豊前太夫はすでに声量の落ちた61才。
今が盛りの延寿太夫には逆立ちしてもかなわない。
69才で豊前太夫がさみしく世を去った時(1822年)、養子はまだ18才。
常磐津は2世、3世と入れ代わり、4世(この時はまだ小文字太夫)は18才。
こうなれば清元が人気を独占するのは必定だ。
清元の一人勝ち状態が続いていたある日(1825年5月)、
中村座の仕事を終え、帰路についた延寿太夫(この時は延寿斎)は
何者かに襲われ、腹を刺されてあっけなく死んだ。
油ののりきった49才だったのが何とも惜しまれるが、
奇しくも昨年、延寿太夫の名は息子(24才)に譲ったばかり。
幸い息子は親譲りの美声で人気も高い。
世間の同情もあってか、清元の人気は衰えることなく、
延寿太夫は我が世の春を謳歌する。
1831年3月の中村座は、中村歌右衛門(4代目・この時は芝翫の2代目)の六変化。
「喜撰」「文屋康秀」などを語った延寿太夫は絶好調、贔屓に喉をほめられ、
つい調子に乗って軽口をたたいた。
「踊りがなければもっと聴かせるぜ」
誰が注進したかは知らないが、これが成駒屋(4代目の屋号)の耳に入ったからさあ大変。
延寿太夫はクビとなり、常磐津の登坂となった。
それから何年間、成駒屋からホサれたのか定かではないが、清元節は暫し鳴りを潜め、
4世を襲名した文字太夫によって、常磐津が俄然勢力を取り戻す。
六左衛門はそんな状況の中、久しぶりに清元を聴かせてやろうとを思った。
尾上多見蔵(2代目)の九変化だし、夏芝居(1841年7月・中村座)だし、
少々悪ふざけでも許されるか、というところだろう。
清元の「鳥羽絵」(1819年初演)を長唄にアレンジした、その名も「鳥羽絵」。
「助六」同様、よくも似せたりの仕上がりに「やんや、やんや」と客が湧く。
今が盛りの延寿太夫には逆立ちしてもかなわない。
69才で豊前太夫がさみしく世を去った時(1822年)、養子はまだ18才。
常磐津は2世、3世と入れ代わり、4世(この時はまだ小文字太夫)は18才。
こうなれば清元が人気を独占するのは必定だ。
清元の一人勝ち状態が続いていたある日(1825年5月)、
中村座の仕事を終え、帰路についた延寿太夫(この時は延寿斎)は
何者かに襲われ、腹を刺されてあっけなく死んだ。
油ののりきった49才だったのが何とも惜しまれるが、
奇しくも昨年、延寿太夫の名は息子(24才)に譲ったばかり。
幸い息子は親譲りの美声で人気も高い。
世間の同情もあってか、清元の人気は衰えることなく、
延寿太夫は我が世の春を謳歌する。
1831年3月の中村座は、中村歌右衛門(4代目・この時は芝翫の2代目)の六変化。
「喜撰」「文屋康秀」などを語った延寿太夫は絶好調、贔屓に喉をほめられ、
つい調子に乗って軽口をたたいた。
「踊りがなければもっと聴かせるぜ」
誰が注進したかは知らないが、これが成駒屋(4代目の屋号)の耳に入ったからさあ大変。
延寿太夫はクビとなり、常磐津の登坂となった。
それから何年間、成駒屋からホサれたのか定かではないが、清元節は暫し鳴りを潜め、
4世を襲名した文字太夫によって、常磐津が俄然勢力を取り戻す。
六左衛門はそんな状況の中、久しぶりに清元を聴かせてやろうとを思った。
尾上多見蔵(2代目)の九変化だし、夏芝居(1841年7月・中村座)だし、
少々悪ふざけでも許されるか、というところだろう。
清元の「鳥羽絵」(1819年初演)を長唄にアレンジした、その名も「鳥羽絵」。
「助六」同様、よくも似せたりの仕上がりに「やんや、やんや」と客が湧く。