最後の冒険者たち

2006年09月30日 | 風の旅人日乗
今週の雑誌ターザンに、外洋ヨットレースの最高峰、世界一周ボルボ・オーシャンレース2005-06についての記事が掲載されている。
今回のレースで圧倒的な強さで優勝の栄冠を勝ち取ったオランダ艇「ABN AMRO ONE」のことや、レースの精神的起源について。
次回開催が2008年となって、寄港地として日本を含むアジアの国の1箇所が加えられたこと。
そして、次のレースに向けての熱い想いや、今年4月に、太平洋横断最短記録を達成した「ジェロニモ」到着時の裏話など。
あとは、Tarzan No.474の107~109ページをご覧下さい。

さて、今日は、2006年のCaptain's World No.100に掲載された『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』の最終回です。(text by Compass3号)

Captain's World

『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(昨日から続く)

セーリングによる太平洋横断最短記録に挑戦しようとしているフランス艇から、クルーとして乗艇しないか? という連絡があったとき、現役のプロセーラーとしての生活を少しでも長く続けたいと望んでいる自分の心の奥の声は、「もちろん乗る!」、と即座に叫んだ。しかし、理性を優先させるほうの自分は、その声をまず押さえて、この航海の難易度を忙しく計算し始めた。
「否」と答えるためのファクターはたくさんあった。
転覆したら二度と起き上がることのできないトリマラン艇による北太平洋航海の危険性。フランス人セーラーで構成されるチームに、唯一の日本人として加わることの難しさ。そして、五十一歳になって全盛期よりも確実に肉体が衰え始めている自分の、セーラーとしての総合的な能力が、初めて乗る大型トリマラン艇で通用するか否かの不安。
しかし、これらすべてが、「太平洋を渡るチャンスが巡ってきたのなら、そのチャンスを生かさないでどうするのだ。外国艇が太平洋を渡って日本に来ようというのに、その艇に日本人が乗ってなくてどうするのだ!」、という、日本人セーラーとしての素朴な熱情から出てくる内なる声を押さえ込むことができなかった。
太平洋は自分たち日本人の祖先が深く関わってきた海だということを、ぼくは知っている。その太平洋を、ヨーロッパを代表するセーラーたちがセーリングで渡り、最短横断記録を作ろうとしている。そこには誰か日本人代表が乗っていなければならない、とも思った。それは、彼らヨーロッパ人を海から迎え入れる日本人の使命でもあるはずだし、太平洋という海を切り開いてきた自分の祖先に対する責任でもある、と思えたのだ。
ぼくにとって太平洋横断は、東京商船大学(現・東京海洋大学)卒業前の航海実習として帆船日本丸で渡って以来のことになる。その実習航海では、帆船の実習生として覚えることの多さに手一杯で、日本人として太平洋を渡るということの意味を考える余裕などほとんどなかった。しかし今度の航海では、古代日本人と心を通じ合わせるつもりになって、彼らの記憶を自分の脳幹の中に探しながら、心の中の眼で太平洋を見ながら渡ってみよう、と決めた。
サンフランシスコから横浜まで、約6000マイル近い距離を、我々はわずか2週間で突っ走った。
かつて経験したことのないような高速で走るトリマラン艇でのセーリングは素晴らしい経験だった。片言の英語を使ってのフランス人セーラーとの航海生活もとてもうまくいったし、彼ら全員とお互いに深い親友になることもできた。そしてなによりも、航海を終えて横浜にゴールしたときに、フランス国民の英雄であり、また、気難しく厳しいことで知られるキャプテン、オリビエ・ドケルソンに「今後自分が挑戦するどの航海にも、おまえを連れて行ってやる」と言ってもらうことができた。自分のセーラーとしての力がフランスのトップセイラーに認めてもらえたこと以上に、日本人セーラーの能力を彼らヨーロッパ人セーラーに伝えることができた感動でいっぱいになった。

ヨットという言葉は、西洋で発達した西洋型のセーリング艇の総称だ。しかし、なにも西洋型ヨットだけがセーリング艇ではない。日本にも、ほんの最近まで現役で活躍する日本オリジナルの様々なセーリング艇が存在した。江戸時代の日本の経済活動を支えた菱垣廻船も北前船も、優秀なセーリング艇だ。そして、日本のセーリング文化を現代に伝える、ほとんど唯一の生き証人である沖縄のサバニも、日本の優秀な海洋文化の血筋を引いた立派なセーリング艇である。
我々日本人は、一万年以上の昔からほんの百年ほど前まで、長い長い歴史を持つ海洋文化を背負った海洋国民だったし、優れたセーリング技術も持っていた。しかし、そのことを知っていたり、そのことに誇りを持っている現代の日本人はあまりにも少ない。

今回、フランス艇に乗って太平洋を渡ることで、ぼくは、自分が大いなる海洋民族を祖先にもつ日本人セーラーなのだという誇りを、改めて心に刻むことができた。この、ワクワクするような気持ちを、もっともっと多くの日本人の同朋と共有したいと願っている。
周囲を海に囲われた日本。そこに暮らす人々が、ずっと昔から、現在の日本人のように海に無関心で生きてきたことのほうが不思議なことだと思う。日本人はほんのつい最近まで、海と深く関わりあって生きてきたのである。
昨年、2005年の夏、愛・地球博の関連イベントとして、セーリングを知らない子供たちを対象に、海で遊ぶことの楽しさやセーリングの面白さを知ってもらうために、2泊3日の体験セーリングキャンプを数回実施した。そのときに、感じたズシリとした手応えは、自分の予想を遥かに上回るものだった。わずか3日という短い体験で、子供たちが海とセーリングに夢中になっていく様に、我ながら驚いた。注意深くカリキュラムを組み、楽しく海と接する機会を与えてあげさえすれば、海洋民族の血を引く日本の子供たちはその記憶をすぐに思い出すのだ、という思いを新たにした。
我々の少し前の世代が、自分たちの海洋文化を子孫に伝える努力を怠ったから、それまで長く続いていた日本民族の海洋文化のことを現代日本人は忘れてしまった。その過ちを繰り返してはならないと思う。
自分自身のセーリング活動を続けることも大切だが、それと並行して、次の世代に日本の海洋文化を伝えていくために、自分ができることから始めようと考え、そのための具体的な活動を始めた。
2005年夏のセーリングキャンプで実施したカリキュラムを更に推し進めた催しを通年で開催したいと考え、母校の国立東京海洋大学や、ぼくのセーリングのベースである神奈川県葉山町や葉山ヨットクラブの協力をいただきながら、海を知らない子供や一般の人を対象に、海とセーリングの面白さを体験する場を提供するセーリングキャンプ開設の準備を進めている。ぼくが最初に立てることのできる波は、さざなみのようなものに過ぎないだろうが、繰り返しているうちにそれが次第に大きなうねりになって、日本中に広がっていくことになる可能性はゼロではないだろう。
現代の日本人たちが、自分自身の海洋民族としての能力を知り、海という言葉に憧れるだけではなく、実際に海に親しみ、たくさんの日本人が再び海に乗り出していく日々が来ること、そして日本が、再び優れた海洋文化国として世界に認められる日が来ることを、強く願っている。そうなりさえすれば、アメリカズカップであろうが、世界一周レースであろうが、日本の海洋文化を背負った日本代表チームが世界の海を舞台に活躍することなど、夢ではなくなるはずだ。
白状すると、実はそれがぼくのセーリング人生の最終目標なのだけれど・・・。

激しい練習

2006年09月29日 | 風の旅人日乗
9月28日。

スロベニア、ポルトロッシュ。

昨日、今日と、ラッセル・クーツにコーチしてもらいながらの練習が続いている。

非常に激しい練習だ。

ヘルムを持つM田オーナーとその横でメインシートをトリムするぼくに、ラッセルが付きっ切りでコーチする。

艇の上では、ラッセルはあんまり優しくないよ。というか、本当に厳しい。

日本では、西村はクルーに対して厳しすぎるって、うわさになっているらしいけど、ラッセルは多分、ぼくの百倍は厳しいよ。

ミスは絶対に容赦してくれない。本気で怒る。

でも、ラッセルって本当にセーリングが好きなんだなあ、と思う。

朝、早めに起きて艇に行き、昨日の整備でできなかったことを一人で続けていると、ジョギングのついでにラッセルが船までやってきて、ハァハァ言いながら、

「今日の準備はできているか?昨日俺が言ったことはOKか?」などを矢継ぎ早に畳み掛けてきて、「じゃあ、10時出航だぞ」と言い残して、また走り去る。

昨夜は夜中過ぎにカジノに行ったはずなのに(ぼくは誘われたけど、翌日のセーリングのことを考えるととても行けなかった)、すごいね。

人にも厳しいけど、自分にもとても厳しい。やっぱり世界一のセーラーだね。

ラッセルが横にいてのセーリングは、一瞬一瞬がすべて学ぶことだらけだ。

30年以上も一生懸命セーリングに没頭してきたのに、ラッセル・クーツという世界一のセーラーを前にすると、自分にはまだまだ進化しなければいけない余地が山のようにあるのだということを知る。

ラッセルから学ぶすべてを自分の血と肉にしたいと思う。

この機会を与えてくれた、ラッセル・クーツ44という艇と、その艇を購入してラッセルにコーチを頼んでくれたM田オーナーに心から感謝である。

厳しい練習の後の、クルーみんなでの夕食のひととき、これもまた楽しい。

ラッセルはワインに酔うと、3年前にぼくも同行した瀬戸内海のクルージングがどんなに楽しかったかを、何度も周りのクルーに語る。

ラッセルは日本の文化をとてもリスペクトしてくれていて、ぼくにとっては、それもとても嬉しいことだ。

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さて、今日は、2006年のCaptain's World No.100に掲載された『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』の中盤です。(text by Compass3号)

