西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

俄続き-2

2013-04-30 | よもやま話 (c)yuri saionji

豊原国周の吉原俄の浮世絵をもう一枚。
前日の梅素薫と同じ時期の明治29(1896)年作。


新吉原、いせやの芸者なつ。
扇に獅子と書かれているところを見ると、演目は獅子ものか。


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俄続き-1

2013-04-29 | よもやま話 (c)yuri saionji

吉原俄は山車の上で演じられる。
ゆえに男装芸者による手子舞が木遣りを歌いながら先導する。

これは新吉原大黒屋の芸者しめ。
明治29(1896)年、梅素薫 筆。
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2013-04-28 | よもやま話 (c)yuri saionji
吉原芸者


俄(にわか)は吉原の紋日の一つ。
8月中旬から9月中旬まで30日間行われるイベントで、
吉原芸者総出演による演芸大会みたいなもの。

吉原に芸者が登場したのは深川に遅れること、60数年。
1763(宝暦13)年ころ、扇屋の太鼓新造(花魁付きの若い遊女)が
花扇という源氏名でお座敷に出たのがその始まり。


これは俄に出る女芸者を描いたもの。
安政5(1858)年、豊国筆。
この芸者は三味線班だろう。そばに鼓も見える。


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深川芸者

2013-04-27 | よもやま話 (c)yuri saionji

菊弥-2

菊弥は店の傍ら、三味線の師匠をして、芸者の育成に励んだ。

菊弥の店の回りには次々と料理茶屋が増えていき、
八幡前は門前仲町という繁華街になった。

芸者もどんどん増え、もともといた女郎と区別するために
芸は売っても体は売らない、という左褄なるサインを考えたのだろう。

浄瑠璃太夫が遊びに来るようになると。彼らの羽織っている羽織りを
面白がって着る芸者も出るようになり
(当時は羽織りは男専用のものだった)、
羽織り芸者とも呼ばれるようになった。
それの最初も菊弥といわれている。


これはそれからずいぶん経過した、明治29(1896)年の浮世絵。
梅素薫の「東京自慢名物会」に描かれた柳ばしの芸者、栄屋てい子の図。



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深川芸者

2013-04-26 | よもやま話 (c)yuri saionji
菊弥-1

左褄の話をもう少し。

なぜ芸者が左褄を取るようになったか?

これは遊女の職を侵さないためのサインとしたからだろうと思う。
芸者代一号は、芳町(岡場所)の菊弥といわれている。

菊弥があまりにも評判が良かったため、陰間(男芸者のようなもの)の反感を買い
芳町から追い出された。
菊弥は深川(ここも岡場所)八幡前に移り、料理茶屋を開いた(1700年頃)。
深川は江戸城から見て辰巳の方角にあるから、辰巳ともいう。

鰻や牡蠣、蛤などの料理も人気だが、美人で三味線もうまく、座持ちがいいとあって
不便な場所にもかかわらず、客がわざわざ来るようになり菊弥の店は大評判となった。

これは国貞の「辰巳十二時」の一枚、午刻の絵だ。
辰巳芸者が支度をしているところ。
小窓に箱屋が見えるから、これからお座敷に出るのだろう。
二人の女とも左褄を取っている。
夜の午刻とは思えないので、昼の12時から芸者をあげての宴会か…
昔はいい時間が流れていたようだ。


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