4月某日 東京・八重洲

2010年04月23日 | 風の旅人日乗





【葉山・花ノ木公園】


雨の中、東京・新木場のマリーナへ。
新木場の駅を降りてからずいぶん歩くことになるので、葉山を出るときからセーリング・ブーツを履いて行った。地下鉄の中で周りを見ると、やはりちょっと浮いている。
でも、ゴアテックスでできたセーリング・ブーツは足が濡れないばかりでなく、蒸れない。どんな雨でも膝から下は完璧にドライ。
雨の日の最高の通勤靴。


【4月第2週の新木場公園の大島桜。】


ヨットでの用事を済ませたあとは、京葉線の越中島駅で降りて門前仲町に行き、
雨の富岡八幡宮にお参り。

特にお参りすることはないのだが、江東区まで来て、時間があるのに富岡八幡宮に行かないのは、なんとなく気が引けてしまう。
バッグの中には、深川が舞台で、富岡八幡宮も登場する山本一力さんの時代小説も入っているし。

いつものお蕎麦屋さんで軽く小腹を満たしてから、東京駅八重洲口の八重洲ブックセンターへ。
ホクレアに関わる計画をサポートしてくれている広告代理店の原田さんに、この日そこで講演会を開く作家の東 理夫さんを紹介してもらうことになっていたのだ。
東さんはハワイの文化や音楽にも造詣が深い人物だ。
東さんは講演を控えてお忙しそうだったので、この日はごあいさつだけにして、
後日の再会をお約束していただいた。

下の階に降りると、偶然、作家の山本一力さんをお見かけした。
奥様や編集者の人とご一緒に、新しく出版された「おたふく」について書店の人と打ち合わせをしている御様子。
山本さんは富岡八幡宮のすぐ近くにお住まいだ。大好きな作家のお姿を偶然見られるとは、さっきお参りしたばかりの、その八幡様の御利益かな。

山本さんのあの頭の中から次々に感動的な江戸人情話が創り出されるのだなあ、と思いながら、遠くからチラチラと眺めさせてもらっていただけで、
バッグの中にある本を取り出して「サインしてください」という勇気は沸いてこなかった。

そのあと、原田さんと、その後合流した桐原さんと3人で八重洲ブックセンターの裏の居酒屋に入り、
2月のハワイでのホクレアの航海の様子やその他の報告をし、今後の計画の話をする。
若い2人からいろいろなアイディアをいただく。
2人とも会社を経営していて、本来の仕事で忙しいはずなのに、こういう時間を作ってくれて、ぼくの夢を実現させるためにいろいろなアイディアを搾り出してくれる。
本当にありがたい。

原田さんがいま、大好きな海にも遊びに行けないくらい忙しいのは、
新しくKEEL’S BAR HOUSEを5月1日にオープンする準備に走り回っているからだ。
KEEL’S BAR HOUSEがオープンする場所は、いい雰囲気の住宅地として知られる、横浜の青葉台。
駅前の繁華街ではなく、あえて住宅地の中の広い一軒家を選び、改築した。
恐らく日本ではじめて住宅地にできる、本格的なビア・レストランになるという。

青葉台のKEEL’S BAR HOUSEは、いつも満員で経営者の原田さんでさえ入れないほどの人気を博している新橋のビア・バー、DRY DOCKとはまったく異なり、
「普段の生活の中に、本当に美味しいビールがある幸せ」
をテーマに、「生活の中にあるビアハウス」を目指すという。

今年のゴールデンウイークはセーリングの予定で詰まってしまっていて、開店祝いには行けそうにないけれど、
そのうちチャンスを作って是非行ってみたい。

KEEL’S BAR HOUSE
〒227-0082 神奈川県横浜市青葉区青葉台2-11-28
電話/FAX 045-985-7522


4月某日 浜名湖

2010年04月22日 | 風の旅人日乗
逗子から大船で乗り換え、小田原まで行って、新幹線こだま。
浜松で降りて、浜名湖に向かう。

久し振りの浜名湖だ。

昔々、ヤマハが次々に新しいモデルのディンギーやクルーザーを開発・発表していた頃、
耐久セーリング・テストのアルバイトで、浜名湖にはずいぶんと通った。
自分のレーザーもここに置いて、テストとテストの間に乗ったりしていた。
今、思い出したけれど、レーザーはまだ知り合いのところに置きっぱなしだ。