Captain's World

『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(昨日の続きから)

 さて、人類のセーリングの技術を進化させ続けているアメリカズカップにも、人類が本来持っていた勇敢さとセーリングの能力を試されるボルボ・オーシャンレースにも、現在、日本からの参加艇を見ることはできない。
なぜだろう? 
セーリングが、我々日本人に関わりのない文化だからだろうか?
よく言われるように「日本人は農耕民族」だからだろうか?
しかし、とぼくは考える。
「海」という言葉から海そのものを思い浮かべるとき、実際に海まで出かける機会の少ないほとんどの日本人にとっても、それはとてもポジティブで、心地良いイメージを持った存在であるはずだ。
車窓から、思いもかけずに突然遠くに海が見えたとき。
波打ち際に立って、潮騒の音を聞きながら水平線を眺めるとき。
我々日本人が、たとえ遠くからでも海に触れるとき、なんとも言えず懐かしいような、心が浮き立つような気持ちになるのはなぜだろう?
そもそも、人類は、なぜ海に出ていくようになったのだろう?
数万年前のことだったに違いないそのときの光景を、目を閉じてイメージしてみる。
最初は、海岸の貝を取り尽し、少し離れた岩まで泳いで渡るところから始まったのかもしれない。
海に流れ出た倒木が水に浮くことに気付き、それに乗ってみようと思い立つ。最初は手で漕いで丸太を進めたが、櫂を使うともっと効率良く進むことに気付く。自分も濡れず物も濡らさずに海の上を移動するために、木を刳り抜いて丸木舟を作ることを発明する。木の枝に布を張ってそれに風を受ければ、楽に速く丸木舟が動くことを知る。
これらの発明と発見の過程には、数千年、数万年の時間が横たわっているのだろう。
日本列島に住んでいた我々の祖先はどんなふうに海と関わり始めたのだろうか?
はっきりしていることが一つある。
木を刳り抜いて丸木舟を作るために使われていた特殊な石器があって、それは考古学の世界で丸型石斧と呼ばれている。この石斧の、世界で最も古い発見例は、日本の鹿児島で発掘されたもので、約一万二千年前のものだ。世界最古の造船用石器が日本で見つかっている。しかし、ほとんどの日本人はこの事実を知らない。
世界最古の造船用具が見つかったということは、日本人の祖先は、この地球で初めて船を造った人類である可能性が高い、ということになる。つまり、日本人の祖先は、人工の船で海に出た最初の人類なのかもしれない、ということだ。
このことは、我々日本人の多くが海に特別な感情を抱く理由のヒントになりはしないだろうか?
日本人の祖先である縄文人が、遠く、太平洋まで乗り出していたことも、現代の日本人自身にはあまり知られてないことだと思う。
小笠原群島に属する硫黄島や、伊豆諸島の八丈島には、約四千年前の縄文人が残した遺跡がいくつも残っている。そして彼らが頻繁に本州と行き来していたことも、遺跡で発見された品々から判明している。本州から硫黄島までの約千キロもの海を、人間は泳いで渡ることはできない。また、その時代から存在する、世界屈指の強い海流である黒潮が横切るこの海を、例え船を使っても、櫂を漕ぐことだけで渡ることはできない。風の力を使ってセーリングしなければ、黒潮を横切って千キロ以上もの海を渡ることはできないのだ。つまり、四千年も前、我々の祖先が太平洋をセーリングで走っていたという間接的な証拠が、硫黄島や八丈島で見つかった遺跡の存在である。イエス・キリストが生まれた時代よりもさらに二千年も遡った時代に、我々日本人の祖先は、太平洋を風に乗って自由自在に航海していたのだ。
我々の祖先が古くから海や船と深く関わり、技術を進化させてきた過程の記憶は、現代日本人の脳幹にも刷り込まれているはずだ。多くの日本人が海に懐かしさを覚えるのは、長く海と接してきた祖先たちの記憶を受け継いでいるからではないのだろうか?

ここ数年、ぼくは機会を作っては沖縄の慶良間諸島の座間味島に通っている。そこには、サバニと呼ばれる沖縄古来の帆装艇がある。
サバニ。
ほとんどの日本人にとって、聞きなれない名詞だと思う。サバニとは、かつては丸太を刳り抜いて作られていた小舟で、この数百年前からは、杉材をはぎ合わせて造られている帆装艇を指す言葉だ。サバニは主に沖縄地方で漁業に使われてきた。現在では実用に用いられることはほとんどなくなってしまい、その存在は、沖縄の人たちの間でさえ忘れ去られようとしている。
サバニはその歴史を丸木舟の時代まで遡ることができる。実際に、沖縄のいくつかの博物館には、大きな木を刳り抜いて造られたサバニが何隻か保存されている。丸木舟の時代まで遡ることができるということは、即ち、サバニを伝って時代をずっと遡っていけば、丸型石斧が発見された一万二千年前と現代がつながることになる。そう考えれば、『生きた化石』とさえ呼べるかもしれないサバニは、かつて確かにあった日本起源のセーリング文化を現代に伝える、ほとんど最後の生き証人だ。そのことが、サバニに乗ることにぼくを夢中にさせる。
ぼくと同じようにサバニの存在価値を理解している数人の仲間と共に座間味島に通い、その帆装サバニを、古来からの操船方法で乗りこなす技術を身に付けようとしている。西洋型のヨットにあるような舵を使わず、櫂を入れるだけでサバニの挙動をコントロールし、同時に帆を操って、祖先たちがやっていたのと同じやりかたで大海原を自由自在にサバニで走ろうと思っている。祖先と同じ方法でサバニを操ることができるようになれば、祖先たちが風や波から身体で感じ取っていた感覚や、そして何よりも、彼らが海に出ていたときの気分に、数千年の時を隔てて直接触れることができるのではないか、と考えているからだ。
 もしかしたらぼくは、日本オリジナルの帆走艇であるサバニを乗りこなせるようになることで、日本人セーラーとして、自分自身のアイデンティティーに確固たる自信を持ちたい、と願っているのかもしれない。

(続く)

ひとは何故、海から離れられないのか

2006年09月28日 | 風の旅人日乗
9月27日の朝、東京汐留で記者会見を終えたナイノア・トンプソン氏は、どうしてもカヌーを漕ぎたいと希望されていたそうです。
しかしその日は、あいにく朝から雨交じりの天気。
昼過ぎになると、東京品川は、前線通過に伴ってカミナリ交じりのかなり強い雨。
記者会見の当日に何でまたこんな雷雨なのかと思いきや、午後になって、なぜか雲間から日が差し始め、日が暮れるころにはすっかり雨も上がって秋の空。
その様子を、品川のオフィスの窓から眺めていましたが、スコールが去った後のような、何とも不思議な光景でした。
カヌーに乗りたいという希望が天に届いたのでしょうね。
東京海洋大学の品川キャンパス前の天王洲運河でカヌーを漕いだことを後で知りましたが、何とか仕事の合い間に駆けつけて、ナイノアさんにお会いしたかった。

さて、今日から3回に分けて、2006年のCaptain's World No.100に掲載された『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』を紹介したいと思います。読み応えありますよ。(text by Compass3号)

Captain's World

『海とセイリング‐ひとは何故、海から離れられないのか』

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

この4月、サンフランシスコから横浜まで、セーリングによる太平洋横断最短記録に挑戦するフランスの大型トリマラン艇(3胴艇)に乗って太平洋を渡ってきた。幸運なことに我々は14日と22時間という記録を作り、これまでの記録を5日近く縮めた。
ぼくは、その栄えある記録を作ったクルーの一員になることができた。しかしそのこと以上に、ヨーロッパ人クルーの中で唯一の日本人クルーとして過ごした2週間のこの航海は、日本人と海とセーリング文化について深く思いを巡らせる貴重な機会を、ぼくに与えてくれることになった。

地球上のいろんな地域で人類が進化させてきた、人類と海を繋ぐ技術文化が、現代の時代にスポーツとして引き継がれている。
セーリングである。
セーリングそのものは、人類が長い時間をかけて種の拡散と生存のために培ってきた技術と経験である。その技術を、最新の科学技術と理論によってさらに進化させながらスピードを競うのが、現代におけるセーリング競技である。
セーリング競技の世界で、最も古い歴史を持ち、そして、一般的に最も広く知られているのは、アメリカズカップである。アメリカズカップとは、そのヨットレースの優勝トロフィーの名称であると同時に、そのレースそのものの呼び名でもある。
セーリングというスポーツの歴史の深さをそのまま象徴するかのように、アメリカズカップは、地球上のあらゆるスポーツ・トロフィーの中で、最も長い歴史を持っている。

