西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

荻江露友

2009-02-12 | 唄うたい (c)yuri saionji
荻江露友は津軽藩主の三男坊。
当時は三男坊といえば、夢も希望もない、
期待されない厄介者だった。

だから、暇にあかせて芝居小屋の囃子部屋に入り浸り、
芸にうんちくを傾ける旗本の二男、三男が多かった。

露友もご多分にもれず、流行の長唄でも習おうかと、
今を時めく松島庄五郎に入門した
(1700年の中頃。富士田吉治が長唄に転向したのと同じ頃)。

やがて吉治が唄浄瑠璃路線で評判を取るようになり、
露友も荻江風といわれる、独特の浄瑠璃風の節回しで人気を取るようになった。

一中、豊後節に熱狂したこの時代の江戸人は、
どうやら浄瑠璃がかった長唄を好んだようだ。

だが、人気絶頂となった吉治の人気に押されるように、
師匠松島庄五郎が芝居の世界を去った後、
露友も芝居をやめた。
そして「荻江節正本」という、48章からなる独自の稽古本を出版したり、
吉原などで、お座敷がかかれば出向いていくという、
気ままな生活者となった。

ところが、吉治が中村座に引き抜かれた後、
タテ唄に困った市村座が露友を引っ張りだした。

だが、市村座に出勤したものの、
露友は何を出しても人気沸騰中の吉治には負けてしまう。
吉治のダイナミックな長唄を聴いた耳には、露友の声は何ともまだるい。
結局たった一年で吉治は市村座に呼び戻さた。

大いにプライドを傷つけられた露友は、金輪際と芝居出演を止め、
吉原の座敷芸に遁世した。

初期の荻江節がどのようなものだったかは、
現在の荻江節から推量することができる。


恐らくは露友はビブラートの強い声質だったのだろう。
声量が少なく、声は揺れる。
だが劇場ではマイナス要因でも、
狭い部屋でなら、これを生かした繊細な技が充分に発揮できる。

三味線の手付けも座敷芸の本家、地歌の運指を倣い、
弦楽器特有の左手の表現方法を100パーセントもらった。

結果、地歌をより繊細にし、唄浄瑠璃の浄瑠璃臭さを排除した
浄瑠璃風長唄、荻江節が誕生した。

その荻江節は現在なお健在で、
「鐘の岬」「八島」「金谷丹前」「松竹梅」などが
舞踊界でも根強い人気を誇っている。