マリーナに着くと、耐久テストの日々を思い出すような強い北西風が吹いていて、
湖面は白波で真っ白になっている。
冬季の浜名湖はこの風が当たり前なのだけど、この季節には珍しい。

厳しい耐久テストに合格して市場に出ているモデルを、改めて耐久テストすることもなかろう、
ということで、この日はセーリングを止めにして、
艇の整備に数時間を費やすことになる。

今回お邪魔したチームは、オーナーのリーダーシップの下、
素晴らしく楽しい面々が揃うチームだった。
翌日のレースが楽しみ。

翌日。
穏やかな南風、という天気予報は大きく外れて、前日よりは弱まったものの、
同じ風向の北西風が吹き続ける。
しかもとてもガスティーで、最大24ノット、最小8ノット。

こういうコンディションでは、変化する風に合わせて、
いかに素早くスムーズにギア・チェンジできるか、いかにスピードを維持できるかがキーになる。

つまり、セーリングのメカニズムを正確に理解できているか、
そして、艇が望んでいることを身体で感じ取ることができるか、
が、特にこのようなコンディションでは試されることになる。

そういう難しい風の中、オーナーのステアリングに率いられたチームは、
見事なクルーワークを見せて優勝。
おめでとうございます。

久し振りの浜名湖で、楽しいセーリングだった。
遠州灘の魚介も、浜名湖のうなぎも、プクプクに太ったあさりも、
とても美味しゅうございました。

4月某日 諸磯

2010年04月22日 | 風の旅人日乗
[photo K.Miyazaki/KAZI]

関西から帰った翌日は、三浦半島先端近くの諸磯から船を出す。
ヨーロッパでデビューしたJボート、J97でのセーリング。

[photo K.Miyazaki/KAZI]

関西行きの前に一度出そうとしたのだけれど、そのときは諸磯のすぐ前の海が真っ白になるほどの北東風が吹き荒れ、新艇に何かあってはいけないと、中止。

[photo K.Miyazaki/KAZI]

この日も雨混じりの寒い北東風が吹いていたけれど、風の強さ的には最高。
キャビンの天井が高いことと、クローズホールドの走りが特に気に入った。
船の造りもしっかりしている。
詳細は来月号のKAZI誌に書きました。

4月某日 関西 某所

2010年04月21日 | 風の旅人日乗

関西空港行きの全日空最終便に乗って、関西の某町へ。

翌早朝、ホテルの部屋で目を覚ます。
高層階の窓の外の、奈良方面の東の空に、春の太陽がふんわりと浮かんでいる。
光がなんだか柔らかい。
万葉の春の朝。

朝食の時間まで仕事の準備をしようかと考えていたが、
フト思いついて、ホテルのすぐ近くにあるという魚市場を見学にいくことにする。

ヨットレースをしているときの大阪の海に、食べ物と結びつくイメージを描くのはとても難しいが、
実は大阪湾にも、こんなに豊富な海の幸が毎朝揚がっているのか、と正直に驚く。

もっと驚いたのは、その魚市場の中にあるたくさんの飲食店が当たり前のように早朝から営業していて、すごく活気に溢れていたこと。
市場関係の人たちだけでなく、平日なのに夜通し飲んでいたと思われる若者たちグループもいくつか混じって、騒がしく朝ごはんを食べていた。
元気だなあ。

市場で売っている魚や貝を買って、それらの食堂で料理してもらうこともできるみたい。
ちょっとココロをそそられたが、泊まっているホテルの朝飯もかなり美味しくて気に入っている。
今回は魚市場での大阪湾魚介は我慢することにして、散歩しながらホテルに戻る。

桜も散り終えた4月とは思えないような、冷たい西風が吹いていた。

4月某日 東京・奥沢 ミルキーマン

2010年04月18日 | 風の旅人日乗
[photo/Tokyo Calender]