アメリカズカップの最初の争奪戦は、1851年に行なわれた。つまりアメリカズカップは150年以上の、3世紀にまたがる歴史を持つことになる。
その大会規模は回を追う毎に大きくなり、レースそのものも熾烈さを増しつづけている。カップの争奪戦が熱を帯びるにしたがって、アメリカズカップには、極めて高度なプロフェッショナリズムが導入されるようになった。艇の設計や建造には、通常の競技ヨットでは考えられないような、莫大な費用がかかる最先端の科学技術や材料が投入される。そしてそれらの艇に乗り組むクルーたちも、数年単位の長期契約で雇われるフルタイムのプロフェッショナル・セーラーで占められるようになった。
アメリカズカップに勝つための研究開発の過程で導き出された新しいセーリングの理論や技術は、ソフト、ハードを問わず、少し時間差はあるものの、一般のセーリング分野にフィードバックされ、セーリング全般の進化を推し進めている。
つまり、アメリカズカップは、最も歴史の深いセーリング競技という一面のほかに、セーリング文化にとってもうひとつの重要な側面を持っている。すなわち、アメリカズカップは、その参加艇の研究開発を通して、セーリングのメカニズムを高度なレベルで解き明かしたり、セーリング艇の性能を時代に即して引き上げていくことに貢献する、という役割も担っているのだ。言い換えれば、丸木舟から始まった人類のセーリング文化の進化を現代において牽引しているのが、アメリカズカップの、もうひとつの姿でもあるのだ。

アメリカズカップは長い間、参加する国々が、それぞれの国の造船技術の粋を集めた艇を造り、その艇にその国の国民を代表するセーラーたちが乗り組んでセーリング技術を競う、という形でレースが行なわれてきた。つまり、国と国とが、その国の海洋文化や海洋技術の優劣を競うヨットレース、とも表現することができるセーリング競技だった。
しかし最近になって、そんなアメリカズカップの性質を変えるようなルール変更が行なわれた。新しいルールでは、これまでの一世紀半と異なり、挑戦艇の設計者の国籍や、その艇に乗り組むセーラーたちの国籍が一切問わなれないことになった。さらに、かつては挑戦チームが自国内で、自国の技術を使って建造しなければならなかった挑戦艇も、どこの国で造っても構わないことになった。
このルール変更を受けて、アメリカズカップに挑戦するチームのほとんどが、世界中の国から設計者や造船技術者やセーラーを雇い入れるようになった。艇の設計者の名前や、乗っているクルーの顔触れを見るだけでは、そのチームのベースが一体どの国にあるのか、どの国からの挑戦チームなのか、皆目見当がつかないようになったのだ。
このアメリカズカップの様変わりは、古くからこの伝統のヨットレースのファンであった人たちの間では不評だ。古き良きアメリカズカップの味わいがなくなってしまったというのだ。個人的な意見を言わせてもらえるのなら、ぼくもそれに同感だ。
しかし、ルールが変わって、国籍に関する枠が取り払われた現在も、自分の国の海洋文化を背負った挑戦を意識して、自国で開発した艇、自国セーラーにこだわっているチームも、まだある。ぼくは、個人的には、そういうチームに高い存在価値を感じている。例えそれで戦力が落ちたとしても、構わないではないか、と思う。そういう、自国の海洋文化に誇りを持った上でのアメリカズカップ挑戦に、とても意義深いものを感じるのだ。

ブイを周回する短距離コースで競うアメリカズカップの歴史が始まった頃、外洋を走る大型帆船の分野では、インドの茶葉や東洋の香辛料などを積んでヨーロッパまで運ぶ、クリッパーと呼ばれる快速帆船の一番乗り争いがヨーロッパの人々の関心を集めていた。
船主にとって、そのスピード競争は、高価格で取り引きされるその年の一番荷を目指すという実質的な利益だけが目標ではなかった。大洋を渡ってヨーロッパを目指す先着争いに勝って、世界一速い船の船主としての名誉を得ることの方が、彼らにとっては重要なことだったのだ。そのために、彼らは有能で才能に溢れた設計者を雇い、優秀な造船所に高額の建造費を支払って新船を建造した。そしてその船に、評判の高い船長をライバル船から引き抜いて乗せた。

そんなクリッパーレースの伝統と精神を、現代に引き継いでいるセーリング競技がある。そのレースは、現在のレーススポンサーの名前から「ボルボ・オーシャンレース」と呼ばれている。アメリカズカップは、ブイを周回する短距離コースで競われるが、このボルボ・オーシャンレースは、地球に広がる5つの大洋が競走の舞台だ。このレースは、ヨーロッパをスタートして、世界各地の数箇所に設けられた寄港地毎にレグを分け、地球を東回りに一周して再びヨーロッパに戻ってくるコースで競われる。
『ボルボ・オープン70』というクラスのヨットがこのレースの制式艇である。この艇は、これまでのヨットのスピードの常識を覆す外洋高速艇で、これまでのヨットのスピード記録を次から次に塗り替えている。
高性能だが暴れ馬のようなこのクラスのヨットを、一般のアマチュアセーラーが操ることはほとんど不可能だ。したがってこのボルボ・オーシャンレースも、世界トップクラスのセーラーたちだけで競われている。しかも、アメリカズカップ艇には17人のクルーが乗り込むが、それとほぼ同じサイズのこのレース艇には10名のクルーしか乗ることができない。その10名だけで、夜も昼も、休みなく艇を走らせ続けなければならないのだ。
このレースでは一つのレグを走り抜けるのに2,3週間を要するが、その間ずっと、クルーたちは交代で休みを取りながら航海を続ける。セーラーたちにとって、このレースは肉体的、精神的にアメリカズカップ以上に厳しいレースである。
さらに、アメリカズカップではレース中にクルーが命を落とす危険はほとんどないが、このボルボ・オーシャンレースでは、セーラーは常に生命の危険にさらされる。特に制式艇が『ボルボ・オープン70』に定められてからは、その危険がさらに高まったといえる。実際に今年行なわれたこのレースでは、1名のクルーが海に流されて死亡し、1隻の参加艇が沈没した。
ボルボ・オーシャンレースに参加するセーラーは、トップクラスのセーリング技術と強靭な肉体を持っているだけではなく、命の危険にも立ち向かう勇敢な精神も兼ね備えていなければならない。つまりこの長距離ヨットレースは、数万年前に初めて海に乗り出していった人類たちが、かつて当たり前のように持っていたに違いない、強い精神力と身体能力を、現代に生きるセーラーたちに要求するのだ。

スロベニアにて

2006年09月27日 | 風の旅人日乗
来週トリエステで開催されるバルコナラ・カップに向けて、新艇『ラッセル・クーツ44』の準備は際どいながら予定通りに進んでいる、かな?

数々の小さな問題をクリアして、さっき(こちら時間午後2時)やっとマストが立った。あとはB&Gの計器を付けて、調整して、エンジン業者を待って補助機関の調整をして、フォアステイの油圧シリンダーを調整して、バックステイとメインシートを船内でスウェージング(組み接ぎ)をしてから取り回しして、・・・・、今日中に終わるかなあ?いずれにしても夜遅くまでかかりそう。
しかし、今日中に終わらなければならん。明日朝、ラッセル・クーツが来て一緒に練習するからね。準備が間に合わなかったとは、とても言えない。

シーカヤッカーの内田正洋からメールが入っていて、ディズニーとホクレアの結び付きを一昨日のメールで知って、関係者の中でかなり盛り上がっているとのこと。お酒が進んでいるらしい。日本は夜だもんなあ。
こちらは、日本から遠く、アドリア海の一番奥の海で、戦いが続いています。

ホクレア夜話/第七夜~太平洋の航海文化を辿る心の旅

2006年09月26日 | 風の旅人日乗
スロベニアのポルトロッシュでは、RC44の新艇のキールの取り付け、マスト立てと順調に準備が進められ、イタリアのトリエステで開催されるバルコナラ・カップ参戦に向けてのシェイクダウンを始める頃なのかと思います。

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『ホクレア夜話』もこれで第七夜目。
今晩で最後となる夜話は、2005年のCaptain's Worldに掲載された『太平洋の航海文化を辿る心の旅』で締め括る事にしたいと思います。
(text by Compass3号)

太平洋の航海文化を辿る心の旅

取材・文 西村一広

二百年前、キャプテン・クックが初めて西洋社会に伝えた太平洋文化圏。それからの長い年月、我々は太平洋の航海文化の本当の意味を知らずに過ごしてきた。しかし、我々日本人のルーツを辿るとき、太平洋とその大海原に展開する文化が、重要な意味を持つことに気付く

星の航海
自分たちはどこから来て、どこに行こうとしているのか。その答えを見つけるためにハワイ人たちが復元した古代航海セーリングカヌーが、ハワイの島々に数隻存在する。現代のハワイ人たちは、これらのセーリングカヌーに乗り、自分たちの祖先の故郷であるタヒチに至る航海を、幾度も繰り返してきた。それらの航海を通じて、彼らは彼ら自身や彼らの文化に対する誇りを思い出し、民族復興の活動を始めた。
三年前の夏、そのうちの一隻〈ホクレア〉に乗って、オアフ島のハワイカイからマウイ島のラハイナに向けて航海した日のことを思い出す。
夕陽がダイヤモンドヘッドの向こうに落ちる頃、セールを揚げ、ココヘッドを間近に見ながらモロカイ・チャンネルに滑り出る。貿易風が海面を走り、〈ホクレア〉のセールに吹き込む。伝説のカヌーは、その風に乗って力強く加速する。この海峡を西洋型の外洋ヨットで走るときに険しい表情で襲いかかってくる大波が、それと同じ波だとは信じられないくらい、そのハワイアン・カヌーを揺りかごのようにやさしく揺らすだけで、船底を通り抜けていく。
真夜中。〈ホクレア〉の舵を取る。すぐ横で、ナイノア・トンプソンが星空を見上げている。ナイノアは太平洋に伝わる古代航海術だけを使って太平洋を自在に航海することができる数少ない航海士だ。『ザ・ナヴィゲーター』と呼ばれ、現代ハワイ人の英雄である。
〈ホクレア〉の左右両舷の後ろ側、ナイノアが航海中いつも座る場所の手摺には、幾筋かの切り込みが彫り付けられている。タヒチへの行き帰りに使う星の方向の目安なんだ、とナイノアが教えてくれた。
月のない夜。〈ホクレア〉とその周囲の海は、とても不思議な空間と時間に包まれていた。素晴らしい航海の記憶だ。

