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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

残暑お見舞い 

2012-08-16 | 三味線弾き (c)yuri saionji
今日はなんてひどい暑さなんでしょう。

3時頃、表に止めてある車に乗ったら、地獄でした!

しかし、そのまま小中学校音楽の先生方の三味線講習に直行。

来月、観月会で「五郎」を発表するのです。
先生方への講習は
2002年から始まりましたので、もう10年です。
観月会をめがての、4回の集中レッスンですが、皆さん鮮やかですよ。

先生方の成長を楽しみにいらっしゃるお客様も
多いのです。


ぼく、ひーくんです。暑いけどがんばってね。                              







4世杵屋六三郎・6

2009-03-01 | 三味線弾き (c)yuri saionji
8代目団十郎が死んだ翌年(1846)の10月2日、
一門の月浚い会から帰った六三郎(4世)は、ほっと一息、茶をすすっていた。
と、ドカーンという大音響とともに、いきなり身体が天井に跳ね上がった、
と思う間もなく、どすとん落ちた。
幸い怪我もなく、無事だった。
マグニチュード7.5の直下型大地震、”安政の大地震”だ。

余震は約、ひと月も続き、江戸中がめちゃめちゃに壊れてしまった。
揺れがおさまると、六三郎は無性に若かりし頃入り浸っていた吉原が恋しくなり、
えっさえっさと仮宅(近所の百姓家を借りての仮営業)へ出向いた。

久しぶりに女の色香を堪能した六三郎は幸せに帰宅。
翌日は元気に不忍の弁天様へお参りをして、

「今までの若きこころに悟れかし 浮世は花の夢見草にて」

と、昔を回想した歌を詠んだまではよかったのだが、
その日の夜から高熱を出して寝込んでしまった。

六三郎の危篤を聞いて駆けつけたのが、くだんの遊女、若紫。
「どんなもんだい」
と、熱にうなされながらも六三郎の鼻の穴はふくらむ。

「さすがは昔取った杵柄」
と、周りの人に羨ましがられながら、六三郎は76才の天寿を全うした。

杵屋六三郎(4世)VS.杵屋六左衛門(10世)

2009-02-18 | 三味線弾き (c)yuri saionji
古浄瑠璃の研究に余念のない六左衛門のところに、
一中節の「峰雲賤機帯」(おのえのくもしずはたおび)
のリメイクの依頼がきた。
(一中節については、1月25日に記載)

六左衛門の妻は一中節の名取りでもあり、
六左衛門は嬉々としてこれを長唄に編曲。
山王神社の本祭の付祭で披露された(1828年)。

すると今度は六三郎が「吾妻八景」を作曲(1829年)。
六三郎は冒頭に河東節を使い、さらに上調子をつけた。

上調子は本来浄瑠璃のもので、長唄が使うものではなかった。
それをあえて使うというのも、六左衛門が一連の浄瑠璃復活で、
上調子を頻繁に使うようになったことへのあてつけだろうか。
あるいは、「おれだったらこう使うがねー」という先輩風なのか。

50を前にした大御所が、30前の若造に過剰反応するほど、
六左衛門の才能は並外れていたということだが、
それにつけても、二人は何から何まで反りが合わない。

これまでにすでに外記節で「猿」と「傀儡師」を作り、
外記節ならおまかせあれ!の六左衛門が、今度は外記節「石橋」を作曲(1830年)。
(「石橋」については2月14日に記載)

そしてこの年、六左衛門は10世を襲名し(前名、三郎助4世)、
記念に河東節の「翁千歳三番叟」を外記節に編曲した
「翁千歳三番叟」を発表した。

この曲はすでに六三郎が悪ふざけで、廓バージョンに編曲、
「廓三番叟」などと称して発表している(1826年)。

六左衛門は「石橋」同様、これを河東節の正統に軌道修正したのだ。
「翁千歳三番叟」は今日でも特別な曲とされていて、格式の高さではピカイチ。
だが、儀式曲としての性格が強いせいか、あまり演奏されることはない。

「こしゃくな奴じゃ」と、六三郎。
六左衛門の作った「石橋」は外記節の「石橋」だ。
長唄石橋物の嚆矢は「相生獅子」に決まっておると、
今度は「相生獅子」を廓バージョンに仕立て直した「俄獅子」を発表(1834年)。
(「俄獅子」は2月13日に記載)



六左衛門は41才になった。
六左衛門の好きな河東節はすでに消滅し、
9世を継ぐべき人もいない。
六左衛門は中村歌右衛門(4代目)の八変化で、
河東節の「助六」を長唄で再現してみた(1839年・中村座)。
これがまた見事な仕上がりで、河東節と何ら遜色がない。

長唄の三味線弾きは、初期の段階から外記節などの浄瑠璃の三味線も弾いたし、
掛け合い(セッション)などで交流が密だったせいか、
何でもそれなりにこなしてしまうという、マルチタレント性を備えている。

後に大雑摩を吸収合併し、常磐津風(「靭猿」・1869年)、
義太夫風(正治郎「横笛」・1887年)などの曲が作られるようになると、
長唄の表現範疇がどんどん広がっていくのだ。









4世杵屋六三郎・5

2009-02-10 | 三味線弾き (c)yuri saionji
六三郎は一男一女もうけた妻を早くに亡くし、
その後再婚、44才で後妻喜和との間に次女を授かった。
何年チョンガーを続けていたか定かではないし、
いつからそうなったのかも定かではないが、
六三郎は、花魁の部屋でないと作曲できなかった、といわれるほどの吉原中毒。
しかも全くの下戸だったというのだから、色が好きだったのだろう。

家は上野池の端、仕事場の森田座は木挽町(銀座)。
仕事を終えた六三郎は、えっちら、おっちら、池の端を通りこして浅草の吉原へ帰る。

居続けで仕事場へ行き、また吉原へ帰る。
よほどの馴染みの女がいたのだろうが、昔の事とて、喜和も平気。

そんな中で、河東節の「翁千歳三番叟」を吉原バージョンに仕立て直した
悪洒落、「廓三番叟」が作られた(1826年)。
これも歌舞伎を離れた観賞用長唄だ。
翌年の正月弾き初めで、大まじめに演奏されたという。



4世杵屋六三郎・4

2009-02-08 | 三味線弾き (c)yuri saionji
六三郎は母の80才を祝って「老松」(1820年)を作った。
そしてそれを料理屋で披露した。

従来長唄は、歌舞伎から離れては存在しない、といっても過言ではないほど
歌舞伎べったりの音楽だった。
それが、歌舞伎を離れて独り立ちをする場を持つとは。

団十郎(7代目)の信頼を得、森田座での不動の地位を得た
六三郎だからこそ許されたことなのだろうが、
長唄界にとっては天地がひっくり返るほどの大事件だった。

後世これを、劇場長唄と区別して、お座敷長唄と称することになるが、
つまりは歌舞伎からの独立をとげた、初めての純観賞用長唄ということになる。