海とセーリングに親しむ次世代日本人が増えてほしいと願う活動に
水を差されたことがキッカケになって、
近頃なんだか、ココロが疲れているように感じたので、思い切って気分転換。
財布に少々無理をお願いして、東京の奥沢にある田島さんのお店に元気をもらいに行く。

[photo/Tokyo Calender]


ハートランドのビールのあとは、1年ぶりの再会でも喉が忘れていない藤娘。
四万十川の清流が、カラダの中に滲みわたっていく。
つい最近初めて飲んだ、広島の雨後の月の、透明な味にも驚かせられたが、
藤娘、おまえも変わらず、濁らずにいてくれたんだなあ。

[photo/K.Nishimura]

田島さんのごつい指が創り出す繊細な料理の数々。
紀伊勝浦から東名高速に乗って築地まで走ってきた本マグロ。
近況をやり取りする、どおってことのない会話。
そして、酌めども尽きなくどこからか立ち現れてくる藤娘。
久し振りに贅沢な時間を堪能させていただいた。

[photo/Tokyo Calender]

お仕舞いまでいて、翌日の東京湾でのセーリングに持って行けと、
竹の子ご飯をメインにした立派な弁当まで作ってもらい、
幸せな気分でお店を出る。

その弁当を持ってのんびりブラブラ奥沢の駅まで歩いていたら、
後ろからバイクが迫ってきて、追い抜きざまに無言で不二家のミルキーを五つ手渡された。
ヘルメットを被っていたが、家に帰る途中の田島さんだったのだろう。
そうじゃなかったら、コワイ。



4月某週末 相模湾

2010年04月18日 | 風の旅人日乗
土曜日。強くもなく弱くもない南東風が気持ちいい。

逗子マリーナから出て、葉山沖から江ノ島沖にかけての海をセーリング。
出航前に、初めて水に降りた艇にシャンパンのシャワーを浴びせ、初セーリングを祝福する。
同時に、これからのそのヨットの安全航海を祈念する。
将来のレースでの勝利も願って、シャンパンは、勝利のシャンパン(と信じられている)モエシャンドン2本を奢る。

さわやかな、いかにも春らしい南東風の中で思う存分セーリングしたあと、
艇を洗って、逗子の街に出る。
まだ陽は高いけど、今度はクルーたちが自分でお酒を浴びる番だ。
夕食の時間まで、みんなでたっぷり浴びました。

翌日の日曜日は、一転して、寒い北風の一日。
初めて一緒に乗せていただくチームで、5月のレースの準備を兼ねて、この日のクラブ・レースに参加。
シーボニアから出航して、長躯葉山沖のレース海面まで、1時間近く北上する。
その間、船内のテーブルを挟んで、その艇を設計したデザイナーから、
その艇の得意な部分、弱点、現在のところの問題点などについてのお話を聞く。

第1レース、別のレースのマークを自分たちのレースの第1マークと間違えて、
いきなりの大オーバーセール。意気消沈。
第2レース、第1レースよりも順位を上げたものの、なんだか、スッキリしない。

レースが終わった後にオーナーからステアリングを替わっていただき、
初めてこの艇のステアリングを持つ。
強さを増した北東風を使って、
スピネーカーを揚げたままシーボニアまで走ることにする。

ラダーブレードに、水が粘りついている感じ。例えて言えば、ゼリーの海を走っているような。
つい何日か前に乗ったフランス艇のアーシャンボー35でも、昨日のアウトラダーのレーザーSB3でも感じなかった、不思議な感触。

でも、スピードが悪いわけではない。艇の反応が悪いわけでもない。
日本を代表する一流のヨット・デザイナー2人が共同で設計したヨットだもの、問題があろうはずがないのだ。

でもこの感触は、不思議だ。
ブレードのバランスの特性? ブレードの形の特性? ラダーベアリングの特性?
不思議なラダーの感触の理由を一生懸命考えながら走っているうちに、
シーボニアに到着。