キャプテン・クックが見た太平洋の航海文化
ポリネシア人たちの祖先は約五千年ほど前にタヒチ周辺に到達し、そこから、ニュージーランド、イースター島、そしてハワイ諸島へと拡散していった。その一部は南米まで足を伸ばした。
ノルウエーの故トール・ヘイエルダール博士は、太平洋の島々に生活するポリネシア人たちが、海流と追い風に乗って南米大陸から太平洋に、東から西へ拡散したという自説を実証するために、〈コンティキ〉と名付けたバルサ筏で実験航海を行なった。だが、ヘイエルダールの立てた仮説はいかにも西洋人らしい固定観念に縛りつけられていた。彼は、ポリネシア人たちが西洋型の帆船よりも高性能なカヌーを操っていた可能性を検証することも、彼らが海流と貿易風をさかのぼって自在に航海する能力を持っていた可能性を検証することもしなかった。そしてその後、ヘイエルダールのその仮説が間違っていたことが判明する。その後の考古学的発見などから、ポリネシア人たちがその文化圏を、太平洋の西から東へと広げていったことが明らかになったのだ。しかし、この最新の学説の大部分は、実は今から二百年以上も前に、イギリス人のジェームズ・クック船長がすでに看破していたことだった。
クックは三度に渡る太平洋への遠征航海を通じて、広大な太平洋に広がるポリネシアからメラネシアに至る島々で使われている言葉や文化が、同じ系列の中にあることに気付いた。クックはさらに、ポリネシア人たちが操る全長三十メートルを越す外洋カヌーが、素晴らしい高速で走るのを目の当たりにする。また、彼の〈エンデヴァー〉号に水先案内として同乗したタヒチ人が示した驚くべき航海能力を見て、彼らが太平洋についての深い知識と高度な航海術を持っていることを知った。それらのことから、太平洋の民族が非常に古い時代から太平洋の島々を自由自在に行き来してきたことを、クックは驚きを持って確信していたのだ。

日本人と太平洋
さらに時代を遡る。ポリネシア人の祖先とされているのは、現在のニューギニア辺りから舟に乗って太平洋に乗り出したラピタ人である。ラピタ人の故郷とされる海域には、二万年ほど前まで『スンダランド』と呼ばれる古代大陸があり、その大陸は現在のスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島を含めマレー半島と繋がり、ユーラシア大陸とも陸続きだった。
その後の地殻変動と海面の上昇でその大陸が沈み始めると、そこに住んでいた人々は舟を造り、海を渡り、島々の間を行き来するようになった。そうしてそのまま太平洋へと乗り出していったのだ。彼らは南だけではなく、黒潮に乗って北にも向かった。そして当時大陸と繋がっていた琉球に達し、その北にある大きな一つの島だった奄美群島にも到達し、そして九州、本州にも到達した。
その長い道程で、彼らの航海術と舟作り技術は格段に進歩していったことだろう。鹿児島県の栫ノ原遺跡からは一万二千年前の丸木舟制作のための石器が発見されている。これは造船用の道具としては世界最古のものである。その事実からすれば、我々日本人の祖先は、世界最古の造船民、海洋民だと言うこともできそうだ。そして、そんなふうに海からこの国にやってきた祖先から受け継がれた我々日本人の血の一部は、南太平洋へ向かった航海民族、ポリネシアの人々とも深く繋がっているはずなのだ。

サバニがつなぐもの
二年前、ナイノア・トンプソンが沖縄を訪れた。サバニに乗って座間味島から那覇までの海を走るためだ。
サバニとは、少なくとも数百年前まで歴史を遡ることができる琉球古来の帆装小舟である。主として漁業に使われてきたが、その船型は非常に洗練されていて、現代の西洋型ヨットをまったく相手にしないほど高速でセーリングすることができる。
しかし、サバニが伝える祖先の海洋文化を、操船法も含めて保存しようという有志が立ち上がらなければ、その存在は二十一世紀を待たずして日本の海洋文化の歴史から忘れ去られていたはずだ。有志たちは「帆装サバニ保存会」という組織を立ち上げ、毎年梅雨明けに慶良間諸島の座間味島から那覇までのレースを行なうことで、サバニとその帆走技術を次世代に伝えていくことを企画した。そのサバニ・レースは年を追う毎に規模を拡大し、最近では新しい木造サバニが続々と進水するようになった。サバニをきっかけに、沖縄の人たちが、海の民である自分たちの祖先とその誇りを思い出すようになったのだ。沖縄の海のルネッサンスである。
日本列島の南端に古い伝統をもつサバニという舟があることを、『帆装サバニ保存会』の活動を通してハワイ人たちが知るところとなる。そして彼らを代表するナイノアが、深い敬意を持ってそのサバニという舟に乗りに来ることになったのだ。サバニに触れ、実際にそれに乗って航海したことで、ナイノアは日本とそこに住む人々が、自分たちポリネシア民族と深く繋がっていることを確信した。我々は太平洋の島々に住む同じ家族だ――
ナイノアは来年2006年、今度は自分たちハワイ人の舟<ホクレア>で沖縄と日本列島を再訪することを計画している。サバニという小舟が、広大な太平洋に拡散していった航海民族の大きな輪を、数千年の時を経てつなぐ役割りを果たそうとしている。ナイノアの確信によれば、二百年前、キャプテン・クックを驚かせた太平洋の航海文化は、実は我々日本人とも密接な関係を持っていることになるのだ。

(無断転載はしないでおくれ)

本の紹介
青い地図㊤㊦ トニー・ホルヴィッツ著 山本光伸訳 バジリコ株式会社
著者のトニー・ホルヴィッツはピューリッツァー賞受賞ジャーナリスト。キャプテン・クックの航海を西洋文化と太平洋文化の両方の側から詳しく取材し、三度に渡るクックの太平洋周航を、斬新な切り口で説き明かしてゆく。

ホクレア夜話/第六夜~太平洋航海民の英雄が、“故郷”日本列島を訪れる日。

2006年09月25日 | 風の旅人日乗
9月24日。
スロベニアでレース準備に忙しい日々が続く。
ソロベニアのポルトロッシュという港町は、『バラの港』という意味の名を持つ港で、確かに町中にバラが咲いている。とても穏やかな雰囲気の町だ。

さて、ナイノア・トンプソンが日本に来て講演などをしているホクレア関係の話題だが、思わぬところからホクレアのニュースが入った。

こちらをご覧下さい。
この情報を送ってくれたのは、ロビー・ヘインズという、オリンピック金メダリストのカリフォルニアのセーラー。セーラーなら皆さんご存知の名前だと思う。

ロビーはロイ・ディズニーの所有するヨットのスキッパーで、かつロイの私設秘書もやっている。

ロイ・ディズニーは、現在、ディズニーとして初めてのドキュメンタリー映画の製作に入っていて、それはセーリング未経験のアメリカ人の若者たちをオーディションで募り、来年のロス-ホノルル間のトランスパックレースに挑戦させ、そこで起きるドラマを映画にするというもの。

ロビーはその青年たちのコーチを務めるとともに、このプロジェクトの広報の一部も担当している。


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さて、『ホクレア夜話』の第六夜目は、2003年の舵誌に掲載された『海人ウォーターマンの肖像‐ナイノア・トンプソン(Nainoa Thompson)』の後半から。
(text by Compass3号)

『海人ウォーターマンの肖像‐ナイノア・トンプソン(Nainoa Thompson)』<<舵2003年掲載>>

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

(第5夜から)

