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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

芸大合同演奏会

2018-01-18 | その他人物 (c)yuri saionji
きょうはお昼休みに3クラス合同の演奏会がありました。

三味線の実技は試験というものがありませんので、
演奏会が試験代わりになります。

そんな大事な演奏会に来ない学生がいるのが驚きですが、
忘れていたというのがほとんどなのですからびっくりです。

当然失格になります。
事の重大さが分かっていないのですからバカですね。

   こういう吹き抜けのところで演るのですから、寒いのです。
   

大薩摩・2

2009-02-17 | その他人物 (c)yuri saionji
その後、団十郎は3代、4代と入れ代わり、主膳太夫は65才で没した(1759年)。
主膳太夫には養子の右扇太夫がいたのだが、大薩摩の系図はなぜか
門弟の主鈴に譲られていた。
これが原因で、両者の間で争いが起こる。
結果、2世、3世と右扇太夫の方が家元権を持つことになる。

3世没後(1800年)、主鈴サイドはやっと主膳太夫の名前を取り返したものの、
今更跡を継げるような弟子もなく、猫に小判だが、
旦那筋にあたる日本橋の魚商、中村八兵衛に家元権と系図が譲られた
(この後、大薩摩はしばし鳴りを潜めることになる)。

時は移り、市川団十郎(7代目)は中村座の3月狂言(1821年)で
「不動」をやることとなった。
「不動」は2代目団十郎が初演し、成田屋(市川家の屋号)ゆかりの不動明王が出現する
お家の大切な演目。
団十郎は大薩摩なるものを知らずにきたが、
今回はこれを何が何でも荒事の正統、大薩摩でやりたいと思った。
だが、大薩摩は今、中村八兵衛の倉の中で眠っていて、
ここ20年ばかりとんと耳にしない。

依頼を受けた六三郎は、「ほいきた合点、承知ノ助」とばかり復活に燃えた。
幸い、3世主膳太夫の弟子だった富士田新蔵(1世。富士田吉治の弟子)がいる。
六三郎は大薩摩48手を駆使して作曲し、
新蔵は主膳太夫の前名、文太夫の2世を名乗って語った。

久しぶりに聴く大薩摩節に客は喜び、
我が意を得た団十郎は大いに気をよくした。

六三郎の大薩摩復活を快く思わなかったのは、杵屋六左衛門。
何でもルーツにこだわる六左衛門は、ここぞとばかり
大薩摩の元祖である外記節の復活を思い立つ。
そして2年後(1824年)に外記節「猿」と「傀儡師」を発表。

「若造が生意気に!」と思ったか否か、今度は六三郎が河東節を引っぱり出してきた。
河東節はちょうど大薩摩と同じ時期に、
江戸半太夫(軟派浄瑠璃)のワキを語っていた河東が、後に独立し、
十寸見河東と名乗って、団十郎(2代目)の「助六」などで一世を風靡した浄瑠璃だ。
だが、このところ人気凋落で、8世没後(1817年)は名跡も絶えている。

「河東裃、外記袴、半太羽織に義太股引、豊後可愛いや丸裸」
と、狂歌にあるように、上品さでいうと河東が一番。

悪戯好きな六三郎は、河東節の中でも格式の高い「翁千歳三番叟」を、
こともあろうに格式とはほど遠い、廓バージョンに仕立て直した「廓三番叟」(1826年暮れ)を発表。

「『翁千歳三番叟』をここまで茶化すとは何ごとだ!」
これには杵屋宗家の筋を引く六左衛門が怒った。
六三郎の好き勝ってを放っておくことはできない。
年が明けると、六左衛門は日本橋の中村八兵衛を訪ね、
大薩摩家元権の譲渡を依頼。
だが、先方は色よい返事をしない。
日参して拝み倒した結果、
「譲渡は無理だが貸与は可」という返事を取り付けた。

「さあ、これで六三郎の鼻を折ることができる」と、
六左衛門は早速、大薩摩筑前大掾藤原一寿と名乗り、
家元であることを宣言した。
六左衛門27才の時だ。

*2月15日「大薩摩その1」の続きです。1からお読みいただけると幸いです。


大薩摩・1

2009-02-15 | その他人物 (c)yuri saionji
大薩摩とは、正確には大薩摩節といい、
薩摩外記の弟子文五郎が語る浄瑠璃のことをいう。
外記は京から江戸に下り、豪快な語りの硬派浄瑠璃、薩摩浄雲に入門した
(ちなみに一中や、豊後節などの浄瑠璃は軟派浄瑠璃という)。

