猿若座の三味線入り歌舞伎は大当たりとなり、
喜三郎は祖父の名を継いで、二世勘五郎となりました(1642年頃)。
そして役者にも三味線を弾かせ、連れ三味線を打ち出しました。
その後長男(4代目六左衛門)・次男(5代目喜三郎)・三男(吉之丞)にも三味線を弾かせ、
それまでは弾き唄いだったものを舞台映えを考えてか、唄と三味線に分業し、
「今様長歌三味線」と銘打って売り出したのです(1663年)。
佐山検校がいつ江戸に下ったかは不詳だが、この頃ではないだろうか。
佐山検校創作の長歌は「当風長歌」といわれ大流行したのだから、
勘五郎がそれに乗っかり、今流行りのという意味で、「今様長歌」と称したとしても不思議はない。
猿若狂言ノ古図
喜三郎は祖父の名を継いで、二世勘五郎となりました(1642年頃)。
そして役者にも三味線を弾かせ、連れ三味線を打ち出しました。
その後長男(4代目六左衛門)・次男(5代目喜三郎)・三男(吉之丞)にも三味線を弾かせ、
それまでは弾き唄いだったものを舞台映えを考えてか、唄と三味線に分業し、
「今様長歌三味線」と銘打って売り出したのです(1663年)。
佐山検校がいつ江戸に下ったかは不詳だが、この頃ではないだろうか。
佐山検校創作の長歌は「当風長歌」といわれ大流行したのだから、
勘五郎がそれに乗っかり、今流行りのという意味で、「今様長歌」と称したとしても不思議はない。
猿若狂言ノ古図