太平洋航海民の英雄が、“故郷”日本列島を訪れる日。

ナイノアはミクロネシアのサタワル島を代表する航海士、マウ・ピアイルグから伝統航法を学んだが、それと同時に、現代の天文学と自然科学を猛勉強した。天文学を勉強したのは自分独自の星測航法を取り入れるためだった。自然科学を勉強したのは観天望気を近代科学で補強するためだった。航海士はカヌーのコースを決めるだけでなく、天候の変化を予測し、カヌーと乗員の安全にも責任を持つ。ナイノアはこれらの工夫と努力によって、成人してから伝統航法を学ぶというハンディキャップを克服しようと考えたのだ。
1980年。27歳のとき、ナイノアは全長62フィートの双胴セーリングカヌー〈ホクレア〉のナビゲーターとしてハワイ-タヒチ間、片道それぞれ約30日に及ぶ往復航海を成功させる。安全の目的で伴走船が付いたが、針路はもちろん〈ホクレア〉の航海士ナイノアが決定した。伴走艇はその後ろを、後日の研究のために〈ホクレア〉の実測コースを記録しながら走ったに過ぎない。航海後に照らし合わせてみると、ナイノアの推測コースと電波航法で伴走艇が測定した実測コースは、誰もが驚くほど接近していた。それはその後のいかなる航海の際にも同様だった。
1985年には、2年間をかけてタヒチ、ニュージーランド、トンガを巡ってハワイに戻るという大航海に出かけ、ナイノア率いる〈ホクレア〉はそれらのコースのすべてを伝統の航海術で走ることに成功した。
タヒチからニュージーランドに至る航海は、ハワイキ(現在のタヒチ西側の島だと想定されている)から指導者パイケアに率いられて祖先がやってきたというマオリ神話を実証する形になり、ニュージーランドの先住民であるマオリの人々に深い感銘を与えた。マオリに再び誇りを思い出させたという意味で、2003年に日本でも上映された映画「クジラの島の少女」が制作される遠因にもなったことだろう。
ニュージーランドに限らず、伝統航法による〈ホクレア〉の太平洋周航は、太平洋の民族に大いなる勇気を与えることになり、各島でホクレアと同じような航海カヌーが相次いで造られ、それぞれが伝統航法を使って太平洋へと乗り出すようになった。
〈ホクレア〉に乗せてもらった日のことを思い出す。一晩をかけてオアフ島からマウイ島までをセーリングした。左右両舷の後ろ側、航海中ナイノアが常に座る場所の手摺には、幾筋かの切り込みが彫り付けられていた。タヒチへの行き帰りに使う星の目安なんだとナイノアが教えてくれた。真夜中。波の大きなモロカイ・チャンネルの真ん中だというのに、伴走艇のドライバーと運転を交代して休ませるために、Tシャツを脱いだナイノアは小さなトーチだけを手に海に入り、伴走艇へと泳いでいった。月のない夜。〈ホクレア〉とその周囲の海は、なんだか不思議な空間と時間に包まれていた。短いけれど、素晴らしい航海であった。
ナイノアは2003年6月、サバニに乗るために沖縄にやってきた。慶良間諸島の座間味島から那覇までの航海に乗り出す朝、ナイノアに率いられる我々クルーはそれぞれの手を繋いで円陣になって航海の安全を祈る。〈ホクレア〉の出港前にも同じ儀式を行なったことを思い出した。目を閉じてナイノアがつぶやく静かな祈りの声を聞いていると、自分にも航海民である先祖の血が流れているのだという、不可解だけれど幸せで、雄々しい気持ちが満ち満ちてくる。
先日、ナイノア・トンプソンは2005年に〈ホクレア〉で日本を訪れることを発表した。太平洋航海民のファミリーの一員だとナイノアが信じている私たち日本列島在住民族に、敬意を表するための訪問である。太平洋の航海民として、彼ら仲間達を大歓迎で迎える準備を始めるべきだと思うのだが、いかがだろう。

ホクレア夜話/第五夜~太平洋民族の叡智を今に伝える男

2006年09月24日 | 風の旅人日乗
台風14号が本州の東海上を北東へ進み、日本列島から徐々に遠ざかっていく。
スッキリ秋晴れとなった湘南の海は、台風が残したスウェルを目当てに、沢山のサーファーで溢れ返っていた。
さて、『ホクレア夜話』の第五夜目は、2003年の舵誌に掲載された『海人ウォーターマンの肖像‐ナイノア・トンプソン(Nainoa Thompson)』の前半から。
(text by Compass3号)

『海人ウォーターマンの肖像‐ナイノア・トンプソン(Nainoa Thompson)』
 <<舵2003年掲載>>

文/西村一広
Text by Kazu Nishimura

太平洋民族の叡智を今に伝える、
"NAINOA, The Navigator"と呼ばれる男

ナイノア・トンプソンというハワイ人のことを書こうと思う。
私が、彼の名前を初めて知ったのは4年前のことだ。そして、彼のことを書いた本や彼を取材した映画を通じて、この人物が、太平洋を舞台に非常に意義深い航海や活動を成し遂げてきたことを知るようになった。
その後、実際にナイノア・トンプソンに会い、ハワイの海を一緒にセーリングしたり、沖縄の海でパドリングを共にするようになると、彼の存在と生き様は、私自身の考え方や生き方そのものに大きな影響を及ぼすようになった。
・・・海で生きる人間として、こういう男に自分はなりたかったのではなかったか・・・。彼のような姿勢で海とセーリングに関わりたくて、現在に至る自分の生き方を選んだのではなかったか・・・。
ナイノアという男に触れて以来、自分が日本人であることの意味や、自分たち日本人が海に出ることの意味、そしてセーリングという文化に自分が関わる意味について、真剣に考える時間が増えた。そうすると、セーリングの技に長けることやヨットレースで勝とうとすることだけに意義を見出そうとしていたそれまでに比べて、海の上で過ごす時間やセーリングそのものに、一層の愛着を感じるようになった。また、それから派生したものだと思うのだが、日本人であることや、海で生きることを選んだ自分への誇りが、我ながら驚くほど、強く湧いてくるようになった。
ナイノア・トンプソンは、太平洋民族が遥か数千年前から伝承してきた航海術を現代に引き継ぐナビゲーターである。彼は、祖先から伝わる航海能力と文化を太平洋民族が誇りに思い、それを未来に伝えていくことを願っている。彼は、ポリネシア人と同じように太平洋に浮かぶ島に住む日本人もまた、祖先を同じくする太平洋民族の一員であると強く感じている。

ノルウエーの故トール・ヘイエルダールは、太平洋の島々に生活するポリネシア人たちが南米大陸から海流に乗って太平洋に拡散したという仮説を実証するためにバルサ筏〈コンティキ号〉での実験航海を行なった。だが、ヘイエルダールの立てた仮説はいかにも西洋人らしい固定観念に縛りつけられていた。彼は、他のほとんどの西洋知識人と同様、古代太平洋民族が西欧の航海術を上回る航海能力や知的水準を持っていたはずがないと考えた。ポリネシア人たちが海流と貿易風を遡って西から東へ移動した可能性を検討することなど、彼には思いもよらないことであった。
しかしヘイエルダールの実験航海後しばらくすると、動かしがたい考古学上の発見や科学的調査分析を通じて、彼の仮説が間違っていたことが明らかになる。今では、太平洋の民族と文化圏は西から東へ、つまり現在のミクロネシア、メラネシアを経てポリネシアに拡散していったこと、そしてその一部が南米まで到達したこと、などが明らかになっている。相変わらずの固定観念から抜け出せない多くの西洋人考古学者たちも、この学説については渋々認めざるを得なくなっている。だがこの学説の大部分は、実は今から200年以上も前に、皮肉なことに、西洋人の英雄であるキャプテン・クックがすでに看破していたのだ。
クックは複数回に渡る太平洋への遠征航海を通じて、広大な太平洋に広がる、ポリネシアからメラネシアに至る島々で使われている言葉や文化が同じ系列であることに気付いた。そして、彼らが操る全長30メートルを越すセーリング航海カヌーが高速で走るのを目の当たりにする。また、彼の西洋型帆船に水先案内として同乗したタヒチの長老が示した驚くべき航海能力から、彼らが太平洋についての深い知識と高度な航海術を持っていることを知った。それらのことから、太平洋の民族が非常に古い時代から太平洋の島々を自在に行き来してきたことを、クックは驚きを持って確信するに至ったのだった。
キャプテン・クックは、太平洋民族の航海術の詳細について、西洋航海術では不可欠な、時計をはじめとする天測用具を一切必要としないらしいことと、彼らがそれぞれの島への方位、距離を正確に把握していること以外、具体的に知ることはできなかった。その後、比較的最近になって、ミクロネシアの島々に辛うじて残っている伝承や、数少ない航海士の末裔の記憶から、その航海術の実際が世に知られるようになった。
この伝統航海術はそれぞれの島の、航海士として特殊な能力を備えた子孫だけに伝承されていく。その航海術はすべて、数千年の昔から脈々と受け継がれてきた”記憶”だけで成り立っている。どんな道具も使わなければ、データを記録する筆記用具の類も必要としない。歌として記憶した星や太陽の位置、脳に記憶した航海時間とスピード、カヌーを通して体に伝わる海のうねりなどの情報を元に目的地へと向かう。
次世代の航海士と定められた者は、生れた直後からそのための教育を受け始めるが、それは、膨大なデータを記憶し海での感覚を研ぎ澄ますために、みずみずしい状態の脳細胞が必要とされるからだ。
ナイノア・トンプソンは、この航海術を自らの意思で学んだ。そのとき彼はすでに20歳を越えていた。遅すぎるスタートだった。祖先から伝わる伝統を、自分が後生に伝えなければならないという情熱が、彼を衝き動かした。

(第六夜へ続く)

ホクレア夜話/第四夜~ラピタ人

2006年09月23日 | 風の旅人日乗
10月23日 スロベニア

果てしない飛行機と車旅の末にスロベニアのポルトロッシュのヨットクラブにたどり着いたのは、今朝の午前0時10分、日本時間で朝7時10分。昨日朝7時過ぎに葉山を出てからキッチリ24時間の旅でした。

ヨットクラブの宿に入り、そのまま8時間爆睡して、朝8時半爽やかな目覚め。いい天気。

マリーナの事務所に行き、艇がハンガリーのブダペストから無事到着しているのを確認して、それからマリーナに舫っていた、ここの知り合いが所有する古いボルボ60クラスでセーリングだ。

マリーナを出てセールを揚げ、まずはコース0度、イタリアのトリエステの西側の海岸目指して走る。ボルボ60は、ボルボ70ほどではないが、速い。東北東からの20~23ノットの風が吹くアドリア海の波を心地よく切って豪快に走る。ラダーを介してステアリングに伝わってくるアドリア海の水の感触を楽しむ。風上にある古い町並みのトリエステの向こうに、アルプスの山々が見える。

しばらく走ってからタック・アンド・ベア。今度はコース180度で、クロアチアの海岸目指して走る。スロベニアの海岸線は直線に伸ばしても40キロほどしかなく、2時間で両隣の国と合わせて3カ国の領海をセーリングすることができる。不思議な体験。

スロベニア語のイエスは「ヤ」、ノーは「ネ」。タッキングの際にジブシートをオーバーレイしてしまったジブ・トリマーに向かって、ネ!ネ!ネ!ネ!ネ!の声が船中から集まる。頑張ってネ!