浄雲没後(1672年)は、薩摩外記藤原直政と名乗り、
初代団十郎の荒事の地(伴奏)にも出演するようになった
(本業は自身の座を持つ人形浄瑠璃の太夫)。

松島庄五郎が芝居にデビューした頃(1710年代)、
文五郎は声量の落ちた(あるいは没した)、師匠の代役で
団十郎(2代目)の舞台に出る事が多くなった。

団十郎の人気上昇とともに、歌舞伎出演が増えた文五郎は、
大薩摩主膳太夫と改め、団十郎の専属となっていった。

二人の仲も次第に親密の度合いを増し、
「矢の根」(1729年正月)では、団十郎が茶目っ気を出し、
主膳太夫を舞台に登場させたほど。
(もちろん、役者が扮している。本物の主膳太夫は同じ舞台で浄瑠璃を語っているのだから)。
二人主膳太夫の趣向は受けに受け、何と5月28日の曾我祭までロングラン。

曾我祭とは、
楽屋に祀ってある曾我荒人神の祭りのこと。
兄弟が仇討ちをとげた、5月28日が忌日というわけだ。
(2月6日記載の「曾我物その2」に関連記事あり。)

つづく…


大久保今助

2009-01-30 | その他人物 (c)yuri saionji
葺屋町(ふきやちょう。いまの人形町)辺りには、見渡す限り「中村歌右衛門」と染め抜いた幟が
立錐の余地もなく、びっしりと並び立つ。
江戸はおろか、京、大阪、名古屋の贔屓から贈られた幟の数、実に数千本という熱烈歓迎。
何といっても大阪一の人気役者、中村歌右衛門(3世)の江戸初お目見えなのだから。

呼んだのは中村座の名物金主、大久保今助。
大枚金をはたいてここ一番の大勝負を仕掛けた。
迎え撃つのはお隣、市村座の座頭、江戸一番の人気を誇る、坂東三津五郎(3世)だ。

金主の大久保今助は、元はといえば水戸藩の御用達で財を成した優雅なご隠居。
芝居とはとんと縁がなかったのだが、4年ほど前、一分金(いちぶきん。約15000円)を拾ってから運命が変わった。
「どうせ拾った金だ、寺に寄付でもしてやるか」
と、寺の富くじを買ったらこれが何と大当たり!
寄付を差し引いて残った80両(約480万円)を、今度は江戸一番の大芝居、中村座につぎ込んだ。
金が子を産むとはこのことで、その興行が大当たりを打ち、又助はまたしても大金を手にした。
「こうなりゃとことん中村座だ!」
というわけで、膨らんだ金を次から次へとつぎ込んだ。
今助が金主になってからというもの、中村座の芝居は不思議と当たるのだ。

金主というのは役者の手付金や諸経費など、芝居を開けるための当座の金を用立てる者をいう。
もちろん金も出すが、口も出す。
何しろ売り上げから出資金を回収するのだから、木戸銭が命。
だから大当たりが出れば、客が飽きるまでロングランで引っぱり(その分経費が節約できる)、
不入りとなれば恥も外聞もなく演目を変える。
話のつじつまが合おうが合うまいが、そんなのは知った事じゃない。
金主の願いはただ一つ。出した金が利息を付けて返ってくるか否かだけだ。

座元(小屋の持ち主)は金を出さないのかと思うだろうが、
座元は”紀州の道成寺”、小鐘はあっても大鐘はない。
だが、江戸三座にのみ許された”興行権"という特権を持っている。
これは代々世襲の天下御免。
だから生臭い金勘定は人に任せて、座元のプライドだけで生きている。

ある日、今助は郷里の水戸に旅立った。
牛久沼の渡し場で船を待っていると、
そばの茶屋からぷーんと、えもいわれぬ香ばしい蒲焼きの匂いがしてきた。
今助はうなぎには目がないのだ。
辛抱たまらず、蒲焼きと、どんぶり飯を頼んだ(当時はこれがスタンダードな食べ方だ)。

きせるをくゆらし待つことしばし。うまそうに焼き上がった蒲焼きが運ばれてきた。
どれどれと、今まさに食さんとしたその時、
「おーい、船が出るぞー」
今助はあわてて蒲焼きの皿をどんぶり飯の上にかぶせて、船に飛び乗った。
向こう岸に着いて食べたそのうなぎ、飯にたれがしみてうまいの、うまくないの。

江戸に帰った今助は出入りのうなぎ屋にそれを作らせ、毎日芝居小屋に届けさせた。
そうこうするうちに客席で売る事を思いつき、使い捨ての割箸も考案。
これを添えて”うな丼”と称して売り出したところ、これがまた、大当たり。
今助は何をやっても当たるという誠に奇特なお方なのだ。