血統的には間違いなくサラブレッドなのだから、
オーナー以下チームの皆さんは、進水後これまで2年間のレース成績に
不本意な思いを抱えていることだろう。

5月のレースで、ある程度の結果を出すには、どうしたらいいか。
帰り道、考え考え車を走らせた。
レースまでに、自分にもっと乗り込むチャンスがあればいいのだけれど。

4月某日 東京・お台場

2010年04月09日 | 風の旅人日乗
             ©Team Nishimura Project


チームニシムラ・プロジェクトの、
2010年度の「親と子の海洋体験セーリング・イベント」について、
東京・お台場の船の科学館で打合せ。
今年度は、いろんな財団に2010年度のボランティア活動のための
助成申請をしたが、ことごとく断られた。


©Team Nishimura Project

スタッフウエアを御提供下さっている㈱ゴールドウインのヘリーハンセン事業部と、
東京海洋大学ヨット部OB会と、高松高校ヨット部OBの有志の方たちのご協力が、
今年度も心の支えだ。
本当にありがとうございます。感謝感謝です。


©Team Nishimura Project

助成申請は、日本の海洋文化存続ために活動している人たちを積極的に応援します、
と謳っている団体にまで断られた。
このことには、かなりココロが痛めつけられた。
「あんたたちのやっていることは、日本の海洋文化存続にとって意味がない!」
と宣告されたようにも思えた。


©Team Nishimura Project

これまで数年間続けてきた自費持ち出しでの開催ももはや限界に達し、
心まで少し弱まり、安全の確保にも自信が持てなくなった。

正確に言うと、こういうイベントでは事故の可能性を完全にゼロにすることはできない。
それを限りなくゼロに近づけるために、
能力があり、人間的にも信頼のおける人材の確保にも努め、
そしてもちろん、万が一の場合にも備えた賠償責任保険にも入っている。

しかし、保険は民事の問題に対処するためのものに過ぎない。
もしそういう事故が起きたときに、自分が責任者として最善の行動ができ、
当事者に対しては、仕事を投げ打ってでも責任を果たし、
日本のセーリング界の人たちには、絶対に迷惑が及ばないような、
毅然とした行動ができるのか、
現在の自分自身を疑うようになってしまったのだ。


©Team Nishimura Project

そのため今年度は、安全面の不安をなくすことを第一に考えて、
東京港内の海上でセーリングを体験してもらうことはあきらめて、
船の科学館の敷地内にあるイベント用プールで開催することにした。

子どもたちにプールでセーリングをさせるのは、
そもそも2004年にNHKの番組に出演したときに考え付いたアイディアだった。

それは、卒業した小学校を訪れて、いくつかのテーマを子どもたちに与えて
自分自身の人生を通じて得たものを彼らに伝える授業をする、という番組でのことだった。


photo by late Hideo Takahashi/撮影 故・高橋英夫氏

風と友達になる、ということのほかに、
チームワークを学ぶことをもうひとつのテーマにして、
故郷の町にあるモーターボートレース場で
子どもたちにセーリングでゲームをやってもらおうと計画した。

しかし撮影日とモーターボートレースの開催日との折り合いがつかずに
そこが使えず、
仕方なく、妥協案として選んだのが、
北九州市内にある屋外50m公認プールだった。

そのプールは、自分にとっても高校生の頃水泳部として泳いだ思い出のプールだった。
コンクリートに囲まれたプールだが、
もしヨットが転覆しても足が立つ、救助の人たちが周りにいっぱい居てくれる、
という安心感のあるプールでは、
子どもたちが転覆を怖がらなくなり、その分セーリングに集中できる、
ということに気が付いた。


photo by late Hideo Takahashi/撮影 故・高橋英夫氏

しかし船の科学館のイベント用プールは、
すでにたくさんのボランティア団体が予約利用されていて、
我々チームニシムラ・プロジェクトが利用できる時間枠は、
毎月第1日曜の午後しか残されていない。

この日程に、
協力してくれるセーリング・インストラクターの人たちや
ぼく自身のスケジュールを合わせなければいけないわけだから、
今年は、毎月体験セーリングを開催することは、難しいことになりそうだ。

今月号のヨット専門誌の、
トップセーラーの井田さんの連載コラムを読んだ。そして深く感じ入った。

その文章に感じ入ったのは、
セーリングを普及させようとする自分たちの活動が、
助成団体からことごとく認められず、
「金はやらん」と言われたことは、「やっぱり、そう来たか」という程度で
ほとんどショックではなかったけど、
助成申請が拒否されたこと、そのことで、
自分たちの、滅私のつもりの活動そのものまで否定されたと感じられ、
エネルギーをすっかり吸い取られてしまったような、
そんな気持ちに囚われていたときだったからかも知れない。