西村一広

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ナイノアの福岡での講演、内ヤンとのトークも無事に終えられて、一息ついている頃でしょうか。
さて、『ホクレア夜話』の第四夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルナッサンス』の終盤から。
5年前に、ホクレアに乗った体験が綴られています。
(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(第三夜から)

ラピタ人

ポリネシア人の祖先はラピタ人といわれている人たちだ。
ラピタ人は現在のフィリピンやパプア・ニューギニア、ニューカレドニアあたりに住んでいたとされているが、彼らがどこから来たのかは謎のままだ。
ラピタ人は舟を操り、土器を使い、釣針を使って魚を獲っていた。
縄文土器は、日本から遠く離れたメラネシアのバヌアツと、南米のエクアドルで発見されている。
バヌアツで見つかった土器は大量で、一度の偶発的な運搬(漂流など)ではなく、幾度にも渡って運ばれたものと考えられている。
誰が持ち込んだのだろう。エクアドルやバヌアツまで縄文土器が運ばれたという事実は、縄文人の海洋文化を否定する考古学者を苦しめている。
縄文人はラピタ人ではないのか、と考える学者が国際的に増えつつある。

KAMA’KU’RA

この6月に、ハワイに行った。太平洋を自在に走り回ってきた古代セーリングカヌー<ホクレア>に乗せてもらい、オアフ島のハワイ・カイからマウイ島のラハイナまでをセーリングした。内田正洋、<ホクレア>生え抜きのハワイ人クルーたち、そして“星の航海師”ナイノア・トンプソンも一緒だ。
セールを揚げ、ココヘッドの横を通り抜けてモロカイチャンネルに滑り出ると、いつもの貿易風が海面を走って<ホクレア>のセールに吹き込んだ。伝説のカヌーは、その風に乗って力強く加速していく。
ヨットレースのケンウッドカップで走るときに感じるモロカイチャンネルのいつもの厳しい波とは異なり、<ホクレア>の船首に寄せてくる波はなぜか優しく、なにか親しみを覚える波だった。
生きている伝説そのものであるナイノア・トンプソンが静かに星を見上げているすぐ横で、<ホクレア>の舵をとっているときの気分がどんなだったかは、申し訳ないがここでは言葉にしたくない。個人的な宝物として自分の内に留めておきたいからだ。

いま日本で、我々は日本独自のセーリングカヌーを造ろうとしている。そのカヌーの名前は“日いずるところの子供”、すなわち<カマ・ク・ラ>だ。
ハワイで、内田正洋とぼくがナイノアの指揮する<ホクレア>に乗って訓練を受けることができたのは、ナイノア・トンプソンやハワイ、太平洋圏の外洋航海カヌーの仲間たちがこの<カマ・ク・ラ>プログラムを応援してくれているからだ。
<カマ・ク・ラ>は子供たちを乗せて日本の各地を周った後、太平洋へと乗り出し、最終的には南米大陸にも出かける。はるか昔、日本を旅立った縄文人がラピタ人になりポリネシア人になったとする大胆な仮説をバックグラウンドに、その海の道を5000年の時を経て辿るのだ。
そしてその先、20年か30年後、<カマ・ク・ラ>でセーリングを知った日本の子供たちが、太平洋独自のセーリング文化で培った技と確固としたアイデンティティーを携えて、西洋のセーリング文化の象徴ともいえるアメリカズカップに挑戦する、という未来の仮説を夢見るとき、ぼくはウットリとしてしまう。そして、「日本人の祖先は農耕民族だからセーリング文化では西洋にかないっこない」という、セーリングの先輩諸氏の“常識”をくつがえしてあげるのだ。
カマ・ク・ラ計画は今、産みの苦しみを味わっている。たくさんの応援を必要としている。日本の海で、息の長い活動をしていこうとするこの計画は、サーファー、シーカヤッカー、セーラー、漁師の人たち、といった日本の海の民みんなに支えられなければ実現し得ない計画だ。建造に向けてゆっくりと前進を始めたばかりの<カマ・ク・ラ>だが、このプログラムについてもっと深く知りたい人、興味のある方は是非、下記ホームページをチェックしてみてほしい。

参考資料
An Ocean in Mind Will Kyselka University of Hawaii Press
イースター島の悲劇 鈴木篤夫 新評論
海を渡った縄文人 樋口尚武 小学館
海を渡った縄文人 小田静夫 講演会資料
古代日本の航海術 茂在寅男 小学館
縄文時代の商人たち 小山修三、岡田康博 洋泉社
スターナビゲーションとは 石川直樹 個人資料
誰も知らないハワイ ニック加藤 光文社
日本語の起源 大野晋 岩波新書
発掘捏造 毎日新聞旧石器遺跡取材班 毎日新聞社
ハワイイ紀行 池澤夏樹 新潮社
星の航海師 星川淳 玄冬社
映画「ガイア・シンフォニー第三番」龍村仁氏監督

(第五夜へ続く)

ホクレア夜話/第三夜~縄文人

2006年09月22日 | 風の旅人日乗
9月22日。
早めの昼食に成田空港第1ターミナルの蕎麦屋S坊でざるをたぐり、アムステルダム行きのKLM機に乗り込む。


昨夜あまり寝てないので飛行機の中でゆっくり眠ろうと思っていたら、映画が面白
い。最近映画館に行ってゆっくり映画を観る時間がなく、観たかったのに観損ねた映画が溜まっていて、ついつい飛行機の中で映画のはしごをしてしまう。
以前は作り手の独りよがりが鼻につくことが多かった日本映画だけど、最近は結構面白いな。


約12時間でアムステルダム到着、眠い。
アムステルダム空港はとても清潔で大きな空港で、ショップもバーもおしゃれだが、眠くて、乗り継ぎ便までの時間をあまり行動する気にならず、待合スペースのおしゃれなデザインのテーブルと椅子を見つけてこれを書いている。


ここアムステルダムから、次はイタリアのミラノに行き、そこからイタリア国内線に乗り換えてトリエステという港町に行く。でもそこが最終目的地ではなく、今度は車に乗り、国境を越えてスロベニアのポルトロッシュまで走る。ここが本日の最終目的地だ。
まだまだ先は長い。


西村一広

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Westさんのブログを見たら、ナイノア、昨日、無事に福岡に到着したようです。
明日の講演では、『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第三番』のダイジェスト版も上映されるようで、何とも素晴らしい演出。
その後、一旦ハワイに戻り、26日に再び来日、27日には東京で記者会見があって、28日夕方まで滞在の予定とのこと。
福岡の講演会には行くことが出来ませんでしたが、東京方面で、急遽、公開イベントが組まれないかものかと、内心期待を膨らましている方も多いのでは?

さて、『ホクレア夜話』の第三夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルナッサンス』の中盤の続きから。
(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(第二夜から)

