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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

初期の新吉原・散茶見世

2019-11-24 | 浮世絵で見る吉原の変遷
幕府公認の新吉原は江戸の外れ、浅草日本堤に新規開店したのですが、
何しろここは辺鄙な場所なので、
江戸市中に住む庶民には神田や麹町・湯島など近くにある湯女風呂が人気でした。
それに湯女風呂は安あがりなのです。

とうぜん吉原は商売敵である湯女風呂の取り締りを、たびたびお上に直訴しましたが、
もぐらたたきのようなもので、いっこうに効果はありません。

ところが寛文5(1665)年の検挙では、湯女風呂屋の主人70人もろとも、湯女500人以上が逮捕され、
吉原に送られました。
彼女たち私娼は刑罰として吉原に収容され、遊女として働かされるのです。

この時吉原は伏見町と境町を新設して対応しました。
そして新たに収容された遊女は散茶(さんちゃ)とよばれ、太夫・格子に次ぐ3番目のランクに置かれました。
散茶とは挽いて粉にしたお茶のことで、急須を振らないでもすぐに出る。
つまり、どんな客もふりません、という洒落です。

風呂屋の主人たちはそこに風呂屋風の見世を構え、中が見やすいようにすき間の広い大格子をはめました。
そして入り口そばに風呂屋の番台のようなものを設け、
妓夫(ぎふ・ぎゅう)という客引きの男を置きました。

客は妓夫と交渉してそのまま二階へ上がって遊ぶことができるのです。
それまでは茶屋を通して揚屋で遊んでいたのですから、何とコンビニエンスでしょう。


この絵に妓夫の座った番台が見えます。
品定めをする客がふたり、奴が後に控えています。
格子の中にいるのはみな散茶女郎です。
通りを歩くのは奴を連れた武士に、禿・遣り手を連れた遊女、それに宅配人足でしょうか。

       


この絵は従来の見世がまえの遊女屋。最高級の太夫は張見世(はりみせ)はしないので、
見世にいるのは二番目のランクの格子と端女郎だ。物売りが歩いているのも、のどか。

いずれも菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)が描いた
延宝8(1680)年の作です。

     
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初期の新吉原・大門口

2019-11-23 | 浮世絵で見る吉原の変遷
長唄の嚆矢は「傾城道成寺」(1731・享保16年・杵屋喜三郎作曲)とされています。

長唄は歌舞伎所作(舞踊)の伴奏音楽として生まれ育ちましたので、
初期のものは女方の傾城ものと相場が決まっていました。

当時傾城(遊女)のいる公認の遊里は、江戸では吉原、京では島原でした。
吉原の開基は1617(元和3)年で、始めは人形町にありました。

浮世絵の始まったのが明暦頃(1655〜)ですので、元吉原時代の浮世絵は残念ながら見る事ができません。
浮世絵の祖といわれる、菱川師宣(元和4〜元禄7・1618〜1694年)が描いた
一連の吉原図がありますが、延宝8(1680)年の作ですので
すでに浅草日本堤に移転(明暦3・1657年)した後の新吉原です。
しかし町割りとか通りの名前とか、ほとんどは元吉原を再現したといわれています。

下の図は大門辺りを描いたものですが、これといった門は見当たりません。実に素朴です。
左の3人は遊女と連れの新造。衣裳も髪形もまだまだ質素です。
客を迎えに来たのでしょう。

この頃の客は武士や大名、裕福な町人たちです。
みな、奴といわれる中間(ちゅうげん)を連れています。
武士は編笠を被ってしっかり顔を隠しています。
大門手前の五十軒道には編笠を貸す、編笠茶屋が立ち並んでいます。

     



  

      







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