西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

3-富士田吉治

2009-07-24 | 時系列的長唄の見方(c)y.saionji
富士田吉治―2

その後、千蔵は一中節の太夫として
都太夫和中と一緒に舞台に出語ることが多くなり、
43才の時、役者を廃業し、2世和中を襲名した。

ところが、そのころすでに豊後節から派生した、常磐津文字太夫や
富本豊前掾が一大勢力を築き、本来は長唄の受け持ちだった
所作の地(舞踊の伴奏)の領域を犯し始めた。

特に、文字太夫の人気が凄まじく、文字太夫を出さないと
客が納得しないほど。
あわれ、一中節は落ち目の三度笠、仕事がどんどん減っていく。

45才になった和中は思案の末、今度は一中節をやめ、
長唄の唄うたいに転向することを決意した。

当然誰かに弟子入りをしなければ、一匹狼の唄うたいなど存在しないわけだが、
何故か吉次の師匠は不詳のままだ。
坂田兵四郎(1749年没)、吉住小三郎(1758年没)なきあと
を背負って立つのが、兵四郎の弟子の仙四郎。
和中は仙四郎に弟子入りをしたのではないだろうか。
仙四郎は前名を籐次郎といった。
坂田の「田」、籐次郎の「籐」を反転して「藤田(ふじ田)」、そして
縁起の良い「吉」の字をあてて「吉次郎」と芸名を捻り出したと考えるのは
少々穿ちすぎだろうか。

ともかく、和中は藤田吉次郎と改名して長唄に転身。
これが運命の分かれ道となる。

一中節では客を唸らせていた吉次郎でも、
長唄となると勝手がちがうし、新人だ。

しかし、よほど吉次郎は芸の筋がよかったのだろう、
あるいは経営の苦しい市村座が安く雇ったか。
いずれにしても師匠の後押しがあってのことだろうが、
長唄に転向してまだ間がない吉次郎を市村座が
翌年(1759)の顔見世からタテ唄に抜擢したのだ。
吉次郎は吉次と改めて心機一転、このチャンスに懸ける。


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tea breaku・海中百景
photo by 和尚