第二部

縄文人

日本人はかなり古い時代から外洋航海をしていた、という学説を唱えている学者がいる。
以下がその根拠だ。
今から22700年ほど前の旧石器時代後期。神奈川県相模原市の遺跡から見つかるものの中に、黒曜石がある。黒曜石は矢尻などに使われた重要な石だ。そこで見つかる黒曜石の一部は、伊豆諸島の神津島産のものと分析されている。
その時代、海水面は現在よりも80メートルから140メートルも低く、日本の西側の一部は大陸と繋がっていた。神津島は当時今の新島などと繋がった大きな島だったが、それでも、少なくとも20海里(38キロ)は本州側と海で隔てられていたと考えられている。
今年5月、八丈島からセーリングで帰る途中に気を付けてよく見てきたが、神津島の東側から南東側にかけての崖に、黒曜石の黒々とした幅広い地層がくっきりと見える。
もう少し新しい時代の鹿児島の遺跡からは特殊な石斧が見つかっている。これは舟を刳り貫くために使われたとされている道具で、その当時から本格的な舟造りが行われていたと推測されている。ただし、舟そのものが見つからないのでこの学説は仮説止まりだ。考古学は証拠があって初めて成り立つ学問で、だから功を焦る人が捏造を思いついたりする。
しかし、もし舟ではないとするなら、神津島の黒曜石は一体どんな方法で島から運び出されたというのか?
次は、6000年から4000年前の縄文時代前~中期の話。
ぼくが小学校や中学で教わった縄文人像は、槍を持って獣を追いかけたり、木の実を拾ったりしながら一ヶ所に定住しない狩猟採集生活者だった。
しかし、縄文時代前~中期の代表的な遺跡である青森の三内丸山遺跡で見つかっている物は、大型のマグロの骨、そして地上10メートル以上に達すると推測される木造建築物の土台、穀物を貯蔵していたと思われる高床式の建物跡。
三内丸山遺跡は交易港で、縄文人は優れた商文化を持っていたという説が有力になりつつある。直径90センチもの栗の丸太6本で組上げられた木造構造物は、海を見張ったり海からの目印に使われた構造物ではないのか?これだけの規模の木造構造物を作る能力があれば、その能力は大型の船を造ることにも使うことができたのではないか? しかし、ここでも船そのものが見つからないので、考古学ではこの仮説は仮説のままだ。大型の船ではないとすれば、遺跡から骨として発見される大型マグロは、一体どんな方法で獲ったというのか? 
稲作は弥生時代になって伝わったとぼくの時代の中学生は学校で教わったが、最近になって縄文後期の米の化石が発見された。ここでも昔常識として教わったことが常識ではなくなり始めている。
縄文前~中期になると旧石器時代に比べて海水面は随分と高くなり、神津島は本州沿岸から遠く離れていったが、それにもかかわらず神津島産の黒曜石は更に人気を博したようで、北は東北地方や能登半島、西は渥美半島、南は八丈島まで、広い範囲の多くの遺跡で神津島産の黒曜石が見つかるようになる。
八丈島には、5000年前の縄文時代の遺跡、倉輪遺跡がある。この遺跡からは黒曜石製の石器や動物の骨を加工した釣針の他に、関西地方から東北地方に至る、ほとんど太平洋岸全域から持ち込まれた縄文土器が見つかっている。この遺跡に住んでいた人たちはこれらの地方と積極的に交易をしていたと考えざるを得ない。
遺跡で発見されたものの中には、イノシシ、犬の骨に混じって、大型マグロ、鮫、果てはシャチの骨までもがある。イノシシや犬は本州から連れてきたと考えられている。大きくなる前の子供のイノシシを舟に乗せてきたとしても、シャチを捕るなんて、小さな舟や並みの航海術でできることじゃないのではないか?
2ヶ月ほど前にセーリングで八丈島に行き、その倉輪遺跡を訪ねてきたが、そこは南の海が見渡せる小高い丘にあり、八丈島名物の強い西風がうまく遮られる場所にあった。海を見張りシャチやイルカがやってくるのをチェックするには最適な場所だった。陸での生活を中心に考える人たちが住むのに適してるとは思えない、海の方向を向いて生きていた人たちが住む場所であった。
この遺跡に住んでいた人たちは定期的に内地との間を行き来していたと考えられている。八丈島近海は今と同じく当時も黒潮の通り道。黒潮は2ノットから5ノットものスピードで流れている。
台湾から鹿児島、石垣島から東京までをシーカヤックで漕ぎきった内田正洋という男がいる。彼によれば、最も高速、最も対航性に優れた現代のシーカヤックをもってしてもこの黒潮を手漕ぎで乗り切るにはとても不可能だという。もし当時の縄文人がこの海を自由に行き来していたのであれば、セーリングの技術を持っていなければならなかったはずだと彼は考えている。
しかも、この緯度は風向が一定している貿易風帯ではない。風はほとんどあらゆる方向から吹いてくる。本州と八丈島を行き来するには風上へも切りあがっていく帆走性能を持つ船が必要だったはずだ。
今から5000年前、縄文人はセーリングで自在に海を走り回っていた。しかし謎めいたことに、八丈島の縄文人は約400年間この倉輪遺跡に住んだ後、突如として姿を消す。それはこの地方の気候が寒くなりはじめた時代、三内丸山の集落が急速に衰退したのと時を同じくする。

(第四夜へ続く)

ホクレア夜話/第二夜~<ホクレア>がもたらしたもの

2006年09月21日 | 風の旅人日乗
明日からスロベニア。イタリアのトリエステで開催されるバルコナラ・カップ参戦の準備。
27日からラッセル・クーツと一緒に乗って練習するため、それまでに艇のセッティングを終わらせなければならない。
かなりタイトなスケジュールだけど、楽しそう。

7月の太平洋横断、8月の葉山町の人たち対象のセーリング体験イベント開催とは、またかなり趣の異なるセーリングになりそうです。

このレースのために、10月8日のチームニシムラと帆船日本丸記念財団との共同開催の横浜シーサイドフェスタは西村本人が欠席しなければならなくなったけど、そこは西村が最も信頼する小池哲生がピンチヒッターを務めてくれるから心配はない。

三田オーナーと新生チーム・ビーコムの初戦。結果は気にせず、まずは楽しいレースをやってきたいと思います。

イタリアから帰ったら、2日後に沖縄に行き、サバニ特訓。将来のテレビ映像化がかかるので、スケジュールとしてはきついけど、楽しみ。

沖縄から帰ったら、すぐ、再びヨーロッパへと、続きます。

西村一広

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明日、スロベニア(Slovenija)へ向けて飛び立つ予定。
目指すは、国境に程近い港町、Port Rose(スロベニア語でポルトロッシュ、イタリア語でポルトロゼ)。
詳細は、今年の1月9日のブログ、『スロベニアへの道』でどうぞ。
そのポルトロッシュで、ラッセル・クーツ44の新艇でセーリング。
イタリアでのマッチレース、フリート・レースへの参戦と、怒涛のセーリングの日々が続く。

昨夜に引き続き、『ホクレア夜話』の第二夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルナッサンス』の中盤から。

太平洋の文化が風下方向に向かって広がったと単純な固定観念で考える陸の学者は、生き続けたいという本能と好奇心とを同時に兼ね備えている人間というものを理解してないのだと思うとの主張は、素直に受け止められる。

新たな世界に希望を見出して、それに挑もうとするならば、ただただ風に身を任せるのではなく、意思を持って風上に逆らって行こうとするのが自然の摂理だ。
新天地に到達した経験のみが遺伝子として代々刷り込まれ、それが何世代にも渡って繰り返されることによって、次第に定着して行ったのだと思う。
(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

(第二夜から)

<ホクレア>がもたらしたもの

ホクレアのタヒチ往復航海成功後、ハワイ人社会に大きな変化が起き始めた。若い世代が、自分がハワイ人であることの誇りを思い出した。自分たち自身の文化やアイデンティティーを大切にして後世に伝えるべきではないのか、という動きがうねりのように広がっていった。
ハワイの各島で<ホクレア>のような双胴セーリングカヌーの建造が相次ぎ、ポリネシアの他の島に出かけたり、沿岸航海では子供たちを乗せてポリネシア文化の教育に使うようになった。
また、学校では子供たちにハワイ語を教えるプログラムが誕生した。そしてまた、観光用ではない伝統のフラを、正しく復活させようという動きも活発化した。

ナイノア・トンプソンに率いられた<ホクレア>や姉妹艇は、タヒチの後、ニュージーランド、サモア、トンガ、イースター島を訪れた。その航海は即ち、ニューギニアやニューカレドニアにいたポリネシア人の祖先“ラピタ人”が、タヒチやマルケサスを経由して太平洋に広がっていったとされるポリネシアの人と文化の移動経路を辿る旅を意味していた。
以前、西洋人を中心とした学者たちは、ポリネシア文化は海流が流れる方向、貿易風が吹いていく風下、つまり東から西方向に一方通行で伝播したに違いないという固定観念を持っていた。それは自分たち自身が風上に走る性能に劣る横帆の帆船しか持つことが出来なかったということもあったし、この地域の人たちの知能を自分たちと同等かそれ以上だと認めたくなかったという側面もあったのだろう。子供の頃読んで興奮したトール・ヘイエルダール博士のバルサ筏<コンチキ号>による漂流実験もその説を証明するためのものだった。しかしその学説は現在ではほとんど間違った説として扱われている。
ポリネシアの人たちが太平洋上を海流や風に逆らって自由に航海して行き来してきたのかもしれないという仮説を最初に立てたのは、皮肉なことに西洋人の英雄キャプテン・クックだった。彼はこの海域の島々に共通する言葉が多いこと、全長30メートルもの双胴のセーリングカヌーを実際に目にしたことなどからこの仮説を立てた。
そしてその伝説の双胴セーリングカヌーを再現した<ホクレア>とナイノア・トンプソンの古代航海術による数々の航海は、古代ポリネシア人が風上へも走ることができる優れた性能のセーリングカヌーと外洋航海術を持っていて、太平洋をどちらの方向へも自由自在に行き来していた、という現在有力な学説を支えることになった。
セーラーとしての個人的な意見だが、太平洋の文化が風下方向に向かって広がったと単純な固定観念で考える陸の学者は、生き続けたいという本能と好奇心とを同時に兼ね備えている人間というものを理解してないのだと思う。
故郷の島を出て、あるかないかも分からない、見知らぬ目的地に行こうとする人間が、風下にしか走れない船に乗って最初から風下に向かおうとするだろうか?だって、風下に何もなかったらそのまま故郷には帰って来られない。昔の人だってそんなに馬鹿じゃなかったと思う。風上に向かって走れる船や操船技術を手にして、それからのち、風上か風を横に受けて航海に出発して行けるだけ行き、それで何も見つけられなかったら追い風か横風で帰ってこようと考えるのが普通だと思う。

ポリネシア航海協会とナイノア・トンプソンは、ここ2,3年のうちに<ホクレア>で日本を訪問しようと考えている。自分たちの内にある精神的なものが、なぜか日本と響きあうという直感があって仕様がないらしい。日本という国、日本人という人種に自分たちに共通する何かを感じるらしいのだ。
古代ポリネシア語で古事記や日本書紀を読むことが出来るという学者がいる。その学者によれば、日本の太平洋岸の地名には古代ポリネシア語で意味をなすものが少なくないらしい。古代ポリネシア語で「なにわ」とは“美しい河口”、「むつ」とは“その先を切り取られた地”もしくは“終点”という意味を持つのだという。
そしてまた「鎌倉」も古代ポリネシア語で意味をなす。カマは子供、クは昇る、ラーは太陽、つまり「かまくら」は、“日いずる(ところの)子供”という意味になる。
日本語の語源は南インドのタミール語であるらしいことが学習院大学の大野晋氏の研究で明らかになりつつあるが、大野氏の説によれば、タミール語が他の文化と共に日本に入ってくるのは縄文時代の最晩年期のことだ。それ以前の日本はそれとは異なる文化圏と交流していて、地名の一部は古代語のまま残ったと考えることはできないのか・・・。

