅人日乗


9月9日、B&G財団葉山海洋クラブの特別セーリング・プログラムに、特別講師として参加しました。

このプログラムはオーシャンファミリーのB&G財団葉山海洋クラブ担当の大西美奈子さんの尽力で実現したもので、チームニシムラのメンバーの花谷博幸さんやプロセーラーの伊藝徳雄さんも手伝いに来てくれました。

このプログラムは8月19日にも企画されていたのですが、その日は台風の影響でヨットを浜から出すことができず、参加者にとっては待ちに待った9月9日の日曜日でした。

参加したのは、主に葉山町に在住の、葉山海洋クラブのメンバーの親子の方々17名。
この日はセーリングの初心者にとっては絶好のコンディションで、アクアミューズ3隻に乗って、参加者全員が(講師も含めて)、思う存分にセーリングを楽しむことができました。
参加者たちの喜ぶ顔を見て、ぼく自身もとても楽しかったっす。
また是非お手伝いしたいものです。

さて来週は、淡路島の国立淡路青少年交流の家で、2泊3日の親子参加型セーリング・プログラム本番を開催します。
講師陣は、チームニシムラの村橋夫妻、高橋英夫さん、そして小池哲生さんです。
7月の準備講習会を経ての、いよいよ本番。
ぼく自身も学ぶことが多いだろうと、緊張しつつ楽しみにしています。

X41 ワンデザイン

2007年09月04日 | 風の旅人日乗


8月26日
昨日に続いて、大阪湾でセーリング。この日も昨日と同じような風速の、気持ちのいいシーブリーズが大阪湾を吹き渡っている。

この日乗るのは、昨日の『レジーナビンド38』とは趣がうって変わって、戦闘的ヨット『X41 ワンデザイン』。前々から個人的にとても興味があった新艇だ。
X41ワンデザインの日本第1号艇に乗っているのは、高畑オーナー率いるチーム『のふーぞ」。練習をしないくせにレースに勝ちまくるチームとして、日本の外洋ヨットレース界では知らぬ者がいない有名チームだ。
前日からマスト・チューニングに余念がない。今年8月のジャパンカップではマスト・チューニングが最適化されておらず、とても満足する走りができなかったようで、オーナー以下、かなり真剣にチューニングに取り組んでいる。

海に出て、レースモードで走り、風上マークや風下マーク回航を想定してセール・チェンジを繰り返し行なう。
「のふーぞは練習嫌い」、という話をそのまま信じられないくらい、素晴らしいクルーワーク。ステアリングを持っていると、クルーの皆さんがあまりに思い通りに動くので楽しくなってしまい、ついついセーリングを終えるのがもったいなくなってしまい、この日も、135イーストの門田社長が運転するカメラ艇からカメラマンが送ってくる「撮影終了」のサインを無視してしまう。

同じ海面で、10月に開催されるX-35ワンデザイン・クラスのレースに向けてチューニングに余念のない新艇〈スレッド〉に、脇永や本田や長尾や寺山さんが乗っていたので、それの邪魔をしながら一緒に走ってみたかったのだが、カメラマンが取材優先ということで、残念無念、それは適わなかった。

レジーナビンド38

2007年09月03日 | 風の旅人日乗


8月最後の週末、関西の新西宮マリーナに行き、ヨーロッパから輸入された2隻の新しいヨットに乗ってきた。10月に始まる『舵』誌の新連載の取材だ。
25日に乗ったのはスウェーデンから初めて日本に輸入されたデッキ・サルーン・クルージングヨット、『レジーナビンド38』。この艇を輸入した小林さんの人柄には、ずっと前から惹かれていて、今回も、その小林さんがとても気に入って輸入した、という話を聞いたのが、この艇を見たいと思った最初の理由だ。

重厚な内装、充実した装備からは連想できないくらい、軽快なセーリング性能を示す、素敵なヨットだった。小林さんは、このセーリング性能にも魅力を感じてこの艇に惚れ込んだのだという。同感である。
こんなヨットを家の近くに係留して、充実した余生を過ごす人生を選べる人は幸せだろう、と思う。

仕事として、こんな素晴らしいヨットでセーリングできる有り難さを、改めて思う。夏の終わりの大阪湾には、快適な10ノットちょっとの南風が吹き、最高のセーリングを楽しんだ。
カメラ艇から、カメラマンが、しきりに『撮影終了!』のサインを送ってくるが、見えない振りをして、思う存分にセーリングを楽しんだ。