井田さんが書いていることは、とても的を射た、素晴らしい意見だと思った。
実は、1ヶ月ほど前にも、
別のトップセーラーの山田さんにも同じような考えを聞かされていた。

セーリングを簡単で楽だと言って誘うのはウソつきになるし、
興味を抱かない人を無理に引っ張り込むこともおかしい。
無理をしてまで日本のセーリング人口を増やそうとすることに
意味があるんでしょうか。

そう、その通りかもしれない。
特に井田さんの考えは、実はぼく自身の心の奥底にずっと引っかかっているもので、
これまでは、そういうふうに心の中で密かに考えている自分は間違っているのだ、
と否定してきたものだ。

2人の意見は、多分、正しい。

だけど、しかし、自分の場合に限った場合は、本当にそれで、
自分自身に対して、後悔しないだろうか、とも考える。

未来の日本人の間に海を愛する気持ちがなくなってしまったり、
我々の祖先が数千年をかけて培ってきた素晴らしいセーリング能力や
海洋文化が途絶えることになったりしても、
それは、セーリング普及活動を途中であきらめてしまった自分のせいではない、
と割り切ることができるだろうか。

たとえ、大したことはできないにしても、
これまでの人生全部で海とセーリングにガップリ四つで取り組んできた人間として、
何か、できること、やらなければならないことが、あるのではないだろうか。


©Team Nishimura Project

仕事の合間合間を縫って、途切れ途切れに、
このことを考えなければいけないので、
なかなか考えはまとまらないが、ここで正しい行動を選ぶことは
自分自身にとっても、とても大切なことなんだと、ココロが伝えてくる。


©Team Nishimura Project

どうしたらいいのかな。


©Team Nishimura Project

4月某日 葉山

2010年04月08日 | 風の旅人日乗
[1月1日の最初の満月のあと、2010年2回目の満月は、ホクレアでの航海中に見ることができた]


1月は行く月、2月は逃げる月、3月は去る月なんだと、よく言いますが・・・。
今年の年明けの日々の記憶がすぐ近くにあるのに、
気が付いたら、もう4月も1週間が過ぎている。

1月は、2月の海外出張の準備と、ホクレア号でのハワイ航海トレーニングで過ぎてしまい、
2月は、ほとんど海外にいる間に終わり、
3月は、2月の海外仕事の仕上げ作業と、年度末ドタバタのあれやこれやに使ってしまった。

でも、ここまでの2010年は充実はしていたな。3ヶ月の毎日が嵐のようだったけど。

3月最終週に、富山から客人が葉山に、2泊3日で遊びにきてくれた。
この春休みに、日本とハワイの、航海を目指す若者たちが、カヌープログラムを通じて交流する授業を見事成功させて
帰国したばかりの奥准教授と、彼の若くて美しい奥様だ。

ハワイでの、日本とハワイの海の若者たちの様子を聞くことはとても楽しく、充実した時間になった。
2日目の夜には鎌倉で、西岡さんとダイロクさんにも合流してもらい、久し振りにホクレアの日本航海のときのことも語り合えた。

「満月を見られるのは、一生にそれほど多くないんですよ」という奥准教授の言葉が、
ぼくにとって2010年上半期の最重要フレーズになった。

自分の人生(非常にうまくいったとして)残り最大20年としても、満月は約240回しかない。
しかもいつも晴天というわけではないから、真ん丸い月をこの眼で見られるのは、
恐らく最大120回くらいしかない。

これは大変だ、と思った。
「満月あと120回」は、「夏あと20回」よりも「正月あと20回」よりも、とても切迫感がある数字で、
奥先生の言葉でこれに気が付かされたときは、急に焦ってしまい、
アタフタと空を見上げようとしたが、
そこはビルの中の飲み屋で、しかもその日の空には厚い雲が掛かっているのだった。

やりたいこと、やるべきこと、到達したい目標、の多さに比べて、
人生って、ホントに、短いものですね。