(第三夜へ続く)

ホクレア夜話/第一夜~常識は常識でなくなる、ことがある

2006年09月20日 | 風の旅人日乗
ナイノアか、残念。
ナイノアの今回の来日に合わせて、舵に2001年と2003年に書いた、ホクレアとナイノアの記事をブログで連載してくれると嬉しい。
今はもう、頭が、来週からのラッセルクーツ44での激しいマッチレース・モードに切り替わって、私のほうは険しい顔付きになっている。
...と、このブログの主から受けたまわったCompass3号です。

何と、今年、2回も太平洋横断世界最短記録にチャレンジして、その記録を立て続けに手にしたこのブログの主は、その後も、新たなセーリングチームのトレーニングや、葉山セーリングキャンプなど、ほぼ毎日海に出て、セーリングの日々を過ごしていたかと思えば、自宅のボンクを温める間もなく、明日からは、RC44マッチレース参戦に向けて、闘志ムキ出しで、ヨーロッパへ向けて飛び立つところデス。

今回のナイノア・トンプソン氏の来日講演。
内田氏の密度の濃いトークやインタビューも見逃せません。
心理学者のA・マレービアン博士によれば、人が伝達する情報の中で、話し言葉で伝えられる比率は、7%に過ぎないそうで、その他、93%は、顔の表情、声の高低、大きさ、テンポなど、言葉以外の情報伝達(ノンバーバル・コミュニケーション)に頼っているとのこと。
百聞は一見にしかず、ですナ。
九州方面の方は、なかなか巡り合えない機会ですので、是非、参加して、このブログに気軽にコメント入れてみてください。
これを契機に、ブログで伝えたいことが山ほどあるのに、更新も間々ならないとの主の心境を聞くにつけ、メラメラと使命感に燃えるCompass3号であります。

ナイノア氏の生まれたのが1953年、このブログの主、西村先輩の生まれが1954年7月26日、Compass2号ことM谷先輩の生まれが1955年、そしてまたその後輩のCompass3号の生まれが1956年と、妙に続くのも、何かのシンクロニシティなのかも知れません。

さて、星の航海師ナイノア・トンプソン氏来日講演に寄せて、これから一週間にわたって紹介する『ホクレア夜話』の第一夜目は、2001年の舵誌に掲載された『太平洋のセーリング・ルネッサンス』の冒頭から。

台風一過の秋の夜長、暑かった夏の定番フローズン・ダイキリに代えて、泡盛「舞富名(まいふな)」のオン・ザ・ロックスでもチビチビやりながら、縄文時代から脈々とつながる太平洋航海民族の壮大な物語に想いを巡らしてみてください。(text by Compass3号)

『太平洋のセーリング・ルネッサンス』<<舵2001年掲載>>

蘇る太平洋古代外洋カヌー

文 西村一広
text by Kazuhiro Nishimura

第一部

常識は常識でなくなる、ことがある

昔かわいい小学生だった頃、テスト日の朝学校に行く道を、口の中で呪文のように「すいきんちかもくどってんかいめい、水金地火木土天海冥、…」と繰り返しながら歩いた。太陽系の惑星の、太陽からの順番のことだ。
しかしその後何年かしたとき、この順番は正しくないと笑われた。海王星と冥王星の順が違うらしい。そうだったっけ?と思いながら「・・・冥・海」と覚え直した。ところが何と言うことだ、最近また「海・冥」に戻ったという話を聞いた。
惑星の並び方など変わるわけがないと思っていた。子供の頃常識だと思っていたことが、常識ではなくなることに驚いた。
中学校でサッカー部にいた頃、九州の田舎では、真夏であっても練習中に水を飲むことは厳禁とされていた。運動中に水を飲むと心臓が弱ると説明された。炎天下、あまりの苦しさに水道場でユニフォームを水に浸すふりをしながらユニフォームから水をチュウチュウと吸った。
しかし今や、運動中は定期的に充分な水分を補給しなければならない事は常識として誰もが知っている。でも、その常識だって何時またひっくり返されるか分からないぞ、と密かに思う。科学は現在でもまだ発展途上であるらしいし、常識は時々常識ではなくなることを、おぼろげなが知るようになったからだ。地動説なんて、その当時の人間からしたら到底受け入れられるものではなかっただろう(一生物としては、感覚的には今でも受け入れがたい)。
いま常識だと思っていることは、もしかしたら何年かしたら常識ではなくなっているかもしれない。
これからここに書こうとしている話では、それらの可能性について触れている。
まずは、日本から近い文化圏のひとつ、ポリネシアで起きていることから話を始めようと思う。欧米や東南アジアの方ばかりを見ている現代日本人の視線の後ろには、広大な太平洋が広がり、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの島々がある。視点を転じてみさえすれば、北海道・本州・四国・九州・沖縄をはじめ多くの島々からなるこの国を、ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、イースター島などと同じ、太平洋に浮かぶ島国のひとつとして見ることもできるのだ。そういう視点で見ると、ポリネシアで起きていることは自分たち日本人と関係のないことではない。
その話の後に、日本人は昔、といっても西洋人からセーリングを教わるよりもっともっと昔、独自のセーリング技術や外洋航海術を持っていたのではないか、という仮説について話を進めていこうと思う。

ポリネシアで蘇った、太平洋の伝統航海術

今から30年ほど前のハワイで、ポリネシア航海協会という組織が誕生した。この組織の最初の活動は、ハワイ人の起源に関する当時の新説を確かめるために、ハワイに伝わる古代セーリングカヌーを復元して、自分たちハワイ人の祖先が旅立ってきたとされるタヒチへの回帰航海をすることだった。
人類学者、考古学者、サーファー、レーシング・カヌーイストらで構成されたこの協会は全長62フィートの<ホクレア(幸せの星)>という双胴のセーリングカヌーを造り、古代航海術を持つナビゲーター、マウ・ピアイルグをミクロネシアのサタワル島から招いてタヒチへと向かった。
マウ・ピアイルグは古代太平洋に伝わる航海術を身につけた数少ない航海者だ。この航海術では、コンパス、六文儀はもちろん、星の位置を示す原始的星座図も含めて、一切の航海道具・用具を使わない。すべてをその航海士が伝承で受け継いだ知識と記憶、身体が海から感じ取る感覚だけに委ねる航法だ。星、海のうねりの形、波、鳥、水温などの情報だけで目的地に向かう。祖先から伝承された知識、身体で覚えた海からの感覚、そして経験に頼る航海術。
ミクロネシアには文字文化がなかったため、サタワル島から各島へ向かう海の道は、歌という形で伝承されている。ミクロネシアやポリネシアの島々、そして遠くは小笠原諸島、さらに本州と思われる島までの歌があるらしい。
話は少し逸れるが、先日エベレストに登って世界最年少で7大陸最高峰登頂を達成した石川直樹はサタワル島でマウからこの航海術を学んでいる。彼はこの夏再びサタワル島に渡り、古代航海術をさらに勉強することになっている。
マウ・ピアイルグはこの古代航海術を使って見事に<ホクレア>をタヒチへと導き、この航海は成功した。タヒチからハワイへと渡った祖先の航海から1000年近い時を経て、伝説のカヌーと同じ形のカヌーが故郷タヒチに姿を現したのだ。<ホクレア>を送り出したハワイ側、迎え入れたタヒチ側、それぞれの人々はこの航海の成功に熱狂した。それは、太平洋にキャプテン・クックが登場して以来、忘れ去られようとしていた自分たち独自の文化、アイデンティティーを思い出す重要な端緒になったのだ。

“星の航海師”の誕生

ポリネシア航海協会の次の目標は、ハワイ人ナビゲーターによってタヒチへの航海を成就することだった。そのナビゲーターとして名乗りを上げたのが、ナイノア・トンプソンだ。
ナイノアは直接マウから航海術を学ぶと共に、プラネタリウムに通い、海の上で閃いた自分のアイディアを盛り込み、古くてしかも新しい独自の航海術を確立していった。
ナイノアが伝統航海術を身に付けた後、彼を乗せた<ホクレア>はポリネシア人だけの力でタヒチを目指し、ハワイ出港から31日めにタヒチ・パペーテに無事到着する。現代ハワイ人の“星の航海師”ナイノア・トンプソンの誕生だ。
ナイノアはこの航海の後、ハワイ-タヒチ-ニュージーランド-トンガ-サモア-タヒチ-ハワイという大航海や、ハワイ-イースター島往復などを、伝統の航海術を使って<ホクレア>での航海を成功させている。ナイノア・トンプソンは今や、ポリネシア人の誇りを思い出させた航海師として、知らない者がいないほどの英雄である。
ナイノアのお爺さんは学習院に学び、昭和天皇とは学友でもあった。ナイノア自身も子供の頃近くに住む日本人二世から海を教わった。日本を何回か訪れたナイノアは、日本に何か精神的に共通な部分を感じるのだという。

(第二夜へ続く)